アフリカ地域
わが国とサハラ以南のアフリカ諸国との関係は,これら諸国の旧宗主国からの独立を契機として,年々緊密さを増している。
1968年には,スワジーランドが9月6日,赤道ギニアが10月12日に独立して,それぞれ125および126番目の国連加盟国となり,わが国はこれら2国を承認するとともに,スワジーランドの独立式典には松浦周太郎衆議院議員が特派大使として参列した。また,1968年6月中央アフリカ,1969年3月リベリアおよびマダガスカルがそれぞれわが国に大使館(実館)を開設したので,わが国におけるアフリカ諸国の公館の数は大使館7,総領事館1となり,この増大傾向は今後も続くものと予想される。アフリカ諸国からの政府要人の来訪も,前年に引続いて多く,特に英語圏諸国のみならず,仏語圏諸国からの来訪者が増大したことが注目される。これは,これら諸国が旧宗主国に対する依存度を低め,政治面にとどまらず,経済的,社会的,文化的にあらゆる面で実質的な独立を実現しようとし,アジア・アフリカ・グループの先覚者としてのわが国に,従来にもまして大きな期待をよせていることの現われであろう。
次に,経済関係については,わが国のアフリカ地域向け輸出は,1968年には8億5,300万ドルと,前年の7億8,200万ドルに比し約8%の増加を示し,他方,輸入は1967年6億0,600万ドルから1968年には7億6,700万ドルと約27%の大幅増大を示し,輸出入額ともこれまでの最高を記録した。特に,輸入は1967年における対前年比61%増に次ぐ増加であり,これは,これら地域における鉱物資源開発の進捗とその輸入の増大等によるところが大であり,かかる輸入の増大はアフリカ諸国の要望するわが国買付け努力が結実しつつある証左といえよう。他方,わが国輸出の停滞は,ナイジェリア内戦による同国向け輸出の大幅減退,南ローデシア向け輸出の停止,旧仏領諸国における対日差別の存続,アフリカ地域の工業化の進展に伴い,従来わが国のアフリカ向け輸出の中心をなしてきた繊維雑貨が伸び悩んだこと等によるところが大きいと考えられる。旧仏領アフリカ諸国の大部分は今日なお,わが国に対してガット第35条を援用し,関税面および数量面での対日差別を実施しており,わが国輸出の大きな障害となっているが,わが国としては,これら諸国との貿易協定締結等の交渉を通じて,対日差別の撤廃に鋭意努力しているところである。今後わが国輸出を伸長するに当って留意すべきは,これら諸国の工業化の進展にともない,従来の軽工業品を中心とするわが国輸出構造の高度化をはかることであり,この傾向は最近増大しつつあるわが国企業の対アフリカ進出と平行して,今後いっそう助長されるべきものと考えられる。これまでのアフリカ諸国におけるわが国企業進出は,繊維,亜鉛鉄板等の関係を中心として約40件にのぼるが,1968年度においてはコンゴー鉱山の発足,ガボンにおける漁業関係合弁会社の設立等がある。アフリカ大陸における豊富な鉱物・地下・森林資源やその近海の水産資源を考慮するとき,わが国のこの分野での企業進出の余地は大いに残されているといえよう。またアフリカ諸国の経済貿易面での「アフリカ化」の進展にともない,わが国専門家の派遣,先方研修員の受入れ等の要請が相次いで行なわれ,技術協力面でのわが国への期待は非常に高まりつつあるといえる。
(1) 東部アフリカ諸国の対日輸入制限撤廃および東ア3国に対するわが国の経済技術協力
ケニア,ウガンダおよびタンザニアは,わが国の大幅な出超を理由として,1965年以来わが国産品に対し差別的な輸入制限を課してきたが,その後わが国の経済技術協力および一次産品買付努力を高く評価するに至っており,ケニアおよびウガンダは1968年4月および7月それぞれ対日輸入制限を撤廃し,タンザニアにおいても対日輸入制限撤廃の動きがある。この結果1968年におけるわが国の3国向け輸出は5,000万ドル,輸入は4,800万ドルで,前年比それぞれ56.3%,50%の増加を示した。
わが国が1966年東アフリカ3国に供与方を約した円借款に基づく具体的プロジェクトの選定も軌道にのりつつあり,技術協力の面では,1968年6月ウガンダとの間に職業訓練センター設置に関する協定が,また,同年7月ケニアとの間で1964年の技術訓練センター設置協定の延長に関する取決めが成立した。さらに,日本青年海外協力隊員として,1968年にはケニアに15名,タンザニアに30名の派遣が行なわれ,これら両国に対する派遣隊員数は延べ112名に達した。これら諸国の経済貿易面での「アフリカ化」の進展にともない,その過渡的段階としてわが国専門家の派遣が要請されることが多い。
わが国の輸出1,450万ドル(1967年1,790万ドル),輸入6,700万ドル(1967年590万ドル)で依然としてわが国の出超ではあるが,縮小均衡に向いつつある。同国では砂漠イナゴの大群が発生したため,1968年11月わが国政府は関係業界15社の協力を得て1万ドル相当の殺虫剤を寄贈した。
1968年におけるザンビアとの貿易は,わが国の輸出は前年の横ばいの2,900万ドル,輸入は銅の大量買付けもあり対前年比22%増の1億6,800万ドルで,わが国の大幅入超を記録している。
南アフリカにおけるアパルトヘイト体制の確立強化にともない,アジア・アフリカ諸国を中心として南アフリカに対する強制的経済制裁の実施が主張され,同国との主要貿易国に対する非難攻撃が年々強くなってきている。わが国は国連等の場において従来から一貫して人種差別反対の立場をとっており,1963年国連安全保障理事会で採択された武器弾薬等の禁輸決議を誠実に履行している。
右禁輸品目以外のわが国の対南アフリカ貿易は年々拡大傾向を示し,輸出は1967年の1億5,700万ドルから1968年には1億7,000万ドルへ,輸入は1967年の2億6,700万ドルから1968年には3億3,500万ドルへと伸びたが,前年に引続き輸入の伸びが大きく,1968年には1対2の大幅な入超となった。これは最近わが国の南ア産農鉱産物に対する需要が高まる一方,特に軽工業品については南アの国内産業開発が進み,わが国輸出品と競合することになったからであろう。なお南アは依然わが国に対しガット第35条を援用しているので,わが国はその撤回に努力している。
1968年5月29日の国連安全保障理事会において南ローデシアに対する全面的強制経済制裁決議が採択され,わが国は1966年12月16日の部分的強制経済制裁決議に基づいて講じた措置に加えて,直ちに次のような措置をとった。
(i) 今回の決議においては南ローデシアにおけるすべての領事および通商代表の引揚げが強調されているにすぎないが,わが国は決議の精神を汲み,在ソールズベリー総領事館残留館員すべての引揚げを行なった。
(ii) 南ローデシア旅券保持者の入国を禁止し,南ローデシアへの移住および渡航を抑制するための規制措置を強化した。
(iii) 5月29日以前においても一部輸出を規制していたが,今回の決議採択に伴い,関係法令を改正して南ローデシアへの輸出承認はすべて行なわないこととし,輸入についても,同決議採択前の5月7日から許可を与えないこととした。
(iv) 輸出入その他に伴う送金を停止するため関係法令を改正した。
(V) 船舶および航空機による禁輸貨物の輸送等を禁止するための行政措置をとった。
以上の措置の結果,わが国と南ローデシアとの貿易は人道上の見地から認められている医薬品等の例外品目を除いて,輸出入とも8月で終了し,同年の輸出は452万ドル,輸入は82万ドルの少額にとどまった。
わが国と中部アフリカ5ヵ国(中央アフリカ,ガボン,チャード,コンゴー・ブラザヴィル,コンゴー・キンシャサ)との貿易は,輸出が1967年798万ドルから1968年2,441万ドルへ,輸入が1967年2,117万ドルから1968年2,346万ドルへと増加し,特にコンゴー・キンシャサへの輸出が大幅に増加(1967年529万ドル,1968年1,999万ドル)したことが注目される。
企業進出の面では,わが国業界とコンゴー・キンシャサ政府との合弁会社「コンゴー鉱工業開発会社」の設立(1969年1月3日認可)が指摘されよう。わが国業界は1967年末のコンゴー政府との鉱業協定により,カタンが州のほぼ九州に匹敵する地域の排他的探鉱権を獲得し,既に1億トン以上の銅鉱床の埋蔵を確認しており,1972年より年間5万トンの銅生産が見込まれている。またガボンにおいては,同国産業開発公社とわが国業者との合弁で1969年1月ガボン漁業会社が設立された。
わが国は1968年10月中央アフリカ国家経済大臣一行の来日を機に,同国と貿易協定を締結した。その結果中央アフリカ政府は対日ガット第35条援用をできる限りすみやかに撤回するよう努力すべき旨を約した。
内戦が長期化しているナイジェリアにおいては,国際赤十字委員会を中心として難民救済活動が行なわれているが,わが国は同委員会に対して10万ドルの拠出を行なった。
わが国とナイジェリアとの貿易は内戦に伴うナイジェリア側の外貨事情の悪化と輸入制限強化のために,わが国からの輸出は1967年の3,800万ドルから1968年の1,300万ドルへと激減し,輸入も1967年の1,600万ドルから1968年には1,450万ドルへと減少した。
わが国が1966年ナイジェリアに供与方を約束した108億円の円借款のうち,1969年2月アレワ紡績およびユナイテッド・ナイジェリアン・テキスタイルの設備拡張のため,それぞれ12億6,000万円および15億1,000万円の使用が認められた。
従来わが国の大幅出超であったガーナとの貿易は最近のカカオ豆の国際価格の上昇およびガーナ経済再建を目的とする輸入抑制策もあり,1967年よりわが国の入超に転じ,特に1968年は従来実績のなかったアルミニウム塊919万ドルの輸入が実現し,わが国の輸出1,910万ドルに対し,輸入3,350万ドルと入超幅が拡大した。
ガーナは同国経済事情の悪化に伴い,1966年6月1日以降同国の債務の支払いを停止したが,わが国は,1966年末ロンドンで開催の対ガーナ債権国会議において合意をみた合意議事録に従い,1968年5月東京において債権繰延べに関する2国間交渉を行なった結果,1966年6月1日より68年6月30日までに弁済期の到来する債権の100%および68年7月1日より69年6月30日までの債権の50%(対象債権額は518万ドル)ならびに未払い利子の支払い方法に関する合意に達し,6月14日交換公文の署名が行なわれた。現在,それ以降支払期限の到来する債権についての繰延べ交渉が継続されている。
1968年のリベリア向け輸出は4億3,900万ドルで,サハラ以南アフリカ向け輸出総額の過半を占めているが,このうち4億2,800万ドルは便宜置籍船といわれる船舶の輸出である。他方輸入は1,700万ドルで前年比約500万ドルの増加であるが,その内容は解体用船舶の輸入が半減し,鉄鉱石の輸入が,わが国鉄鋼会社による年間190万トンにのぼる買付け契約締結の結果,931万ドルと激増したことが注目される。
わが国業界はまた1968年2月英国系のシェラ・レオーネ開発会社との間で鉄鉱石の長期買付契約を締結したが,この結果現在わが国の大幅出超である同国との貿易は数年後には入超に転ずることも予想される。
わが国と象牙海岸との貿易は漸増傾向にあるが,1968年のわが国の輸出は442万ドル,輸入は1,101万ドルで大幅入超である。これは,コーヒー豆,カカオ脂等の輸入が増加している反面,象牙海岸は関税面での対日差別を撤廃したものの,依然として数量割当面で厳しい差別待遇を続けていることによるものであり,わが国は両国間の貿易関係の正常化を図るべく,目下貿易協定締結のための交渉を行なっている。
西アフリカ近海は近年わが国漁業の重要な操業地域として脚光を浴びてきているが,大洋漁業所属のトロール船第65大洋丸は1968年11月27日モーリタニア沖で操業中,領海侵犯のかどで同国沿岸警備艇にだ捕されたが,大洋漁業が2,300万CFAフラン(約9万2,000ドル)を支払い,同年12月2日釈放された。なおモーリタニア近海はたこ・いかの漁場として最近その重要性を増してきており,安全操業確保のため,わが国業界とモーリタニア政府との間で交渉が続けられている。