第4章 中共の情勢
現在中共において,毛沢東党主席によって推進されている文化革命は,1965年11月評論家たる姚文元(現中央文革小組組員)が,呉ハン北京副市長の歴史劇「海瑞罷官」を批判したことが,その発端といわれているが,その根源は遠く1958年の「大躍進」「人民公社」政策およびその後とられた調整政策の時代にさかのぼるとみられている。すなわち,中共国内では大躍進政策の失敗後,比較的穏健な調整政策をとらざるを得なかったが,その結果,いわゆる「修正主義」と呼ばれる傾向が現われたものと見られ,毛沢東主席はかかる傾向を打破し,自己の信ずる革命路線を実行するために,彼の意見に反対する指導者の排除をはかったものと思われる。このような意味において,党内の政策対立に起因する文化革命は,一面「思想革命」といわれ,また調整期における政策担当者を排除しようとした関係から,一面「奪権闘争」とも呼ばれている。
(1) 1966年6月の彭真北京市長失脚で表面化した文化革命は,同年8月の中共党第8期中央委員会第11回総会(11中全会)で採択された「プロレタリア文化大革命に関する決定」によって,今後の方向を打出したが,これに応じて8月20日頃から,北京街頭に「造反有理」(謀反を起すことは道理にかなっているの意)のスローガンを掲げた高校生,大学生を中核とする紅衛兵が出現し,「四旧打破」(四旧とは,旧思想,旧文化,旧風俗,旧習慣を指す)の大旋風を巻き起し,この運動は次第に全国的に展開され,同年11月末まで北京で8回にわたり毛主席謁見の紅衛兵大集会が催された。
これら紅衛兵の書いたいわゆる壁新聞は,10月頃から劉少奇国家主席,トウ小平総書記を「ブルジョア反動路線をとった」として激しく攻撃し始め,67年4月頃から公式キャンペーンに切替えられ,2人は「資本主義の道を歩む最大の実権派」「中国のフルシチョフ」として徹底的に糾弾された。
(2) 67年1月に入って,上海をはじめ各地でいわゆる「実権派」から権力を奪取しようという奪権闘争が行なわれたが,各地で衝突事件や混乱が生じたため,党中央は解放軍を介入せしめ,その治安維持能力に頼ることによって,あくまで文化革命の徹底化をはかるとともに,革命大衆,軍,革命幹部の「三結合」による革命委員会によって,奪権闘争を呼びかけた。奪権闘争の結果,いわゆる実権派の支配していた党組織は破壊され,権威を失墜することとなった。奪権斗争による混乱については,大衆運動の行きすぎや,軍が大衆組織の暴走を抑えるに足る能力を発揮し得なかったばかりでなく,大衆組織の派閥闘争に巻きこまれるということもあり,6月頃から各地でますます激しい「武闘事件」(暴力を用いての衝突),輪送混乱が起り,武漢,広州,四川では,特に激しかった模様である。
このような激しい混乱に直面して毛沢東主席は,漸く事態収拾に乗り出したようで,9月以来「奪権」「造反有理」といった戦闘的スローガンに代え,「大連合」「闘私批修」(マルクス・レーニン主義と毛沢東思想とによって,自分の頭の中の"私"とたたかい,修正主義を批判するの意)といった穏健なスローガンが打出され,また王力,関鋒,戚本禹等の極左急進主義者が次々と失脚していった。このため情勢は次第に平穏化し,文化革命はようやく破壊から建設へ,混乱から収拾への段階に入った。
(3) 文化革命が収拾段階に入って,今まで成立が遅れていた省の段階での革命委員会も,68年1月以来急速に成立を見るに至ったが,収拾気連の高まりにつれ,これに対し再び文化革命の徹底推進の動きが起きた模様である。3月下旬北京に大規模のデモがあり,人民日報も再三右からの攻撃に対する警戒を呼びかける等「反右派闘争」が展開され,再び急進的路線が強調されはじめた。そのためか,6月から7月にかけ,各地,特に広東,広西等華南一帯に,再び混乱が発生したが,党中央は,7月後半以来,軍によって武闘を鎮圧する一方,混乱の一因たる紅衛兵の文化革命における役割の終了を明らかにするとともに,労働者階級を重視する方針を打ち出した。すなわち,8月14日の人民日報,解放軍報社説,18日の人民日報社説,さらに25日の紅旗2号に掲載された姚文元の論文「労働者階級がすべてを導かねばならない」等一連の論説は労働者階級の役割を強調する一方,現在の混乱の一半が紅衛兵にあることを指摘し,その存在をかなり否定的に評価した。かくして文化革命はようやく収束期に入ることとなった。
(1) 毛沢東主席は1967年秋以来,文化革命を破壊の段階から建設の段階へと指向したものの,反毛派の抵抗は依然強く,党および権力機構の再建は遅れ,1968年9月に至ってようやく全国29の省すべてに革命委員会を成立させた。
これによって,文化革命の勝利を謳った毛林指導部は,10月1日の国慶節において,最高指導幹部14人を明らかにしたが,この顔ぶれは,1969年1月25日毛沢東主席が北京に集った革命戦士4万人との接見の際も不動であり,指導勢力は一応安定したものとみられる。
毛林指導部はこのような新しい指導勢力と,全国各省革命委員会の成立という機会を捕えて,68年10月(13日から31日まで)2年2ヵ月ぶりに党中央委員会の全体会議(第8期第12中全会)を開催した。
(2) 中共中央は12中全会において,文化革命によって破壊された党機構の再建が軌道に乗りつつあり,党の第9回の全国代表大会(9全大会)を開く条件が整ったので,適当な時期に開催することを明らかにし,また,劉少奇を初めて公式に名指しで非難することによって,反毛派追放に自信を示したが,12月27日の水爆実験の成功によって,毛林指導部はますます政局乗り切りに自信を深めたといわれる。
(3) 1969年元旦の人民日報,紅旗,解放軍報の3紙共同社説は,1969年を中国革命と世界革命の重要な1年となると述べるとともに,69年中に9全大会を開催し,文化革命の全面的勝利をもって,建国20周年を盛大に祝う旨述べ,69年中に文革を終結するという毛林指導部のプログラムを明らかにしており,中共中央の最大の関心事は,国内問題であることを示唆している。
(4) 国内問題の一つとして中共中央は,文化革命のために遅れていた各方面の経済建設を大いに盛りあげんとしており,人民日報も,工業,農業の生産増強を呼びかけた社説(69年2月21日付および3月22日付)を発表している。
(5) 1969年4月1日,中共中央は9全大会の開催に踏みきり,同大会は4月24日に閉幕した。これは58年5月に開催された8全第2回会議より見て,11年ぶりの全国党代表大会である。同大会は,文化革命に一応の終止符を打つとともに,新たな党章(党規約)を採択し,新しい中央委員会を任命し,また林彪副主席を毛主席の後継者に決定した。
(1) 中共は1969年夏「造反外交」ともいうべき強硬な対外姿勢をとったため,従来中共と友好関係のあった諸国との関係も,次第に冷却化した。ただし,この「造反外交」は文化革命の論理に一応のっとったものとはいえ,中共中央が明確な外交方針として打ち出した政策というよりは,むしろ文化革命の跳ね上り的な面が強く,文化革命中の中共の対外姿勢の特色は,むしろ「外交不在」というべきであろう。
ヴィエトナム戦争に関しては,和平交渉は,米国が仕組んだペテンであるとし,終始,北越や南ヴィエトナム民族解放戦線に対し「人民戦争の堅持」「徹底抗戦」を呼びかけており,パリにおける和平会談については,公式論評を行なっていない。
ただ,1968年3月31日および10月31日のジョンソン米大統領声明ならびにこれに応じた北越政府の声明等を,論評なしで人民日報に掲載しており,また,10月19日の新華社通信は,西側の通信社の報道という形式で,パリ会談に初めて触れている。
なお,ヴィエトナム戦況に関し,人民日報,北京放送は,1968年の10月中旬以来,報道を全く止め沈黙を守っていたが,1969年2月の「テト明け攻勢」については,10日過ぎて論評なしに報道した。
(2) 1968年11月26日中共外務省スポークスマンは,第135回米中大使級会談の期日を69年2月20日とする提案をしたことを明らかにしたが,同声明の中で中共側は従来から主張してきた米国の台湾よりの撤退と「平和5原則」についての協定に調印することに米側が同意することをあらためて要求した。この提案は,文革後の中共外交の方向を示唆するものとして注目され,2月20日の会談は世界の注視を浴びたが,会談直前の18日に至り,中共側の中止声明によって流産となった。中共側は中止の理由として,米国に亡命した在オランダ臨時代理大使廖和叔の引渡しを米国が拒否し,米国が反中国の策謀を行なっていることを挙げている。
(3) 中共在外公館の大使以下の幹部はいまだ任地に帰っていないが,9全大会開催後は漸次外交機能が正常化の方向に向うものと考えられる。
カナダ,イタリアにおいて,1967年4月および12月にそれぞれトリュードー政権,ルモール政権が生まれ,外交政策の新機軸として中共承認問題を前面に押し出した。
カナダでは,本問題は68年5月29日のトリュードー首相の外交政策に関する声明においてとり上げられ,総選挙の過程や議会において議論されて来たが,中共との間に具体的な接触が始まったのは69年に入ってから,ストックホルムにおいてであった(2月10日のシャープ外相の国会答弁)。
イタリアのネンニ外相は,69年1月24日,同国国会において,「中共承認の時期は到来したと判断する。承認の方式については出来るだけ早い時期に国会に提出する」と述べ,2月25日には,同外相は「交渉は始まった」と述べている。
中共は,このような動きについて,公式にも非公式にも言明を避けている。