北 米 地 域
沖縄の施政権の早期返還は,沖縄住民を含む日本国民の一致した願望である。政府は,沖縄問題解決のための最善にして最短の道は,日米相互信頼関係のわくの中で施政権の返還を実現するにあるとの判断に立って,問題の解決に努めてきた。
1967年11月の佐藤総理大臣とジョンソン米国大統領との会談の結果,沖縄の施政権をわが国に返還するとの方針の下に,日米両国政府が沖縄の地位について,共同,かつ,継続的な検討を行なうことが合意された。(「わが外交の近況」第12号177~178頁参照)。その後日米両国政府間において,この合意にもとづく話合いがすすめられている。
沖縄返還交渉の中心課題は,施政権返還後沖縄に残される米軍基地の態様である。現在沖縄にある米軍基地は,米国の戦争抑止力の一環として,わが国およびわが国を含む極東の安全に重要な役割りを果している。政府はこの基地の重要性を十分に認識し,返還後における沖縄を含むわが国全体の長期的安全を損わない形で,沖縄の早期返還を実現するとの基本方針のもとに,米国政府との話し合いをすすめている。
上記佐藤・ジョンソン会談の結果,来るべき沖縄の祖国復帰に備えて沖縄と本土との一体化を推進することにつき意見の一致をみ,その目的のため那覇に琉球諸島高等弁務官に対する諮問委員会が設置された。
政府は,上記諮問委員会の場を通じて一体化政策を積極的に推進してきたほか,沖縄住民の国政参加問題についての米国政府との原則的合意達成,さらには一体化施策実施のための日本政府の対沖縄援助の拡充等沖縄住民の民生福祉の向上に努力してきた。その具体的内容は次のとおりである。
沖縄の本土復帰にそなえて,本土の対沖縄施策になんらかの形で沖縄住民の民意を直接反映せしめることは,沖縄住民の強い希望の一つである。
この要望を満すべく政府は,1968年7月1日の沖縄に関する日米協議委員会第14回会合において,沖縄住民の国政参加を取り上げ,「沖縄住民の国政参加が望ましいので,日本側としても法律上の問題等国内問題の解決につき検討している」旨述べるとともに,「米国政府においても,その早期実現につき,好意的配慮をしてほしい」旨要請した。
次いで,同年10月9日の同協議委員会第15回会合において,日米双方は一体化施策を含む日本本土の沖縄施策に沖縄住民の民意を反映させるため,選挙により選ばれた沖縄住民の代表が日本本土の国会の審議に参加することが望ましく,かつ,有意義であることに合意し,さらに,国政参加実施のために必要な措置は,日米双方が沖縄住民の要望を考慮しつつ,相互に協力することに合意した。
また,日米双方は,(あ),沖縄の代表の数を本土相当県の衆参両院議員の数と同様に定めること,(い),沖縄代表の権限は,沖縄が米国の施政権下にあるという事実の下で,日本国内法上認められる最大限のものとすること,および,(う),沖縄代表の資格,選出方法および法的地位を定める琉球政府の法律の規定が,本土国会議員に関する本土の法律の規定にそったものとなることが望ましい旨意見の一致をみた。
(注) 内閣総理大臣より,1968年12月10日付衆議院議長および参議院議長あて書簡をもって,それぞれ上記合意の内容を通報するとともに,必要な国内法上の措置につき検討方依頼した。
諮問委員会は1968年3月1日に発足して以来1969年3月末までに95回分会合を開催し,この間34件に上る勧告を高等弁務官に対し行なった。この勧告は,すべて高等弁務官の採用するところとなり,その後逐次日米琉三政府の協力により実施に移されている。
事項別に勧告の件数および主な勧告を列挙すれば,次のとおりである。
行政関係 9件
(日本政府一体化調査団派遣要請,人事交流,資格免許一体化,国県事務分離,国勢調査の本土との一体的実施)
社会保障関係 8件
(医療保険の住民皆保険の強化と本土並み給付の実現,住民皆年金体制の確立,身体障害者福祉の強化,児童福祉施設の充実強化)
教育関係 6件
(琉球大学の充実,後期中等教育の振興,私立学校の振興方策)
経済開発関係 7件
(琉球開発金融公社の琉球政府への移管に関する調査,那覇空港の整備,沖縄の観光誘致のための国際観光振興会の活用)
労働関係 4件
(軍関係離職者対策,職業訓練の充実,失業保険の被保険者期間の通算)
計 34件
(あ),沖縄に関する日米協議委員会第17回会合(1969年1月13日)で合意された日本政府の昭和44会計年度対沖縄援助計画(この内容が日本政府予算に計上され,当該予算が成立した時点において正式に確定する)は,総額227億4,902万円余で,前年度予算額に比し,73億7,184万円余(対前年度伸び率48%)の増額になっている。本援助計画は,琉球政府の1970会計年度(昭和44年7月1日~45年6月30日)中に支出されることになるが,日琉間の会計年度の相違を考慮して,157億9,900万円余は日本政府の昭和44会計年度予算に計上され,残額69億5,000万円余は昭和45会計年度中に支出されることになっている。
(い),この内訳は,一般会計分174億4,900万円余(対前年度伸び率39%)財政投融資計画分53億円(89%)であるが,内容的には諮問委員会の諸勧告をふまえ,また68年11月5日の一体化に関する閣議決定(本土と沖縄との一体化は69年度以降おおむね3年間で完了するものとし,一体化の対象は特に,教育,社会福祉,産業基盤整備,市町村行財政等に重点をおくものとする)にもとづく一体化予算というべきものとなっている。
沖縄現地においては,B-52移駐,原潜寄港,総合労働布令の公布等沖縄住民の社会生活に影響を及ぼす種々の問題があり,1969年2月4日には,これらの問題をめぐりゼネストに訴えようとする動きがあった。
これらの基地の運用にかかわる問題は,本来沖縄に施政権を行使する米国限りで行ないうる問題であるが,これらの問題が沖縄住民に不安ないし疑惑を与えていることにかんがみ,政府はつとに米国政府に対しかかる沖縄住民の不安あるいは疑惑の解消に配慮するよう申し入れてきた。
(イ) B-52問題
B-52問題については,さきに1968年2月12日外務省より在日米国大使館に対し,B-52爆撃機の沖縄移動に関する報道による沖縄住民の不安感除去方配慮を申し入れた。
しかるに,68年11月19日沖縄嘉手納基地においてB-52炎上事故が発生したので,同日外務省より在日米国大使館に対し,「事故再発防止のための万善の措置をとること」等3項目を申し入れ,また前記のごときゼネストに訴えようとする動きもあったので,1969年1月28日外務省より在日米国大使館に対し,「米側が沖縄をB-52の恒久基地化する意向なき旨再確認する」とともに,「日本政府としては,米側がB-52を自主的に撤去することを可能にする情勢の早期到来を強く期待する」旨申し入れた。
(ロ) 総合労働布令
(あ),沖縄の米国民政府は1969年1月11日総合労働布令(高等弁務官布令第63号)を公布した。本布令は,現行布令第116号(琉球人被用者に対する労働基準および労働関係令)およびその他の労働関係布令に代わるもので,1月25日より施行されることとなっていたが,その後民政府は2月23日,布令の日本語訳がなかったことから,種々誤解を生じているとして,施行期日を延期し,布令の日本語訳を準備した上で3月1日までに関係団体が米国民政府労働局に意見を書面で提示することを求める旨発表した。
その際米側は,施行期日については各方面から提出される意見を検討の上,あらためて決定する旨発表した。
(い),政府は,本布令につき米国政府の説明を求めつつ,その内容を検討してきたが,その結果,第10条(非合法活動)については,他の条文と異なり同布令上の労働関係と無関係の一般人に対しても,軍または重要産業の活動を阻害するピケット,集会,示威運動等の行為,被用者の職場への立ち入りに対する妨害および基地,重要産業,あるいは米国政府管理下の土地で行なわれる仕事を阻害するその他の活動等を禁止する規定を含み,通常の労働法の規制範囲を越えているものとの結論に達した。よって,2月13日,外務省より在日米国大使館に対し,本布令第1条(労使協力,水準の向上,権利の保護等)に規定する同布令の目的にかんがみ,同布令の中にかかる規定を設けることは不適当であって,第10条のこれらの規定は削除等再検討すべきであるとの見解を伝えた。(第3部資料6.(13)参照)
(う),政府はさらに引続き本布令の内容につき検討を行なった結果,本布令にも最低賃金の引き上げ,退職金制度の確立等の労働基準の引き上げ等現行布令第116号に比し改善された点がある一方,なお再検討を要する点が含まれているとの結論に達し,3月20日外務省より在日米国大使館に対し,下記の諸点に関する日本政府の見解を伝えた(第3部資料6.(14)参照)
(イ),被用者権利の制限(第1条,第3条)
(ロ),団体交渉の対象事項等(第3条,第17条)
(ハ),同盟罷業に対する措置(第9条)
(ニ),非合法活動(第10条)
(ホ),紛争調整手続(第16条,第17条)
(ヘ),最低労働基準,労働者災害補償(6部,7部)
(1) 小笠原諸島は,沖縄と同様,平和条約第3条に基づき米国の施政権下におかれており,政府は従来より米国政府に対し,同じく平和条約第3条により米国の施政権下におかれている沖縄とともにその返還を求めてきたが,1967年11月ワシントンにおける佐藤・ジョンソン会談の結果,同諸島のわが国に対する早期復帰につき原則的合意に達した。その後日米両政府間で,約4ヵ月半にわたる交渉が行なわれた結果,1968年4月5日東京において,三木外務大臣とジョンソン在京米国大使との間で,小笠原返還協定の署名が行なわれた。
この協定は,正式には「南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」と呼ばれ,前文と6ヵ条の条文から成っている。その要旨は次のとおりである。(第3部資料4.(1)参照)
(イ) 米国は,南方諸島及びその他の諸島に関し,平和条約第3条の規定に基づくすべての権利及び利益を協定発効の日から日本国のために放棄し,日本国は,これらの諸島の領域及び住民に対する行政,立法及び司法上のすべての権力を行使するための完全な権能及び責任を引き受ける。
この協定の適用上,「南方諸島及びその他の諸島」とは,孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島,西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島をいう。
(ロ) 米国が現に利用している南方諸島及びその他の諸島における設備及び用地は,硫黄島及び南鳥島にあるロラン局施設用地(長距離電波航法施設)を除き,日本国に引き渡される。
(ハ) 日本国は,米国の施政期間中にこれらの諸島において生じた対米請求権を放棄するが,この放棄には,これらの諸島の米国の施政期間中に適用された米国の法令又はこれらの諸島の現地法令により特に認められる日本国民の請求権の放棄は,含まれない。
(ニ) この協定は,日本国がこれを国内法上の手続に従い承認した旨の通報を米国政府が受領した日の後30日目に効力を生ずる。
(2) 同協定は,4月19日衆議院に,4月24日参議院に各々提出され,5月14日衆議院において,5月22日参議院において,それぞれ議決され,国会の承認を得るに至った。
よって政府は,5月27日三木外務大臣よりジョンソン駐日米国大使あて書簡をもって,同協定の規定に基づき,日本国がその国内法上の手続に従って同協定を承認した旨の通知を行なった。
かくて小笠原返還協定は,同協定の規定(前記(1))に基づき,1968年6月26日発効し,小笠原諸島は戦後23年振りに本土に復帰した。
(なお米国側は,本協定については奄美協定の場合と同様,行政府の権限の範囲内で締結できるものであり,従って署名された協定につき議会の承認等特に執るべき必要な法的手続はない。)
(3) 今回わが国に復帰した小笠原諸島のうち,硫黄島は,太平洋戦争の過程において日米間で最も激しい戦いが行なわれ,日米双方とも多数の戦没者を出した地の一つである。特に米国は戦後この硫黄島の摺鉢山頂に,この戦いで戦った米国海兵隊のための記念碑を建立しており,この記念碑を硫黄島に対する日本の施政権復帰後も存置しておきたいとの強い国民感情があった。
政府としては,この米国の国民感情を理解できるので,この米国の記念碑とともに,祖国のために米兵に劣らず勇敢に戦ったわが国の兵士のための記念碑が摺鉢山頂に建立され,これら二つの記念碑が両国永遠の平和を願い,かつ,両国勇士の勇敢と献身を記念するものとして,この地に長く残されることを念願し,その旨協定署名の際,外務大臣からジョンソン大使に書簡により表明した。
なお硫黄島において建立される日本側兵士のための記念碑については,関係諸団体が協力して,外務省,防衛庁等関係省庁後援の下に硫黄島顕彰碑建立期成会(会長岸信介元総理)を作り,目下広く民間より寄附金を募集しており,1969年秋までには米国記念碑と並べて「硫黄島戦没者顕彰碑」の名前で建立される予定である。
1965年末の日米航空交渉により日本航空のニュー・ヨーク乗入れ実現の直前,米国民間航空委員会は太平洋ケースを設置し,太平洋航空市場進出を希望する米航空企業18社よりの申請の一括審査等一連の手続を進めた。その結果1968年12月18日,民間航空委員会は,その国際線部門についてジョンソン大統領の承認(翌12月19日)を得て,既存のパンアメリカン航空,ノースウエスト航空の運航権の拡充ならびに貨物専用のフライング・タイガー航空(以上3社は日本乗入れ),トランスワールド航空,コンチネンタル航空に対し,それぞれ新しく太平洋航空路線権を認める旨の決定を公表した。
この決定に対して,手続規則の定めるところに従い,再審査決定手続(関係者よりの請願等により委員会が原決定の修正の要否を検討する手続)が進められてきたが,その請願受付締切日の1月24日に至り,新しく就任したニクソン大統領は,前大統領が承認した国際部門に関する原決定を無効とする命令を発し,自から改めて決定を下すとの措置をとった。この命令に従い,民間航空委員会は1969年2月14日前大統領承認の原決定および同決定付属の各社別免許状(2月17日より発効予定)の無効命令を発出した。これにより,太平洋ケースは,いわば白紙の状態に戻された。
なお,太平洋ケースには米本土・ハワイ間の国内線部門も同時に取扱われており,これは委員会に決定権限があって,1969年1月4日ブラニフ航空等5社に対し新免許を与える決定が公表されている。しかしながら,委員会は国際線と国内線とは本件に関する限り「調和ある全体」を構成するとの立場をとっているため,国際線部門が決定しなければ国内線免許も発効させ得ないとして,3月5日発効予定の免許状の発効日を4月14日に延期し,さらに5月11日まで再延長する命令を発している。
ニクソン大統領の再検討命令により,新決定は大統領の手中にゆだねられることとなったが,大統領がその権限の下に,いつ頃にいかなる内容の新決定を下すかは,米政府関係者,業界においても見通しがっかないといわれている。
民間航空委員会が1968年11月18日前大統領に提出した国際部門決定(案)の各社別新路線権の概要は次のとおりである。
(イ) ノースウエスト航空-現行路線にニュー・ヨークほか米本土内地点の追加および新しい日本への中部太平洋路線
(ロ) パンアメリカン航空-現行路線にニュー・ヨークの追加,および新しい北部大圏コース。
(ハ) トランスワールド航空-加州より中部太平洋経由グワム,沖縄,台湾,香港への新路線(これにより世界一周可能となる。)
(ニ) アメリカン航空-米本土4地点よりハワイ経由日本への新しい中部太平洋路線(ジョンソン大統領はこの権利は国益に反するとして不許可とした)
(ホ) フライング・タイガー航空(貨物専用会社)-米本土内10地点より大圏コース日本およびアジア諸国への新路線。ただし5年間の試験期間に限る。
(ヘ) コンチネンタル航空-米本土内5地点よりハワイ経由,(i)南太平洋路線,(ii)太平洋信託統治地域,グワム経由沖縄への新路線。
上記のとおり米国政府は,太平洋ケースを通じて米国航空企業による運航権の拡大の是非を検討してきているところ,日本政府としては前大統領の決定以前(1968年4月民間航空委員会担当審査官の勧告以後)から,その決定内容いかんによっては,日本側航空企業に対し多大の影響を与えるおそれが大きいので,数次にわたり米国政府に対して慎重に措置するよう要望してきた。
さらに前大統領決定については,若干対日関係が考慮されている点も認められるが,その決定内容は日本側企業に大きな打撃を与えるものと判断されるので,日本政府としては,日米両国航空企業の公平かつ均等な航空業務運営の原則にのっとり,わが方企業の均等な航空権益を確保すべく,直ちに協定にもとづく正式協議を要請した。
しかしながら,前記ニクソン大統領の再検討命令により,日米航空協議の基盤がいったん失なわれたため,ならびに今後の新決定の時期も予測困難なため,正式の日米航空協議は新決定後まで一応延期されるに至った。
科学協力に関する日米委員会(日米委員会と略称)は,1961年6月の池田総理・ケネディ大統領共同声明にもとづき,平和目的のため日米両国間の科学上の協力関係を,よりいっそう円滑ならしめるための方途を探求するために,また,日米医学協力委員会は,1965年1月の佐藤総理・ジョンソン米大統領共同声明にもとづき,アジアにまんえんしている疾病について効果的な活動に必要な高度の知識を得るため,その基礎となる医学研究に重点を置き,その広範な諸部面について立案,検討および日米両国政府に対し適切な勧告を行なう目的をもって,それぞれ設置され,それ以後目的達成のため,毎年,年次会議を開催し,活動を行なってきている。
日米科学委員会第8回会合は,1968年7月9日より4日間ワシントンにおいて開催され,委員会は特別小委員会の報告書をもとに,将来の科学協力事業の促進,改善および拡大のための勧告を策定し,同会議後,日米両国政府および実施機関に対し勧告した。
両国政府は,この事業の円滑化を図るため,上記勧告にもとづき,実施機関に対し,委員会が定めた全般的範囲(自然科学の8分野)内での研究提案を受理し評価する権限,およびその提案が原則・方針に合致し,かつ経費を確保しうるかぎり,その実施についての許可権限を付与する,との新らしい方式を採用し,同年11月1日より実施に移した。
なお,これまでに日米科学協力事業の下で,多数の学術的会合および共同研究が行なわれてきている。
日米医学協力委員会第4回会合は,1968年8月8日より2日間東京において開催され,過去1年間の研究の進行状況および将来の計画を検討し,また,選ばれた疾病の基礎的医学研究上必要な現地活動の重要性を認め,さらに世界保健機関との密接な協力等を行なうことを確認した。
日米医学協力計画は,発足後わずか3年余であるが,現在対象となっているコレラ,結核,らい等の研究は,着実に進められている。
日米安全保障条約に基づき日米間の安全保障上の連絡協議の一機関として設けられた安全保障協議委員会の第8回会合は,1968年5月13日外務省で開催された。日本側からは,三木外務大臣と増田防衛庁長官,米国側からは,ジョンソン駐日大使とシャープ太平洋軍司令官が出席し,また,各委員を補佐するため両国の関係者が列席した。
会議においては,ヴィエトナム,朝鮮半島を中心として極東の安全に関する日本と米国がともに大きな関心を有する国際情勢について意見を交換し,また,日本の防衛に関連する諸問題について討議が行なわれた。
さらに,同年12月23日,同委員会の第9回会合が外務省で開催された。日本側からは,愛知外務大臣と有田防衛庁長官,米国側からは,ジョンソン駐日大使とマッケイン太平洋軍司令官が出席したほか,各委員を補佐するため両国の関係者が列席した。
日本側は,安保条約や沖縄問題をめぐり,日米間に重要な問題を控えている時期にさしかかっていることを指摘し,日本政府は国民の理解と支持の上に日米関係の安定した発展を期する考えであることを説明した。米側は,日本側の説明を多とし,米国政府も,日米安保条約はそのような日本国民の理解と支持の上にのみ維持しうると考えていると述べた。
同会合においては,さらに,極東の一般情勢について意見の交換が行なわれた。米側から特に北爆停止以後の最近のヴィエトナム情勢の説明があったほか,日本の周辺地域の情勢について意見を交換した。
また,在日米軍施設・区域に関する諸問題が主たる討議の対象となった。米側は,在日施設・区域について全面的な検討を行なった結果として,約50の施設・区域に関し,返還,共同使用または移転に関する案を提示した。日本側は,米側の案を建設的なものとして歓迎し,双方の討議の結果,同年9月に行なわれた事務レベル協議におけるこの問題に関する討議に留意し,また,前記の米側の検討の結果を考慮し,地位協定に基づき設置された日米合同委員会をして個々の施設についての具体的措置をできるかぎり早く進めるよう作業せしめ,今後適当な時期にその結果を検討することとなった。また,安保条約の目的に即して必要な機能を果しうるような施設・区域を維持すると同時に,施設・区域の存在から派生する諸問題が日本国民の日常生活に与える影響を最小限にするよう配慮して行くべきことが確認された。
同時に,同会合においては,日本の防衛および日本を含む極東の平和に関連ある事項について,日米双方の外交および防衛当局者間において,随時意見および情報を交換し,所要の検討を行なわしめることが必要であることが確認され,さらに,施設・区域の機能面についての専門的検討の必要性にかんがみ,自衛隊と在日米軍との間において随時研究会同を行なわしめることが合意された。
なお,前記の施設・区域に関する米側提案に関しては,その具体的措置につき既に日米合同委員会の下で検討が行なわれている。
1964年8月,わが国は,米国政府に対し,ポラリス潜水艦を除く通常の原子力潜水艦の佐世保および横須賀への寄港を認める旨通報したが,それ以後1968年4月末日までに,米国の原子力潜水艦は,乗組員の休養ならびに兵たんの補給および維持のため,佐世保に13回,横須賀に10回,計23回の寄港を行なった。
米国の原子力潜水艦は,1954年にノーチラス号が完成して以来,米国内の港はもちろん,世界各地の多数の港に寄港しているが,その間原子炉に関する事故や放射能の被害は一度も起したことがなく,また,これは,わが国への寄港の際にも同様であった。
しかし,1968年5月2日に佐世保に入港した原子力潜水艦ソードフィッシュ号の寄港中,同港内における放射能調査の際に,数ヵ所の測定点で平常測定値の10ないし20倍の値が観測された。この値について,原子力委員会は,同年5月14日,今回の観測値は仮にそれが放射能によるものであったとした場合にも人体に実害を及ぼすものではない旨の見解を述べたが,政府は,このようなことが過去の寄港の際にはなかったことにもかんがみ,その原因の徹底的究明のため,専門家による調査を開始した。その間,米国政府は,日本側の検討に協力するため,米原子力委員会より専門家を派遣し,現地調査を行なうとともに,わが方に対する事情説明を行なった。
原子力委員会は,同年5月29日,検討の結果として次のような趣旨の見解を表明した。
すなわち,遺憾ながらわが方の調査団が原因を科学的に解明できなかったので,原因調査は打切らざるをえないが,このままでは国民の不安は解消されないので,これを除去するためには,今後,
(イ) 原子力軍艦のわが国寄港中は,原子炉の一次冷却水が艦外に放出されないこと
(ロ) 一次冷却水以外のあらゆる系統からも放射性物質が排出されないよう,従来よりいっそう厳重な管理がなされること
(ハ) 原子力軍艦の寄港中は,米国側においても環境放射能調査を行ない,必要に応じ測定結果がわが方に提示されるようにすること
(ニ) わが国の放射能調査体制の整備強化をはかり,今回のような事例に対しても原因の解明に役立つようにすること
以上の4点が確保されるよう,政府において善処すべきであると述べた。
政府は,前記の原子力委員会の見解を尊重し,4点のうち(イ)から(ハ)までの3点については,外務省が米側との話合いを進め,また,(ニ)については,科学技術庁を中心として措置を執ることとした。
同年6月3日,三木外務大臣は,ジョンソン駐日大使を招き,原子力委員会の見解を伝えるとともに,問題の3点につき措置を執るよう強く要請し,その後この問題に関し外務省と在京米大使館の間で話合いが行なわれることとなった。なお,その際,ジョンソン大使は,米国としては,日本側の放射能調査体制が整備強化されるまでは原子力潜水艦を日本に寄港させる意図がない旨を明らかにした。
三木外務大臣よりジョンソン大使に対する申入れによって開始された日米間の話合いは,同年10月22日に至り双方の合意を見たので,三木大臣は,同日ジョンソン大使と会談し,「会談覚書」を作成の上,相互にこれを確認した。右「会談覚書」の中で,米側は,わが方の要請に対し,概略次のような見解を明らかにしている。
原子力委員会の見解の中の(イ)および(ロ)については,「外国の港における合衆国原子力軍艦の運航に関する合衆国政府の声明」においてなされている約束が今後の寄港の際にも厳格に履行されること,さらに,寄港中における一次冷却水の放出は例外の場合であり,したがって,今後日本の港においては通常一次冷却水が放出されることはなく,これが現在の実施方式に即したものであること,また,日本の港においては,放射性廃棄物の取扱いについて従来に引き続き今後とも厳重な管理が行なわれる旨述べ,さらに,(ハ)に関しては,米側としては,引き続き海水および海底土の試料の定期的分析を行ない,その結果を日本当局に提供し,また,艦上の放射線管理および軍艦の直接の近傍における環境放射能のモニタリングについては,米側が引き続き責任を負う旨明らかにした。
なお,「会談覚書」後は,同年12月18日にプランジャー号が佐世保に寄港し,以後1969年3月末日までに佐世保および横須賀に計4回原子力潜水艦の寄港が行なわれている。
わが国の対米貿易は1968年には輸出入合計で,76億ドル(通関統計)に達した。
対米輸出は,前年の30億1,200万ドルから,35.7%伸びて,40億8,645万ドルに増加した。金額的に最大の商品は,鉄鋼で,8億0,210万ドル(50.8%増)に達した。伸び率の最も大きい商品は,自動車で,2.5倍も増加して,2億2,179万ドルに達した。その他,ラジオ,2億3,426万ドル(44.4%増),テレビ1億9,909万ドル(67.3%増),テープレコーダー,1億5,956万ドル(41.9%増)が対米輸出の花形であった。
対米輸入は,前年の32億1,208万ドルから,9.8%伸びて,35億2,738万ドルに増加した。顕著な増加のあった商品は,木材,石炭,とうもろこし,航空機等である。すなわち,木材は,4億0,600万ドル(42.4%増),石炭は,2億6,780万ドル(42.1%増),とうもろこしは,1億4,458万ドル(38%増),航空機は,8,328万ドル(55.5%増)が米国からそれぞれ輸入されている。
1968年の米国連邦議会(第90議会第2会期)においても多数の輸入制限法案が提出された。ことに4月には上院において消費税延長法案の修正条項として繊維輸入制限法案が可決され,その後両院協議会で検討の結果,ようやくこれが削除される等議会における保護主義的動きはきわめて活発であったが,わが国をはじめとする各国の働きかけや米国行政府の努力等もあって,これらの輸入制限法案は,結局一件も成立しなかった。
なお,米国政府は5月末に関税引下げ権限の授与,輸入品と同種の米国産品の米国内での販売価格(ASP)による関税評価方式の廃止,産業調整援助要件の緩和等を内容とする1968年通商拡大法案を議会に提出したが,議会で殆んど審議は行われず,法案は結局未成立に終った。
1969年(第91議会第1会期)の議会においても,すでに鉄鋼,繊維品,食肉,酪農品等各種の産品についての輸入割当法案が多数議会に提出されており,その動向が注目されている。
ケネディ・ラウンド交渉の結果,ダンピング防止国際コードが成立し1968年7月1日から発効した。これに伴い米国はダンピング防止法の実施のための規則を修正したが,これにより調査開始の要件および暫定措置(評価差止め等)の発動要件の強化等について改善が行なわれた。なお,米議会上院は,行政府が議会の同意を得ずに前記コードを受諾したことは越権行為であるとして,1968年9月に事実上コードの適用を停止することを内容とする法案を修正条項の形で通過せしめたが,結局,両院協議会において,国内法に矛盾しない限度でコードを適用することおよび財務省の調査決定についての大統領から議会への報告義務の設定等を内容とする妥協案が成立した。
このような経緯にかんがみ,今後の米国のダンピング防止法規の運用ぶりが注目される。
なお,1968年4月から1969年3月までの期間にわが国の対米輸出商品について,ダンピング提訴が行われた件数は総計10件に達し,それ以前のものと合せて現在11件が調査中となっている。
連邦政府による米国内物資調達については,1933年の連邦バイ・アメリカン法により,外国品との間に一定以上の価格差がない限り,原則として米国品を購入すべきこととなっている。
1968年には,州レベルにおけるバイ・アメリカン立法化運動が活潑化し,マサチューセッツ,ペンシルバニア,ワシントン,メリーランドの各州においてバイ・アメリカン法案が議会に提出された。以上のうち,ペンシルバニア州のバイ・アメリカン法は1968年8月に成立したが,これらの法案は,いずれも,米国品に対して何らかの形で「差別」を行なっている国の産品を公共事業に使用することを禁止するとの形をとっている。
1968年秋,米国政府よりわが国の残存輸入制限について日米間で協議を行ないたいとの提案があり,これに応じて,同年11月にジュネーヴで予備的話し合いが行なわれ,次いで12月27,28の両日東京において日米間の協議が行なわれた。
この協議において,米側は日本がガット上非合法な輸入制限を維持していることは米国内の保護主義にかっこうの口実を与えることとなる旨を強調するとともに,わが国の輸入制限品目中,米国が特に関心を持っている品目について早期自由化を要請した。
これに対し,わが方は,輸入自由化にあたっては国内的に種々問題があるほか,欧州諸国が依然としてわが国の輸出に対し差別的な輸入制限を実施している等の事情があるが,わが国としては12月17日の閣議決定にのっとり,両三年中にかなりの分野において自由化を実施する考えであり,米側の関心品目についても,そのわく内で自由化を検討している旨を述べ,自由化の対象となる具体的品目や自由化の時期について若干の討議が行なわれた。その後,本件については外交チャネルを通じ引続き話し合いが行なわれている。
米国における鉄鋼輸入制限の動向にかんがみ,1968年7月,わが国の大手鉄鋼メーカーの9社は,1968年度(1968年4月から1969年3月まで)中のこれら9社の対米鉄鋼輸出を550万メトリック・トンに制限する旨,およびその後の年度においても前年度輸出数量の7%増の限度内に輸出を制限する旨を発表した。
しかしながら,1968年における米国の鉄鋼輸入は,米国の鉄鋼ストライキに備えての備蓄買い等のため著るしく急増し,このため米国内において鉄鋼輸入の制限を求める動きが一段と激しくなった。このような事態を考慮して,わが国の鉄鋼業界は上記の対米輸出自主規制をさらに強化することを検討した結果,一定の条件を付した上で,1969年のわが国からの対米鉄鋼輸出総量を574万ショート・トン(約520万メトリック・トン)に制限し,また1970年および1971年にはそれぞれ前年の5%増に止めることとし,この旨1968年末稲山鉄鋼輸出組合理事長よりラスク国務長官あて書簡をもって通報した。また,同じころに欧州の鉄鋼業界も対米鉄鋼輸出について自主規制措置をとることを米国に通報した。
上記の通報は,米国国務省から米国議会にも通報されたところ,1969年1月ロング上院財政委員長およびミルズ下院歳入委員長は今回の日本および欧州鉄鋼業界の措置を歓迎する旨の声明を発表した。
1968年5月から8月にかけて自動車部品の輸入自由化およびこれに関連する諸問題について,日米両国政府間に交渉が行なわれた結果,8月20日,わが方は在米日本大使館を通じて米国政府に対し次の趣旨を通報した。
(1) エンジン等自動車部品の輸入自由化について
(イ) 予測せざる事態が生ぜざる限り1972年初頭までにエンジンおよび部品の輸入を完全に自由化するつもりである。
(ロ) 1969年以降毎年エンジンおよび部品の輸入わくを逐年相当程度増加する。
(ハ) 1968年秋以降,エンジン付シャシおよび中古乗用自動車の年間輸入枠を相当程度増加する。
(2) 投資申請について
これら自動車部品の組立てに関する投資申請の受理は好意的に行なう。申請は,ケース・バイ・ケースで審査される。
(3) 関税について
大型車の関税率を1968年4月以降,17.5%まで引下げる。
なお,米国自動車工業会は1969年2月に米国国務省に対し上記の日米政府間交渉の結果について同工業界が不満とする諸点を列記した書簡を提出した。この書簡の要点は,(イ)エンジン等の輸入わくの増大は,これを利用する組立工場の進出が商業的に採算が合わないので魅力に乏しい。(ロ)日本の自動車に対する関税はケネディ・ラウンドの最終税率まで引下げられた後も他の自動車生産国に比較して割高である。(ハ)特に資本自由化が認められていないことは極めて不満である等である。
この書簡の写しは3月4日在京大使館より外務省に転達された。
わが国の米国太平洋岸北西部からの原木輸入量は,年々大幅に増加していたが,同地域の中小製材業者は日本のかかる買付けが原木価格の高騰を招いているとして1967年ごろより原木の輸出制限を求める声が次第に強くなっていた。
わが方はこの問題を建設的な方向で解決を計るべく,1967年12月,1968年2月の再度にわたり米側と協議を重ねてきたが,具体的合意に達するに至らなかった。1968年4月,米国行政府は太平洋岸北西部諸州の連邦林よりの原木輸出を3億5000万ボードフィート(1966年の実績量)に制限する措置を決めたので,わが方はこれを不満として米側と交渉していたところ,同年10月には,上記の輸出規制を一段と強化した連邦林原木の輸出制限法が成立した。この輸出規制法は1969年1月1日から実施されている。なおジョンソン大統領は法案の署名にあたり,この法律が日米貿易関係に与える被害をもっとも少なくするような方式により運用されるようにとの日本側の要望に充分な考慮を払う旨の声明を発表し,これに基づき1968年末わが方は,係官を米国に派遣し,実施細目に関する交渉を行なった。
他方米国内では木材価格高騰が続いており,このため1969年に入ってから原木輸出規制をさらに強化することを求める声があがっている。
米国における毛製品および化合繊製品を含む全繊維品の輸入制限の動きは1968年においても活発であり,4月には繊維輸入制限法案がいったん上院を通過し,後にこれが削除された経緯がある(8.(1)参照)。さらに同年後半の大統領選挙戦の過程において,ニクソン,ハンフリー両大統領候補とも繊維の輸入制限に同情的な意向を表明した。
1969年に入ってから,1月には,ミルズ下院歳入委員長は,繊維品輸入割当法案は問題の解決の最良の方法とは考えず,むしろ,輸出自主規制について主要輸出国の同意を得るため交渉すべき旨を述べ,次いで,2月にはニクソン大統領自ら記者会見において,米国の利益は自由貿易に進むことによって守られると信ずるが,国内繊維産業の一部分野では特別な問題があるので,繊維の輸出自主規制について主要国と協議することになろうと述べた。わが国は,このような米国の繊維輸出自主規制を求める動きに対して,機会あるごとに強く反対の意向を米国政府に申し入れてきている。
1968年におけるわが国の対加貿易は,通関ベースで輸出が前年比27.7%増の3億5,000万ドルであったのに対し,輸入は前年比4.2%増の6億6,000万ドルであった。このため対加貿易収支は3億1,000万ドルの入超となり,入超幅は前年比4,000万ドル縮小した。
商品別にみると,輸出では金額的にもっとも大きい単一商品は鉄鋼であるが,前年比12.3%減となった。次に大きいのは自動車で,これは前年実績の4倍の伸びを示した。その他ラジオ(45%増),テレビ(52.4%増),テープレコーダー(113.5%増)などが主要輸出商品である。
また輸入は,鉄鉱石,銅鉱石等の金属原料(11.9%増),小麦,大麦等の食料品(15.9%減)が主なところであるが,単一商品としては,小麦(16.7%減),木材(21.2%増)などが大きい。
わが国は,カナダの輸入制限措置の発動の可能性を念頭において秩序ある対加輸出を図るため,ある種の品目の輸出について自主規制を行なってきている。
1968年の貿易交渉は,同年11月に妥結した。1968年現在わが国の対加自主規制品目は繊維品,金属洋食器,真空管の3品目であるが,これらの自主規制品目の輸出額は対カナダ輸出額の約10分の1を占めている。
なおカナダの任意評価権制度(注,外国の産品がカナダの産業に損害を与えるような状況で輸入された場合,その輸入品の課税価額を任意の価額に評価する制度)は1969年1月1日から廃止されたが,これに代って付加税制度(注,外国の産品がカナダの産業に損害を与えるような状況で輸入された場合は通常の関税に加えて損害を防止する限度の付加税を課税する制度)が新たに設けられた。