公海の漁業などに関する諸問題

1. 国際捕鯨問題

(1) 国際捕鯨委員会第20回会合

国際捕鯨委員会第20回会合は,国際捕鯨取締条約加盟国16ヵ国のうち14ヵ国,オブザーヴァー4ヵ国,国際機関5の参加の下に,1968年6月24日より同28日まで東京で開催され,わが国からは国際捕鯨委員会の藤田委員以下の代表が出席した。主要討議事項は,次のとおりであった。

(イ)南氷洋における捕獲総頭数

1968/69年漁期の南氷洋における母船式ひげ鯨の捕獲総頭数は,わが方の提案した3,200頭(白ながす鯨換算)とすることに満場一致で決定を見た。

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(ロ)国際監視員制度

すべての捕鯨をカバーする地域的監視員制度の設立が要請される旨の勧告が前回会合で採択されたことを受けて,今次会合では,従来南氷洋の母船式捕鯨についてのみ交換されることになっていた国際監視員制度をすべての海域における母船式捕鯨および陸上の鯨体処理場にも適用することとし,このため条約付表に必要な修正が行なわれた。

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(2) 南氷洋国別割当会議

前記のとおり委員会において決定を見た1968/69年漁期の南氷洋における母船式総捕獲頭数を出漁国間で配分するための南氷洋捕鯨国(日本,ソ連およびノールウェー)会議は,委員会会合に引き続き1969年6月29日より7月2日まで東京で開催された。ノールウェーの前漁期割当量の獲り残しおよび本年度配分比率をめぐり種々議論があったが,結局前年度と同一比率により,ノールウェー731頭,日本1,493頭,ソ連976頭とする本年度南氷洋捕鯨規則取決めに7月3日署名が行なわれ,同取決めは即日発効した。

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(3) 北太平洋捕鯨会議

(イ)南氷洋に次ぐ世界第2の捕鯨漁場たる北太平洋における捕鯨規制を討議する会議は,1966年以降,日,米,加,ソの4ヵ国間で機会ある毎に開かれて来たが,いずれの年についても,規制につき合意が得られず,各国の自主規制にゆだねられてきた。

1969年漁期については,前記国際捕鯨委員会第20回会合の会期中5日間にわたる本件会議の討議の結果,4ヵ国委員の間で,(イ)同年漁期におけるながす鯨の総捕獲頭数を1,600頭とし,これを母船式捕鯨に1,479頭,基地捕鯨に121頭(いずれも1967年度実績を基礎に算定)をそれぞれ割当てる。(ロ)上記母船式の割当量を同様の算定基礎に立って,日本615頭,ソ連864頭に,また,基地捕鯨割当量も同様の算定により,日本77頭,米国44頭と割りふりする(カナダは休漁のため割当なし),(ハ)いわし鯨については,1967年の実績を超えない捕獲頭数に限定する等の合意が得られ,さらにこれらの合意を今後外交チャンネルを通じ,往復書簡等の適宜の形式により逐次正式なものとすることにも合意を見た。

(ロ)1968年7月わが方より,米国およびソ連に対し,この合意の正式化のための書簡案を提示したが,未だ最終的結論に達していない。

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2. ソ連との漁業交渉

日ソ漁業委員会第12回会議

北西太平洋日ソ漁業委員会第12回会議は,1968年3月1日からモスクワにおいて開催され,4月27日日ソ双方の委員による合意議事録の署名をもって終了した。同会議で決定された主要事項は,次のとおりであった。

(イ)さけ・ます年間総漁獲量

1968年の年間総漁獲量は,A区域およびB区域ともに,各46,500トン(ただしB区域については10%の範囲内の増減がありうる)と決定された。

(ロ)かにの漁獲量

かにの漁獲量は,日本22,4万函(4船団操業)ソ連42,2万函(8船団操業)と前年の長期的取決めの線で決定を見た。

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3. その他各国との公海漁業問題

(1) 日韓漁業協定の実施状況

日韓漁業協定は,発効以来3年余を経過したが,両国政府および民間の協力により,操業の安全と漁業資源の保存および開発の面で成果をあげつつある。また,両国は,共同規制水域における暫定的漁業規制措置の監視,取締りのため,1968年4月より69年3月末までの間に8回の連携巡視および17回の相互視察乗船を実施した。

また,日韓漁業共同委員会第3回定例年次会議は,1968年6月13日から同20日までソウルにおいて開催され,両国漁船間の衝突事故の未然防止およびその迅速な事後処理のため,両国の関係当局が民間漁業団体および関係漁民に対して強力な指導を行なうこと,ならびに,資源状態およびその変動要因の把握のため両国が共同調査を行ない,その結果を審議するため定例年次会議に先立って,漁業資源専門家会議を開催することを決定した。

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(2) 日本,ニュー・ジーランド漁業協定の発効

1966年にニュー・ジーランドが一方的に設定した距岸12マイルまでの漁業水域に関し,わが国政府とニュー・ジーランド政府との間の交渉の結果,同水域内の一部における日本漁船の継続操業について規定した日本,ニュー・ジーランド漁業協定(1967年7月12日署名)は,1968年6月26日東京において,三木外務大臣とスコット駐日ニュー・ジーランド大使との間の批准書交換により,同日正式に発効した。

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(3) 日墨漁業協定の発効

1968年3月7日に署名された日墨漁業協定(「わが外交の近況」第12号153頁参照)は,その後両国の国内手続を了し,1968年6月10日発効した。

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(4) 日豪漁業交渉の妥結

豪州による1967年11月の領海3マイルの外側9マイル幅の漁業水域設定および1968年1月30日の改正漁業法の施行に伴い,わが国は,同水域内におけるわが方まぐろ漁業の権益確保のため,同年1月から2月にかけ,また5月から約3ヵ月半にわたり,豪州政府と交渉を行なった結果,ようやく両国間に合意が成立し,同年11月27日キャンベラにおいて,在豪甲斐大使とハズラック豪州外相との間で,「日本国とオーストラリア連邦との間の漁業に関する協定」および合意議事録の署名が行なわれた。これにより,わが国まぐろ延縄漁船は,1963年から1967年の平均実績漁獲量の範囲内で,豪州本土の東西岸およびタスマニア島の東海岸沖の主要漁場においては7年間,また,パブアおよびニューギニア周辺においては少なくとも3年間,操業を継続することとなる。また,日本の出漁船等についての事前通報を受けて豪州当局はこれら漁船の操業を容易にするための行政措置を執ることになっているが,これに関連し,わが方出漁船は1隻当り年間100豪ドル相当以内の支払を行なう。

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(5) 日米漁業問題

1966年の米国漁業水域設定に伴い1967年5月に締結された「アメリカ合衆国の地先沖合におけるある種の漁業に関する交換公文」,および米国の大陸棚漁業資源漁獲を違法とする等の内容の「外国漁船の米領海内操業禁止法」の成立に伴って1964年に締結され,1966年に修正延長された「東部べーリング海のたらばがに漁業に関する日米取決め」は,いずれも1968年末までの暫定取決めであったため,1968年11月13日より12月3日までワシントンにおいて,日米両政府代表者が会合し,討議を行なった結果,前記2取決めに必要な修正を加えた上で,引き続き2年間その規定を適用することに合意を見,同年12月23日ワシントンにおいて,在米下田大使とラスク米国務長官との間で,合意確認の公文交換が行なわれた。

前者の取決めについては,米国距岸12カイリ内の水域で日本漁船が転載を行ないうる区域を新たに3ヵ所追加し,従来の転載区域の一つを拡大したこと,後者のたらばがに取決めについては,日本の年間たらばがに漁獲量を従来の16,3万函を8,5万函としたこと,並びに,両取決めとも,その有効期間を1970年末までとしたことが,主な修正点である。

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(6) 東太平洋まぐろ漁業問題

1949年締結された「全米熱帯まぐろ委員会設置のためのアメリカ合衆国とコスタ・リカとの間の条約」によって設立された全米熱帯まぐろ委員会は,その後パナマ,メキシコおよびカナダの同条約加盟(この間,エクアドルが一度加盟したが後に脱退した)により現在5ヵ国によって運営されているが,資源保存の見地より,カリフォルニア沖(北緯40度線)からチリ沖(南緯30度線)に及ぶ規制区域内でのきはだまぐろの年間総漁獲量を決定し,その他の措置とともに,これを締結国に勧告する任に当っている。関係水域でまぐろ延繩漁業を有するわが国は,同委員会の要請に基づき,1962年以降,毎年同委員会年次会議に政府オブザーヴァーを,また,関係漁業国参加の政府間会議に代表を派遣して,委員会の勧告措置を自主的に遵守するという形で,東太平洋のきはだまぐろの資源の保存に協力してきている。しかし1969年より,わが方は前記規制区域内へまぐろ巻網漁船を出漁させることとなったため,これまでのアウトサイダーとしての地位からさらに進んで委員会のわく内での協力を積極的に行なうことが適当であるとの見地から,条約加盟問題を検討中である。

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(7) 大西洋まぐろ類保存のための条約

1966年5月ブラジルで採択された「大西洋のまぐろ類の保存のための国際条約」は,7ヵ国の政府の批准または加入により発効することとなっているが,日米両国の批准,カナダ,ガーナ,南アおよびフランスの加入に加え1969年3月21日スペインの批准により同日発効した。なお,その後ブラジルも批准を行なった。

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(8) 日本,インドネシア民間漁業暫定取決めの成立

1957年のいわゆるインドネシアの内水宣言を根拠に,インドネシア政府は,1960年3月ごろより,その主張する水域内で操業する日本漁船(沖縄漁船を含む)のだ捕を開始し,多くのまぐろ漁船が長期間抑留されるという事件が発生した。日本政府は,インドネシア側のかかる措置を不当なものとして事件発生の都度イ政府に対し厳重抗議するとともに,政治折衝により関係漁船の釈放に努めてきた。

かかる状況の下に,1967年10月佐藤総理のインドネシア訪問の際,スハルト大統領との間に,両国政府が日本および沖縄漁船の操業問題につき話し合いを行なうことに合意をみ,これに基づき日イ間の特別委員会が設立された。同委員会は,1967年12月末からジャカルタで開催され,これと併行して,沖縄代表を含む日本側民間漁業者団体代表とイ国農業省代表との話し合いが行なわれた。その結果,日イ双方は,それぞれの国際法上の立場を害することなく,日本漁船(沖縄漁船を含む)の操業問題を実際的に解決することに意見の一致をみた。よって,1968年7月にいたり,日本側民間漁業者団体とイ政府の漁業当局間で,暫定取決め等がそれぞれ別個に締結され,インドネシア水域における日本国民による安全操業が確保された。

租税条約交渉一覧表

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