ソ連・東欧地域
1967年7月訪ソした三木外務大臣がコスイギン首相と会談した際,北方領土問題に言及したのに対し,同首相は平和条約に至らざる形においてのなんらかの「中間的文書」の作成検討方を提案したが,わが方は上記提案を受け,この際領土問題をも含むあらゆる日ソ両国間の懸案を総ざらいし,可能なものから解決を図ろうとの立場から,同年末より,モスクワでソ連側と数回にわたる交渉を行なって今日に至っている。この交渉を通じて,ソ連側の「領土問題は解決済み」との態度が依然変っていないことが明らかとなっており,現在のところ早急な領土問題解決の目途をつけることは困難な状態である。
わが方としては,従来からわが国政府が一貫してとって来た立場,すなわち,国後島および択捉島は,歯舞群島および色丹島とともに,わが国固有の領土であり,当然わが国に返還さるべきであるとの立場を堅持しつつ,国内世論の支持を得て,長期的な視野に立って,粘り強く交渉を続けて行く方針である。
北方水域における安全操業問題についても,「中間的文書」に関する上記交渉の一環として,本件を実際的に解決するなんらかの方途を見出し得るか否かについて検討している。
シベリア上空の日本側による自主運航の早期実現の問題につきソ側と折衝するため,中曾根運輸大臣は,1968年10月24日より28日まで訪ソした。訪ソの期間中,同大臣は,コスイギン首相およびロギノフ民間航空大臣と会談し,この会談において,ソ側に対しシベリア上空の自主運航の早期実現を強く要請した。
なお,中曾根大臣は,訪ソに当り佐藤総理大臣のコスイギン首相あて親書を携行し,コスイギン首相との会談においては日ソ航空問題のほか,日ソ関係の全般にわたる問題についても同首相と意見の交換を行なった。
中曾根運輸大臣の訪ソの結果,シベリア上空の日本側による自主運航の実現の問題につき近い将来改めて日ソ間で交渉を行なうことが合意されたが,この合意に基づき1969年2月4日ロギノフ民間航空大臣を団長とするソ側代表団が来日し,同6日より13日まで日本側との間に航空交渉が行なわれた。この交渉の結果,原田運輸大臣とロギノフ大臣との間に覚書が署名されたが,この覚書でソ側は,日本側の強い主張を容れ,わが国航空企業によるシベリア上空の自主運航が1970年3月31日より遅くない時期に開始されることに同意し,また,それまでの間現在の日ソ共同運航を拡大する等,日ソ両国間の航空業務の拡大に関する諸措置についても日ソ間に了解が成立した。
上記(2)の覚書の了解事項は外交上の経路を通じ両国政府間でできる限りすみやかに確認されることになっていたが,1969年3月7日,愛知外務大臣とトロヤノフスキー駐日大使との間に上記覚書の了解事項を確認する公文が交換された。(交換公文については資料4.の(2)参照)
1968年の日ソ貿易実績は,通関統計で輸出約1億7,900万ドル,輸入約4億6,400万ドル,入超額2億8,500万ドル,FOB現金受払いベースでは,輸出約2億2,000万ドル,輸入約3億6,000万ドル,入超額約1億4,000万ドルであった。
1968年4月10日に署名された日ソ貿易議定書附属の品目表によって期待された貿易規模に比較して・輸出は約30%下まわり,輸入は約18%上まわった。1967年の入超額も約1億4,800万ドルであったから,同程度の大幅入超が2年連続して続いたことになる。そして貿易全体の姿も1968年は1967年に極めて類似しており,船舶輸出がほとんどなかったと同時に,機械全体の輸出も不振であった。繊維2次製品と,かわ靴の対ソ輸出は若干ながら増加した。
一方輸入では,全体として伸びているが,木材が依然として伸びを続けた。石油は黒海積みの原油が入らなくなったが,ソ連とわが国石油業者との間で協定が成立し,中東原油がその代りに日本に輸出され,ソ連石油の輸入実績は前年の水準(241万kl)を維持した。銑鉄は1967年の142万トンから大幅に減って約60万トンとなった。そのほか白金,パラジウム,アルミニューム,ニッケル等の非鉄金属,原綿,石炭等が重要品目である。
1969年の貿易の規模を協議する交渉は,1969年1月13日から同3月14日までモスクワにおいて行なわれ,1968年に比べて約20%貿易を拡大することで合意が成立した。
1969年の日ソ貿易で注目すべきことは,いわゆるシベリア開発協力第1号として,日本の商社とソ連の木材輸出公団との間で合意が成立した「極東森林資源開発に関する基本契約」が実施に入ることである。
この「極東森林資源開発」計画は,(イ)日本から約1億3,000万ドルの機械および資材と約3,000万ドルの消資物資をソ連に輸出し(1969~71年),(ロ)見返りに760万立方米の原木を5年間(1969~73年)にソ連から輸入する契約である。輸出は5年間の延払い条件,輸入は現金払いである。
1969年に輸出される機械,資材および消費物資は,総額の約40%,約6,000万ドルと見込まれている。
上記の「極東森林資源開発に関する基本契約」の成約に伴い,日ソ両国政府は,その協力関係の発展を歓迎し,またこの「基本契約」と現行の日ソ貿易協定との関係を明らかにする目的をもって,8月14日三木外務大臣と来日中のパトリチェフ・ソ連外国貿易大臣との間で書簡が交換された。
1968年12月9日~11日東京において開催された第3回日ソ経済合同委員会に出席のため来日したセミチャストノフ・ソ連外国貿易第一次官(ソ側代表団団長),ネステロフ全ソ商業会議所会頭(同副団長)およびミスニック・ソ連邦ゴスプラン副議長(同副団長)等は,佐藤総理大臣,愛知外務大臣,大平通産大臣,福田大蔵大臣と日ソ経済関係について会談を行なった。
北方水域におけるソ連側による本邦漁船のだ捕抑留事件は依然として頻発しており,1946年より1968年末に至る間,ソ連側に抑留された漁船総数は,1,275隻を数え,抑留漁船員総数は,10,763名に達した。その間ソ側から返還された船舶は798隻,乗組員10,682名で,だ捕の際または引取途中で沈没した船舶は19隻,死亡した者20名で,1968年現在未帰還の船舶は458隻,同漁船員は61名である。
そのうち1968年中にソ連にだ捕された船舶は40隻を数え,漁船員は346名であった。また,同年中に帰港した船舶は15隻,漁船員は324名である。なお,帰還船員のうち26名は1967年末までにだ捕抑留された者である。この他,抑留中に自殺した者が1名いる。
政府は,ソ連側による漁船だ捕事件が発生した場合,これら漁船のほとんどすべてが,ソ連が占拠する島しょおよび大陸の距岸3~12海里の水域においてだ捕されている事実に基づき,ソ側の措置は,領海3海里の建前をとるわが方の立場からみて不法であるとして,あらゆる機会をとらえて漁船および船員の早期釈放を要求している。
1967年8月23日,日ソ領事条約が発効したことに伴い,政府は,同条約の規定に基づき,不法漁ろうという理由でソ連邦に抑留されている本邦漁船員と在ソ大使館員との面会の実現方をソ連政府に申し入れていたが,1968年11月ソ連政府よりこれに同意する旨の回答があり,第1回として同年12月17日および18日の両日ハバロフスクにおいて,前年末までにソ連邦に抑留された14名の本邦漁船員と在ソ大使館員との面会が行なわれた。
次いで,1969年3月19日および20日の両日,1968年1月から4月までの間に抑留された漁船員13名を対象に第2回面会が実施された。
政府は,今後とも抑留漁船員の早期釈放を求めるとともに,右が実現するまでの間は,抑留漁船員との面会を引続き行なってゆく方針である。
1968年1月以来,チェッコスロヴァキア国内において進められてきた種々の改革をめぐって,同国とソ連その他の社会主義諸国の間で一連の会談が行なわれてきた。わが国はその経緯を深い関心をもって注目していたところ,8月20日深夜,突如としてソ連,ポーランド,ブルガリア,ハンガリーおよび東独の軍隊がチェッコスロヴァキアに軍事介入を開始し,わが国政府および国民に多大の衝撃を与えることとなった。
8月21日夜オコニシニコフ在京ソ連臨時代理大使は森外務審議官を来訪,口頭をもって本件に関するソ連政府声明を伝え,この軍事介入がチェコ政府および党の要請に基づくものであるとの説明を行なった。わが国政府はあらゆる信ずべき情報および兆候に基づき,8月22日,木村内閣官房長官の談話(資料6.の(5)参照)を発表して,ソ連,東欧軍の行動がチェッコスロヴァキアの独立と主権に対する侵害であり,国連憲章の規程と精神に違反する行為であると断じ,ソ連およびその同盟国が即刻,かつ,無条件に軍事介入を中止し,独立および主権の尊重の立場に立って平和的解決の方途を講ずるよう要望する旨を述べた。
なお,北原欧亜局長は22日夕刻,在京ソ連臨時代理大使,ポーランドおよびブルガリア大使,ハンガリー臨時代理大使を個別に外務省に招致し,前記官房長官談話を内容とする日本政府の公式声明をそれぞれの本国政府に伝達するよう要請するとともに,ソ連,東欧軍が速やかに撤退し正常な状態を回復するよう強く要望した。
1968年の日本とユーゴを含む東欧7ヵ国および東独との貿易は輸出8,435万ドル,輸入1億1,357万ドルで,前年に比べ輸出は16%,輸入は5%,また総額で約10%のそれぞれ減少であり(1967年の実績は前年比47%増),日本の貿易総額に占める割合も1967年の1%から0.8%に減った。
国別にみると,第1位はポーランドで4,643万ドル,以下ルーマニア3,713万ドル,ユーゴースラヴィア3,532万ドル,東独3,349万ドル,ブルガリア2,155万ドル,チェッコスロヴァキア1,792万ドル,ハンガリー589万ドル,アルバニア18万ドルの順となっている。
同年における対東欧貿易の減少は,従来から主要取引相手国であったルーマニア,ブルガリア,ユーゴ等との貿易の減退によるもので,それまでの急増による反動ともみられるが,背景としては,輸出面では,例えばルーマニアおよびブルガリア向け船舶等の対日需要手当の一巡したこと,わが国好況による割高,品薄等の影響,他方輸入面では,相手国により若干の相違があるが,一般に銑鉄等の従来からの中心品目について,わが方の需要減退ないしは先方の対日輸出余力の減少などが考えられる。これに対し,貿易規模が拡大したのはポーランド,東独,ハンガリーなどであるが,これはもっぱら輸入の増加によるもので,このうちポーランドからは主として原料炭の,また東ドイツからは銑鉄の買付により前年比それぞれ50%および2倍の増加を示したが,これに対し輸出は不振で,両国との貿易はわが方の大幅な入超となっている。
東欧諸国との取引品目は,輸出は各種機械,鋼材,化学品,繊維等が中心となっているが、輸入は従来から必ずしも安定した商品構造を示しておらず,また国により異るが,一般に農産物(とうもろこし,麦芽,採油用種子,ジャム,葉たばこ等),銑鉄,非銑鉄金属,石油製品(但しルーマニアのみ),石炭(ポーランドのみ)等となっている。
なお,1967年3月28日東京において署名された日本・ブルガリア貿易・支払協定(期間1967-1971年)に基づく1968年の品目表に関する議定書が1968年8月16日,日本側鶴見外務省経済局長,ブルガリア側パパゾフ駐日大使との間で署名された。
チト・ユーゴースラヴィア社会主義連邦共和国大統領夫妻は,日本国政府の招待により1968年4月8日より同15日まで国賓として来日し,天皇陛下,佐藤総理大臣と会見した。佐藤総理大臣との会見では,世界平和と国際協力のために,日本およびユーゴ両国が相互の努力を続ける問題,国際協力の機構としての国際連合の効率を強化する問題,核兵器不拡散に関してできる限り多数の諸国が受諾可能な合意を達成するために,いっそうの努力がなされるべきこと,等について話合いが行なわれた。
クバディンスキー副首相を団長とするブルガリア国民議会議員団は,衆参両院の招待により1968年11月5日より同14日まで来日し,この間佐藤総理大臣,衆参両院議長等と会談するとともに,関西への視察旅行を行なった。
フリンケーヴィッチ・ポーランド機械工業大臣は,日本政府の招待により1968年5月27日来日し,6月6日まで滞在した。その間同大臣は三木外務大臣および椎名通産大臣とそれぞれ会談し,機械工業部門における両国間協力の増進について意見交換を行なったほか,工業施設の視察および財界首脳との会談を行なった。
ヴァレシ・チェッコスロヴァキア外国貿易大臣は,日本政府の招待により1968年12月7日来日し同14日まで滞在した。その間同大臣は,佐藤総理大臣はじめ愛知外務,福田大蔵,大平通産各大臣および木内科学技術庁長官とそれぞれ会談し,両国間経済,貿易および科学・技術協力関係の増進について意見交換を行なった。同大臣はまた滞日中を通じ,在京および関西財界首脳との会談および各種産業施設の視察を行なった。
政府は東欧諸国との経済・貿易関係の増進を図るため,植村甲午郎経団連会長を団長とする経済使節団を1969年3月6日より同13日までの間,ユーゴ,ブルガリア,ルーマニアおよびチェコに派遣した。同使節団はユーゴのチト,チェコのスボボダ両大統領はじめ,各国首相以下政府首脳と経済・貿易関係増進につき意見交換を行なったほか,産業事情の視察を行なった。
政府は,東欧諸国との貿易拡大を図るため,新田義美・ソ連東欧貿易会副会長を団長とする経済調査団を1968年3月25日より4月15日までの間,チェコ,ハンガリーおよびユーゴに派遣し,これら諸国との経済・貿易関係増進の可能性およびその具体的方策につき調査を行なわせた。