第6章 朝鮮半島の情勢
第二次大戦後,朝鮮半島は38度線を境として,自由主義,民主主義の韓国と共産主義の北朝鮮とに2分され,南北は深い対立関係に立つこととなった。両者の相克は朝鮮戦争において極点に達したが,戦後も休戦ラインをはさんで両者は対峙しており,休戦ライン付近での小ぜり合いは絶えなかった。最近に至り1968年1月の青瓦台(韓国大統領官邸)襲撃事件や同11月の蔚珍,三陟におけるゲリラ上陸事件(1968年10月末から11月初めにかけ,韓国東海岸の蔚珍,三陟地方に約120名の北朝鮮ゲリラが侵入し,韓国軍警は郷土予備軍をも加えて約1ヵ月にわたる掃討作戦を展開して107名を射殺,7名を捕虜としたが,韓国側の犠牲も死者57名,負傷者56名にのぼった)に見られるような大規模な対韓国挑発行為が北朝鮮側から行なわれており,朝鮮半島は少なからず波乱含みの情勢となっている。
統一問題については,北朝鮮は過去においては武力統一よりもむしろ,韓国内部に革命的気運が盛り上がり,韓国国民自ら共産政権による朝鮮半島統一を望むようになるよう働きかける政策をとってきたと考えられるが,韓国の情勢は北鮮側の期待に反して,「革命的エネルギー」が醸成されるどころか,着実な経済発展をとげ,国力の充実に顕著な成果をあげつつあり,反共思想がむしろ強くなるなど,北朝鮮に不利な方向へ発展したため,最近に至り,北朝鮮は公然たる武力侵透を強化する等により,過激な統一政策へ重点を転換しつつある模様である。
北朝鮮の国内体制は,一言にして言えば,金日成首相独裁による挙国一致体制であり,金日成首相の強力な指導の下に,経済建設と軍備増強に努力している。国民は朝鮮統一というスローガンの下に耐乏生活と精神教育とを強いられているといわれ,北朝鮮の表現を使えば,朝鮮を「われわれの世代に統一」するために「金日成の唯一の思想で武装し,金日成の意思で行動し,生命を賭して金日成領袖を守護する」という教育が施されている模様である。
以上の観点から最近の北朝鮮による対韓国挑発行為を見ると,北朝鮮としては,青瓦台事件あるいは蔚珍,三陟事件等により,韓国の出方を試すとともに,韓国内の事情を調査し,できうれば朴政権にゆさぶりをかけ,また韓国内にゲリラの拠点をつくること等を狙うと同時に,国内的には事態の重大性を強調して国民の志気を揚げ,金日成体制を強化することを狙っていると解することができる。
(イ) 北朝鮮では,1967年の粛清を通じて北朝鮮労働党および政府部内に軍人勢力の台頭が目立っているが,1968年にはこの傾向がより強くなり,党中堅幹部の大幅な人事移動があったほか,1968年11月頃民族保衛相,1969年2月頃朝鮮人民軍総参謀長の更迭がそれぞれ行なわれ,新しくパルチザン出身の軍内強硬派崔賢および呉振宇が民族保衛相,総参謀長にそれぞれ任命された。
このような動きと相まって金日成個人崇拝の傾向は1968年には一段と強化されており,「父なる金日成元帥」「4000万朝鮮人民の偉大な領袖金日成元帥」に対する無条件の服従と敬服が国民に要求されている。
北朝鮮の経済は1966年頃まで停滞状態にあり,7ヵ年計画(1961~1967年)の目標は達成されなかった模様で,右計画は結局3年間延長されざるを得なかった。北朝鮮の財政は,支出の30.9%(68年度)が国防費で占められており,それが北朝鮮経済に対する大きな圧力となっていることは,「北朝鮮の人民は7ヵ年計画の雄大な綱領を実現するために英雄的に戦って来たが,ここ数年間アメリカ帝国主義者の侵略策動がいっそう露骨化するに伴い,国防力の強化に追加的に大きな力をさかなければならなくなり,経済発展は予定よりある程度遅れるようになった」という金日成の言葉によって北朝鮮側が自ら認めているところである。
しかし,それにもかかわらず,北朝鮮は「自分達の世代に朝鮮を統一する」ためには先ず富国強兵を実現しなければならないという認識に立っており,軍需産業ないし重工業優先,国民の耐乏生活という状況は今後当分続くものと考えられる。
1968年9月,北朝鮮建国20周年記念慶祝大会が平壌において大規模に開催されたがその席上,金日成首相は,朝鮮統一のため世界的規模における反米闘争の強化を強調すると同時に,南朝鮮人民は政権を奪取する段階では暴力闘争によらなければならない,と述べて初めて暴力闘争を提示した。
北朝鮮が1968年4月以降韓国に対して行なった挑発行為は,休戦ラインでの小ぜり合いを除いても,木浦や済州島におけるスパイ上陸事件(それぞれ7月末および8月下旬)「統一革命党」(北朝鮮スパイ団)が発覚した事件(8月)など枚挙にいとまがないばかりか,蔚珍・三陟事件に見るように規模も拡大している。この種の事件は,金日成の指導方針が変らない限り,今後とも続発することが予想され,朝鮮半島は不穏な情勢にある。
また,北朝鮮は,「米帝国主義」は朝鮮半島の統一に対する最大の障害であるとの立場に立ち,68年1月のプエブロ号拿捕に引きつづき,69年4月にはEC-121型偵察機を撃墜するという過激な行動を起している。
(ロ) 韓国政府は,このような情勢に対処するため68年2月に「戦いながら建設しよう」との標語を掲げ,国防・経済建設促進策を打ち出し4月1日には郷土予備軍が発足した。68年4月にはホノルルにおいてジョンソン,朴会談が行なわれ,米国の韓国防衛の意思が改めて確認されたほか,在韓米軍および韓国軍の強化の問題も話し合われたと見られている。事実,同年7月の米国議会は対韓国追加軍事援助1億ドルおよび在韓米軍強化費2億3000万ドルを可決した。かくして,米国の協力のもとに韓国内の防衛態勢は格段と整備された。北朝鮮側からのゲリラ工作がことごとく失敗に帰したのは,この韓国側の防衛力強化によるものであろう。同時に,北朝鮮の挑発は韓国民の間にかえって反共精神と志気を高揚させるという結果となっていることも見逃せない。
国防経済併進策をとりながらも,韓国の政策の重点は経済建設におかれていることを韓国政府は常に強調している。韓国経済は前年に引き続き高い成長を維持し,1968年の国民総生産は13.1%の伸びを示した。ただ,2年つづきの南部地方の干害はかなりの農業生産の減産をもたらしたものと見られる。
韓国では,1968年9月国会議員補欠選挙が施行されたが,同12月に不正選挙防止保障立法が成立したことにより1967年の総選挙以来政情混乱の因をなしてきた不正選挙問題が解決され,韓国政情は概ね安定し,朴政権の基盤はより強固となったものと見られる。