中近東地域
わが国は中近東諸国と伝統的に友好関係を維持してきたが,特に近年これら諸国との貿易,経済技術協力の拡大を通じて友好関係が強化されつつある。
中近東地域は,後に述べるようにわが国産業と国民生活に不可欠な石油の供給源であり,これら諸国との友好関係を強化し発展させることは,わが国外交政策の重要な一環である。このため,わが国は人物交流の促進,わが国とこれら諸国との外交の窓口としての在外公館の拡充に努力している。1968年度には,クウェイト外相とトルコ外相を公賓としてわが国に正式招待し,わが国政界,財界の要人との会談,わが国実情の視察等を通じ,両国との友好関係の増大に貢献した。また1969年2月にはテュニジアに大使館(実館)を開設し,中近東地域には合計13の大使館と1つの領事館をもつことになった。
わが国の中近東地域(北アフリカを含む)向け輸出は1968年に約5億5,000万ドルで,わが国輸出総額の4.2%を占めるにすぎず,輸出市場としては現在のところ金額的にはさほど大きくはない。しかし,イラン(わが国からの輸出約1億4,000万ドル),サウディ・アラビア(同じく7,300万ドル),クゥエイト(同じく7,100万ドル)それにイラク(同じく4,000万ドル)などの産油国は,石油収入を資金源として経済開発計画を進めており,わが国からはプラント類をはじめ重化学工業製品の輸出が増えつつあり,輸出市場としての将来が期待されている。
一方,中近東地域からの輸入は,1968年に18億5,000万ドルに上り,わが国輸入総額の14.2%を占めている。これは,わが国の経済成長に不可欠な石油(特に原油)を中近東から輸入しているからで,1968年にわが国は中近東地域から合計1億2,500万キロリットルの精製用原油を輸入しており,これは同年のわが国総原油輸入の実に92.3%にあたる。
わが国の中近東産原油への依存度は,1963年度の85%から年々ふえ,1967年度には91.8%に達した。
このように,中近東地域は,わが国にとって重要な石油供給源であり,わが国としては石油の安定的供給を確保するために,この地域の政治的安定と経済開発に多大の関心を寄せている。
1968年にわが国原油輸入の実に41%を供給したイラン,21%を供給したサウディ・アラビア,13%を供給したクゥエイトは,いずれも比較的政情の安定した穏健な国であり,わが国との友好関係も年々緊密の度を加えている。
今後とも,中近東地域はわが国の重要な石油供給源として,わが国外交上重要な地位を占めることになろう。
流動的で不安定要素の多い中近東の中にあって,イランは国内政情の安定とひきつづく経済的繁栄を背景に安定勢力としての地歩を固め,その躍進振りはめざましいものがある。
イランは自由主義陣営に属し国連中心主義をとっており,わが国の立場と共通点が多いのみならず,近年人的交流,貿易の拡大,企業の進出,経済技術協力の強化等を通じて両国間の親善関係は一段と緊密化しているが,特に両国間の経済関係は躍進的な伸びを示している。
1968年には,5月に蔵内外務政務次官が訪イし,10月には椎名通産相が現職閣僚として初めてイランを公式訪問,11月には平田国土綜合開発審議会会長を団長とする大型経済使節団が同国を訪問し,他方イランからは10月シャルチアン道路相,イェガネ経済次官が来日した。同年6月および7月には数年越しの懸案であった日イ貿易協定および1,700万ドルの円借款協定に関する交渉が妥結し,特に貿易協定の締結により1968年のわが国の対イ輸出額は1億3,667万ドルに達し,対前年比78%の飛躍的増加を示しており,今後とも両国間の経済関係はますます深まってゆくことが期待される。
わが国とイランとの経済関係について注目される点は,次のとおりである。
第1に,イランは,中近東アフリカ地域におけるわが国最大の輸出市場であり,同国の野心的な第4次経済開発5ヵ年計画の遂行に伴い,今後ともひきつづき,わが資本財等の絶好の輸出市場となりうるものとみられる。
第2に,イランはわが国に対する最大の原油供給国として,わが国原油輸入量の41%を供給(1968年の輸入総額5億6,000万ドル)しているが,イランからみても日本は同国輸出原油の28%を輸入し,最大の顧客となっている。
第3に,石油の輸入を加えると,両国の貿易関係はわが方の一方的入超となっているにもかかわらず,イラン側は国際石油財団(米,英,蘭,仏の国際石油資本により構成,イラン産油量の90%以上を占める)の輸出する石油を両国間の貿易バランスに加算せず,わが方が出超であるとしているため,わが国は貿易アンバランス是正のため輸出入調整措置を講ぜざるをえず,輸入のコンペ制を実施している。
政府ベースの経済協力の面でも,同国との間に前述の円借款協定のほかに,経済技術協力協定,中小企業訓練センター設立協定があるほか研修生の受入れ,専門家の派遣等において中近東第1の実績をあげている。他方,民間部門でも広い分野で技術協力が活潑に行なわれている。
トルコは種々の大型プロジェクトを盛り込んだ第1次開発5ヵ年計画において平均6.8%の成長率を達成している。さらに1968年1月より第2次計画に入り,1969年度も公共・民間両部門に224億9,500万トルコ・リラ(約25億ドル)の投資を予定しており,意欲的に経済開発を進めている。
このようなトルコの経済開発状況にもかかわらず,日・土経済協力の実績は従来必ずしも多くはなかったが,1967年10月アクス製紙工場建設のため,経済協力の見地より特に据置5年を含む17年,年利5.5%を条件とした対トルコ延払輸出が行なわれ,本格的な対土経済協力の最初の実績が作られた。
1969年1月チャーラヤンギル・トルコ外相訪日のさい日・土協力緊密化が要請されたが,わが国において同国の5ヵ年計画とその実績に対する評価と認識が深まるにつれて,日・土協力はさらに増進するものと期待されている。
特に1969年度中に工事開始が予定されているボスフォラス架橋プロジェクトに対するわが国の参加が実現することになれば,今後多種多様のプロジェクトを有するトルコとわが国との関係の緊密化に貢献するものとなろう。
わが国とアフガニスタンは地理的に遠く,貿易量も少ないにもかかわらず,1930年の修好条約締結以来,戦後一時外交関係が絶えた以外はつねに友好関係にあり,この間わが国は小規模ながら技術協力を続け,またアフガニスタンも国際機関等においていつもわが国を支持して来た。
同国は中立非同盟の政策を採り,両陣営から多額の援助を受けて経済開発を図っているが,一方同じアジアの一員たるわが国からの政治色のない経済協力を強く望んでいる。わが国としても,毎年わが国の著しい輸出超過が続くことから生ずる貿易上の不均衡を補うためにも経済協力の必要性が痛感されていたので,1965年要請のあった同国の地方都市水道建設計画に対して200万ドルの円借款供与を決定し,長期交渉の結果ようやく68年11月両国政府間で書簡交換の運びとなった。
わが国は1958年にアラブ連合に対し3,000万ドルの民間延払輸出枠を供与し,さらに1965年に1,000万ドルの追加枠を供与したが,1966年末,アラブ連合は国際収支の困難を理由に,わが国民間債権(主として上記枠による輸出代金)の支払い繰延べ方を要請してきた。以来,両国政府間でこのための交渉を行なってきたが,右交渉において繰延べの対象とすべき債権の範囲,種類,繰延べの条件,方法などをめぐり,両国の立場や制度上の相違が災いして長期間にわたって難航した。しかるに交渉がさらに長びくことは,わが国にとって債権確保の見地からも,またアラブ連合との経済,その他諸関係促進のためにも望ましくないので,1968年4月,わが国は繰延べ条件,その他問題の諸点につき大幅な譲歩を行なって,交渉の早期妥結を計るべく努力した結果,両国間に原則的な合意をみた。その後,繰延べ実施のための細目交渉が行なわれてきたが,最近にいたり,アラブ連合は対日債務を支払う代償として,これに見合う新規信用供与方を強く要望してきたため,この点につき,さらに両国間で交渉が続けられている。
わが国とイラクとの貿易関係はわが国が大量の石油を輸入しているため,従来の両国間の貿易バランスは3対1の割合でわが方の入超となっていたが,1968年の対イラク輸入は2,601万ドル(うち石油2,552万ドル),輸出は4,132万ドルでわが方の出超に転じた。しかしながらイラク側は,石油輸出は直接的には国際石油資本の収入になるとして貿易収支から除外しているため,石油を除くと従来よりわが方の一方的出超となっている。石油以外のイラクからの輸入産品はデーツ(なつめやしの実)が主であり,その他豆類,羊皮等が少量あるのみである。
わが国は毎年デーツをはじめイラク産一次産品の買付けに努力してきたが,イラク側は日本側のデーツ買付け状況に対する不満および極端な片貿易を理由に,1969年1月1日より消費財,2月16日より生産財に対する対日輸入ライセンス発給停止措置を実施するに至った。そのため日・イ貿易関係は全面的に停止という最悪な事態にまで発展しようとしているが,わが国政府,関係業界は対策を種々検討し,対日輸入制限措置の早期撤廃方鋭意努力している。