第2章 わが外交の展開

本章では,上記の「わが外交の基本方針」に従いわが国が行なった主な外交活動を,1968年4月より1969年3月までの期間を中心に概観する。なお,外交活動の多くは複数の目的のために行なわれるものなので,以下の記述の項目のわけ方あるいは記述の順序はある程度便宜的なものである。個々の外交活動の詳細については第2部各説に述べられている。

1. わが国の平和と安全の確保のための外交活動

わが国は,国際連合の強化,軍縮の推進を始めとして各種の方策により「平和への戦い」に積極的な役割を果すよう努めている。しかし,国際連合による安全保障体制が確立していない今日の世界において国の安全を全うするためには,緊張緩和のための外交的努力と併行し,わが国も武力の行使を未然に抑止するための体制を個別に,および集団的にとる必要がある。かかる理由から,わが国は自国の安全のために,憲法の定める範囲内において自衛力を漸増整備しつつ,これを補うものとして日米安全保障条約を締結し,1960年の改定を経て,現在までこれを堅持してきた。

現在わが国をめぐる極東の情勢を見れば,平和に対する潜在的脅威とも称すべき緊張状態が存在している。さらに,このような情勢下でのわが国およびわが国と密接な関係をもつ極東の平和と安全は,この地域における力の関係に依存するところが少なくなく,日米安全保障条約はその重要な支柱の一つとなっている。

このように日米安全保障条約は,平和への脅威の顕在化,武力紛争の発生を未然に防いで,わが国の安全に直接寄与し,またわが国を含む極東の安全に重要な役割を果しているものであり,政府はこの条約の目的達成に遺憾のないよう米国政府と十分協議し,その円滑な運用に努めてきた。

すなわち1968年においては安全保障に関する日米事務レヴェル非公式協議において,アジアの安全保障の長期的見通しとこれに関する諸問題について意見交換を行なった。また5月および12月に第8回および第9回日米安全保障協議委員会を開き,特にその第9回委員会では,わが国における米軍の施設・区域の機能面での専門的話し合いのため,自衛隊と在日米軍との間に随時研究会同を持つことに決定した。わが国に駐留する米軍が使用している施設・区域については,政府は,米軍の駐留がわが国および,わが国を含む極東の安全に寄与している事実を考慮しつつ,基地周辺に住む人々に対し与える摩擦,障害を最小限に止めるよう,合理的解決をはかるべく努力する方針をとってきた。上記の第9回安全保障協議委員会において,米側より約50の米軍施設・区域の日本に対する返還,日米の共同使用,移転等について提案があり,この問題の具体的処理は,従来と同様に安全保障条約第6条に基づく地位協定により設置されている日米合同委員会の場で行なわれているが,1969年3月末までに名寄演習場等の10の施設・区域の返還につき合意に達し,他の施設・区域の具体的処理について引き続き検討を行なっている。

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2. 領土問題解決のための外交活動

沖縄および北方領土は,第二次世界大戦後未だわが国の施政下に復していないわが国固有の領土として,その返還は,わが国の国民的願望となっており,またわが外交の最重要目標の一つとなっている。政府は,この問題の解決を話し合いを通じて行なうとの考えから,現在まで絶えず努力を続けてきている。

(1) 小笠原返還の実現および沖縄の返還問題

サンフランシスコ平和条約により米国政府の施政権下におかれた地域(奄美群島,小笠原および沖縄)については,幸いこのような話し合いの努力が成功を収めてきており,1953年にはすでに奄美群島の返還を見ている。

小笠原諸島についても,政府は米国との相互信頼関係に基づき,地道な折衝を続けてきたが,1967年11月に至り佐藤総理大臣はジョンソン米国大統領とワシントンにおいて会談し,日米間で小笠原諸島のわが国返還について原則的合意に達することに成功した。政府はこの合意に基づいて米国政府とさらに折衝を続け,1968年4月5日三木外務大臣とジョンソン駐日米国大使との間で小笠原返還協定の署名を行なった。

同協定は6月26日に発効し,ここに小笠原諸島,正確には「孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島,西之島および火山列島を含む。)ならびに沖の鳥島および南鳥島」がわが国の施政権の下に復帰したわけである。(小笠原返還協定の内容は第3部資料4(1)参照)

このように平和的な話し合いで領土回復に成功することは世界史にも類の少ないことであり,米国の施政権下に未だ残っている沖縄についても,政府は奄美群島,小笠原諸島の場合と同様に米国との話し合いによって返還を図る方針をとっている。

沖縄について,米国は従来,沖縄がいずれはわが国に返還されるべきことを認めながら,沖縄がわが国および極東の安全保障に果している重要な役割を指摘して,返還の時期について具体的な約束を行なうことを避けてきたのであるが,前述の佐藤・ジョンソン会談において「沖縄の施政権を日本に返還するとの方針の下に日米両政府が沖縄の地位について検討を行なうこと,および施政権返還の際に起るであろう摩擦を最少限にするため,本土と沖縄の一体化を促進すること」につき合意が成立し,沖縄返還の方向に大きな前進をもたらした。

この合意にしたがい,政府は米国政府との間に沖縄の地位について協議を続けており,一体化促進のため設置された日米琉諮問委員会(正確には「琉球列島高等弁務官に対する諮問委員会」)は1969年3月末までに94回の会合を持ち,経済,社会面を中心に沖縄と本土の一体化を進める努力を続けた。さらに政府は,1968年5月,同諮問委員会の要請に基づいて,日本政府一体化調査団を沖縄に派遣し,今後の一体化推進の出発点とするため,広範な分野について総合的調査を行なった。さらに,同年10月9日に開かれた日米協議委員会においては,一体化関係施策を含む本土の沖縄施策に沖縄住民の民意を反映させるため,選挙により選ばれた沖縄の代表を本土国会の審議に参加させることについて,日米間で原則的合意に達している。

沖縄の施政権返還の時期および返還後の米軍基地の態様等については,返還後の沖縄を含むわが国全体の安全を十分考慮しなければならない。

沖縄返還問題については1969年6月愛知外務大臣が渡米して上記の点を含め米国の関係者と隔意のない意見交換を行なうことになっているが,同年後半には佐藤総理大臣が米国を訪問して,ニクソン大統領と話し合いを行なう予定である。

(2) 北方領土問題

他方,北方領土問題については,政府の話し合いの努力は,現在までソ連政府のなんら受け容れるところとなっていない。

第2次大戦後,わが国は,サンフランシスコ平和条約により千島列島および南樺太を放棄したが,これらの帰属については現在に至るまで,なんら国際的合意がなされていない状態である。しかし国後,択捉の両島は歯舞群島および色丹島と同様に日本固有の領土であり,サンフランシスコ平和条約でわが国が放棄した千島列島には含まれず,わが国はソ連に対し両島が歯舞群島および色丹島とともにわが国に返還されるべきであると主張してきた(歯舞群島および色丹島は,日ソ共同宣言において日ソ平和条約締結後わが国に引渡されることになっている)。

しかし,ソ連側は終始日ソ間の領土問題はすでに解決済みであるという態度をとってきており,わが国の長い間の外交的努力にもかかわらず,返還問題はなんらの進展を見せず,そのため,日ソ間の平和条約は未だ締結されるに至っていない状態である。

1967年7月に訪ソした三木外務大臣がコスイギン首相と会談した際,北方領土問題についてわが国の立場を述べたのに対し,同首相は,平和条約に至らない形のなんらかの「中間的文書」を作ってはいかんとの提案を行なった。その際同首相は「中間的文書」の内容については格別に敷延しなかったが,会談の状況から,同首相の提案が領土問題を含むものであることが十分に推測された。よって政府は,この際領土問題をはじめとする日ソ間の懸案を総ざらいして,可能なものから解決を図ろうとの立場から,対ソ交渉を開始し,現在まで数回の話し合いを行なった。しかしこれらの話し合いを通じてソ連側が領土問題は解決済みとの態度を変えていないことが明らかとなってきている。

このようなソ連側の態度からみて,現段階において北方領土返還の目途をつけることはなお困難な情勢であるが,わが国としては,国後島および択捉島は,歯舞群島および色丹島とともに,わが国固有の領土であり,当然わが国に返還されるべきであるとの立場を堅持しつつ,沖縄とともに北方領土の返還が実現するまでは,真の意味で「戦後」は終っていないとの認識のもとに,国内世論の支持を得て,長期的な視野に立って粘り強く交渉を続けている。

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3. アジアの安定と繁栄のための外交活動

アジアの安定と繁栄は,わが国の安全はもとより繁栄と発展にとって欠くことができない。わが国はこの目的達成のために,次のような活動を行なってきた。

(1) 米国およびソ連との関係

アジアの安定については,まず域外国であるがこの地域の安定と繁栄に大きな関心を持つ米国,および北方の隣国ソ連との関係を見逃すことはできない。

まず,米国との関係については,わが国は,前述のようにその安全保障政策の基本を日米安全保障条約に置いているが,日米両国間の友好協力関係は,わが国の平和と繁栄のためのみならず,アジアの平和と繁栄にとって欠くことのできないかなめの一つである。わが国は米国との間に政治,経済,文化等あらゆる分野において緊密な協力関係を維持強化すべく努めるほか,アジアに関する重要問題についても常に隔意のない意見交換を行なってきた。

日ソ関係は,人的交流および経済交流の活発化を中心に発展してきており,1968年7月には日ソのシベリア開発協力プロジェクトの最初のものとして極東森林資源開発に関する契約が成立した。また,1969年2月には日ソ航空交渉が妥結し,1970年3月末までにはわが国の航空機が単独でシベリア上空を運航することとなった。しかし,日ソ間の最大懸案である北方領土の問題は前述のとおり何らの進展も見せていない。

(2) 韓   国

朝鮮半島は,既に述べたごとく依然緊張をはらんだ情勢にあり,わが国としては,わが国の安全保障の見地からも,この地域の平和に重大な関心を持たざるを得ない。このような情勢の下においては,わが国は,韓国に対し,その経済建設を支援することが,この地域の平和と安定に寄与するものであるとの考えに基づき外交努力を続けた。また,国際連合等の国際諸会議の場においても,わが国は,韓国の正当な主張に対しては全面的な支持および協力を行なってきた。

わが国と韓国との国交が1965年末に正常化して以来,両国の関係は貿易・経済交流,人的交流等の分野で着実に緊密化してきた。日韓両国間の政治経済全般にわたる諸問題について率直な意見を交換する場としての日韓定期閣僚会議は,1968年8月,その第2回会議をソウルにおいて開いて,両国間の相互理解を深めた。1968年のわが国の対韓国輸出は6億0,300万ドルに達し,韓国はわが国にとってアメリカに次いで世界第2位の輸出市場になった。わが国の韓国に対する無償経済協力(1965年末より10年間に3億ドルの供与),有償経済協力(同じ10年間に2億ドルの供与),商業信用の供与,対韓国合弁投資の許可等も着実に進められている。

このように関係が緊密になると,それぞれの分野について,協力の推進のためにも,両国間の見解を調整することが必要となってくることがある。

最近においては韓国は,その経済建設上の最大の問題点である国際収支問題の解決のために,わが国との貿易の不均衡(1968年において日本の対韓輸出は約6億ドル,韓国の対日輸出は約1億ドル)を是正することを目指して,わが国に対し,一次産品の輸入自由化,保税加工関税問題について,協力を強く要請し,また韓国の第2次5ヵ年計画の達成のため,有償,無償の経済協力,商業上の信用供与,合弁投資等についてその促進を希望した。さらに,在日朝鮮人の問題については,北鮮帰還問題,在日朝鮮人の北鮮向け再入国問題,在日韓国人の法的地位,教育等の処遇問題等について,わが国に対し要望を行なった。

他方,わが国は韓国におけるわが国企業および個人に対する課税問題,工業所有権保護問題等の,韓国と経済協力を進めて行く上で障害となる諸問題を解決するための努力を行なった。

これらの問題については,日韓両国は,その基本的協力関係の増進を阻害しないように,相互の立場の尊重の上に上述の定期閣僚会議および貿易会議その他の両国関係当局間の会議等を通じ,十分な協議を行なってきた。その結果すでにいくつかの問題について解決を見,または解決の方向に前進をとげており,1968年度には,商標権相互保護に関する取決めが成立し,韓国の干ばつを救うための米の33万3千トンの貸与が行なわれ,船舶,航空機運輸所得に対する租税の相互免除のための取決めが成立したほか,租税条約締結問題についても前進が見られた。(第2回日韓閣僚会議共同コミュニケは第3部資料3(4)参照)

(3) 中国問題

次に中国問題もまたわが外交の極めて重要な課題である。わが国は,一方において中華民国との間に平和条約を締結し,これと外交関係を維持しつつ,他方において,約7億の人口をもっている中国大陸との間にも,貿易,文化,人の交流をはじめ,各種の実務関係を保ってきた。中華民国政府,中共政権の双方がいずれも中国全体の主権者であるとの立場を主張している現状にかんがみ,わが国は,わが国およびわが国を含む極東の平和と繁栄のため,中華民国との間の友好関係を維持するとともに,中共との間には,その態度の変化に期待しつつ貿易をはじめとする各種接触の門戸を開放してきた。中国をめぐる問題は,アジアのみならず世界の将来にとっても重要な問題であるので,わが国としては国連においても審議がつくされるとともに,中国自身はもちろん関係諸国の十分な了解の下に公正な解決がはかられることを強く希望している。

1968年において,わが国と中共との貿易および人的交流は,中共の「文化大革命」の影響により,前年に引き続いて減少した。また中共に滞在中の邦人が相次いで逮捕される事件が起り,1968年末までに13名の邦人が中共地区において逮捕,拘留または行方不明となっていることが確認されている。政府としては,あらゆる手段をつくして,中共側に対しこれらの邦人の消息調査および早期釈放を要請してきており,現在まで日本赤十字を通じ中共紅十字会に対して,また中共と外交関係をもつ第3国政府および赤十字国際委員会を通じて,さらにはわが国と中共とが在外公館をおいている国の在外公館において直接に中共政府に対して,それぞれ申し入れを行なってきたが,残念ながらなんらの具体的成果が得られなかった。政府は今後とも可能な限りの方法でこれら邦人の消息の確認および早期釈放の実現に努力することとしている。

(4) インドシナ半島

アジアの平和と繁栄にとっての大きな問題は,インドシナ半島の情勢,なかんずくヴィエトナムの紛争である。わが国は,この紛争の一方の当事者である米国および南ヴィエトナムと友好関係を持ち,しかも軍事的には紛争の圏外に立っているという独自の立場にあり,このような独自の立場から,米国,南ヴィエトナム,北ヴィエトナム等の紛争の直接の当事者に対して,あらゆる機会をとらえて話し合いによる平和解決の必要を訴えてきた。わが国は,さらにジュネーヴ会議の共同議長国であるソ連および英国,ならびに国際監視委員会(ICC)の構成国であるカナダ,インドおよびポーランドをはじめ,関係各国とも密接な接触を保ちつつ和平気運の醸成に努めた。特にソ連に対しては,ソ連が和平実現のために積極的にその影響力を行使するようしばしば要請を行なったほか,カナダとは,ともに平和的解決の具体的方途について検討を行なった。

1968年3月の北爆部分停止により,同年5月米国および北ヴィエトナムの間にパリ会談が開かれるにおよび,わが国はこれを心から歓迎するとともに,この交渉を静かに見守っていることが会談の進展に最も資するとの立場に立ちながらも,わが国が側面より果しうる役割があればこれを積極的に行なう用意がある旨表明してきた。1968年10月の北爆全面停止の後開催の運びとなった拡大パリ会談に対して,南ヴィエトナム政府の出席が問題となった時には,わが国はこのような立場から米国および南ヴィエトナム間の意思の疎通を助ける努力を払ったのである。わが国は今後とも求められれば,必要に応じてこのような側面的協力を行なうこととしている。

同じインドシナ半島のラオスにおいても情勢は緊迫している。ラオスは1962年のジュネーブ協定により中立国となったが,その後左派が中道政権から離脱し,分裂抗争の中に不安定さを増してきた。わが国はヴィエトナム紛争が解決した暁には,ラオスの安定のためにも貢献をしたいと望んでいるが,現在まで取りあえず同国の為替安定基金に対する拠出,ナムグム・ダム建設計画に対する資金援助等を行なってきた。

わが国は,ヴィエトナムにおいて将来和平が実現した暁には,これを一時的な和平に終らせることなく,永続的な平和のうちにインドシナ半島および広く東南アジア全体の繁栄を図るものとしなければならないとの考えから,ヴィエトナム戦後の諸問題に対して積極的な姿勢を示してきた。すなわち,わが国は将来ヴィエトナム和平に関する国際会議が開かれることとなった場合には,求められればこれに参加する用意がある旨を表明し,またヴィエトナムについてなんらかの国際的平和維持機構が設立されることとなり,わが国も関係国より要請されるならば,わが国国内法制の許す範囲内でこれに参加する用意があることを明らかにしてきた。さらにわが国は,関係各国に対してヴィエトナム戦争の終結後ただちに,南北ヴィエトナムおよび周辺諸国に対して戦災復旧および民生安定のために国際協力に基づく援助を行なうことが必要であるとの考えを強調してきた。

わが国は,このように「静かなる外交」を通じてヴィエトナム和平実現のために貢献するとともに,ヴィエトナム戦後におけるわが国の責任ある役割について探究を続けている。

(5) アジア・太平洋協議会(ASPAC)

アジアの安定と繁栄のために心強いことは,アジア諸国の間に,相携えて共通の課題に取組もうとの地域協力の気運が高まってきたことである。わが国としては,アジア,特に東南アジアに対する経済協力の充実に努めるとともに,アジア諸国の政治,経済,社会の各分野にわたる相互理解と地域協力のための努力を促進してきた。

まず,アジア・太平洋協議会(ASPAC)は,1966年6月に結成されたが,わが国は,この機構が従来ともすれば有機的な結びつきに乏しかった東北アジア,東南アジア,大洋州の3地域の諸国を一つの協力体制の下に結びつけ,相互の理解と協調を図ろうとしている点を重視して,その発足以来,この目的の達成に努力してきた。1968年7月には,ASPAC第3回閣僚会議がキャンベラで開かれ,三木外務大臣が首席代表として派遣された(第3回閣僚会議における外務大臣冒頭演説および共同声明の内容は第3部資料2(2)および3(3)参照)。わが国は現在まで3回の閣僚会議および常任委員会における参加国の協議,その他の活動を通じて,各国に働きかけ,ASPACの性格,運営に関して,次の点につき意見の一致を得るにいたっている。

(あ) ASPACは,平和と進歩をめざした建設的協力のための機構であり,地域外諸国との対決を意図するものではなく,また軍事的協力をその対象としない。

(い) ASPACは,多数決によって結論や合意を求めることなく,全参加国の総意をその運営の基礎とする。

(う) ASPACの門戸は,ASPAC地域の未参加国に対して常に開かれる。

ASPACは,さらに地域的協力を側面から助長するための具体的事業計画をも進めており,1967年の第2回閣僚会議の協定に基づき,1968年7月,「専門家登録機関」がキャンベラに設けられ,ASPAC諸国間の技術協力促進のため,専門家の派遣について情報の提供あっせんなどを行なうこととなった。また同年10月には文化社会センターがソウルに設置され,ASPAC諸国間の文化交流につき相互協力を進めることとなった。

わが国は,ASPACを通ずる地域協力のいっそうの発展のために,1969年6月その第4回閣僚会議を本邦で開催することとしており,従来からの慣行に従ってすでに東京においてわが国の外務大臣を議長とし各国の在京大使をメンバーとする常任委員会を開催し,随時国際的諸問題について継続的な協議を行なうとともに,第4回閣僚会議の開催準備をすすめている。

(6) 東南アジア開発閣僚会議

わが国はまた1966年東南アジア開発閣僚会議の開催を提唱し,東南アジアの経済開発という共通の目標達成に向って具体的な努力を進めてきた。1968年4月には,その第3回会議がシンガポールにおいて開かれたが,わが国は同会議に対して三木外務大臣を首席代表として派遣し,東南アジア開発における地域協力の重要性を強調しつつ,わが国がこの地域の各国の自助の努力に対して,できる限りの協力を行なう決意を表明した。(第3回閣僚会議コミュニケの内容は第3部資料3.(1)参照)

東南アジア開発閣僚会議は第1回の東京における会議,第2回のマニラにおける会議,第3回のシンガポールにおける会議をへて,この地域の経済開発のための域内協力について,その具体的方途を探求する意見交換の場としての重要性を高める一方,すでにいくつかの面で域内協力について具体的成果をあげている。閣僚会議の成果としてまず挙げるべきものに,アジア開発銀行の特別基金の一つとして設置された農業特別基金がある。これは第1回の閣僚会議において,東南アジアの経済開発のためにはまずもって農業開発を行なう必要があるとの認識のもとに提案され,1966年12月東京で開かれた東南アジア農業開発会議および第2回の閣僚会議において,その設置につき原則的合意をみていたものである。アジア開発銀行は,アジアにおける経済開発のために,緩和された借款条件で資金を供給するための特別基金の設置について検討を行ない,1968年9月農業特別基金を含む特別基金を設置運営するための一般規則を採択した。わが国は,米国以外の諸国がわが国の拠出に見合う拠出を行なうことを条件として,同基金に対し主として農業開発のため1億ドルの拠出を行なう用意がある旨表明してきたが,1968年12月とりあえず農業特別基金に対し2,000万ドルの拠出を行ない,同基金に対する初の拠出国となった。

このほか,閣僚会議の合意に基づきいくつかの地域協力活動が行なわれたが,特に1967年12月に設立された東南アジア漁業開発センターは,その後,漁業技術者の訓練,漁具漁法の研究等を主たる任務とする訓練部局をタイに,漁場の開発,漁業資源の調査等を主たる任務とする調査部局をシンガポールに設置することに決定し,1969年3月の第2回理事会において,事業計画の決定を行なって本格的活動に入ろうとしている。わが国は本センターに対しても訓練船,調査船,訓練・調査用器材のための拠出,漁業専門家の派遣等積極的協力を行なうこととしている。

東南アジア開発閣僚会議はこれらの成果をふまえた上,1969年4月その第4回会議をタイのバンコックにおいて開催した。同会議において愛知外務大臣は,閣僚会議を通じて経済開発のために基礎的な重要性を持つ分野を中心に地域協力を進めることを提唱しつつ,わが国の国民総生産が1980年頃には5,000億ドル台にも達しうるであろうとの試算を紹介し,わが国は今後こうした国民経済の発展に応じて,東南アジアを中心に積極的に経済協力を推進する方針であることを明らかにした。

またこの会議においては,各国の経済開発と地域協力について,従来にもまして率直かつ現実的な意見交換が行なわれ,具体的にも,70年代の東南アジア経済分析を実施することとなったほか,いくつかの分野での地域協力の可能性について検討を続けることとなった。

(7) アジアに対する経済協力

アジアの安定と繁栄のためには,上述のように各国の自助の努力を基にした地域協力が必要であるとともに,この努力に対する先進諸国の協力もまた欠かせないものである。このためには,わが国のみならず他の先進諸国の協力が必要であり,わが国はアジアの安定と繁栄に特に大きな関心を持っているオーストラリア,ニュー・ジーランド,米国,カナダ等の太平洋の先進諸国の協力を呼びかけるとともに,この地域に関係の深い西欧諸国の協力を得るよう努めてきた。

同時にわが国としても,アジア開発のための経済・技術援助を進めてきており,アジア開発銀行等の国際機関への出資およびすでに供与を約した二国間援助のほか1968年度には新たに借款の供与をインドネシア(7,500万ドル),ビルマ(3,000万ドル),フィリピン(3,000万ドル)およびカンボディア(840万ドル,うち半額は贈与)の各国に約束した。そのうちインドネシアについては,わが国が1966年および1967年に供与した援助は商品援助,債務救済等の経済状態の悪化を防ぐためのいわば緊急援助の性格を持っていたが,次第に経済開発の効果を目的とするプロジェクト援助とする方向に進めており,1968年の借款供与もこのような線に沿ったものである。わが国の対インドネシア援助はインドネシアの受けている援助総額の3分の1近くに達しているが,わが国を含む各国の援助の効果はインドネシアのインフレーションの鈍化,経済の回復となって現われてきている。

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4. 「平和への戦い」のための外交活動

世界平和のための戦いの戦士として,わが国の責任は近年急速に高まってきた。わが国は,適切な安全保障政策の下に,国民の努力によって戦後の荒廃から復興して,急速な経済成長をとげ,今や国民総生産において世界第3位の国にまでなった。もちろんわが国の国力は米ソの両巨大国には及ぶべくもなく,また一人当りの国民所得も未だ欧米諸国よりかなり低い。しかし,わが国は,今や世界の主要な先進工業国の一つであり,わが国が外交面で行なう活動が,世界の平和にとって直接間接に影響を及ぼす度合は著しく高まったのである。

平和への戦いは,世界の諸国との友好関係の維持増進をもって始まる。わが国はわが国と密接な関係を有するアジア・太平洋地域の諸国をはじめ,世界のあらゆる国との友好関係の維持発展に努め,ソ連および東欧諸国との間においても,相互理解と友好関係の増進をはかってきた。

(1) 紛争の平和的解決と国際連合の強化(チェッコスロヴァキア事件・中東問題)

国際社会における武力行使行為の根絶,そしてこのための国際連合の強化は,平和への戦いの最重要課題である。わが国は1956年国連に加入して以来,国連の平和維持活動の強化を一貫して積極的に支持してきた。また,わが国が平和国家としてさらに積極的な役割を果して行くべく,国連におけるわが国の地位の向上のために努力を続けてきた。

国際紛争の平和的解決を希求するわが国にとって,1968年8月のソ連・東欧軍のチェッコスロヴァキア侵入は,大きな衝撃であった。ソ連政府は,侵入の翌日わが国に対し,この軍事介入がチェッコスロヴァキア政府および党の要請に基づくものである旨連絡してきたが,政府は,あらゆる信ずべき情報および兆候に基づいて,ソ連・東欧軍の行動がチェッコスロヴァキアの独立と主権に対する侵害であり,国連憲章の規定と精神に違反する行為であると判断して,ソ連・東欧軍が即時,かつ,無条件に軍事介入を中止し,独立および主権の尊重の立場に立って平和的解決の方途を講ずるよう要望する旨の公式声明を発表した上,ソ連,ポーランド,ハンガリー,ブルガリアの各政府に対しこれを伝達した。(同公式声明の内容等は第3部資料6.(5),(6),(7)参照)

さらに,1968年10月国連総会において三木外務大臣は,チェッコスロヴァキア侵入事件に言及し,平和の維持に対する大国の責任の重大さを指摘してその自制を求めるとともに,自国の存立自体を世界の平和と安定に依存しているわが国としては,国連の平和維持機能の実効性を拡大するためには,できるだけの協力を行ないたいとの決意を再び明らかにした。(同国連総会における外務大臣一般演説の内容は第3部資料編2.(1)参照)

中東問題についても,わが国は関係諸国に対し平和的解決の必要を説いてきたが,さらに上述の三木外務大臣の演説において,当事国がヤリング事務総長特別代表と協力し,早急に恒久的な平和の基礎を確立するよう訴えた。

(2) 軍縮および核兵器問題

軍縮と軍備撤廃は,真の世界平和の達成のために,世界のすべての国民の希求するところである。わが国は,現実の世界の一応の安定と平和が,基本的にはイデオロギーを異にする二つの陣営間の力の関係より成り立っているという現実をふまえつつも,理想の方向へ一歩づつ前進して行く地道な努力を続けてきた。またわが国は軍縮を通ずる世界平和に対していっそうの貢献を行なうため,軍縮問題討議の主要な場となっている18ヵ国軍縮委員会に参加を希望し,関係各国に対してこの実現のために強く働きかけている。

(イ) 核実験に対する抗議

核爆発実験は,軍縮を通ずる世界平和への方向に逆行するばかりでなく,特に大気圏内で行なわれた場合,長期にわたって大気を放射能により汚染する等,原爆の悲惨さを身をもって体験したわが国にとって容認しえないものである。わが国はこれまで再三にわたりあらゆる核実験に反対の態度を明らかにしてきたが,このようなわが国国民および全人類の平和への悲願にもかかわらず,フランスは1968年7月に南太平洋において,また中共は同年12月にそれぞれ核実験を行なった。政府はフランス政府に対し事前にこの実験の中止を強く要請していたが,実験が行なわれるにおよび,これを極めて遺憾として非難するとともに,フランス政府に対し強く抗議した。また中共の実験に際しても特に中国大陸に近接しているわが国に直接被害のおよぶ恐れがあるので,中共に対し強く反省を促すとともに,再びこのような実験を行なわないよう切望する旨発表した。(フランスおよび中共に対する抗議内容は第3部資料6.(2),(4),(12)参照)

(ロ) 核兵器不拡散条約

わが国はさらに,核兵器不拡散条約の作成に当っても,軍縮達成への努力の一環として,積極的にこれに参加した。

政府は,核兵器の拡散が核戦争の危険を増大し,世界平和の重大な脅威となると考えて,核兵器不拡散条約の精神を支持してきた。しかしそれと同時に,この条約が,その目的を達成するためには,できるだけ多くの国,特に核兵器を製造する能力のある非核兵器国の参加を確保することが必要であり,そのためにも,核兵器を持つ国と持たない国とがともに責任と義務を公平に分ち合うという精神で協力しあうことが必要であるとの立場をとってきた。

わが国はこのような観点から,条約交渉の主要当事国である米ソ両国に対し,非核兵器国の安全保障の問題,核兵器国の軍縮努力の問題,将来の重要産業となるべき原子力の平和利用の問題,および条約運用の定期的再審議の問題について申し入れを行ない,わが国の主張を条約中に反映させるよう努力を続けてきた。

条約案は,18ヵ国軍縮委員会における審議の過程で,わが国をはじめとする各国の意見もかなり取入れられ,1968年3月国連総会に報告された。わが国は,国連総会において,わが国が従来から主張してきた立場を大要次のとおり明らかにし,条約案がわが国の立場を受け入れる形でさらに修正されるよう要請した。

i) 条約案の下において,現在核兵器を持っている国は,核兵器を維持し製造し続けることが許され,他方,現在核兵器を持たない国は,最低25年もの長い間核武装によって自国を防衛する権利を放棄するという重大な義務を負う。しかも現在核兵器を持つ5ヵ国がすべて条約に参加するかどうかは決して楽観できない情勢であり,核兵器製造能力のある非核兵器国のうちどれだけが条約に参加するか全く不明である。従って,この条約に参加する非核兵器国にとっては,その安全を条約に参加する核兵器を持つ国によって保障されなければならない。

ii) この条約が,核戦争の勃発に対する人類の不安を除去する方向への第一歩である以上,単に核兵器を持たない国が核兵器の所有を放棄するだけでなく,核兵器を持っている国々が,核兵器の軍縮,ひいては一般軍縮に努力するという義務を誠実に遂行しなければならない。その意味で核爆弾の悲惨を身をもって味わった日本としては,地下核兵器実験禁止条約のすみやかな締結を強く希望している。またすべての核兵器国は,国連憲章に規定される諸原則に違反するような方法により核兵器を使用すること,また使用すると言って威嚇することを慎まなければならない。

iii) この条約は,核兵器を持たない国が原子力の平和利用とその研究開発を行なうことをいささかも妨げるものであってはならず,むしろ国際協力を通じて原子力の平和利用を促進し,それによって人類の福祉の増進に貢献するという目的をもっていることが強調されなければならない。この目的のためには,原子力平和利用活動に対する国際的保障措置の適用について,核兵器を持つ国と持たない国との間に差別があってはならない。またその保障措置はできる限り簡素化され,合理化されなければならず,非核兵器国に対し核物質の国際的交流がさらに自由化されるべきである。

米ソ両国は国連総会におけるこのようなわが国の主張およびイタリア,メキシコ等の見解を考慮し,新改訂条約案を提出したが,この改定条約案には,わが国の主張を勘案して,前文に武力の行使またはその威嚇の禁止に関する1項が入り,また主文の原子力平和利用に関する規定が強化された。

このような改訂の後,6月12日国連総会は核兵器不拡散条約を推奨する決議案を票決した。わが国は,この条約案がわが国の主張の多くの部分をとり入れていること,核兵器拡散防止が核軍縮達成のために重要であることを考慮して,この決議案を支持し,同決議案は95ヵ国の賛成を得て採択された。なお,非核兵器国の安全保障に関して,安全保障理事会は,6月19日米ソ英3国決議案を採択した。(核兵器不拡散条約,同推奨決議および非核兵器国の安全保障に関する安保理決議の内容は第3部資料5.(1)参照)

核兵器不拡散条約の署名式は,1968年7月1日米,ソ,英3国の首都で行なわれ,1969年3月末までに上記3国を含む88ヵ国が署名を行なった。

わが国は,未だこの条約に署名していないが,核兵器を製造または取得する意図はもっていない。また,わが国が上述のように核兵器拡散防止の趣旨を積極的に支持し,公正な条約が実現するよう努力した結果,条約の中にわが国の主張を少なからず容れることに成功したものであると考えている。しかし,この条約の署名の時期等については,同条約がわが国の将来に与える影響の重大さを考え,慎重に検討している。

(3) 南北問題

南北問題の解決もまた平和への戦いの重要課題である。貧困,無智,偏見,疾ぺいは,ことごとく平和の敵であり,イデオロギーの争いもこうした情勢がこれを激化しているともいえる。アジアにおける不安定の最大原因の一つはまたここにあるわけである。

わが国は世界に真の平和と繁栄をもたらすため,南北問題の解決に努力を続けてきた。対外援助の面では,わが国は,国民所得の増加にともない供与資金量の増加を図りつつ,援助対象国の増加,援助内容の多様化を進めてきた。またわが国の援助の条件(償還期間,金利等)は先進国中最もきびしいものの一つであるとして,発展途上の諸国およびOECDの開発援助委員会に参加する先進諸国から強い批判を受けてきたが,1968年にはこの援助条件の緩和の方向に大きく前進した。また,発展途上国がインフレーション昂進,輸出不振,外貨不足等の著しい経済不振におちいった場合,経済安定を目的とする商品援助が必要となることが多かったが,わが国は従来,機構上の制約からこのような援助を行なうことが困難であったので,政府は1968年5月これが可能となるよう海外経済協力基金法の改正を行ない,わが国の経済協力体制整備の方向に一歩を踏み出した。

さらに,わが国は,効率的な援助を行なうために,わが国が過去に行なった経済協力が実際にどのように活かされているかについて,実績調査を行なうこととし,1969年初頭インドネシア,パキスタン,インド等に調査団を派遣した。この調査において,一部には受け入れ側の経営能力,現地通貨の不足等により問題を生じている国もあったが,全体としてわが国の経済協力が,受け入れ国の開発に非常に有効な働きをしていると認められ,今後の経済協力の進め方に対し有益な指針となった。

しかし,これらの発展途上国が後進的経済状態から「離陸」して,安定した経済発展を遂げるためには,このような援助に加えて,発展途上国自身の輸出所得の増大を図ることが必要であり,「援助よりも貿易を」という言葉は,近年発展途上国の合言葉ともなっている。しかるに,発展途上国の輸出の大部分は需給関係および価格が不安定な一次産品であることから,一次産品の価格安定を図るとともに,これらの品目に関する貿易障害を撤廃することが重要である。かかる見地より,わが国も,1968年2月に採択された新コーヒー協定および同年10月に採択された新砂糖協定の両商品協定に加盟するとともに,UNCTAD,FAO等における茶,ジュート,ケナフ(ボンベイ,あさ),ゴム,採油用種子,油等の問題に関する検討にも積極的に参加して来た。また,二国間関係でも各種の調査団を派遣して,一次産品の買付増大,開発輸入の促進を図るとともに,採油用落花生,羊革等の一次産品についての関税引下げ,コーヒー,ココアの物品税引下げ等一次産品の貿易障害の軽減に努力してきた。

他方,製品および半製品貿易が,発展途上国の輸出に占める割合は,未だ極く僅かであるが,これを促進助長することは,発展途上国の工業化促進の見地から重要であるとの認識から,特恵供与の問題が南北問題解決の一つの鍵として大きく取り上げられている。わが国は,その輸出構造上第三国市場において発展途上国と競合する商品が多いため,輸入面のみならず輸出面においても影響を受けるところが少なくないが,先進国の一員として南北問題解決に寄与するとの見地から,1967年11月特恵供与の方針に踏み切った。以来わが国は,OECDやUNCTADの場において具体的な特恵制度策定のための検討に参加して来ており,OECDにおける合意に基づき,1969年3月10日暫定的な特恵品目リストをOECDに提出した。

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5. わが国の繁栄のための外交活動

政府は,わが国の繁栄と発展のために不可欠な世界貿易の拡大,国際通貨体制の安定ならびに科学技術の発展のための国際協力として,1968年には,次のような活動を行なった。

(1) 貿易の拡大

(イ) 関税引下げ

まず,わが国は,戦後今日に至るまで,自由無差別の原則を旗印とするガット体制に積極的に協力し,また二国間貿易交渉を行なって貿易拡大の努力を続けて来ている。

ガットの場における貿易拡大努力の最大の成果としては,ケネディ・ラウンド交渉により1967年に決められた関税の一括引き下げがある。政府は,1968年7月国会の承認を得て関税引き下げ幅の5分の2の引下げを実施し,今後1970年より72年まで毎年1月1日に残り5分の1ずつの引下げを行なうこととなっている。また,ケネディ・ラウンド交渉の一環として作成されたダンピング防止措置に関する「ガット第6条の実施に関する協定、についても,わが国は,これを正式に受諾し,1968年7月1日に,国内の反ダンピング法制を整備するため関税定率法第9条の改正を施行した。

(ロ) 輸入自由化の促進

このようにして世界貿易拡大に対する関税面での障壁は大幅に取り除かれることとなったが,これに伴い,関税評価制度等の関税以外の貿易障害の存在が次第に注目されるに至っている。わが国は,世界貿易のいっそうの拡大を図るためには,非関税障害の軽減ないし撤廃が不可欠であるとの認識から,ガットを中心に進められている非関税障害を除去するための検討に積極的に参加している。

とくに,いわゆる残存輸入制限については,わが国が1963年以来ガット規約上国際収支の困難を理由に輸入制限を行なうことが原則として許されない「11条国」に移行しているにもかかわらず,先進国中最も多くの残存輸入制限品目を残していることから,ガット等の国際機関および2国間交渉等の場において,わが国に対する残存輸入制限撤廃の要求が次第に強まりつつある。政府としては,輸入自由化の推進がわが国の開放経済下での一段の経済成長と国民の生活水準向上に資するものであり,またわが国の長期にわたる輸出拡大を図るためには,わが国自身も輸入の自由化を行なう必要があるとの見地から,1968年12月「両3年中にかなりの分野において自由化を実施する」との方針を決定するとともに,これに基づき,同月末には日米間の協議を行なった。

また,わが国は,各国の輸入制限の緩和,特に対日差別の撤廃のために努力を続けるとともに,新たな輸入制限の動きに対してもあらゆる機会に反対の意向を表明してきた。

(ハ) 片貿易是正

先進国と発展途上国の間の貿易においては,発展途上国側の輸入超過が恒常化しており,世界貿易のいっそうの拡大を図るためには,このアンバランスを是正することが必要となり,一次産品の買付問題,開発輸入の問題がクローズアップされるに至った。わが国の場合は,総輸出の3割の比重を占めるアジア諸国について,とくにこのような問題が生じており,多数の国が機会あるごとにわが国に対してこの是正を求めてきている。こうした片貿易の原因は,これら諸国の多くが一次産品輸出国であって,その輸出産品が品質,価格面で必ずしも競争力が強くないというところにあるが,政府としては各種の一次産品調査団を派遣して産品の調査を行なうとともに,開発輸入の推進に努力するなど片貿易の是正をはかっている。

(2) 国際金融面での国際協力

国際通貨体制の安定と発展もまた世界貿易の拡大のために不可欠の要件である。わが国はIMFをはじめ10ヵ国蔵相,中央銀行総裁会議等の場における金融・通貨問題をめぐる国際協力に継続的に参加するとともに,基軸通貨である米ドル,英ポンドの地位を維持するための努力にもできるだけの協力を行なっている。

1967年11月のポンド切下げ以来続いている国際通貨不安の主因は,基軸通貨である米ドルおよび英ポンドに対する信認が動揺してきたことであり,ドルおよびポンドの地位の安定化は,今後の世界経済の順調な発展のためには不可欠である。わが国は,ドルの地位の安定化のためには,何よりも先ず米国国際収支の改善が必要であるとの認識から,1968年初頭米国政府が発表した広範なドル防衛策にも可能な範囲内で協力するとの態度で臨んでおり,このほか1968年11月には米国輸出入銀行債の購入等の措置も講じてきている。

他方,ポンドについても,主要諸国は,1967年11月のポンド切下げに際し30億ドル余の対英借款に合意するとともに,その後も海外ポンド残高安定化のために国際決済銀行を通じ20億ドルの借款供与を行なうなど英ポンドに対する支援を行なっており,わが国もこれら活動に参加してきた。

1968年11月のいわゆる欧州通貨危機に際しては,わが国は,フランス・フランは基軸通貨ではないとしても,仮にフランが切下げられた場合には通貨体制全体に混乱を及ぼす恐れも大きいとの判断から,他の主要諸国とともに10ヵ国会議を通じて20億ドルの対仏借款にも参加した。

なお,これら通貨問題との関連で指摘されている各国の経済政策の調整の必要性,すなわち赤字国,黒字国それぞれの国内経済政策の適正化により,為替平価間の不均衡の原因を除去すべきであるとの観点から経済協力開発機構(OECD)等の場でわが国を含めた関係諸国の間で検討が続けられている。

1968年3月のいわゆる第3次ゴールド・ラッシュを機として金のいわゆる二重価格制への移行がワシントンにおける金プール参加諸国の中央銀行総裁会議において決定されたが,わが国は,直接にはこの会議には参加しなかったものの,世界通貨体制の安定を計るという見地から,この決定を尊重し,関係諸国と共同歩調をとってきている。

また,国際流動性問題については,1967年9月のIMF総会および1968年3月の10ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議で特別引出権(SDR)制度の創設について合意が成立し,その後のIMF理事会および総会でIMF協定の改正として正式に採択されたが,わが国も,IMF理事国として,また,10ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議の一員としてSDRをめぐる討議には積極的に参加してきた。わが国としては,SDR制度は各国の協力により適切に運用されれば,現行通貨体制に一つの発展をもたらすものであり,世界経済の安定的拡大に多大の貢献をなしうるとの観点から,この制度の早期実現に努力している。

(3) 資本取引の自由化

わが国の資本取引および経常貿易外取引の分野における自由化については,これが他の先進諸国に比べてかなり立遅れているため,資本取引を中心とする海外からの自由化の要請が近年とみに高まってきている。資本の自由化は,その実施にあたって検討を要する問題も多々あることは事実であるが,自由な国際的経済活動を通じて日本経済の発展をはかって行こうとしているわが国にとっては,国際的な要請でもあり,またわが国産業のいっそうの発展に資するものである。

かかる認識より,わが国は,1967年6月に対内直接投資等に関する基本的方針および第1次自由化措置を決定し,さらにこの基本方針に基づいて1969年2月には,対内直接投資の第2次自由化を実施した。しかし,これに対する海外からの不満はなお強いのが実情であり,第2次対内直接投資の自由化においても,外資に魅力ある業種が自由化されなかったとの批判も見られ,資本自由化についての海外からの要請は,今後もいっそう強まるものと予想される。

(4) 科学技術発展のための国際協力

わが国の経済が今後さらに発展を遂げるためには,わが国自身が独自の科学技術の開発に力を入れるとともに,先進諸国の優れた科学技術を導入して行くことが必要であり,技術移動の障害の除去,科学技術に関する情報の交換等をめぐる国際協力の重要性がますます高まりつつある。これに加えて,最近においては,新しい科学技術の開発にあたって基礎研究および情報収集に莫大な資金を要するため,この面からも共同研究開発や情報交換等の国際協力が必要となっている。かかる認識の下に,わが国としても,国連,OECD等の国際機関を通じて科学技術情報の交換,共同研究の促進,技術移動の円滑化等についての国際協力に積極的に参加して来ている。

とくに,原子力平和利用の分野においては,政府は,1968年7月および10月に日米および日英原子力協定をそれぞれ更新発効させることにより,わが国の原子力産業が必要とする核燃料の供給を長期にわたって確保するとともに,今後米国および英国との間の原子力平和利用における協力を,より平等な基盤の上に推進するための基礎を築いた。他方,国際原子力機関の場においては,核拡散防止条約との関連で,わが国は,原子力平和利用確保のための保障措置制度が原子力産業の経済性を阻害しないように簡素化され合理化されなければならないことを強く主張した。

また,宇宙空間平和利用の分野においては,わが国は,国連宇宙平和利用委員会の一員として,宇宙科学技術の発展のための国際協力に参加するとともに,米国との間でも,宇宙開発促進に必要な技術機器を導入するための具体的話合いを行なってきた。さらに,わが国は,近時注目をあびている海洋開発の分野でも,国連の場を中心にわが国の利益増進に努めてきている。

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