第8章 ヨーロッパの情勢
現在の世界情勢の基本的性格は米・ソの「平和共存」であり,ヨーロッパの情勢もその例外ではない。
ソ連のヨーロッパ政策の基本は,第二次大戦の結果樹立した東欧圏に対する指導権を確保しながら,西欧諸国については,その主目標をドイツ(西)の孤立化に置きつつ,西欧の団結および西欧と米国との結び付きをできるだけ弱めることにあると考えられる。
他方米国のヨーロッパ政策の基本は,これに対し西欧の団結を強め,西欧と米国との結び付きを確保するとともに,長期的には西側の文明が,水の高きより低きにつくがごとく,東側にも影響を及ぼすべしとの確信にもとづきソ連,東欧諸国の変ぼうを期することにあると考えられる。
西欧諸国と米国は,1948年のチェッコスロヴァキア共産化等の事態を背景として,徹底した防御的戦略を基礎とする北大西洋条約機構(NATO)を設立し,西ヨーロッパの安全の確保をはかったが,最近の数年間には東西緊張緩和の気運がNATO内にも強まり,米国の核の持込みをはじめとする強力な軍事的防衛力の確保を背景としつつ,NATOを東西間の接触についの西側の協議の場としても活用することとなった。
(イ) チェッコスロヴァキア事件以前
ソ連は上記の西側諸国の緊張緩和政策に対し,東欧の結束弛緩,東独の地位不安定化を憂慮して既に1967年初頭,東独,ポーランド,チェッコスロヴァキア間にいわゆる「鉄の三角同盟」を成立させて,西側の緊張緩和政策に対抗する措置をとったが,チェッコスロヴァキアが,「人間の顔をもつ社会主義」の確立を目ざして一連の自由化措置に着手し,これが他の東欧諸国に動揺を与えたのを見て,既にチェッコスロヴァキア侵入以前にイデオロギー引締めを最優先政策としていた。
他方西側諸国は,かかるソ連の警戒的態度にもかかわらず,緊張緩和政策を続行し,あるいは続行する態度を明らかにした。
すなわちドゴール大統領は,チャウセスク・ルーマニア国会評議会議長の招待により1968年5月14日より18日までルーマニアを公式訪問し,ルーマニア滞在中に,仏・ルーマニア間に経済および科学技術協力混合委員会の設置に関する合意,並びに領事協定の署名が行なわれた。
一方6月24日および25日開催されたNATO理事会において,ドイツ(西)のブラント外相は,東独が,東独への入国,西ベルリン旅行のための東独通過に際して新たに旅券の保持および査証の取得を要請する措置をとったにもかかわらず,ドイツ(西)としては緊張緩和政策を続けると発言した。
(ロ) チェッコスロヴァキア事件
欧州における東西関係において,チェッコスロヴァキア事件が有する最も大きい意義は前述の西側の緊張緩和政策に対し,ソ連が,東欧圏に対するソ連の指導的立場は何としてでも維持するという態度を示したことにあり,西側の緊張緩和政策は将来についての楽観論に冷水をかけられたことになった。
ソ連の対チェッコスロヴァキア軍事介入の事態に対処するための方策を検討した11月のNATO理事会はNATOの質的強化および対ソ警告を中心とするコミュニケを採択した。
上記対ソ警告は「ヨーロッパまたは地中海の情勢に直接または間接に影響を及ぼすソ連の介入はいかなるものであれ,重大な結果を伴う国際的危機をもたらすであろう」という趣旨のものであった。同時に全加盟国は,今後ともNATOが存続すべきことにつき意見が一致した。
次にチェッコスロバキア事件以降のソ連と西欧主要各国との関係についてみると,先ずドイツ(西)については,チェッコスロヴァキア事件は新東方政策推進に対する大きな打撃を意味し,また東側からの軍事的脅威をより現実的なものとした点で,他の西欧諸国にも増して衝撃であったものと考えられ,キージンガー首相は8月24日NATO諸国の首脳会談を提唱し,次いでブラント外相は西欧連合(WEU)の外相会議開催を提案したほか,28日には政府声明を発表してチェッコスロヴァキア侵入の中止,同国の主権回復を要求した。
更に9月に入ってビレンバッハ連邦議会議員(キリスト教民主同盟議員で外交問題の専門家)はキージンガー首相の委任により,ワシントンを訪問し,チェッコスロヴァキア占領後におけるドイツ政府の不安を米国政府に説明したところ,米国政府は,9月17日,共産側がドイツ(西)に対して軍事行動をとれば,NATO同盟諸国の反応を直ちに引起すであろうとの声明を発表した。
ソ連はチェッコスロヴァキア介入の正当化に「米国の帝国主義」とならんでドイツ(西)の「報復主義の破壊陰謀活動」を強調しており,ドイツ(西)の脅威を東欧圏の団結の挺子に使用しつつも,東欧諸国とくに東独を動揺させないよう細心の配慮を払いながら,ドイツ(西)との対話の再開を試みており,1968年10月ニュー・ヨークでグロムイコ外相はブラント外相と会談し,同年7月にソ連が外交文書を公表したことによって一時は破談になったかに見えた武力不行使問題の話し合い再開を申し入れたといわれている。
また,この期間にはベルリン問題が東西間の重要問題の一つとなり,ドイツ(西)政府が68年12月8日大統領選出の連邦集会を西ベルリンで開催することを発表して以来,ソ連および東独はドイツ(西)に対する警告,地上交通路の制限措置の実施,東独におけるソ連,東独等の演習による示威を行なうと同時に,他面連邦集会開催場所を変更すれば,復活祭休暇における西ベルリン市民の東ベルリン旅行につき話し合う用意があると述べ,硬軟両様の戦術に出た。
結局連邦集会は予定どおり69年3月5日にベルリンにおいて開催され,ハイネマン氏(社会民主党)が大統領に選出されたが,東独の交通制限措置,ソ連・東独の合同軍事演習などにもかかわらず,重大な事態には至らなかった。
次にチェッコスロヴァキア事件後のフランスの態度については,フランスは上述の68年11月のNATOの理事会のコミュニケに署名し,更にドブレ外相が東西関係が根本的に変化しない限り,NATOは存続すべしと述べた。
フランスは,ソ連のチェッコスロヴァキア介入後も,緊張緩和のための対東欧政策を推進するという基本方針を維持している。
他方,ソ連側としてもチェッコスロヴァキア事件以後も1月パリで第3回仏・ソ科学技術経済協力委員会を開催,大規模かつ大ものの代表団を派遣するとともにこれを大々的に宣伝しており,引続きフランスに対する接近策を継続している。
英国はチェッコスロヴァキア事件後,対ソ文化交流計画を中止し,軍事面では11月上旬ヒーリー国防相が下院で「将来において平和に対するソ連の脅威がチェッコスロヴァキア事件よりもっと危険な結果を招く可能性がある。NATO諸国がNATOの組織の欠陥および弱点の除去に努力することが賢明である」と述べ,更に11月14日には,英国防省は,将来空母1隻または他の大型艦艇を地中海に常駐させ新型ハリアー直離着機をドイツに配置させる等の措置を発表した。
英国が以上のようにソ連のチェッコスロヴァキア侵入に対しかなり積極的な反応を示したのに対し,ソ連は12月3日英国の措置を非難する覚書を英政府に送ると同時にこれを公表し,更に英国放送協会(BBC)スパイ事件をめぐって激しく英政府を非難し,ことさら英国を集中的に非難している感がある。かかるソ連の態度はチェッコスロヴァキア事件以降の英国の活発な動きに対するソ連の反応とも解されるが,基本的には,西欧の団結をゆさぶるというソ連の対西欧政策の型に合った動きと見られよう。
1956年2月のソ連共産党第20回大会におけるフルシチョフ第一書記のスターリン批判および社会主義への移行の多様性の承認を契機として,東欧諸国には,非スターリン化と「社会主義の独自の道」を追求しようとする傾向が強まった。これが最も激しく表面にあらわれたのはポーランド政変(1956年10月)であり,次いでハンガリー事件(1956年10月)であった。ハンガリー事件およびポーランド政変の結末はともに東欧の「社会主義への道の多様化」には限度があることを示したが,このような動きはその後も杜絶することなく,1961年末中ソ論争の副産物として,アルバニアが事実上東欧圏から離脱し,さらに1964年4月,かねてコメコン統合問題で不満を抱いていたルーマニアは,中ソ対立の激化のさなかに自主独立の道を進むことを明らかにした。そしてその後に続く1968年1月のチェッコスロヴァキア政変と自由化の急速な進行は,東欧の多様化をさらに深め,これに加えて東欧各国の内蔵する経済的困難,これに伴う各国の立場の相違が表面化し,ソ連の東欧に対する政治的,経済的把握にさらに大きな困難が生じた。
チェッコスロヴァキア政変は,抜本的改革によって経済の停滞を打開しようとする経済改革推進派,チェッコ地方優位を不満とするスロヴァキア派,ノヴォトニー政権時代粛清の犠牲となった古参党員,党の民主化を要求する若手党員らが,反ノヴォトニー共同戦線を結成して,知識人,文化人を先頭とするチェッコスロヴァキア国民の自由化,民主化の要求を背景に,保守的なノヴォトニー政権を倒したものである。
68年1月のチェッコスロヴァキア共産党中央委員会総会においてノヴォトニー第一書記は解任され,後任にはスロヴァキア出身のドゥプチェク氏が選任され,更に同年3月末の中央委員会総会でノヴォトニー氏は大統領の職も奪われた。なお,その間に,国防次官の自殺,内相,検事総長の解任,ヘンドリフ書記のイデオロギー問題担当解任などがあったほか,レナルト首相,ロムスキー国防相らに対する批判も行なわれたことは,検閲制度が事実上廃止されたことと合わせ,チェッコスロヴァキアにおけるその後の動きに決定的な方向を与えることとなった。
ドゥプチェク新指導部は1968年4月初頭の中央委員会総会および引続く一連の措置により,「人間の顔を持った人間的な社会主義」の建設の途を歩む体制を整えようとした。すなわち,同総会では,画期的な自由化,民主化の措置を規定し,経済改革を推進することを謳った党行動綱領が採択されるとともに,党,政府首脳部の大幅な人事異動が行なわれた。党幹部の人事異動においては,ヘンドリフ,コウッキー,シムーネクらの古参幹部が退陣して,スムルコフスキー,ツィーサルジら進歩派が進出し,4月8日任命されたチェルニーク氏を首班とする新内閣では,ロムスキー国防相,ダヴィド外相らが更迭され,また4月17日国民議会では,進歩派の急先鋒であるスムルコフスキー氏が,秘密投票で議長に選出された。
ソ連との関係については,党行動綱領も,ドゥプチェク第一書記をはじめとする党,政府幹部の公式発言もソ連および他の社会主義諸国との友好,協力関係を維持することを明らかにしたにもかかわらず,チェッコスロヴァキア言論機関には対ソ批判があらわれ始め,殊に,ソ党中央委員会紙のソヴィエツカヤ・ロシア紙がチェッコスロヴァキア批判をも含むとみられる論文を掲載したのに対し,チェッコスロヴァキア党機関紙ルデー・プラーヴォほか2紙がこれに反論を加える等,4月中に既にチェッコスロヴァキア・ソ連関係には緊張のきざしが見え始めた。
ソ連は,チェッコスロヴァキア内のかかる反ソ的言論の台頭およびチェッコスロヴァキアの「自由化」の急速な進行がいわゆる「社会主義共同体」の結束に波及すべき影響を危惧し,4月の中央委員会総会において「資本主義とのイデオロギー闘争」につき警告を発するとともに,5月に入って,ソ連,チェッコスロヴァキア首脳の接触を頻ぱんに行なった。その結果チェッコスロヴァキアは,ソ連をはじめ,東独,ポーランドが表明したチェッコスロヴァキア情勢に対する懸念に対し,一応の配慮を示し,チェッコスロヴァキアの対ソ言論に抑制傾向がみられ,社会民主党復活の動きがチェッコスロヴァキアでも非難され始め,また自国内におけるワルシャワ条約軍の参謀演習の実施に同意する等の動きを示した。
しかし,一時小康状態を保っていたチェッコスロヴァキア・ソ連関係も,ツィーサルジ・チェッコスロヴァキア党書記とコンスタンチーノフ・プラウダ論説員のイデオロギー論争,チェッコスロヴァキア文化人による「2000語宣言」の発表,6月20日からチェッコスロヴァキア内で開始されたワルシャワ条約軍の参謀演習等を経て,7月に入り,極度に緊張した。
すなわち,6月末日までに演習を終了したソ連軍は,十分な説明がないまま,その引揚げが遅滞し,かかる状況の下で,7月14,15日ソ連・東欧(ポーランド,ハンガリー,ブルガリア,東独)5ヵ国党は,ワルシャワにおいて首脳会議を行ない,15日付でチェッコスロヴァキア党中央委あて5党共同書簡を発出し,(イ)右翼,反社会主義勢力に対する断乎たる攻撃,(ロ)社会主義に反対する全政治団体の活動停止,(ハ)マスコミの党による統制,(ニ)マルクス・レーニン主義に基づく党の結束と民主的中央集権主義の遵守等,要するにチェッコスロヴァキアの自由化の全面的修正を要求した。これに対し,チェッコスロヴァキアが19日の中央委総会で,上記共同書簡に対するチェッコスロヴァキア党幹部会の反論を圧倒的多数で支持するや,ソ党は,ソ連,チェッコスロヴァキア両党最高水準の会談を提案,これに基づいて,7月29日,チエルナにおいて両者の会談が行なわれた。
チエルナ会談の結果,ソ連軍がチェッコスロヴァキアより撤退し,続いて8月3日,チェッコスロヴァキアを含むソ連,東欧6ヵ国の首脳会議が開かれて,ブラチスラヴァ声明が調印され,最悪の危機は一応回避されたかに思われたが,8月21日未明,ソ連,東欧5ヵ国軍は突如チェッコスロヴァキアに侵入し,同日中にチェッコスロヴァキア全土を制圧した。
ソ連の軍事介入の理由については,ブラチスラヴァ声明以来のチェッコスロヴァキア情勢の進展をソ連が放置しえないと判断したこと,チエルナ会談の際,ソ連が政治工作はこれ以上効果がないと判断したこと,ブラチスラヴァ声明以来,ソ連内で強硬派が勝を占めたこと,あるいは,当初よりソ連は介入の機会をうかがっていたこと等種々の推測がなされている。いずれにせよ,ソ連は,チェッコスロヴァキアの「自由化」がソ連の安全保障および東欧の団結に及ぼすべき深刻な影響にかんがみ,政治的手段で実現しえなかったブレーキを,国際共産主義運動,東西関係,ソ連の対外イメージ等に及ぼすべき悪影響をも種々考慮の上,一気に武力により実現せんとしたものといえよう。
ソ連のチェッコスロヴァキアに対する武力介入は,世界世論の非難を浴び,仏,伊等の西欧共産党もソ連を公然と批判した。ソ連は武力介入の理由として,反革命勢力によりチェッコスロヴァキアの社会主義が脅威にさらされ,チェッコスロヴァキア指導者より援助の要請があったとしたが,チェッコスロヴァキア側は要請した事実はないと否定した。
8月23日より26日までモスクワにおいてソ連・チェッコスロヴァキア会談が開かれ,「チエルナ会談,ブラチスラヴァ会議およびモスクワ会談における合意による実際的措置を首尾一貫して実施すること」,「チェッコスロヴァキア情勢の正常化に応じて占領軍を撤退する」等を骨子とするモスクワ協定が結ばれた。他方ソ連側はチェッコスロヴァキアヘの武力介入直後右翼日和見主義者と非難したドゥプチェク第一書記をモスクワ会談に参加させ,ドゥプチェク指導部の存続を認めざるを得なかったが,その後10月上旬の第2次モスクワ会談を経て,10月中旬ソ連軍のチェッコスロヴァキア駐留に関する条約が署名され,チェッコスロヴァキアの自由化は大幅に後退した。一方,チェッコスロヴァキア国民は一応冷静を保持し,慎重に行動したが,時折抵抗,反発も高まりを見せ,68年12月の急進派指導者スムルコフスキー氏の進退問題に続いて,69年1月中旬の学生の焼身自殺事件,更に最近では3月のアイスホッケー・デモ事件等により,情勢は再び緊迫するに至った。チェッコスロヴァキア党・政府指導者の努力,国民の自制により,事態は一応鎮静化したが,このような動きを契機として,4月中旬のチェッコスロヴァキア党中央委員会において,ドゥプチェク第1書記は退任し,スムルコフスキーも党幹部会より去るに至り,ドゥプチェク氏の後任には,フサーク・スロヴァキア党第1書記が就任した。
ソ連はチェッコスロヴァキアの動きに対して警告するとともに,武力介入を正当化する理論として,「社会主義共同体」の一国に対する脅威は,共同体全体の関心事であり,看過できないといういわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」あるいは「主権制限論」を強調し,またワルシャワ条約機構,コメコン機構の強化を通ずる東欧の政治,経済統合の強化をはかっている。3月中旬のワルシャワ条約政治諮問会議,4月下旬のコメコン首脳会議もその一環である。
1968年3月のポーランドにおける学生デモ事件で揺らいだゴムルカ政権は,チェッコスロヴァキア事件以後,国内の引締めをますます強化している。ポーランドは,東独,ブルガリアとともに,ワルシャワ条約機構およびコメコンの強化を支持する立場をとっている。
ブルガリアは対外的にソ連に協力的態度をとっている。
ハンガリーは武力介入に参加はしたが,国際舞台では比較的柔軟な立場をとり,国内でも経済改革がかなり進行している。
ルーマニアは内政面では,従来の権力集中的な共産主義体制を維持しているが,対外政策では,ワルシャワ条約機構,コメコン機構にとどまりつつも,自主独立の路線を堅持し,チェッコスロヴァキア事件ではソ連を強く批判し,ソ連の主権制限論に反発しており,また1968年末以来,ワルシャワ条約機構の強化,コメコンの超国家機関化の動きに対して,反対の立場を明らかにしている。
ユーゴースラヴィアは独自の政治・経済の民主化,自由化を進めており,チェッコスロヴァキア事件に際してはソ連を強く非難した。そのためソ連紙のユーゴ非難が強まり,ユーゴも反論するなど,両国関係は悪化の傾向を示した。10月にカッツェンバック米国務次官がユーゴを訪問し,チト大統領と会談したことが注目される。ユーゴースラヴィアは特に主権制限論に強く反論し,69年3月のユーゴースラヴィア党大会でも強い対ソ批判が行なわれた。
アルバニアはチェッコスロヴァキア事件後68年9月,ワルシャワ条約から正式脱退を宣言した。
1964年10月フルシチョフ前党第一書記兼首相が退陣したが,その主要な理由は基本的政策の問題についての意見対立というよりは,その後同氏に向けられた「主観主義」,「独断専行」,「大言壮語」等の批判に見られるように,フルシチョフによって行なわれた党と行政機構の朝令暮改的改組,改革と内外政策の混乱や行き過ぎ,党の権威の失墜などによるものであったと見られている。従ってフルシチョフ失脚後に成立したブレジネフ第一書記(その後書記長と改称),コスイギン首相およびポトゴルヌイ最高会議幹部会議長のトロイカ(三頭政治)を中心とする現政権は,フルシチョフ政権によって行なわれた党,行政機構の農工2分化を元に戻し,地域別の分権的経済管理機構を廃止して,部門別経済管理組織を復活するなど,フルシチョフ施政の若干の手直し,いわゆる非フルシチョフ化を行なったが,フルシチョフの平和共存,国防強化,経済改革の推進,生活水準の向上等の基本政策は現政権においても不変である。
現政権は1965年3月の党中央委員会農業総会において,農業の体質改善のために基本的大綱を定め,さらに同年9月の中央委員会総会でいわゆる新経済政策を決定し,1966年1月からまず工業部門への導入を始め,経済改革の推進,生活水準の向上の施策を進めるとともに,国防力増強および宇宙競争を継続し,いわゆる「バターも大砲も」の政策を続行してきた。
この間,社会,文化面においては,非フルシチョフ化の裏がえしとして,非スターリン化ないしスターリン批判の後退の傾向が見られた。また革命後50年を経て,世代間の対立,いわゆる「父と子」の問題が一つの社会問題としてとりあげられるようになった。
フルシチョフの失脚が晴天の霹靂であったように,クレムリンの内情は鉄のカーテンに閉ざされているが,重工業と軽工業,工業と農業,あるいは国防力強化と生活水準向上等,諸部門間の資金配分の問題をめぐって対立が存在し,また対外政策について硬軟両派が対立しているのではないか等の観測は絶えなかった。しかし表面的には,1967年の中東紛争勃発前後に,セミチャーストヌイ国家保安委員会議長,エゴルイチェフ・モスクワ市党第一書記,シェレーピン党書記ら主としてコムソモール出身幹部の左遷ないし異動が目立ったのみで,さして重要な人事異動もなく,現政権は集団指導体制の下に1967年11月の革命50周年を迎えた。
1968年1月以来のチェッコスロヴァキアにおける自由化の急速な動きが自国内に波及する影響を危惧したソ連は,同年4月のソ連共産党中央委員会総会において,「現段階は資本主義と社会主義との間のイデオロギー闘争が激化している」とし,「ブルジョア・イデオロギーに対する闘争強化」を強調して,イデオロギー引締めの方針を打ち出した。その後チェコ問題の重大化に関連して,指導者の言説やマスコミを通じて,イデオロギー闘争強化の宣伝が活発に行なわれた。68年6月のパブロフ・コムソモール第一書記の解任も,コムソモールにおけるイデオロギー教育の欠陥について責任をとらされたものと見られている。また同年11月末の連邦公安省を内務省と改称することを含む民警強化措置も,その主要な狙いは民警の体質強化,権威の向上にあろうが,間接的には引締め強化措置の一環と見られている。
イデオロギー引締めは特に文芸界に強くあらわれ,自由派作家等にたいする圧迫が強まったようである。
このような引締めの強化の反面では,68年4月中旬「市民の提案,申請,苦情の審理に関する最高会議幹部会令」が出され,国民の不満のはけ口をつくる措置もとられた。
69年1月下旬,モスクワに帰還した宇宙飛行士がクレムリンの歓迎会へ向う車列のブレジネフ書記長,ポトゴルヌイ最高会議幹部会議長らの車の直前に発砲が行なわれた事件が起った。この事件は,もし要人を狙ったものとすれば,公表された限りでは1934年のキーロフ暗殺事件以来はじめての事件であり,ソ連国民の底流に現政権に対する不満が存在することを示したものといえようが,真相は不明である。
このような情勢下に,スターリン批判が何となく消極化し,それに伴いスターリンの肯定面を強調するような傾向が看取される。
ソ連は1968年度の経済計画で従来の通例に反して,工業の増産率8.1%のうち,生産財7.9%に対して消費財をそれより高く8.6%と定めたが,実績は工業全体で8.1%,生産財は8.0%と計画を超過したのに対し,消費財は8.3%と計画を下廻った。これはヴィェトナム,中東,チェッコスロヴァキア事件などの国際情勢から生じた武器援助,国防強化の必要と宇宙競争などによるものと見られる。
1968年12月に決定された69年度経済計画でも,工業増産率7.3%のうち,生産財7.2%,消費財7.5%と68年同様消費財の増産率が生産財のそれを上廻っているが,69年3月の中ソ国境紛争もあり,消費財増産の計画遂行を困難にする国際的要因はむしろ増加した。
革命50周年の贈物として決定された賃銀,年金の引上げ,僻地手当等の福祉政策は,68年度中に実施に移されたが,消費財生産の伸び悩みと国民の金銭所得の増加により,消費財需給のアンバランスは依然改善されず,むしろ悪化してインフレ傾向が強まっている模様である。
68年の農業生産は1966年の大豊作には及ばないが,家畜の減少を除けば良好であった。しかし天候の良否に大きく左右されるソ連農業の体質は改善されておらず,68年はじめ以来開催を取沙汰されていた党中央委員会の農業総会は,68年10月末にようやく開かれたが,農業投資の問題をめぐってクレムリン内に意見の対立があるとの説もある。
ソ連の重点施策の一つである経済改革においては,68年の工業の新システムの移行進度は予定より遅れ,68年末の発表では,全工業企業48,000余のうち約27,000,総生産額の72%以上であった。運輸部門は68年中に殆んど全部が移行を完了,建設部門は69年中に移行を開始する予定となっている。
農業部門ではソフホーズ(国営農場)の新システムヘの移行は,68年末の発表によれば,総数約13,000のうち約800で,69年中に約2,900が移行を完了する計画である。
1967年7月に改訂された重工業卸売価格は,きめ方の粗雑であったこと,および企業の新技術導入の格差等により,実体とのずれを生じて再改訂が必要となり,69年中に再改訂を行なうため準備作業がはじめられている。
以上のように経済改革は進められているが,この改革はあくまで中央集権的計画経済体制の枠内で行なわれており,特に68年のチェッコスロヴァキアの急進的な経済改革の動きに関連して,ユーゴースラヴィア型,チェッコスロヴァキア型の経済改革を非難し,利潤および市場原則の過大評価をいましめる傾向がある。