国際通貨問題
最近の一年半ほどの間には,国際通貨問題をめぐる大きな動きが相次いで起った。
すなわち,1967年11月の英ポンド切下げに引続き1968年初頭のジョンソン大統領によるドル防衛措置の発表,3月の二重金価格制への移行,5月のIMF(国際通貨基金)協定改正案の採択,11月の欧州通貨不安等,極めて重要な事象が相次いで発生し,国際通貨問題は,従来の基軸通貨をめぐる諸問題の外に,新たに仏フラン,独マルク等のいわゆるローカル・カレンシィの動揺も加わって,複雑化の様相を呈するとともに,今後の国際通貨体制のあり方に関しても,さまざまの問題が提起されるに至っている。
1967年11月,英ポンド切下げが行なわれた後,ドル不安をめぐる投機筋の思惑は金投機となって現われ,英ポンド切下げ直後より12月初旬にかけて第1波,12月後半に第2波のゴールド・ラッシュが発生した。これに対し,米国は,1968年初頭,いちはやく,大規模なドル防衛措置を発表してドルから金への逃避現象の鎮静に努めたが,さらに1968年3月には,第3波ゴールド・ラッシュは,前2回の規模を大きく上まわり,3月10日には関係諸国がバーゼル会議において金価格維持声明を発したにもかかわらず,情勢は極めて悪化した。
かかる事態に直面し,金プール7ヵ国の中央銀行総裁は,3月16日よりワシントンで会議を開き,金プールの活動停止を決定,二重金価格制への移行に踏みきった。その結果,金に対する投機は一応鎮静化の方向に向い,更に,3月末には,ストックホルムの10ヵ国蔵相会議において,SDR(特別引出権)創設を含む,IMF改正協定案が,仏の棄権を除いて全会一致で採択される等,情勢は一応安定化への道をたどるかにみえた。
しかしながら,仏に発生した5月の政治危機は,仏フランを中心とする欧州通貨不安の下地を醸成することとなり,11月には,独マルク切上げのうわさともあいまって,仏フランの危機が顕在化した。
この欧州通貨危機は,関係国の国内措置および国際協力によって破局に至ることなく一応収拾されたものの,仏フランを中心とする欧州大陸諸国の通貨をめぐる問題は,現在までのところ局地的な現象とはいえ,処理の方策如何によっては,その影響が基軸通貨に及ぶ可能性なしとせず,今後の動向には軽視すべからざるものがあると言えよう。
1968年初頭に発表されたドル防衛措置に関するジョンソン大統領の声明は,前年すなわち1967年の米国の国際収支が,(1)ヴィエトナム戦費の増加,(2)民間対外投融資の増大,(3)貿易収支黒字幅の増加の停滞,(4)米国民の海外旅行支出の増加等により,大幅な赤字となったものとみられるとして,ドル防衛の必要性を強調するとともに,その具体的方策として,増税,賃金,物価の上昇の抑制等の国内経済面での諸措置のほか,対外直接投資および対外融資の規制,海外渡航の制限,海外政府支出の削減,輸出の促進等によって,国際収支を30億ドル改善するとの方針をあきらかにした。かかる国際収支改善策は,その当初においては,成功が危ぶまれ,事実1968年の貿易収支の黒字は大幅に縮小するに至ったが,他方において,米国内の好景気,更には,チェコ事件,仏の政情不安等の政治的要因も手伝って,民間証券投資を中心として多量の外国資本が流入したこともあって,資本収支は大幅な改善を示した。その結果,国際収支は,11年ぶりに黒字を記録するに至っており,10%の増税措置,財政支出の大幅な削減措置等,国内経済引締め策が実施された。これとともに,金二重価格制が現在までのところ,有効に機能していることもあって,1968年のドル防衛政策は,一時的要因に助けられたとはいえ,一応の成功を収めたということができよう。
他方,英ポンドに関しては,1967年の切下げ以降,今日まで,厳しい内需抑制措置がとられているが,その貿易収支は依然として,一進一退を繰り返してきている。
ポンド残高の処理に関しては,1968年7月,BIS(国際決済銀行)および主要12ヵ国が,英国に対し,ポンド残高安定のために総額20億ドルの長期のクレジットを供与することに同意した。この借款は期限10年(5年間据置き,その後5年間で返済する),スタンド・バイ・クレジットの形をとるものであり,これと併行して,英国と海外スターリング地域諸国との間にポンド残高の為替保証措置に関する取決めが行なわれたこともあって,英国は,ポンド圏諸国がそのポンド残高を他通貨に転換することを最小限に押えることが可能となった。
以上のごとく,1968年においては,米ドルおよび英ポンドをめぐる諸問題に対し種々の対応策が実施され,その結果両基軸通貨をめぐる情勢は,一時小康を得たが,英国貿易収支が相変らずの不調を示しているなど,問題は今後とも残されている。
他方,1968年5月仏においては学生騒動およびこれに呼応した労働組合のゼネストに端を発する政治危機が突発し,これを契機として,仏より大量の金・外貨が流出するに至ったが,これに対し仏政府は為替管理の導入,輸入規制,輸出補助等をはじめとする緊急措置,さらには主要諸国との間のスワップ枠の拡大措置などによって,かろうじてフランの防衛に成功した。しかしながら投機筋のフラン切下げに対する思惑は依然として強く,加うるに独の金・外貨準備増加に伴い,マルク切上げのうわさが流れ,11月に至りマルク切上げ必至との判断のもとに,短期資金が,フランスからドイツに急激に流入しはじめた。これに対し,フランス当局は,11月12日,公定歩合および商業銀行の預金準備率の引上げをもって急場をしのがんとしたが,16日よりパーゼルで開かれたBIS月例会議の難行ともあいまって,フランスからの短期資金の流出はやまず,11月15日,1日だけでドイツに流入した短資は5億ドルに達したといわれている。
かかるフラン危機に直面してわが国を含む主要10ヵ国は11月20日よりボンにおいて対策を協議したが,結局マルク切上げおよびフラン切下げは行なわれず,ドイツが国境税の調整幅を変更するとともに,フランスは9月に撤廃した為替管理を復活するほか,国内において各種の緊縮措置を実施することとし,さらにBISおよびボン会議に参加した主要10ヵ国が,総額20億ドルの借款をフランスに与えることによってフラン防衛に協力することとなった。
以上のごときフラン危機の背景には,フランスの経済構造の立ち遅れ(重工業発展の遅滞,中小企業部門の低生産性等),所得分配の不平等性が顕著であること等,フランス経済に内在する種々の問題点がひそんでいることは事実である。しかしながら,かかる構造的欠陥は必ずしもフランスのみに特有の現象ではなく,かつ,同国の貿易収支についても,1962年以降毎年赤字を示しているとはいえ,フラン圏との特殊関係があるため,輸出額が輸入額の91ないし92%に達しているかぎり,国際収支の悪化要因の一つとみなすことはできない。
従って,1968年のフラン危機は基軸通貨の場合のように,経済の構造的不均衡(対内均衡と対外均衡の不一致)に由来するというより,その原因はどちらかといえば,5月危機を契機とする政情不安,さらに,ドイツ・マルクの切上げのうわさが加わってひき起された投機資金の動きによるものと言うことができよう。
ポンド切下げ以来の国際通貨問題をめぐる動揺の過程において,現行通貨体制にかかわる種々の問題点が提起されているが,これらの諸点を,国際通貨体制が本来果すべき3つの機能(国際流動性の追加的供給,基軸通貨の価値の安定および国際収支調整メカニズムの改善)に沿って整理すれば,次の通りである。
第2次大戦後の世界経済は,金および米ドル,英ポンドの両基軸通貨を中心に運営されてきたが,このうち金の供給は自然的条件の制約をうけるところが大きく,また米ドル,英ポンドについても,その供給は,とりもなおさず米英両国の国際収支の赤字を意味し,いわゆる流動性ディレンマの問題を惹起することとなる。
他方,世界経済の規模は年々拡大しており,これに対応する国際流動性の増加が必要とされているが,かかる要請に応ずるために考え出されたのがIMF特別引出権(SDR)である。
1968年5月にIMF総務会の投票によって採択された国際通貨基金協定改正案は,この特別引出権の創設を主眼とするものであるが,この改正案については,その後各加盟国において批准手続きが進められており,加盟国数にして5分の3,総投票権数にして5分の4の加盟国が批准通告を行なえば発効することとなる。またSDR関係義務受諾の手続きについては,割当額総額の75%を有する加盟国がその旨の文書を寄託することが要件とされている。
このような法的手続きの終了後,SDR参加国総投票権数の85%の多数決を経て,本制度が現実に発動されることとなる。発動の時期および創出量については現段階では決定していないが,米英両基軸通貨国の国際収支の状況とも関連し今後国際的な検討が加えられていくこととなろう。
他方,関係者の間では金価格の引上げによる流動性補強論も行なわれているが,現在までのところ二重金価格制が有効に機能しており,ニクソン政権も現行金価格を維持していく方針を明らかにしているので,当面金価格引上げ問題が具体化する可能性は少ない。
68年3月のいわゆる第3次ゴールド・ラッシュに際して導入された二重金価格制の目的は,米国の保有する金が欧州諸国の通貨当局を経て民間市場に流出することを防止することにあるが,これによって従来上記の経路を通じて事実上保証されていた民間保有ドルの兌換性が断たれるとともに,主要諸国の通貨当局がその公的保有ドルの兌換を自粛していることもあって,米ドルの金兌換は,事実上,制約されることとなっている。この意味においては,二重金価格制の導入は基軸通貨としてのドルの地位の一歩後退を象徴するものといえるが,他方においては,金価格引上げに対する投機を当面鎮静化せしめることによって,ドルに対する信認の安定化に貢献する役割も果している。また,米ドルおよび英ポンドの信認強化のために種々の国内的および国際的措置がとられてきたことは既述の通りである。
国際収支の調整メカニズムの改善策に関しては,従来より種々の提案がなされてきたが,とくに11月の欧州通貨危機を契機として,(イ)固定平価制のもとでの為替平価の多角的調整,(ロ)固定平価制に代わる変動相場制(自由変動相場,屈伸レート制,クローリング・ペッグ等)の導入,(ハ)経済政策の相互的調整,(ニ)短期資本の自動還流メカニズムの確立等が各方面において問題とされており,事実,経済政策の相互的調整,あるいは短期資本の自動的還流メカニズムをめぐる諸問題はOECD,BIS等の場で取上げられているが,現在までのところ具体的な結論を得るには至っていない。しかしながら,今後の情勢の推移によって,現行の国際通貨体制を基礎としつつ,これに若干の修正をほどこすことによって国際通貨問題の解決がはかられていくことも考えられ,上記の諸点に関しても今後とも絶えず検討が重ねられていくものと予想される。
国際貿易に大きく依存し,世界経済との関連を深めつつあるわが国としては,国際通貨をめぐる動向には強い関心を有している。わが国は1952年にIMFに加盟して以来継続的にその活動に参加するとともに,最近では10ヵ国蔵相,中央銀行総裁会議や国際決済銀行における国際協力活動においてもその一環をになってきている。
特に,わが国としては,現行国際通貨体制の一つの支柱である米ドルおよび英ポンドの地位の安定化が通貨問題をめぐる国際経済上の混乱を回避するために必要不可欠であるとの見地から,これら両基軸通貨の信認の強化のため可能な限りの協力を行なってきている。その一例としては,BISにおける対英借款への参加や米国輸出入銀行債1億ドルの購入等があげられよう。さらにまた,わが国は,欧州通貨不安の鎮静が国際通貨問題全般に好影響を及ぼすとの見地から68年11月の10ヵ国会議で合意された対仏借款にも参加した。
他方,SDR創設を主眼とするIMF協定の改正については,政府としては世界貿易の拡大に対応して,国際流動性の増大が必要とされていることにかんがみ,これを支持するとの態度を表明してきており,その後具体的に批准手続きを進めるため,1968年12月24日の閣議決定を経て第61国会に協定改正案を提出した。本件改正案に対し国会の承認が得られれば,政府は,批准通告等のため必要な手続きを進めることとしている。(その後,4月25日国会の承認を得て5月9日1MF事務局に対し受諾書を寄託した。)
IMFは各加盟国との間で当該国の経済情勢や金融為替政策等に関する年次協議を行なってきているが,1968年度のIMF対日年次協議は,11月18日より30日までの2週間にわたり東京で開催された。この年次協議は,わが国が1964年4月1MF8条国に移行して以来5度目のもので,国際収支上の理由に基づき為替制限を行なっていたいわゆる14条国当時の年次協議とは異なり,為替制限上の問題について,とくに大きな問題もないので,わが国の経済全般につきレビューすることに主眼がおかれた。なお,従来,わが国がIMFの特認をえて例外的に為替制限を実施してきた観光渡航の1人1回500ドルという制限は69年4月1日より1人1回700ドルに引上げられた。