第5章 ヴィエトナム問題
(1) 南ヴィエトナムにおけるゲリラ活動は,ジュネーヴ協定が定めた南北統一のための選挙が行なわれなくなった後,1957年末から始まった。
1960年12月結成されたヴィエトナム解放戦線(NLF)は,ディエム政権に対する国内不満の高まりを利用しつつ,破壊活動を強化し,とくにディエム政権崩壊後は正規戦を含め攻撃を強めた。
(2) 米国は,1954年におけるフランスとの話合いに基づいて,南ヴィエトナム軍事顧問団を派遣し,共産ゲリラ活動の強化に伴って顧問団を増強したが,北越軍の南下が増大し解放戦線側の勢力が著しく拡大するに及んで,1965年2月7日北爆を開始し,同時に南ヴィエトナムへ戦闘要員を投入して米軍を地上戦闘に直接参加せしめるに至った。
その後,一方で北越正規軍の南下の増加,他方で米軍の著しい増派,南爆および北爆の激増が見られた。
(3) 米側はその後大規模な戦闘人員と近代的な火力を導入して共産側の戦力および補給に打撃を与え,他方南越政府は,大統領選挙,上下両院の選挙を通じ,政権の基盤の強化に努めるとともに平定計画の推進をはかってきた。これに対し共産側は,テロ,ゲリラ,正規軍戦争等すべての実行可能な手段により,農村を含むあらゆる地域において作戦を行なうとともに,南越政府の弱体化および米国の国内および国際世論によるヴィエトナム反戦の気運の増大を目的として,政治的,心理的効果を狙った作戦および宣伝攻勢を行なった。しかし1968年1月31日のテト攻勢等を通じ,米・南越側,共産側双方とも軍事的勝利を得ることが不可能であるとの認識を強め,3月31日のジョンソン大統領の北爆部分停止の声明,4月3日の北越政府の会談受諾の声明で,ヴィエトナム戦争は全く新しい段階を迎えるに至った。
(4) かくして,5月13日から米,北越間のパリ会談が開始された。この会談で,米側は北爆の全面的停止に見合い,北越側の軍事的抑制措置が必要であると主張したのに対し,北越側は無条件の北爆の全面停止を要求し,双方の基本的立場が対立したが,米国,北越ともに会談の決裂を望まず,秘密会談等を通じ,ようやく双方の話し合いは進展し,遂に10月31日ジョンソン大統領は北爆全面停止の声明を行なった。
(1) 6月中旬から約2ヵ月,南越全般における戦闘小康状態が現出したが,パリ会談は進展をみるに至らなかった。しかし,10月に入り,米,北越間の秘密接触がようやく軌道に乗り始めた。
右接触において,結局北越は,(イ)非武装地帯の尊重,都市攻撃の停止について基本的了解を暗黙裡に与えるとともに,(ロ)南越政府の会談への参加を認め,これに対し米国は,(イ)北爆全面停止,(ロ)NLFの会議への出席を認めるという取引きが成立したものといわれている。10月31日のジョンソン声明は米,北越間に何らかの了解があることを示唆したが,北越側は北爆全面停止は,米側が全く無条件に行なったものであるとの立場をとった。
(2) NLFの代表権問題をめぐり米,南越間に多少意見の相違があったが,十分その調整を見ないまま米国が北爆全面停止に踏みきったことにより,拡大パリ会談への南越およびNLFの参加問題をめぐり,米,南越間の意見の相違が表面化した。この相違は11月23日に至り南越がパリに代表団を派遣することを決定して一応の結着を見た。しかし,その後,米,南越側と北越,NLFとの間で新会談の手続問題,特に着席テーブルの形について話し合いがつかず,新会談は未開催のまま空転を続けた。この対立も1969年1月16日に至りようやく合意を見,米,南越,北越およびNLFによる予備会談を経て,同25日第1回本会議が開催された。
本会談では,米・南越側は停戦,相互撤退等の軍事問題を優先的に討議すべしとの基本的立場から,(イ)非武装地帯の復活,(ロ)北越側の保証に裏づけられた相互撤退,(ハ)より効果的な国際査察制度の確立,(ニ)双方の捕虜の早期釈放を主張してきたのに対し,北越・NLF側は米・南越側の主張する軍事問題の解決方法は米軍およびその他参戦国軍の南越駐留継続と両越分割の恒久化をはからんとするものであるとの立場から,政治問題の解決を切離して軍事問題を討議することに反対し,(イ)米軍およびその他参戦国軍の南越よりの無条件完全撤退,(ロ)現政権の解体と和平内閣の樹立,(ハ)北越およびNLF側の条件を基礎とする南越問題の解決を主張してきた。
(イ) 1968年5月中旬パリ会談が開始されて以来,共産側の戦略の比重は軍事戦略から政治戦略に移行し,軍事情勢には往々にして小康状態が現出するに至った。しかしながら,共産側がパリ会談へのゆさぶりをはじめとする政治的要請から,軍事行動を活発化する可能性は依然残っており,1968年5月,8月の攻勢および1969年2月のテト明け攻勢はその現われと見ることができる。今後とも共産側が和戦両様のかまえをとることには何ら変化はなく,今後とも状況に応じ軍事行動を活発化することは十分考えられ,またそのための戦力も温存しているものと見られる。
(ロ) 他方米国としては基本的には従来の軍事支援を続けつつも,南越軍の増強により米軍の役割の軽減(非米化)の推進に努めるであろう。この点南越政府は1968年6月総動員法を公布して以来,鋭意政府軍の強化につとめ,米軍は各種兵器を供与してこの促進を援助して来た。すでに政府軍は100万を越える兵力を保持したといわれ,米軍との肩代りについても逐次実現の緒についたやに見受けられるが,政府軍の戦力向上についてはかなりの努力が必要であると見られている。
(ハ) ヴィエトナムにおける軍事情勢との関連で考慮すべきは,その隣国に及ぼす影響である。とくに,北越から南越に対する補給の大動脈であるホーチミン・ルートの存在するラオスにおいては,ヴィエトナムにおける戦争の激化と相まって,パテト・ラオ(ラオス内のプーマ政権と対立する左派勢力)および北越軍の攻勢の活発化が見られる。カンボディアにおいても,北越,NLFによる「聖域」としての利用あるいは米軍によるカンボディア領誤爆,国境侵犯等がしばしば問題にされている。かくのごとく,ヴィエトナム戦争はラオスに波及し,カンボディアの安全をも脅やかしており,今後拡大パリ会談においてこれらの問題がヴィエトナム問題解決の一部としていかなる取扱いをうけるかが注目される。
ヴィエトナム問題が北爆停止を契機として,拡大パリ会談の実現と和平への動きを見せる間,南越政府は1968年5月のロック内閣からフォン内閣への交替,6月の総動員法公布,1969年3月のフォン内閣の改造などを通じて政権の民主的基盤の拡大,国内政治勢力の結集,国防体制の強化に努めることにより,和平交渉の進展とともに激化が予想されるNLF側との政治闘争,あるいは米軍との肩代わりに備えて来た。現政権は内部には人的関係をめぐる個々の問題を包蔵しているとはいわれるものの,その基盤強化の面では一応着実な前進が認められている。
ニクソン米新政権は,成立以来,前政権によりすでに敷かれた和平へのレールを原則的に踏まえてパリ拡大会議に臨んでいる。新政権としての独自の東南アジア(ヴィエトナムを含む)政策は,未だ立案の過程にある模様にあるが,現在までに明らかにされた新政権当面のヴィエトナム政策の要点は,(イ)民族自決の原則に基づく名誉ある解決を基本目標として掲げつつ,(ロ)南越軍の強化による米軍の役割の軽減(非米化)の推進,(ハ)非武装地帯の回復,北越の保障に裏づけられた相互撤兵,捕虜交換等の軍事問題をより優先的に解決する,という点にある。
今後,上記目的達成のため,米国としては,なるべく早期に拡大パリ会談を通じて北越との間に相互撤兵についての合意をとりつけることに努めるであろう。その間,米国は,政治問題の解決についても,南越政府との意見調整に意を払いつつ,南越軍の強化,平定計画の促進等を通じて南越政府の政治基盤の強化に努めることにより,パリ拡大会談における米・南越側の立場の強化を辛抱強くはかって行くものと考えられる。
北越は,中,ソ双方から出来るだけ多くの援助を受ける必要もあり,中ソ,間にあってバランスをとりつつ,両国との円滑な関係を維持すべく努めるとともに,両国に対して自主性を維持すべく努力して来た。かかる北越の中,ソに対する姿勢は,パリ会談開催後も基本的には変化はないものと考えられる。しかしながら,和平を志向する北越と,持久戦を主張し,和平の動きを米,ソのペテンであるとする中共との間に立場の相違が生じていることは否めない。もっとも,中,越双方とも,この相違をこれ以上深めることは得策でないと判断していると見られるので,決定的な冷却状態に至ることはないものと考えられる。
中共は,パリ会談をはじめ,ヴィエトナム戦況についても報道を最小限にとどめており(第4章中共の情勢参照),目下ヴィエトナム戦争の解決過程における最も有利な出方を模索中であると考えられる。
他方,ソ連は,パリ会談開始以来北越の立場を全面的に支持し,側面支援を行なっており,北越の意向にそった方向で自己に最も有利な解決方策を志向しているものと考えられ,ソ連は,拡大パリ会談についても,歓迎の意を表明し,テト明け攻勢を支持し,「NLFの指導部は抗米救国の闘争を指導しながら同時に戦争を1日も早く平和的に解決するため粘り強く努力している」と述べ,和戦両様の北越の立場を代弁しているかに見える。