第2部

各   説

第1章 わが国と各国との諸問題

アジア地域

概   観

1. わが国とアジア諸国

アジアの平和と安定が同じくアジアに国をなすわが国の国益にとり欠くべからざるものであることはいうまでもない。経済的に見てもアジアはわが国の輸出市場として重要であるのみならず,わが国経済に必要な原料資源の供給先としても枢要な地域である。かかるアジアの重要性にかんがみ,わが国としては,この地域の諸国の政治的安定および経済的繁栄の確保に貢献することにより,これら諸国との友好関係を維持強化することを極めて重視している。この見地より,わが国はアジアの情勢にはとくに重大な関心を寄せるものである。

中国大陸においては,いわゆる文化大革命が収束の段階に入ったとはいわれているものの,事態は未だ流動的であり,朝鮮半島では依然緊張含みの情勢が続いている。また,ヴィエトナム紛争はなお終熄を見るに至っておらず,これがアジアの大きな緊張要因として一部諸国間の対立を助長する要因となっていることは否定できない。しかしながらかくのごとくアジア諸国をとりまくきびしい環境のなかにあって,アジア諸国は自主の気概と地域的連帯の気運をとみに高めつつあるのが認められる。この自主性への指向は1971年末までに予定される極東英軍のマレイシアおよびシンガポールからの撤退に備え,工業化を中心とする国内経済開発の促進に努めつつあるマレイシア,シンガポールにも如実に見ることができよう。また,アジアにおける地域的連帯の気運はASEAN(東南アジア諸国連合)を中心とする地域協力の進展にはっきり示されているといえよう。

これまでわが国は,アジア諸国に対して特に重点的に援助を供与してきた。例えば1967年のわが国の政府ベース援助の87.9%がアジアへ向けられた。わが国は,1966年東南アジア開発閣僚会議の発足を提唱し,地域協力の促進にも配慮しつつ,東南アジアの経済開発という共通の目標の実現のため具体的な努力を行なってきた。1966年12月発足したアジア開発銀行に対しては2億ドルの資本応募を行ない,アメリカと並ぶ出資国となっている。

アジアにおける唯一の先進国たるわが国に対するアジア諸国の期待は大きい。わが国はアジア諸国の自助努力に基づく国造りに対する援助こそ,アジアにおける平和と安定を確保し,その繁栄を達成する最善の道であるとの認識に立ってアジアに対する援助を行なってきている。かかる援助を今後とも積極的に続けていくことは,わが国の国際社会における責任の一端をになうことにも通ずるのである。

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2. アジア諸国との貿易経済関係

アジア地域は,共産圏を除いても,わが国にとって総輸出のほぼ3割を占める大きな輸出市場である。1968年(1月~12月)の対アジア貿易実績(共産圏を除く)は,通関ベースで輸出36億1,300万ドル,輸入19億8,500万ドルであった。

輸出は,前年に比べ23.3%の増加で,わが国総輸出に占める割合は27.8%と前年よりも1%だけ増大した。国別にみると,前年4億ドルを超えてわが国にとり,米国に次ぐ第2位の輸出市場となった韓国への輸出が1968年には6億ドルを超えたほか,中華民国(4億7,200万ドルで第3位),香港(4億6,800万ドルで第4位),フィリピン(4億1,100万ドルで第7位),タイ(3億6,600万ドルで第8位)など,わが国にとってきわめて重要な輸出市場がアジア地域に含まれている。

他方,1968年におけるアジア地域からの輸入は,同年のわが国総輸入の対前年比伸び率が11.4%にとどまったのと平行して,10.6%しか伸びず,アジアからの輸入がわが国の総輸入に占める比重はほぼ前年なみの15.3%にとどまった。国別にみても,フィリピン(3億9,800万ドルで第7位)およびマレイシア(3億4,300万ドルで第9位)などが目立つ程度である。

以上のように,1968年には,わが国の対外貿易におけるアジアの輸出市場および輸入市場としての相対的地位に大きな変化はなかったが,アジア地域に対する大幅出超の傾向はますます顕著となり,貿易アンバランスは前年および前前年の1対1.6から1対1.8に拡大した。アジア諸国の中にはマレイシア,インド,インドネシアのようにわが国の方が入超になっている国もあるが,ほとんどの国に対しては恒常的に出超となっている。1968年においては,韓国(出超額5億100万ドル,バランス1対5.9)を筆頭に香港(4億1,300万ドル,1対8.6),タイ(2億1,800万ドル,1対2.5),シンガポール(1億4,700万ドル,1対3.4)などがあり,その他ビルマ,カンボディア,セイロン,パキスタンについても貿易不均衡が拡大している。

以上のようなアンバランスは,主としてわが国の対アジア輸出が発展途上国の必要とする工業製品であるのに対し,アジア諸国の産品は原材料,食料,飼料等が大部分であり,これらは,品質,価格の面で必ずしも十分な競争力をもたなかったり,わが国の国内産業保護の立場から無制限に輸入しえない場合も多いことなどに起因している。従って,貿易不均衡の問題は,わが国とアジア諸国との経済発展段階が著しく異なる現状のもとではある程度やむを得ない現象であるともいえよう。しかし,アジアの各国においてアンバランス是正を求める声が次第に高まりつつある現在,わが国としては,アジア諸国に対する友好関係の維持促進の見地からも単に通商上の考慮を越えた,幅の広い観点に立ってこの問題に対処して行く必要がある。

かかる観点から,わが国の産業政策についても,工業面における重化学工業化とか農業部門の構造改革の方向や農業保護のあり方に関して更に合理的な考え方をすすめ,これを特恵等の具体的政策樹立に反映して行く必要もあると考えられ,また,資源に乏しいわが国として,原燃料資源の確保という面からも,アジアの資源開発に寄与しつつ,その成果を輸入する開発輸入方式を今後とも積極化して,アジア諸国からの輸入促進を図る方向に進むべきであろう。

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アジアの地域協力機構とわが国

わが国は,アジア地域の安定と繁栄のために,以下に述べる各種の地域協力を進めている。なお,このほか国際連合のアジア極東経済委員会(ECAFE)を通ずる地域協力については第4章155頁以下を参照願いたい。

1. アジア・太平洋協議会(ASPAC)

(1) 第3回閣僚会議

ASPAC第3回閣僚会議は,1968年7月30日から3日間キャンベラで開催され,参加9ヵ国(豪州,中華民国,日本,韓国,マレイシア,ニュー・ジーランド,フィリピン,タイ,ヴィエトナム)から外相またはこれに代わる閣僚が出席,ラオスからはオブザーバー(在豪大使)が参加した。

会議は,地域内外の諸問題について討議を行ない,"ASPACはいかなる国家に対しても敵対する組織として意図されたものではなく,その活動は域内諸国間における協議の促進と協力の強化に向けられる"ことなどのASPACの諸原則の確認を含む共同コミュニケを発出した(第3部資料3の(3)参照)。

また,この会議で第4回閣僚会議を1969年夏にわが国で開催することに決定し,それまでの間東京に常任委員会を設け,わが国が事実上の事務局を担当することとなった。

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(2) 東京における常任委員会

ASPAC常任委員会は,次回閣僚会議主催国外相を議長とし,各参加国大使をメンバーとして構成される。東京における常任委員会は1968年9月10日に第1回の会合を開催したあと,11月12日,1969年1月14日,2月19日の計4回にわたって開催され,地域内外の諸問題に関する意見交換,各種国際会議におけるASPAC諸国代表間の非公式協議の手配,ASPACのプロジェクトについての協議などを行なった。

また,プロジェクト審議のため常任委員会の下に小委員会が設置された。

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(3) ASPACのプロジェクト

1967年7月の第2回閣僚会議において,ASPACに文化社会センターと専門家登録機関を設けることが決定された。

文化社会センターはASPAC諸国間の文化交流など,文化・社会面における相互協力を目的とするもので,1968年8月1日キャンベラで設置協定の署名が行なわれ,同年10月23日ソウルに設置された。

専門家登録機関はキャンベラに設けられることとなり,同年7月31日に正式発足をみた。同機関は,ASPAC諸国間における技術協力を促進するため,専門家の派遣について情報の提供,あっせんなどを行なうものである。

すでに実現したこれら2プロジェクトのほか,ASPACでは,目下食糧肥料技術センター(中国提案),経済調整センター(タイ提案)の設置について検討を行なっている。

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2. 東南アジア開発閣僚会議

(1) 第3回東南アジア開発閣僚会議

第3回東南アジア開発閣僚会議は,1968年4月9日から11日までシンガポールにおいて開催された。今回の会議にも,先回同様わが国のほか,東南アジアの7ヵ国の閣僚が参加し,カンボディアがオブザーバーを派遣した。アジア開発銀行,FAO(国連食糧農業機関)からもオブザーバーが出席したほか,今回は,主催国シンガポールの招待で,オーストラリア,セイロン,インド,ニュー・ジーランドおよびパキスタンのオブザーバーが会議の一部を傍聴した。

会議において,三木外務大臣は,アジアの情勢が流動的な現在,安定と繁栄の基礎づくりはあくまで堅実な経済発展にあることを確信し,着実な自助と協力の努力を続けることが必要であること,東南アジアの地域協力の母体としての閣僚会議の重要性が一段と強まってきていること,ヴィエトナム戦争の平和的解決が促進されて和平が実現し,破壊から建設へ,対抗から協力への局面が生まれ,われわれの資源とエネルギーと英知のすべてを経済開発に向けられるようになることを切望すること,などを強調した。

他の参加国の代表は,それぞれ,先進国からのいっそうの経済協力,国際機関からのいっそうの援助が必要であることを述べたが,同時に,これらの援助を効率的に使用し,自らの資源を活用する積極的な手段をとらねばならないことを述べたことが注目される。その上で,会議の開会挨拶を行なったクーマラスワミ・シンガポール大統領代理が,いかなる国も自国のみで経済問題の解決を見いだすことはできず,地域協力が将来の趨勢である旨を述べたのをはじめ,各国代表が地域協力の意義を強調した。

さらに,東南アジア漁業開発センター,アジア開発銀行農業特別基金,東南アジア運輸通信会議など,これまでの会議の成果について報告が行なわれ,また,今後の地域協力促進の方策についても活発な意見交換が行なわれた。

今後の問題として,閣僚会議の会合と会合の間においても引き続き協議が行なわれるべきことが合意され,そのため,1969年に開催されることとなった第4回閣僚会議のため,バンコックで合同作業委員会を開くこととなった。

合同作業委員会では,今回の会議での討議を考慮に入れて,次回会議のために必要な準備を行なうとともに,地域協力の有効な促進に関する基礎的な問題についての調査・研究グループの設置を検討することとなった。

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(2) 第4回閣僚会議のための合同作業委員会

バンコックにおいては,1968年9月11日を第1回として,ポット・タイ開発大臣を議長に,各国の在タイ大使による合同作業委員会が開催され,第4回閣僚会議の準備のための打合わせを行なった。

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(3) 東南アジア開発のための援助計画

東南アジア開発閣僚会議を通じて,この地域の諸国の間の,経済開発のための協力関係はいっそう緊密化してきたが,具体的には,次のような事項をあげることができる。

(あ) 東南アジア漁業開発センター

東南アジア漁業開発センターの詳細は,「わが外交の近況」第12号312ページを参照ありたいが,その後,69年3月には,シンガポールで第2回理事会が開催されるなど,その本格的活動の準備が進められている。

(い) アジア開発銀行農業特別基金

詳細は,アジア開発銀行の項を参照ありたいが,わが国は,1968年末,他の国にさきがけて,2,000万ドルを,この特別基金に拠出した。

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3. アジア開発銀行

アジア開発銀行は,1966年12月,アジアと極東の地域の経済成長および経済協力を助長し,地域の開発途上国の経済開発を促進することを目的として設立された。その業務は1968年に入って軌道に乗り,1969年3月中旬までに7ヵ国に対し10件5,600万ドルの融資承諾を行なったほか,贈与による技術援助10件115万ドルを実施している。

また,アジア開銀は1968年9月にかねて検討中であった特別基金を設置し,他方1968年末には日本およびカナダの同基金に対する拠出も行われたため1969年中にはより緩和された条件による融資が実現するものと予想されている。

このような融資活動の本格化に加えて,アジア開銀は地域の経済開発に重要な問題について大規模な調査を行なっており,1968年に完成したアジア農業調査は,域内16ヵ国の農業の現状と問題点を鋭く指摘したものとして高く評価されている。銀行はさらに1968年末から,クアラ・ランプール運輸通信会議の要請にこたえて,東南アジア8ヵ国の地域運輸調査に着手しているが,地域の経済成長との関連で運輸問題を総合的に分析するものとしてその成果が期待されている。

わが国は域内の先進国として,従来からアジア開銀に対し積極的な協力を行なっており,その資本金11億ドルのうち2億ドルを応募して米国と並ぶ最大の出資国となっている。また,特別基金に対しては1968年12月他国に先がけて72億円(2,000万ドル)の拠出を行なったが,この資金は主として東南アジアにおける農業開発のために使用されることとなっている。わが国は,さきに特別基金に対し,日米以外の国がわが国の拠出に見合う拠出を行なうことを前提として,主として農業開発のため上記2,000万ドルを含む1億ドルを目途として拠出する用意のあることを明らかにしており,1969年度においても,前年にひきつづき2,000万ドルを拠出するための予算措置を講じている。この特別基金に対しては,わが国のほかカナダが5年にわたり2,500万ドルの拠出を行なうことを決め,すでに初年度分500万ドルを払込済であるが,さきに拠出の意向を表明している米国(2億ドル),デンマーク(200万ドル),オランダ(110万ドル)の拠出が議会審議未了等のため遅れており,その早期実現が強く望まれている。

わが国は,このほか,銀行の行なう技術援助のために1968年に10万ドルを拠出しており,1969年にはこの目的のためさらに20万ドルの拠出を行なうことを考慮している。

わが国は,前記地域運輸調査を含む各種の調査や技術援助のために多く専門家を派遣しており,この拠出金はそのための重要な財源として使用されている。

ヴィエトナム和平が実現すればアジア開銀に対する資金需要はさらに増大するものと予想されるが,わが国としてもアジアにおける唯一の国際金融機関であるアジア開銀に対し,今後とも積極的な協力の姿勢を維持することが必要であろう。

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4. アジア生産性機構(APO)

アジア生産性機構は,1961年5月,アジア諸国における生産性の向上を目的として設立された国際機関であり,わが国をはじめアジア地域12ヵ国および香港が加盟している。

この機構は,セミナー,訓練コースなどを開催するほか,視察団,専門家を派遣し,中小企業の経営改善,生産技術の向上などにつき,加盟国への協力,助言にあたっている。

わが国としては,1968年に10万4,000ドルの分担金,12万ドルの特別拠出金を拠出し,また,わが国で実施される機構の事業費の一部として約25万ドルを支出した。また,訓練コースなどの実施については,わが国企業が大きな貢献をしている。

機構の事務局は,東京におかれている。

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各国との関係

1. 中国との関係

(1) 一般的関係

わが国の対中国政策は,一方において中華民国との間に平和条約を締結し,これと外交関係を維持しているという事実と,他方において,約7億の人口を有する中国大陸との間においても,貿易,文化,人の交流をはじめ,各種の実務関係をもたざるを得ないという現実を前提としている。そして中華民国政府,中共政府の双方がいずれも中国全体の主権者であるとの立場を主張している現状のもとでは,わが国としては中華民国との間に外交関係を維持しつつ,中国大陸との間に政経分離の原則の下に,貿易をはじめとする民間レヴェルにおける接触を維持していくことが極東の緊張緩和に寄与するゆえんであり,かつ最もわが国の利益を維持しうる政策であると考えられる。政府は,今後長期的には中共の内外動向および国際情勢の推移を十分見きわめつつ,慎重に中国問題に対処してゆかねばならないと考えているが,当面は政経分離政策を続けていく方針である。なお,中国をめぐる問題は,アジアのみならず,世界の将来にとっても重要な問題であるので,国連を中心として十分に審議され,中国自身はもちろん,関係諸国の十分な了解の下に公正な解決がはかられるべきものと考えている。

また,カナダ,イタリア等の中共承認の動きについては,政府はこれを重視し,在外公館における情報収集活動を強化しつつ,中国をめぐる今後の事態の発展に備えて,あらゆる可能性を弾力的に検討している。しかし現在の時点において中国をめぐる国際情勢が基本的に変化したとは判断されず,現下のアジア情勢の下では,従来どおり中華民国と外交関係を維持しつつ,中共とは政経分離の方針に基づいて関係の改善を図っていくことが,わが国の国益に最も合致し,かつアジアの緊張緩和と安定に資する方針であると考えている。

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(2) 中華民国との関係

(イ) 1968年度の日華関係は,前年度に引続き,友好的な関係に終始した。1968年のわが国の対華貿易の総額は6億2,275万ドル,うち輸出4億7,199万ドル,輸入1億5,075万ドルで,それぞれ前年度比35.2%,9.9%増と大巾に増加した。

(ロ) 第2回目華経済貿易会議は,1968年7月23日から4日間にわたり東京において開催され,同会議では,両国間の貿易不均衡問題,りんご輸出の拡大,ポンカンの輸入解禁問題等について率直かつ実質的な話合いが行なわれた。

(ハ) 政府ベースの資金協力については1965年4月日本政府は1億5,000万ドル相当の円借款を供与する旨約束し,1969年2月末現在,上記金額のうち約6,400万ドルが支払われている。また第4次(最終)実施取決めは1969年3月18日に合意に達した。民間ベースの資金協力については製造業に関する民間投資が1968年12月末現在201件約3,100万ドル,延払いが1961年から1967年末まで約1億1,400万ドルとなっている。

(ニ) 中華民国に対する技術協力の面においても研修員の受入れ,専門家の派遣,センター設置のための予備調査,開発調査等を行なった。

なお,陳之邁(チエンツマイ)前駐日大使は1969年2月14日,ヴァチカン駐在大使に栄転し,後任の彭孟緝(ボンモンチイ)大使が3月7日着任した。

(ホ) 日華租税条約締結交渉

(a) わが国は1967年5月口上書をもって租税条約交渉を開始したい旨,中華民国側に申し入れたところ,中華民国政府は同年6月原則的にこの申入れに同意する旨および日本国政府より右条約の草案を提出されたき旨の回答を寄せて来た。わが方は日本側草案(租税条約および海運航空所得相互免除に関する交換公文案)を作成し,同年9月中華民国政府に送達した。

(b) 中華民国側は1968年11月,国際運輸所得の相互免税に関する行政協定の締結については,とくにできるかぎり早い機会に外交チャネルを通じ交渉を開始したい旨申し出ているので,本租税条約の締結に関する交渉は,1969年度中に開始されるものと予想される。

(ヘ) 日華航空暫定取決めの改訂交渉

1969年3月11日から22日まで台北において日華航空暫定取決め(1955年)の改訂に関する協議が行なわれ合意に達したが,本改訂は,第一次(1960年)第二次(1964年)の改訂に次ぐものであり,1969年3月末現在,日華両政府において右合意に関する交換公文の準備をすすめている。

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(3) 中共との関係

(イ) わが国の1968年の対中共貿易は,総額5億5,000万ドルで前年比1.3%減であったが,そのうち輸出は3億2,600万ドルで前年比13.2%増となり,日中貿易はじまって以来最大に達した。輸入は2億2,400万ドルで前年比16.7%減にとどまったが,これはいわゆる文化革命による供給上の問題に加えて,中共が輸出できる品目が限られているために頭うちとなったものと見られる。

なお日中覚書貿易取決めは,1962年以来のLT貿易を1年延長する方式で1968年3月に調印されたものである。現実には,中共貿易は,覚書貿易と「友好」商社を通ずる貿易の2本建てとなっている。

(ロ) 日中間の人事交流は前年に引き続き減少している。また中共に滞在中の邦人が相次いで逮捕される事件が起り,1967年7月以降1968年末までに,中共地区において13名の邦人が逮捕,拘留または行方不明となっていることが確認されている(職業別内訳は,いわゆる友好商社関係者11名,通訳1名,新聞記者1名)。政府としては,在外邦人保護の見地から,外交関係がなくてもあらゆる手段をつくして本件を解決するため,これら邦人の消息調査および早期釈放に関し,(i)日赤を通じ,再三にわたって中共紅十字会に対し,(ii)中共と外交関係を有する第三国政府を通じて中共政府に対し,(iii)赤十字国際委員会を通じて中共に対し,(iv)わが国と中共とが併設している在外大使館において,それぞれ申し入れをおこなってきたが,現在のところ具体的成果が得られていない。

(ハ) 日中民間漁業協定は,1968年末に引き続き再びl年間暫定延長されることとなった。また,1968年3月,1年間の期限付きで取決められた「日中覚書貿易」は,1969年2月末から北京において日中両国関係者の間で交渉が行なわれたが,貿易交渉に先立って討議された政治原則の問題を中心に難航した挙句,ようやく4月4日に至り,1年の期限で調印された。しかし,その内容は1968年の規模を下回る往復7,000万ドル前後となった。

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2. モンゴルとの関係

1968年2月,日本・モンゴル親善協会設立総会に出席のため,モンゴル平和友好団体連合会執行委員会議長アディルビシ(元モンゴル外務大臣)等一行4名が来日した。この機会に,小川前アジア局長は,2月23日,一行を昼食に招き,両国関係等につき非公式に意見を交換した。

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3. 韓国との関係

(1) 概   説

わが国は,韓国が,朝鮮半島においてわが国が承認し国交関係を有している唯一の国家であり,また,朝鮮半島の現状からみて,韓国の経済建設を支援することがこの地域の平和と安定に寄与するとの基本的立場に基づいて対韓外交を進めている。

1965年12月にわが国と韓国との間の国交が正常化して以来すでに3年余を経過したが,この間,両国関係は貿易,経済交流,人的交流その他の各分野で着実に緊密化の道を歩んできた。

もとより,それぞれの国内体制の相異に起因する若干の問題が両国の協力を推進する上で生ずることはあるが,両国の協力が相互の立場の尊重の上に行なわれるかぎり,このために両国の基本的協力関係が阻害されることはない。

過去1年の両国の関係をふりかえると,韓国は,経済建設上の最大問題である国際収支問題の解決のため対日貿易不均衡を重視し,その是正策として,一次産品の自由化,保税加工関税問題等に対してわが国の協力を強く要請し,また,第2次5ヵ年計画達成のための有償,無償の経済協力をはじめ,商業上の信用供与,合弁投資についてその促進を希望した。さらに,在日朝鮮人問題については,北鮮帰還問題,在日朝鮮人の北朝鮮向け再入国問題,在日韓国人の法的地位,教育等の処遇問題等について,わが国に対して種々の要望を行なった。

これらの要望については,両国は,定期閣僚会議,貿易会議その他の関係当局者間の諸会議を通じ,十分な協議を行ないできうる限りの協力を行なってきた。

さらに,国際連合等国際語会議の場においても,わが国は,韓国に対して全面的な支持を行なった。

他方,わが国としても,韓国におけるわが国の企業および個人に対する課税問題,工業所有権保護問題等,対韓経済協力を進めて行く上で障害となる諸問題を解決するための努力を行ない,逐次成果をあげつつある。

第2回日韓定期閣僚会議は,1968年8月27日より29日までの3日間,ソウ

ルにおいて開催された。

会議において日韓両国間の政治経済全般にわたる諸問題につき率直な意見の交換が行なわれ相互理解を深め得たことは,両国の協力関係をいっそう発展させるために極めて有意義であった。

韓国政府は,さらに,1969年1月20日より24日まで,大統領使節として張基栄(チヤンギヨン)前副総理をわが国に派遣した。張使節は,朴大統領の親書を佐藤総理大臣に伝達するとともに,貿易不均衡問題,在日朝鮮人の北朝鮮向け再入国問題等の諸懸案について関係閣僚と話合いを行なった。

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(2) 経済関係

1968年のわが国の対韓輸出額は6億0,300万ドルで,韓国はわが国にとりアメリカに次ぎ世界第2位の輸出市場となっているが,他方,同国からの輸入は1億0,200万ドルで輸出入の不均衡は1対5.9に拡大している。このような日韓貿易の不均衡を是正するため韓国側は,わが国に対し一次産品の自由化ないし輸入枠の拡大などを要求しているが,韓国の急速な工業化による工業原材料の輸入需要が今後も増大する傾向が強いことと,対日輸出商品の国際競争力の問題および輸出商品にはわが国産品と競合性の強いものが多いことなどからみて,日韓貿易不均衡を早急に改善することは困難であり,日韓両国の協力を前提とした長期にわたる努力を要するものと思われる。

(イ) 第5次日韓貿易会議

第5次貿易会議は,1968年5月7日から10日まで東京において開催された。

会議においては,両国間貿易の不均衡問題,韓国の輸出増進のための保税加工貿易の振興,租税協定締結問題,在韓日本商社に対する課税問題,工業所有権相互保護問題などが討議され,両国間貿易について両国政府間の相互理解を深めるよう努力することに意見の一致をみた。

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(ロ) 第3回日韓海運会談

第3回海運会談は,1968年11月13日および14日ソウルにおいて開催され,日韓海運協定締結の問題,両国民間海運の協調問題などについて意見が交換され,海運協定案検討のために作業委員会が設けられた。

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(ハ) 租税問題

わが国政府は,対韓国経済協力のためには韓国におけるわが国企業等に対する課税問題を解決することが重要であるとの観点から,在韓本邦商社に対する法人税および営業税の課税問題について韓国政府と話し合いを行なうとともに,両国間に二重課税防止条約を締結するための交渉を1967年6月以来行なっている。第2回定期閣僚会議においてできるだけ早い時期に本件条約を締結することが約束され,1969年3月東京において両国代表の間で主要問題点について実質的な折衝が行なわれた。

また,船舶,航空機運輸所得に関しては,前記の租税条約とは別に,1969年2月よりソウルにおいて取決め締結の交渉を行なった結果妥結をみ,近くソウルにおいて書簡の交換を行なうこととなった。

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(ニ) 商標権保護取決め

日韓両国における工業所有権相互保護問題の解決は,1965年に開催された第2次日韓貿易会議以来両国間の懸案となっていたが,第2回日韓定期閣僚会議においてとりあえず商標権の相互保護に関する取決めを締結することに合意し,1968年12月3日,東京において商標権相互保護に関する双方の口上書が交換された。

この口上書により,日韓両国民は相互に他方の国の領域内において,その国の関係法令の下で商標に関する諸権利の享有について,その国の国民よりも不利でない待遇を与えられることとなった。

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(ホ) 日本米の貸与

韓国は,1967年および68年の2年にわたる干ばつのため米の需給がひっ迫し,わが国に対し33万3,000トンの米の貸与を求めてきた。

わが国としては,国内の米の需給状況および両国間の友好関係を考慮して,国内産水稲うるち玄米33万3,000トンを韓国政府に貸与することになった。

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(3) 経済協力関係

(イ) 無償経済協力

韓国に対するわが国の無償経済協力は,両国間の請求権・経済協力協定(1965年6月22日署名)により,1965年12月18日より10年間にわたり総額1,080億円(3億ドル)にあたる日本の生産物または役務が供与されることになっており1969年2月末現在,援助供与額は,契約認証額で306億1,200万円(約8,500万ドル),支払額で274億7,200万円(約7,630万ドル)である。

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(ロ) 有償経済協力

韓国に対するわが国の有償経済協力(海外経済協力基金による長期低利貸付け)は,請求権・経済協力協定により,10年間にわたり総額720億円(2億ドル)が供与されることになっているが,これまでに,20件の事業計画について合意が成立し,このうち17件に対し貸付契約が締結され,1968年12月17日に終了した第3年度現在で5,370万ドルを供与し,すでに5件が供与を完了している。援助の対象となった主たる事業は,中小企業育成3,000万ドル,鉄道設備改良2,100万ドル,昭陽江ダム1,400万ドル,海運振興900万ドル,高速道路300万ドルなどである。

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(ハ) 民間信用供与

民間信用の供与状況は,1968年12月末現在,一般プラント2億8,122万ドル,漁業協力1,566万ドル,船舶輸出1,334万ドル(総額3億1,000万ドル余)である。

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(ニ) 合弁投資

韓国に対する経済協力の一環として,政府は,対韓国合弁投資については,個別案件につき申請あった場合には審査の上許可することとしている。最近企業間に対韓合弁投資の気運がたかまり,1968年末より69年3月までの間に,出資金5万ドルをこえるもの1件,それ以下のもの2件にっき許可が与えられ,今後その数はますます増加することが予想される。

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(4) 在日韓国人の法的地位および教育問題

在日韓国人の法的地位および待遇に関する協定に基づく永住許可者数は,1968年12月末現在,9万0,024人に達した。

韓国政府は,永住許可の取得をいっそう促進する見地から,協定の運用に関連し,永住を許可する際,本人が日本に戦前から引き続き居住していなければならないという居住歴の審査を日本国政府が柔軟性をもって行なうこと,また,協定上の永住権を取得した者に対する待遇についても,再入国問題等につき種々待遇改善を要望している。

韓国政府は,さらに,在日韓国人の教育問題についても,従来より法的地位問題とともに強い関心を示してきており,わが国にある韓国学校の生徒に日本の正規学校への上級進学資格を与えること等の要望を出している。

これらの法的地位および教育問題に関する要望については,第2回定期閣僚会議共同コミュニケ(資料篇参照)において,閣僚を含む両国のそれぞれの当局間の会談を行なうことが決められ,1968年11月両国の法務および文部当局者間の会談が東京において開かれた。

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(5) 北鮮帰還問題

1959年8月カルカッタにおいて成立した「日本赤十字社と朝鮮民主主義人民共和国赤十字会との間における在日朝鮮人の帰還に関する協定」による北朝鮮帰還事業は,約8万8,000人の帰還を実施し,1967年11月12日をもって終了した。

その後同年11月から1968年1月にかけてコロンボにおいて協定有効期間中に申請を行なった帰還未了者約1万5,000人の取扱いを協議するため日朝両赤十字の会談が行なわれたが,この帰還未了者1万5,000名に関するいわゆる暫定措置の終了後における北朝鮮向け出国希望者の取扱い(日本側は一般外国人の個別自由出国を原則とするが,交通手段の不足のため希望者が相当数たまる時には,朝赤による配船も例外的に認めるという立場)について朝赤側がこれを拘束力ある合意にするとの考え方に終始したため,交渉は同1月24日に決裂した。

その後1968年9月日赤は朝赤に対し書簡を送り,コロンボ会談の際明らかにした考え方に基づいて申請済み帰還未了者については6ヵ月に限って協定の例による暫定措置を実施することを提案し,また,その後の出国希望者の取扱いについても前記の日本側方針にそった提案を行ない,その後両赤十字間に電報のやりとりが行なわれている。

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4. ヴィエトナムとの関係

(1) 南ヴィエトナムとの関係

(イ) 概   説

ヴィエトナムにおいては,1963年11月のクーデターにより,多年にわたるゴー・ディン・ヂェム政権が倒壊したあと,一方において,共産側との戦いが続けられながら,他方,政権内部においては政変あるいは反政府運動が繰り返えされ,政情は波乱を極めた。

しかし,1966年の仏教徒による反政府運動終熄のあとは,政情はようやく落ちつきを取りもどし,同年の制憲議会の開催を経て,1967年には新憲法が公布され,さらに同年,大統領,国会(上下両院)の選挙が行なわれ,グェン・ヴァン・チュウ,グェン・カォ・キィ両将軍がそれぞれ正副大統領に選出された。

1967年10月,チュウ,キィ正副大統領が就任し,これをもってヴィエトナムは民政体制の第二共和国として新発足したが,民政がようやく軌道にのり始めた1968年1月末,共産側はいわゆるテット(旧正月)攻勢に出て,ヴィエトナム各都市に一せい攻撃を加えた。

テット攻勢はヴィエトナムに打撃を与えはしたものの比較的早い立ち直りをみせ,その後頻繁に繰返された共産側の攻勢に対処しつつ,社会,経済の復興,開発につとめている。

また,ヴィエトナムは硬い反共路線を維持してはいるものの,1969年1月からパリの拡大会談に参加し,ヴィエトナム戦争の平和的解決のために努力している。

わが国は,憲法上の建前から,また,国民の平和感情から,これまでヴィエトナム紛争に対して軍事的にはあくまでも圏外に立ってきた。しかしながら戦争の惨禍をこうむったヴィエトナム民衆の救済という人道的見地から,民生安定,難民救済のための物資援助あるいは医療協力等を行なってきており,ヴィエトナム国民から高い評価を受けている。

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(ロ) 経済関係

わが国とヴィエトナムとの経済関係は,ヴィエトナムの置かれている特殊事情のせいもあって,極めて片寄った形を示しており,貿易面では例年わが国の大幅な出超という状態がつづいている。

過去数年間の両国間の貿易の推移をみると,1965年までの数年間は,わが国の対ヴィエトナム輸出は比較的低位にとどまっていた。ところが,1966年の半ばにヴィエトナム政府は,インフレ対策の一環として,政府手持外貨による輸入の自由化を実施し,そのため,同年のわが国の輸出は,一挙に前年の約4倍に増加し,この勢いは翌67年にもひきつがれた。1968年には,同年初頭の「旧正月大攻勢」とこれにつづく戦斗の激化の結果,ヴィエトナムの貿易活動は一時停止状態に陥ったが,治安の回復とともに需要が活発となり,わが国の輸出も漸次伸びはじめ,同年末までには,前年を上廻る実績を記録するに至った。すなわち,1968年のわが国の輸出は,通関ベースで1億9,625万ドル,ヴィエトナムの政府手持外貨による輸入総額中ほとんど30%のシェアを占め,米国を抜いて第1位となった。わが国からの主要な輸出品目は,自動車,モーター・バイク等を中心とする機械類,テレビ,トランジスター・ラジオ,冷蔵庫,扇風器等の電気器具,繊維織物類,食糧品その他で,一般に消費財が依然として圧倒的多数を占めているのが注目される。

他方,こうした輸出の異常な伸びに比べて,わが国のヴィエトナムからの輸入は,従来より極めて少額にとどまっていたが,とくに,かつてわが国にも5,000トンないし10,000トン程度輸入されていた米が,近年ヴィエトナム自身に輸出余力がなくなったこともあり(ヴィエトナムは,米作の中心地たるデルタ地帯の治安悪化のため,1965年以後米の不足を輸入によって補っており,1968年には約70万トンの米を輸入している),このため,今後もわが国の輸入が急速に増加することは期待しえない状況にある。1968年のわが国の輸入は,通関ベースで272万ドル(ヴィエトナムの輸出総額の約20%,フランスに次いで第2位),また,同年のわが国の対ヴィエトナム輸出との比率は,実に1対73である。主要輸入品目は,生ゴム,冷凍えび,鉄鋼くず,非鉄金属くず等である。

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(ハ) 経済協力関係

わが国のヴィエトナムに対する経済(技術)協力は,従来より技術援助,物資の供与を主体とする無償援助の形で行なわれているが,1966年以降はこのうち特に医療協力に力が注がれている。

(i) 技術協力

1969年3月末までに56名の専門家が日本から派遣され,各種の分野で技術指導を行なってきたが,1968年度は,専門家10名を派遣し,現在,日本語教育および医療の分野で合計6名の専門家がヴィエトナムに滞在している。

他方,日本における研修のため,ヴィエトナム人技術研修員を毎年10数名招待しており,また給費留学生を毎年10名程度招いているが,1968年度は,研修員を16名,給費留学生を10名招待した。

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(ii) 医療協力

1967年6月に日本・ヴィエトナム医療協力に関する取決めが締結されこの分野で両国が協力することが決定され,1966年よりチョウライ病院(サイゴン)に脳外科病棟および専門家宿舎が日本の手で建設されることになった。この第1期工事は1968年6月完了し,その経費は1億3,244万円であった。また,1969年3月着工の第2期工事については1967年度および1968年度予算にそれぞれ1億3,037万円および7,739万円が計上されている。また,1966年以降,サイゴン病院およびチョウライ病院に医師,医療技師などが派遣されており(1969年2月現在4名滞在中),またこれら2病院に対し,約1億円相当の医薬品,医療器材などが供与され,あるいは研修のための看護婦などが日本に招かれてきた。

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(2) 北越との関係

わが国と北越とは現在国交関係はないが,人的,文化的交流あるいは民間ベースによる経済交流は行なわれている。

(イ) 人的および文化交流

本邦人の北越訪問については実際問題としてほとんど制限しておらず,また,北越人の入国についても政治的活動のおそれがなく,またはこれらの活動に利用されるおそれがないと認められるものについては,ケース・バイ・ケースで入国を認めてきている。これら人的交流を通じて,特に1968年入国を許可した,北越文化代表団,北越歌舞団にみられるごとく,その規模は大きくないが事実上文化交流も行なわれている。

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(ロ) 経済関係

わが国と北越との貿易は1958年以降次第に増加し,1961年度には1,728万3,000ドルという従来の最高額を記録したが,その後ホンゲイ炭輸入の減少,ヴィエトナム情勢の悪化により減少傾向をたどり,64年には1,321万3,000ドル,67年には850万1,000ドルと大幅に減少した。1968年については輸出(通関統計)は前年度比35%増加,輸入(通関統計)は,ホンゲイ炭輸入の減少のため前年度比9%減,輸出入合計では855万1,000ドルと前年度を僅かに上廻っている。なお,日・北越貿易額はわが国総貿易額中の0.1%にも満たない。

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5. インドネシアとの関係

(1) 概   説

インドネシアでは,1965年の「9月30日事件」後,現在のスハルト政権が樹立され,その後,スカルノ政権時代の容共政策に大幅の修正を加え,近隣諸国との国交関係を調整するとともに,国連その他の国際機関に復帰し,自由陣営接近の強い動きを示しつつ,壊滅にひんした国家財政,経済の復興に努力を集中している。このインネシアに対し,わが国は他の欧米諸国とともに積極的な経済援助を行ない,そして同国の政治,経済の安定,ひいては東南アジアの安定に貢献しようとしている。

わが国のインドネシアに対する経済援助は,最近発表された同国の経済復興5ヵ年計画の実施のための不可欠の要因であり、このため,わが国とインドネシアの関係は,ますます緊密化しつつある。他方またわが国の民間においても,インドネシアの豊富な天然資源を,わが国経済の今後の発展のため不可欠とするところからも,前記の5ヵ年計画を歓迎し,積極的な投資意慾を示している。

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(2) 経済関係

(イ) 近年におけるわが国とインドネシアとの貿易は,同国の外貨事情のひつ迫に基づく輸入引締め政策により,わが国の同国向け一般輸出が伸び悩んでいるのに対し,同国よりの輸入は開発輸入などの促進により年々増加している。この結果,両国の貿易収支は1963年以降,1965年を除き,わが国の入超となっている。

1968年のわが国のインドネシア向け輸出額は1億5,000万ドル余りであり,輸入は2億5,000万ドル余りであった。

わが国の産業界は一般産業用資源の経済的な,かつ安定した供給確保の見地より,インドネシアからの開発輸入に強い関心を示している。

(ロ) 日本商社に対する課税問題

インドネシア政府は,1968年7月,同国にあるわが国の主要商社の駐在員事務所に対し,これらの事務所が,事実上,商業活動を行なっていることを理由に,とりあえず,同年7月以降総取引高の0.5%を納付するよう申し渡した。これに関連し,日本商社代表とインドネシア側税務当局との間で話し合いが行なわれた結果,同年7月以降の分については,取引高の0.1%を予納することに合意を見た。しかし,年度末決算の確定方法については,合意にいたっておらず,現在未解決のまま残されている。

(ハ) 輸出保険の免責措置

インドネシアの外貨事情の悪化に基づき,同国中央銀行の対日決済送金に著しい遅滞が生じたため,1965年12月以降,同国向け輸出保険に対し,日本政府の免責措置が適用されることになった。標準決済分の未払債務は1968年末までに完済されたが,なおしばらくインドネシア側の決済状況の推移を見守る必要があるとの判断から,わが国は、現在までのところ、この措置を解除していない。

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(3) 経済協力関係

(イ) 日本政府は,1966年以来インドネシア経済の安定と復興のため援助を行なって来たが,1968年7月,1968年度分として商品援助6,500万ドル,プロジェクト援助1,000万ドル(ただし,この1,000万ドルを含め総額4,000万ドルの範囲内で,プロジェクトの完成のため引続き協力することを約束した)および食糧援助500万ドルの借款の供与および贈与を行ない,さらに1968年中に期限の到来する対日債務約700万ドルの返済のためのリファイナンス(再融資)をおこなった。民間経済協力では,従来PS方式(生産分与方式)により,1960年4月以来,10件の企業が進出し,さらに1967年1月の外資導入法の制定以来,外国人の投資が認められることになり,わが国からも,8件の投資がおこなわれている。

(ロ) また日本政府は,1968年度の技術協力として,86名の研修員の受入れと42名の専門家の派遣を行なったほか,医療器具,農機具等の機材供与をおこなった。さらに漁業技術協力,医療協力等の調査団を派遣し,今後この面の技術協力の具体的推進方法を調査した。

(ハ) インドネシアに対する賠償は,1958年4月より12年間にわたり,総額2億2,308万ドル(最初の11年間は年平均2,000万ドル,12年目は308万ドル)の生産物および役務の供与をおこなうことになっていた。本年は賠償支払の11年目に入っており,1969年2月末現在の賠償支払義務履行率は,97・1%であり,残額は僅少であるが1970年4月をもって完了する予定である。

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6. フィリピンとの関係

(1) 概   説

フィリピンは徹底した反共主義国で,国内的には1957年破壊活動防止法を制定して,共産主義活動を弾圧するとともに,対外的には,中共・ソ連をはじめ,いっさいの共産圏諸国と外交・領事関係を樹立していない。

しかしながら,1965年12月発足したマルコス政権は,これまでのきびしい対共産圏政策を改め,中共は別として,ソ連はじめ東欧共産圏諸国との貿易および文化の面で接触をはじめるに至った。

マルコス政権は,日本をはじめアジアの近隣諸国との関係の改善に意を用いており,同国は,東南アジア開発閣僚会議,ASPAC(アジア・太平洋協議会)およびアジア開発銀行等を通じ,地域開発のための協力上わが国のよきパートナーである。

戦後最悪の状態に陥ったフィリピンの対日感情は,1956年7月の平和条約および賠償協定の発効を契機に,その後両国官民の努力もあって逐年好転し,1967年3月以降同国は,これまで禁止していた日本商社の在比事業活動を許可するに至った。しかしながら同国の対日警戒心は依然として根強いものがあり,1960年調印された日比友好通商航海条約は,わが国においては翌年国会の承認を取り付けずみであるにもかかわらず,比側が批准手続を了していないため,未だ発効するにいたっていない。

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(2) 経済関係

日本はフィリピンから,わが国の経済発展に不可欠な原材料を輸入し,同国に対し比国の経済開発上必要な資本財を輸出しており,貿易上で両国は相互補完関係にある。両国の貿易規模は逐年拡大し,1968年には往復で8億ドル(日本の輸出4億1,100万ドル,日本の輸入3億9,800万ドル)の大台にのせ,わが国は,フィリピンの輸出入両面で米国に次いで第2位を占めている。

わが国がフィリピンから輸入する品目は,木材(わが国木材輸入の6割を占めている),銅鉱石,鉄鉱石,糖蜜などの原材料で,フィリピンがわが国から輸入するものは,機械類,金属製品が全体の7割を占め,かつて長年首位にあった繊維製品の比重は,著しく低下した。

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(3) 経済協力関係

わが国のフィリピンに対する経済協力は,これまで賠償を主とし,賠償担保借款,延払信用供与,民間投資ならびに技術協力の形で行なわれてきたが,1969年2月,同国の南北幹線道路建設計画に協力するため,はじめての円借款を供与することにつき合意が成立した。経済協力の概要は次のとおりである。

 (イ) 賠   償

対フィリピン賠償(期間1956年から20年間)は現在第13年度に入っているが,1969年2月末までに,1,141億4,700万円相当のわが国の生産物および役務を供与しており,これで賠償総額1,980億円(5.5億ドル)の約57.6%を履行したわけで,対フィリピン賠償はほぼ順調に実施されているといえよう。

 (ロ) 賠償担保借款

電信・電話拡張・改良計画(653万ドル),カガヤン鉄道延長計画(580万ドル)に使用するための機材は既に供与済みであるが,マリキナ多目的ダム計画(3,550万ドル)についてはフィリピン側の事情で未実施のままである。近年にはこの種の借款供与は行なわれていない。

 (ハ) 道路借款

フィリピン群島を南北に縦貫する幹線道路建設計画に対し,わが国より108億円(3000万ドル相当)の円借款を供与することにつき,1969年2月,日比両国政府間で合意が成立した。この借款はフィリピンのルソン島アリャカパンからミンダナオ島ダバオ市までの道路のうち,約1,400キロ・メートルの道路建設(改良および新設)ならびに橋梁架設に必要な機材をわが国より調達するために使用される。

 (ニ) 民間投資

フィリピンは民族主義的傾向が強く,本邦企業にとって投資環境は必ずしも良好でない。従来フィリピンに対しては鉄鉱石,銅,木材を開発輸入するための投資がほとんどであったが,1967年3月楽器製造の合弁会社が

はじめて設立されて以来,製造業者による投資も逐次増加をみ,1968年12月末現在,証券取得15件(総額800万ドル),債権取得10件(総額1,330万ドル)の実績がある。フィリピンでは1967年の投資奨励法により,基本的には外資を歓迎しているが,100%外資導入に門戸を開放しているわけではなく,前記法律および1968年の外国人事業活動制限法により創始企業以外については株式の保有制限その他の規制を行なっている。

 (ホ) 技術協力

政府ベースの技術協力としては,コロンボ・プランにより,1968年末までに農水産,鉱工業,医療等の各分野に専門家49名を派遣した。医療関係ではコレラ対策および小児まひ対策の面で,フィリピンの保健行政に協力している。現在小児まひ専門家および日本語専門家各1名が派遣されている。他方,コロンボ・プラン等による研修生の受入れは延べ773名に達し,現在22名を受入れ,今後増加のすう勢にあり,これら研修生は帰国後日本の技術普及に役立っている。また,1966年合意された協定にもとづき,わが国はマリキナ市の小規模家内工業技術開発センターに対し機材約550万円を供与し,技術専門家10名を派遣している。フィリピン側の都合で開設がやや遅れていたが,近く開設の予定である。なお,フィリピンの稲作生産の向上を援助するため,フィリピン国内にパイロット農場2ヵ所を設置する話合いが両国間で進められており,近く合意が成立する見込みである。このほか,日本青年海外協力隊々員は,1966年2月以来延べ109名が派遣され,現在95名が各種分野で活躍している。

以上の各種技術協力を行なうことにより,わが国はフィリピンにおける技術の開発・普及を通じ,同国の経済・社会の発展に寄与している。

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(4) そ の 他

 (イ) 日比航空協定

現在,日比両国の航空企業は,それぞれ相手国政府の行政許可の下に相互に相手国に乗り入れを行なっているが,かかる国際運輸事業を安定した基礎の上に継続させることが望ましいので,両国政府代表は,1968年12月10日から同月14日まで,東京において航空協定締結交渉を行なったが,妥結をみるに至らず第2回交渉が近くマニラで開催される見込みである。

 (ロ) 日本庭園寄贈

1967年1月フィリピン公園開発委員会(マルコス大統領夫人が会長)より,マニラのルネタ公園の空地(約1万1,000平方メートル)に日本庭園を寄贈して欲しい旨の要請があり,わが方は,同公園の寄贈が日比親善の増進および日本文化の紹介に役立つことが少なくないとの判断の下に,比側の要望に応ずることとし,目下財団法人フィリピン協会が,政府の協賛のもとに工事をすすめており,近く完工の見込みである。

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7. カンボディアとの関係

(1) 概   説

カンボディアは,1955年以来一貫して現国家首席ノロドム・シハヌーク殿下の指導下にあるが,同殿下の施政は同国民の大多数から絶対的な支持を受けており,政情は安定している。もとより同国内には,親共系カンボディア人のいわゆる「赤色クメール」および北越,ヴィエトコンに煽動された山岳民族「クメール・ルウ」等の反乱分子の破壊活動が存在するが,同活動は局地化されており,現在までのところカンボディア全体の安全を脅かすまでには至っていない。

カンボディアは,従来より対外的には中立政策をとっており,同国に対する東西の勢力の均衡をはかることにより,自国の独立と安全を保つことに努めてきた。また,自国の安全を確保する方途として,カンボディアは1967年以来,各国から「現在の国境内における領土保全」の承認宣言をとりつけることを外交上の最大の目標にかかげ,この結果,隣国(タイ,ラオス,南越)を除く主要国47ヵ国からこの宣言をとりつけることに成功している。ヴィエトナム戦争の余波はカンボディアにも及んでおり,北越,ヴィエトコン軍によるカンボディア領侵入等が行なわれているため,カンボディアは共産圏に対する警戒心を強めている。しかしながら米軍による一部カンボディア領の爆撃および国境侵犯の発生もカンボディア側により指摘されており,米国との国交再開は実現されるに至っていない。もっともカンボディアは最近IMF・世銀への加盟を申請する等,従来より冷却化していた自由諸国との経済関係を改善せんとする動きを見せている。

わが国とカンボディアとの関係は,1968年9月16日,わが国がカンボディアの要望にこたえて,同国の「現在の国境内における領土保全の承認」に踏み切った(資料編6の(8)参照)ことをきっかけとして非常に改善され,両国間の友好および協力関係はいちだんと促進された。

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(2) 経済関係

カンボディアは,わが国の一方的な出超による対日貿易の収支不均衡を問題とし,1967年2月15日以降,日本・カンボディア間貿易取決めの期間延長に同意せず,その後,同取決めは形式上は失効したまま事実上適用されるにとどまっていた。しかるに,1968年10月12日にいたり,カンボディア政府は閣議で日本・カンボディア間貿易取決めの期間延長を決定し,12月17日,プノンペンにおいて,日本・カンボディア両国政府間で,同取決めを1969年2月14日まで有効とする合意が成立して口上書の交換が行なわれ,続いて1969年1月17日には,同取決めの有効期間をさらに1970年2月14日まで延長するための書簡交換が行なわれた。こうして,長らく不安定な状態にあった日本・カンボディア間貿易関係は正常化された。

1968年のわが国の対カンボディア貿易は,輸出が2,028万ドル,輸入が655万ドルであった。

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(3) 経済協力関係

 (イ) とうもろこし開発のための技術協力

カンボディア政府は熱帯作物,特にとうもろこしの大規模な生産増加をはかる目的をもって,カンボディア政府と外国民間資本との合弁による「熱帯作物栽培公社」設立の構想を有していたところ,これにこたえて日本の民間会社が出資を行ない,1968年5月30日,上記「熱帯作物栽培公社」が設立された。同公社は,優良種子の普及および栽培による,とうもろこしの増産を目的としているが,日本政府は,カンボディア政府の要請もあり,優良な適正品種の選定および栽培方法のための試験研究等民間ベースでは協力不可能な分野については,政府ベースの技術協力が必要であることを認め,現地調査およびカンボディア政府との協議を行なった。その結果,11月2日,プノンペンにおいて,日本・カンボディア両国政府間で,とうもろこし開発技術協力に関する書簡の交換が行なわれ,この分野における両国間技術協力は軌道にのせられた。

 (ロ) プレック・トノット・ダム電力かんがい開発計画への参加

この計画は,メコン河下流域調査調整委員会の行なう,いわゆる「メコン開発」の一環として,多数国間の協力により,メコン河の支流プレック・トノット川に多目的ダムを建設し,当初約18,000キロワットのかんがいと第一段階で18,500ヘクタールの農業かんがいを行なおうとする開発計画で,これに対しわが国は,1966年12月,所要資金3,300万ドルのうち外貨分2,200万ドルについて,各国の拠出総額と等額とすることを条件に,1,100万ドル(贈与500万ドル借款600万ドル)を限度とする拠出の意向を明らかにした。しかし,わが国を含む各国の拠出額が上記外貨分2,200万ドルに達しなかったところ,1968年4月17日よりキャンベラで開催されたエカフェ総会において,カンボディア代表は,同国が本計画を最優先事業としているので早急に着手できるよう参加各国の協力を要請し,エカフェ事務局およびメコン委員会事務局は,かんがい面積を5,000ヘクタールに縮少する提案を行ない,その経費総額(約2,700万ドル)はすでに拠出国により誓約されているとして,この縮少案による早急な着工に各国の同意を求めてきた。

わが国は,種々検討を行なった結果,上記の縮小案による計画の早期着工に同意し,1968年9月9日および10日,国連の主唱によりプノンペンで開催されたプレック・トノット電力かんがい開発計画国際会議に参加し(参加国は日,豪,カナダ,ドイツ(西)など11ヵ国)そこで本計画のための管理措置に関する関係各国間の合意が成立したため,11月13日,国連本部において関係各国とともに協定に署名した。

多数国間協定に引続き,わが国とカンボディアとの間で拠出に関する話合いが行なわれ,その結果,1969年3月21日,プノンペンにおいて贈与(421万5,000ドル)に関する協定の署名および借款供与(421万5,000ドル)に関する書簡の交換が行なわれた。こうして,カンボディアにおける未曾有の開発事業である本計画は,わが国が諸外国中最大の拠出国として参加することにより,その第一歩を踏み出した。

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8. ラオスとの関係

(1) 概   説

ラオスの国内勢力は,依然として右派,中立派対パテト・ラオ(左派)の2派に分れて対立のままこう着状態にある。プーマ政府は右に,パテト・ラオは左に傾いて両者の間の距離が広がり,三派連合の原状復帰までにはうよ曲折が予想されている。プーマ首相は三派連合政府の建前を堅持して,パテト・ラオ閣僚が同政府へ復帰すれば和解が可能であることを強調するとともに,北越軍がラオスから撤退することを要求しているが,パテト・ラオはラオス問題解決のためには,まず米軍がラオスの解放区に対する爆撃を停止すべきであるとの態度をとって対立している。

他方,ラオス領内には,約4万の北越軍が駐留しているといわれており,これら北越兵はパテト・ラオに対する支援ならびに南越への補給の大動脈である「ホー・チ・ミン・ルート」の確保等にあたっているものとみられている。

いずれにしても,ラオスの情勢は隣国ヴィエトナムにおける情勢と密接に関連しており,その解決もヴィエトナム問題と同時に,ないしはヴィエトナム問題の一環として解決される必要があるとみられている。

わが国とラオスとは現在極めて良好な関係にあり,かかる両国間の友好関係はわが国よりの経済協力等を通じ,今後とも緊密化されるものと期待されている。

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(2) 経済関係

わが国とラオスとの貿易関係は,従来よりあまり活発ではないが,わが方からの輸出は年々増大している。1968年におけるわが国の対ラオス輸出は655万ドル,輸入は6000ドルでわが国の一方的な出超となっている。

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(3) 経済協力関係

 (イ) ラオス外国為替操作安定基金(FEOF)への拠出

ラオスの為替安定,国内インフレ防止を目的として設立されたラオス外国為替操作安定基金に対し,わが国より1965年に50万ドル,66年,67年,68年にそれぞれ170万ドルを拠出した。なお,同基金の拠出国はわが国のほか,米国,英国,フランス,オーストラリアである。

 (ロ) ケネディ・ラウンド食糧援助

ラオスは年間約6万トンの米を輸入しているが,さらにヴィエトナム戦争の影響によって多数の避難民が生じたため,わが国に対して食糧援助を要請してきた。これに対して,わが国は1967年の国際穀物協定の食糧援助規約に基づき,米および農業物資の供与がラオス経済の安定と開発に寄与する度合が大きいことを認め,ラオス側との交渉を行なった。その結果,1968年12月24日ヴィエンチァンにおいて,わが方とラオスとの間に食糧(米30万ドル)および農業物資(20万ドル)の援助に関する書簡の交換が行なわれた。

 (ハ) ナムグム・ダム開発計画への参加

この計画は,かねてよりメコン河開発の最重点プロジェクトとして,メコン河下流域調査調整委員会(メコン委員会)により推進されてきたものであり,わが国は予備調査の段階から抜術協力によりこれに協力し,さらに,建設資金についても400万ドル拠出することを明らかにした。この計画に対するわが国の拠出額は米国の1,206万ドルについで第2番目である。ダム本体の工事については,68年5月わが国の建設業者が926万ドルをもって落札し,本計画は順調に進捗しており,73年の完成が予定されている。

 (ニ) 専門家および日本青年海外協力隊の派遣,研修員の受入れ

わが国はコロンボ・プランにより,1968年末までに農水産,公益事業,医療等の各分野の専門家24名をラオスに派遣した。また,ラオスに対する日本青年海外協力隊派遣は1965年12月より実施されているが,これまでに30業種にわたり計106名が派遣され,現在71名が各分野で活躍している。他方,コロンボ・プラン等によるラオスからの研修生の受入れは延べ88名に達している。このほかわが国は1968年度において医療器具の供与を行なった。

 (ホ) 開発調査

わが国は1968年度においてラオスに調査団を派遣し,ヴィエンチァン空港拡張計画調査,ヴィエンチァン・ノンカイ間架橋計画調査,ヴィエンチァン・ノンカイ間鉄道建設計画調査をそれぞれ実施した。また農業開発協力としてタゴン地区農業開発実施設計調査を行なった。

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(4) そ の 他

難民救済のための物資寄贈

ラオス内戦により生じた避難民救済のため,日本政府は1968年4月在ラオス下田大使を通じ,ラオス政府に3,000ドル相当分のトタン板を寄贈した。

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9. タイとの関係

(1) 概   説

タイ国においては,長年の懸案であった新憲法が1968年6月20日に公布さ

れ,69年2月10日には11年振りに下院議員総選挙が行なわれた。選挙の結果タノム首相の率いるタイ国民連合党(与党)が第一党となり,3月11日にはタノム新内閣が成立した。タイ国東北部における共産テロ活動は全般的にかなり下火となったが,1968年11月頃より北部タイにおいてメオ族によるゲリラ活動が活発化したことが注目された。

対外的には,前年同様地域協力に積極的な姿勢を示し,対米関係も引続き緊密化した。一方,タイ政府がかかる従来の基本的姿勢を維持しつつ,同時に最近中共との話し合いの可能性を示唆し,弾力的な態度を示すに至った点も注目される。

新政権は,基本的には従来の路線を踏襲しつつ,今後とも,国の安全の確保と国内経済開発の促進に努力を傾注して行くものと思われ,また,その一環として地域協力の問題に関しても,従来同様積極的な姿勢を維持するものと思われる。

日タイ関係は前年に引続き友好的な関係に終始した。

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(2) 経済関係

日タイ貿易は1965年以降,わが方の大幅な出超を続けており(1968年実績では2億1,840万ドルの出超),かねてよりタイ側はわが国に対しこれが是正のため,タイ産品の買付け増大を要請している。1968年5月のタノム首相訪日の際,佐藤総理との会談において貿易不均衡是正の一環として日タイ貿易合同委員会を設置することにつき合意が見られ,1968年10月バンコックにおいて第1回合同委員会が開かれた。

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(3) 経済協力関係

タイに対する6,000万ドルの円借款供与に関する取決めは,1968年1月12日に成立したが,その後同取決めに基づく最初のプロジェクトである首都圏電話網拡充計画に関する合意が1969年3月14日成立した。

わが国は1968年度において,タイに対しガン・センター(1968年12月10日開所)に対する機材供与および医療専門家の派遣,農業開発基礎調査団の派遣をはじめ技術専門家の派遣,研修員の受入れ,機材供与等の技術協力を行なった。

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10. マレイシアとの関係

(1) 概   説

1968年6月マラヤ共産党の武装分子がタイとの国境地帯でパトロール中,マレイシア警官隊を襲撃し大半を死傷せしめた事件を契機として,マ政府は国内共産分子の取締り対策を強化し,その後各地において多数の共産主義者が逮捕されている。現状においてはマラヤ共産党の武装活動が国内治安上重大な問題に発展するとは考えられていない。

対外関係においては極東英軍の繰上げ撤退の発表を背景として,1968年6月クアラ・ランプールにおいて英連邦5ヵ国防衛会議が開催された。極東英軍撤退後の同国の安全保障の問題については今後同会議を通じ必要な対策が協議されて行くものと見られ,既に豪州,ニュー・ジーランド両国政府はその兵力を英軍撤退後も引き続きマレイシアに駐留せしめるとの意向を明らかにしている。なおマレイシアのソ連,東欧諸国との関係強化の動きは,英軍撤退後の経済的困難に備える意味からも,いっそう積極化の様相を呈するに至っている。他方,マレイシア・フィリピン両国間の懸案となっている,いわゆる「サバ領有権問題」は1968年3月「コレヒドール島事件」を契機として再燃し,近隣諸国の積極的な努力にもかかわらず,マ比両国間の外交関係は同年9月事実上停止されたまま現在に至っている。この問題は両国とも国内的に大きな影響を及ぼし得る問題であり,1969年5月に下院議員総選挙を,また11月に大統領選挙をそれぞれ控えているマ・比両国としては,軽々しく動き得ない事情にあるので,差当り時間の経過とともに事態が鎮静化するのを待つほかないものと見られている。

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(2) 経済関係

経済面においてはマレイシアからの木材,ゴム,錫等の原材料の輸入によるわが国の大幅入超という基本的傾向には変化は見られず,1968年におけるわが国の対マ貿易は輸出9,447万ドル(前年の7.5%増)輸入3億4,336万ドル(前年の2.7%増)と輸出入とも若干の増加を見た。なお主要輸入品は木材,錫,ゴム,鉄鉱石等であるが,木材の輸入は前年に引続き著しい増加を示している。輸出品の主なるものは機械,鉄鋼,合繊織物等であるが,今後は経済開発の進展に伴い農業機械,建設機械,プラント類の市場として注目される。

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(3) 経済協力関係

経済協力の分野では,1966年11月に成立した5千万ドルの円借款協定に基づき,輸銀分は1969年3月現在9計画につき貸付契約が成立約130万ドルの支払実績がある。また海外経済協力基金分としては1969年1月27日初めて1計画約200万ドルにつき,貸付条件年利4.5%,償還期間5年据置きを含む20年の借款契約が成立したが,現在までのところ支払実績はない。

また技術協力の分野では,プライ河排水干拓計画に関する実施調査団,農業機械化計画調査団の派遣,青年文化スポーツ省訓練センターに対する職業訓練用機材の供与,農水産,運輸部門を中心とした専門家の派遣4名,研修員の受入れ(個別5名,集団コース68名)および協力隊の派遣6名等が行なわれた。

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12. シンガポールとの関係

(1) 概   説

英軍撤退とその対策を最大の論点として,1968年4月に実施されたシンガポール総選挙は与党人民行動党の圧倒的勝利のうちに終り,その結果58議席全部を人民行動党が占めた。新内閣成立後,政府は英軍撤退後の諸問題にそなえ,労働関係3法の改正を含め,工業化,外資導入促進のための種々の新政策措置がとられた。対外的には貿易関係の促進を意図するソ連および東欧諸国との外交関係の樹立が進められた。

日・シ関係においては多年の懸案たる対日補償協定が1968年5月7日発効し,両国友好関係はますます緊密化の度を深めている。

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(2) 経済関係

日・シ貿易は1968年においてわが国からの輸出2億924万ドル,輸入6,176万ドルで,輸出入とも大幅な伸びを示しているが,毎年わが国の極端な出超となっているため,シンガポール政府はわが国に対し,片貿易是正方要望している。

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(3) 経済協力関係

わが国のシンガポールに対する技術協力が開始されて以来1968年末までにわが国はコロンボ・プラン専門家34名を派遣し,研修員の受入れは145名に達している。また,1966年両国間に合意をみた協定にもとづき,わが国はシンガポール原型生産および訓練センターに対し,1億5500万円相当の機材を供与し専門家10名を派遣している。本センターは1969年2月14日正式に開所されたが,技術水準の向上を通じ同国工業化促進に大きく貢献するものと期待される。なお,このほか,わが国は1968年に890万円相当の弱電関係機材一式をシンガポール工科大学に寄贈した。

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13. ビルマとの関係

(1) 概   説

1967年夏の反中国人暴動を契機として公然化した中共の対ネ・ウィン政権敵視の態度により,ビルマの対外姿勢の動向が注目されたが,厳正中立の外交姿勢にはその後もなんら変った動きは認められなかった。

1968年12月,ネ・ウィン革命委員会議長は,ウ・ヌ,ウ・チョウ・ニェン等の旧政治家33名よりなる「国内団結諮問委員会」を設置した。同委員会の任務は政府に対し,政治・経済・社会的諸問題に関し助言を行うことにあるといわれる。

現政権は1969年3月2日をもって8年目を迎えたが,対中共関係,国内地下共産分子および少数民族対策を中心とした治安の問題のほか,流通機構の整備,米の輸出増進を含む経済情勢改善等の諸問題が山積しており,同政権の前途は容易ならざるものがある。

なお,日本とビルマ両国間の関係は前年に引続き極めて友好的に推移した。

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(2) 経済関係

ビルマの外国貿易は米の輸出不振により,ここ数年来縮小均衡の傾向にあり,わが国との貿易も減少している。しかし,ビルマの輸入に占めるわが国のシェアは毎年約20%を占め首位を確保している。対ビルマ輸出品の主なものは機械機器,化学工業品であり,輸入は米,豆類,木材が中心である。ビルマ側はわが方の出超による片貿易の是正を要望しているが,ビルマは目ぼしい輸出産品を持っていないため,早急な改善は困難な状況にある。1953年に締結されたビルマとの貿易取決めは,1965年末まで延長されてきたが,ビルマ側の要望により,1966年以降は延長されず,現在新協定締結の交渉を続行中である。

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(3) 経済協力関係

1965年4月1日より実施されたビルマとの経済技術協力協定により,わが国はビルマに対し総額504億円にのぼる生産物または役務を供与することとなっているが,1969年2月末現在の契約認証額は181億3,600万円,支払済額は123億円でその履行率は24.4%である。

1968年9月国連総会の途次本邦に立寄ったティ・ハン外務大臣と三木外務大臣との間に3,000万ドルの円借款供与に関する合意が成立,この結果1969年2月ラングーンにおいて,同円借款供与に関する書簡が交換された。同借款は借款契約が効力を生ずる日から3年間にわたり,4事業計画(大型トラック・バス組立工場,小型トラック・乗用車組立工場,家庭用電気器具組立工場,ポンプ・耕うん機組立工場)の施設および設備の設置,拡張並びに改善に使用されるものであるが,借款の条件は,支払期間が5年の据置を含む20年,利子率は年3.5%となっている。

技術協力の分野では,1968年度中に,石油および医療関係の機械供与のほか,わが方より12名の専門家を派遣するとともに,ビルマ側から軽工業,農業,鉱業その他関係の研修員20名を受入れた。

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14. インドとの関係

(1) 概   説

インド内政の中心的存在であったコングレス党は,さきに1967年2月の第4次総選挙において全国的に大きく後退し,内政は多党化の傾向を強めていた。1969年2月北部インドの4州で行なわれた中間選挙もこの傾向を覆し得ず,その結果インド内政はいっそう複雑化の様相を呈することとなった。

また,その対外関係においては,パキスタンおよび中共との間の関係改善に見るべき兆なく,これを背景として引続き対ソ関係緊密化の努力が払われている。他方1968年5月のガンジー首相のシンガポール,マレイシア,豪州,ニュー・ジーランド4ヵ国訪問を初めとしてアジア,太平洋諸国との経済面を中心とする関係強化の努力が顕著となった。

コングレス党が中央議会において引続き多数を維持していることでもあり,ガンジー首相が率いる中央政府は,今後も一応安定した地位を保ち続けるものと考えられる。しかし,特に非コングレス党州政権との関係の調整は今後とも大きな問題として残るものと考えられる。

日印両国関係においては,カウル・インド外務次官一行を迎えて,1969年2月東京で事務レベルによる第4回日印定期協議が開催された。また,日本政府は1968年3月マ八一ラーシュトラ州コイナ地区で地震が発生した際に難民救済のための建築資材として亜鉛鉄板11,000枚(5,000米ドル相当)を,また同年10月東部インドで洪水発生の際に1万米ドルの見舞金をそれぞれインド側に寄贈した。

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(2) 経済関係

1965年までの日印両国の通商関係は,わが国が小幅な輸出超過を続けてきたが,その後わが国のインドからの鉄鉱石,銑鉄等の輸入が急増したのに対し,インドの外貨事情が悪化したことが原因となって,わが国の対印輸出は大幅に減少し,1968年度の輸出入比は1対2となり,わが国の入超の傾向を示したまま現在に至っている。

なお,政府はインド政府の求めにより,同国における一次産品輸出の可能性等を検討することを目的とする一次産品調査団を1969年1月5日から2月1日までインドに派遣した。

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(3) 経済協力関係

経済協力,技術協力の面においては,わが国は1958年に世銀主催の対印債権国会議に参加して以来,インドに対し引続き円借款を供与しており,1968年度中には総額4,500万ドルの新規借款(そのうち1,683万ドルは債権繰延べ分)を供与した。

また,政府はインドに対するわが国の各種経済技術協力が同国の経済開発にいかなる貢献をなしているかを把握し,今後の協力の進め方につき調査を行なうこととし,右調査の下準備としてインド経済協力予備調査団を1969年2月5日から17日まで現地に派遣した。

一方,政府は従来インドにおいては農業面での技術協力に重点をおいてきたが,1968年度中には,これまで政府の協力でインド国内8ヵ所に設置された模範農場を改組して,新たに農業普及センター(4ヵ所)を設置し,協力を続けている。

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15. パキスタンとの関係

(1) 概   説

パキスタンでは,1968年10月の学制改革を求める学生運動を端緒として,学生団体や野党各派による反政府運動が激しく展開された。この運動は,1969年1月以来急速に過激化し,各地で暴動事件が続発した。政府は硬軟両様の各種の収拾策を打ち出し,これに対処したが,反政府運動は鎮静する兆がなく,2月21日アユーブ大統領は次期大統領選挙に立候補しない旨声明するとともに,以後直接普通選挙の実施,議員内閣制の採用,両州自治権の拡大等反政府運動の主たる要求を受け入れる態度を明らかにし,収拾に努めた。しかし2月末からは労働者による待遇改善要求が全国的に拡がり,これに伴う暴力事件も頻発して社会的秩序の混乱はいっそう悪化する傾向を強めた。特に東パキスタンでは,これまで経済関発その他の行政面で同地域が西パキスタンに比し不当な差別を受けてきたとする州民の不満を背景として各地で連日のごとく暴動が発生し,政府の統制力の弱体化が伝えられるところとなった。このような事態に及び,3月25日ついにアユーブ大統領はヤヒヤ・カーン陸軍総司令官に政府の全権を移譲して辞任し,同日,同司令官の指示により戒厳令が施行された。これに伴い,パキスタンの治安は一応回復した。3月31日,ヤヒヤ・カーンは3月25日にさかのぼり大統領に就任したことを発表した。

今次パキスタン政情の変動は,同国の政治,社会情勢がこれまでアユーブ大統領政権の下で比較的安定していると見られていただけに,極めて意外の感をもって受取られている。

軍政の実施によりパキスタン政情は一応収拾されるものとみられるが,国民は普通選挙と責任内閣制に基づく議会民主制の実現を強く望んでいるので,かかる政治的要求に沿った形で事態の正常化を円滑に実現し得るか否か,また正常化が実現した後にこれまで経済的発展を助けて来た政治情勢の安定を維持し得るか否か,今後のパキスタンの直面する問題は少なからぬ困難を伴うものと思われる。

なお,わが国は,1968年7月東パキスタンの洪水に際し見舞金パキスタン貨5万ルピー(10,500米ドル)を在ダッカ西川総領事を通じ同州政府に贈る等,1968年度を通じ日パ両国間の友好関係は引き続き増進を見た。

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(2) 経済関係

わが国の対パキスタン貿易は依然わが国の出超傾向が続いたが,1968年には輸出1億1,600万ドル(対前年比42%増),輸入5,600万ドル(対前年比51%増)と,輸出入とも大幅な伸びが記録された。輸出品では,化学肥料,金属製品および繊維機械を除く機械類の増加が目立ち,繊維品,鉄鋼等は減少した。輸入品では,棉花および魚介類が増加し,新たな品目として石油製品が加わった。

貿易量増大の原因としてはパキスタンにおける農業生産の好調が同国の生産,物価,国際収支等に好影響をもたらしたことがあげられる。特にわが国の輸入量増大はわが方の片貿易是正のための買付努力が実を結びつつあることを示している。

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(3) 経済(技術)協力関係

わが国は世銀による対パキスタン債権国会議参加国としてパキスタンに対しこれまで7次にわたり円借款を供与してきたが,1969年1月18日第8次円借款3,000万ドル供与に関する取決めが成立したので,対パキスタン円借款供与総額は合計2億2,500万ドルとなった。なお,第8次円借款における供与条件は返済期間18年(5年据置),金利年5.25%であり,金利が前回より0.25%引き下げられた。

また,政府は,パキスタンに対するわが国の経済技術協力が同国の経済開発にいかなる貢献をなしているかを把握し,今後の協力の進め方につき具体的な示唆を得ることを目的として,1969年1月12日より29日までパキスタン経済協力調査団を派遣した。東パキスタンの政情悪化のため,同地域のプロジェクト調査は実施できなかったが,近く報告書が提出される予定である。技術協力は,1968年度においても主として海外技術協力事業団によるコロンボ・プラン技術専門家の派遣および研修員の受け入れ,電気通信研究センターおよび農業センターに対する協力,および投資前基礎調査の実施等を通じ着実に行なわれた。

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16. セイロンとの関係

(1) 概   説

セイロンにおいては,現内閣成立以来閣僚を送って協力して来たタミル人政党たる連邦党が,地方自治問題で1968年9月連立を離脱し,そのためセナナヤケ内閣は国会で僅差の過半数を確保するのみとなったが,連邦党がタミル人の地位に関する問題を除き閣外協力の態度をとっているので,政情は一応の安定を保っている。

停滞をつづけていたセイロン経済も,政府が最大の努力を注いでいる食糧増産運動の成功および外国援助により,1968年には成長率7%とようやく好転の兆を示しつつある。これに自信を得て,セナナヤケ内閣は70年3月の任期満了を待たずに総選挙を行なう意向と伝えられる。

国内経済情勢が,好転の兆を示しつつあるとはいうものの,同国経済が大きく依存する輸出品(紅茶,ゴム等)の価格下落は依然顕著であり,近い将来改善される見込が乏しいので,前途は楽観を許さない。

外交面ではインドとの間にポーク海峡の無人島カッチャティブ島の領有権をめぐって,問題が発生したが,両国政府とも話合いによる解決を求めているので,この問題をめぐって両国関係が特に悪化することはないと見られている。

わが国との関係においては同国要人の来日,わが国の同国に対する借款供与,調査団の派遣等を通じ友好と協力の基盤がいっそう強化された。

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(2) 経済関係

わが国からセイロンヘの輸出品は繊維,機械,化学肥料,鉄鋼等であり,輸入品は紅茶,天然ゴム,コイヤ(ヤシ繊維)であるが,伝統的にわが国の出超となっており,1968年は輸出2,460万ドル,輸入1,232万ドルを記録し,2:1の片貿易となった。

なおセイロン政府は1968年5月6日,外貨取得権証明書制度を採用し,事実上の二重為替制度を採るにいたった。この制度は紅茶,ゴム,ココナッツおよびココナッツ油以外の商品の輸出によって得た外貨およびその他の手段によって得た外貨に対し,外貨取得権証明書を発行して,セイロン通貨への交換にあたって約44%のプレミアムを与えるものであり,輸入にあたっては,特定商品を除くすべての商品の輸入代金およびその他の外貨支払はこの制度によることとなっている。この制度は輸出振興,輸入抑制,一部原材料の輸入自由化を図ったものであるが,合弁事業には打撃を与えている。

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(3) 経済協力関係

経済協力の面においては,世銀主催の援助国会議に基づき,セイロンの外貨不足に対する援助として,1968年9月3日第4次円借款500万ドル供与に関する取決めが成立した。

また,わが国は1967年訪日したセナナヤケ・セイロン総理大臣の要請に基づき,那須皓博士を団長とする農業開発基礎調査団をセイロンに派遣した。同調査団は1968年7月16日から8月3日まで滞在し,同国農業開発全般およびわが国の農業協力のあり方について調査し,帰国後報告書を提出した。同報告書に基づき,同国村落開発に対するわが国の協力の実現化のため,福田仁志博士を団長とする第2次調査団が1969年2月16日派遣された。同調査団は同地に約1ヵ月半滞在し,協力対象地区を選定し,その実施調査を行なうこととなっている。

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(4) そ の 他

1968年8月23日東京において三木外務大臣とテネクーン駐日セイロン大使の間で,日本・セイロン租税条約の批准書交換が行なわれた。この条約は1967年12月12日コロンボにおいて,日向駐セイロン大使とワンニナヤケ・セイロン大蔵大臣との間で署名されたもので,批准書交換の日から30日目に発効した。

アジア地域要人訪問一覧表

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