第3章 中ソ関係
1949年中共政権が成立してから1950年代の後半まで,中ソは表面上いわゆる「一枚岩」の団結を誇っていた。しかし,もともとソ連は,結局毛沢東党主席が,モスクワの指令によらずに中国共産党を指導し,革命を成就させたことに対して危惧の念を有し,他方,毛沢東を初めとする中国共産党指導部は,1920年代のコミンテルンの国共合作工作が,中国共産党の勢力伸長を阻害したこと,第二次大戦後,ソ連は中国における国民党政府の立場を認め,中国共産党の勝利が決定的になるまで,中国共産党路線を全面的に支持しなかったこと等について,ソ連の政策について懐疑的であったことは否めず,その他,歴史的な両国の民族感情の対立,国境問題等もあり,中ソ両国は,「一枚岩」の団結を誇示していた時にすら,潜在的な不安定要素を有していたものと考えられる。
中ソ論争の淵源は,1956年のソ党第20回党大会におけるスターリン非難と平和共存政策の提唱に求められる。当初中共は,このフルシチョフの新路線を非難せず,むしろ,ソ党第20回党大会のあと,1956年にポーランドおよびハンガリーで動乱が生ずるや,積極的に仲介の役を買って出,その結果1957年の「モスクワ宣言」で,社会主義諸国の団結が表明された。
しかるに,その後フルシチョフが第20回党大会の路線を促進するに及んで,中共は,次第に対ソ批判を強め,中ソ論争は次第に拡大し,1960年の「モスクワ声明」も,表面上辛うじて妥協を図り得たに過ぎなかった模様である。
中ソ論争は,1962年10月のキューバ危機,翌年7月の部分核停条約の締結を経て,遂に公開のかたちをとるに至り,中ソはお互いに名指しで非難し,両者間のイデオロギー論争は激化した。
中ソ論争は,主として中ソ両国の東西,米ソ関係に対する基本的認識および政策の相違から発生したものであり,その要点は次のとおりである。
(イ) 「戦争と平和の問題」については,中共は,帝国主義と階級とが存在する限り,戦争は不可避であり,帝国主義の侵略政策に,真向うから対決してのみ,平和を守り得ると主張し,ソ連は,社会主義国の団結を砦とする平和勢力の一致した努力により,大戦回避の可能性が生じたと主張している。
(ロ) 核戦争については,中共は,核兵器は「張り子の虎」であり,戦争を決定するのは人民であると主張する一方,米ソは,核独占の地位を保持し,各国人民の革命闘争を抑圧しようとたくらんでいると主張し,それに対しソ連は,東西間の戦争は不可避的に核戦争に発展し,人類文明を根底から破壊する核戦争は絶対に避けるべきであると主張している。
(ハ) 平和共存については,中共は,平和共存は便宜上の戦術であり,国際共産主義運動の基本戦略とすることは誤りであるとしているのに対して,ソ連は,核戦争の時代にあっては人類の破滅か,平和共存の二つに一つしかありえないとしている。
この期間について注目すべきは,中ソの対立が,単に党と党との関係ないし思想面にとどまらず,既に政府関係にまで及んでいたことである。すなわち,ソ連は1959年,核兵器の製造に関する技術の提供を拒否するとともに,1960年中共から技術者を一せいに引揚げた。また1961年以降,中ソ貿易が著しく減少した点も指摘されよう。
中共が1966年に文化革命を開始して以来,中・ソの国家関係は極度に悪化した。すなわち,文化革命の方針を打ち出した1966年8月の11中全会公報において,中共は,ソ連修正主義と米帝国主義を同列の敵とみなし,中ソ間には中間の道はないと定義したのに対し,ソ連は「毛沢東とそのグループ」の推進している文化革命は「マルクス・レーニン主義と全く無縁のものである」として,中共「毛林派」との対決姿勢を示した。その後,文化革命を通じて中ソ両国は,ヴィエトナム問題,中近東問題等すべての機会を捉えて,従来にない論争と非難を交わし,特に,67年1月の赤の広場事件等を契機として,相互非難の言辞にも激しさが加わった。イデオロギー面については既に文化革命以前に議論し尽された観があり,文化革命後特に新しい発展はない。
(1) ヴィエトナム和平交渉を提案した,1968年3月31日のジョンソン大統領声明について,中共は「ジョンソン声明は部分的爆撃停止によって平和を誘いこむペテンである」と論評したが,同時に「このペテンはソ連修正主義裏切り者集団の密接な呼応と大々的援助の下になされている」とソ連を米国の共犯者として非難し,他方ソ連は,「中共は米ソ武力衝突という目的にヴィエトナム戦争を利用しようとしている」「平和のための政治調整を妨害している」と中共を非難している。
(2) チェッコスロヴァキアの自由化問題をめぐるソ連・チェッコスロヴァキアの対立に関し,中共は長い間,何らの公式論評を行なわなかったが,68年8月21日ソ連軍等のチェッコスロヴァキアに対する武力介入が始まるや従来の態度を変え,人民日報,北京放送,周恩来演説等を通じ,今次軍事行動は「現代修正主義集団内部の自己矛盾の結果起きたものである」と指摘するとともに,「ソ連は東欧諸国との関係で,一貫して大国排外主義と民族利己主義を行なっている」「米ソが結託して,再び世界を分け合うことを図っている」と非難し,「ソ連修正主義裏切り者集団はとっくに"社会帝国主義"に堕落している」ときめつけた。
これは,1956年のハンガリー事件に際し,中共が率先してソ連を支持し,共産圏結束に主役を演じたのと対照的であり,論理的には,中共は北鮮,北越,キューバと同様ソ連の方を支持しても不思議ではないことを考えれば,中ソの国家関係がいかに悪いかを如実に物語るものといえよう。
中共はその後も,ソ連・チェッコスロヴァキア両首脳によるモスクワ会談,黒竜江省におけるソ連軍用機の領空侵犯(68年9月16日抗議),ソ連軍の中ソ,中蒙国境地区における増駐等に対し,周恩来演説,人民日報等によって再三にわたり激しい対ソ攻撃を続ける一方,アルバニアのワルシャワ条約機構脱退の支持(68年9月17日中共首脳の支持電報,9月20日人民日報),ソ連の対アルバニア侵入に対する警告(9月29日人民日報,解放軍報)等強力な対ソ宣伝攻勢を展開した。
これはチェッコスロヴァキア事件以来のソ連のおかれている国際的苦境を,この際大いに利用し,国際共産主義運動における中共の地位向上を狙うとともに,ソ連の対中共侵略の危険性を強調して,文化革命の収拾期における国内引締めにも利用しようとしたものと解されている。
(3) そのほか,国家関係悪化の事例としては,中共がスパイ行為として警告したソ連タンカー,コムソモーレッツ・ウクライヌイ号の抑留事件(68年3月27日から4月4日まで),タシケント空港において写真をとった中共人を4月6日ソ連が国外に追放した事件等があげられ,中ソ相互に抗議の応酬が繰返されたが,68年6月27日ソ連グロムイコ外相が最高会議における演説において,中共との国家関係を悪化しないようあらゆる努力を払った旨述べたことは,中ソ関係が最悪の事態にある時だけに注目された。
なお,68年6月30日日本に向っていた米軍用機が,ソ連官憲によりエトロフ島に強制着陸を命ぜられたが,ソ連政府がこれをいち早く釈放したことに対し,7月6日の人民日報は「ブレジネフ,コスイギンの裏切者はヴィエトナムを侵略する米国の大共犯者である」と非難した。
(4) 69年1月11日付プラウダは,1967年8月以来久し振りに「毛沢東一派の政治的策動」と題する長文の論文を掲載し,「12中全会は非合法であり,毛沢東は9全大会によって軍事官僚独裁を確立することを意図している」,「新党規約案は8全大会の綱領的規定を完全に排除し,反ソ主義が重要な位置を占めており」,「プチブル的,民族主義的反ソ綱領の採択は,プロレタリア的,社会主義的国際主義との完全な決裂を意味する」と非難した。
(5) 1968年11月26日中共がワルシャワにおける米中会談再開を呼びかけ,米国がこれに応じて以来,ソ連は第135回米中会談の帰趨に強い関心をもっていたようで,1969年2月16日のモスクワ放送は,「北京の指導者は,口では相変らず米帝国主義を非難しながら,米国の侵略活動を黙認する態度をとっており,その一方では,ソ連と社会主義共同体,新興国に反対する闘争を日毎に強めている」と非難しているが,2月18日会談が中共側の通報により中止になるや,21日のモスクワ放送は「中止は一時的なものと思うが,毛はこの取消しで自分の値打ちを高め,いずれ再開されるにちがいないこの会談に重みを加えようと狙っている」との論評を加えている。
(6) 1969年3月2日中ソ国境ウスリー江上の珍宝島(ロシヤ名ダマンスキー島)上で発生した中ソ両国境警備兵の衝突は,極端に悪化している中ソ関係に,さらに緊張の度を加えた。ソ連政府は,いち早く厳重な抗議を提出したが,中共政府も直ちに反ばくし,相互に珍宝島は自国の領土であり,相手方が国境を侵犯したと強く抗議している。中共は,ソ連の国境侵犯を「帝政時代のツアーの復活」であるとし「新ツアーの打倒」を呼びかけ,北京のソ連大使館にデモをかけるとともに,全国的に反ソデモを展開し,12日までにデモ参加者は,4億人以上に上ったと伝えている。一方,モスクワの中共大使館も,ソ連国民のデモを受け,窓硝子等を破壊されたといわれるが,ソ連各地においては,毛一派の冒険主義,大国主義を非難する抗議集会が多数開かれた。3月13日中共外交部は,ソ連側が,2日以後も再三にわたり珍宝島に侵入している旨の抗議覚書を発したが,同月15日には2日の衝突を上回る大規模の衝突が同じ珍宝島上で発生したことが伝えられ,両国政府は極めて強硬な抗議を行なった。特にソ連政府の声明が,ソ連の合法的権利,ソ連領土の不可侵に対する「類似の侵犯に対し壊滅的な反撃を与えるであろう」と非常に強い態度を打ち出したことは注目される。なお,3月29日に至り,ソ連政府は,中共側に対し「情勢を悪化させるおそれのある国境での行動を差し控え,意見の対立が生じた場合には,静かなふんい気で話し合いによってそれを解決する」ことを呼びかける声明を発表した。
今回の事件が偶発的に発生したものであるか,あるいは中ソいずれかの挑発によるものであるかは,中ソ双方の言い分が食い違っていることもあり,断定することは困難であるが,たとえ事件それ自体は偶発的に発生したものとしても,一旦このような事態が生起した以上は,これを意図的に利用しようとする試みは,中ソ双方においてなされるであろう。
中共側から見れば,このような事件が契機となって,国内にいっそう激しい反ソ感情が広がり,これが国民の民族感情を刺激することは,時あたかも9全大会を控えた時期であっただけに,国民の結束を図る意味においてこの上ない機会を捉えたことになり,一方ソ連も,69年6月に開催される世界党会議を控えて,中共の「冒険主義」を非難する絶好の材料となったことは否めないと思われる。いずれにしても,今回の中ソ国境の衝突は,両国間の緊張度をさらに深めたものといえよう。
(7) なお,中共は,最近のソ連の著しい東南アジア進出(対インド,パキスタン援助,マレイシアおよびシンガポールとの外交樹立,ソ連人記者の台湾訪問等)に対し,これを反中国包囲網の策謀であると非難するとともに,極めて強い警戒心を有しているようである。