第2章 米ソ関係

1. 基本的性格

米ソ関係の基本的性格は,限定された対立関係といえよう。米ソの対立は,一言にして言えば,イデオロギーおよび歴史的経験を異にする二大強国の関係である。その国際政治における様相は,いわゆる冷い戦争の最盛期とはかなり異っており,政治面では,いわゆる多極化の現象が生じ,その傾向が強まっているが,核兵器を中心とする軍事面では,いぜんとして米ソの二極化の状態に変りはない。

他方,米ソの対立が限定的なのは,両国が,特定の分野,特に熱核戦争の防止という点で,共通の利害関係を有するからであり,ソ連はこれを「平和共存」と称している。

ソ連の平和共存政策を支える柱は,米ソそれぞれの核戦力が破滅的な破壊力を持つに至っていること,および米国の核優位の認識である。ただし,後者,すなわち,米ソの核バランスの問題は極めて微妙であり,ソ連が対米劣位の克服に努めている徴候も見られるので,ソ連の真の意図および米国のソ連の意図の解釈いかんによって,常に核軍拡競争の危険が存在している。

この点との関連で,米ソがディレンマに立たされているのが,ミサイルの管理および削減問題である。両国内には,核戦争の危険を防止する見地から,またそれぞれの財政上の理由から,ミサイルの管理および削減問題につき,真剣な話合いを望む声は強いと考えられるが,他方,核バランスに関し,ソ連内には対米劣位の克服を優先させる考えが,また米国内には,ソ連に対する十分な報復能力の維持では足りないとする見解が,それぞれ根強いからである。

他方核抑止力による核戦争の防止は,相互の合理的な判断を前提とするものであり,この点,米ソ間で核戦争回避に関する相互の意図について,ある程度の信頼感が存在することが不可欠である。この信頼感を維持し,拡大するためには,米ソ間のある程度の意思の疎通と接触が必要であり,したがって米ソ両国の実務関係(領事条約,民間航空乗入れ,文化協定等)の発展は,実務上のメリットのほかに,以上の観点からも意義があるものとみられる。

核戦争に至らない範囲における米ソの対立関係については,両国はお互いに軍事的,政治的ならびに経済的な力および影響力を競っており,ソ連は特に西欧および中近東地域において,米国の勢力および影響をできるだけ弱め,自己の勢力の伸長に努力しているものと見うけられる。その他の地域についても,ソ連は機会が到来すれば,これを逃さずに勢力の拡大を図る方針であるもののごとく,たとえばソ連は,英軍のスエズ以東よりの撤退を自己の影響力拡大の一つの機会とみなしているといわれる。

他方,米国は,核戦争の防止という共通利益の追求のほかに,長期的にソ連圏の変貌を期待し,その方向に向って努力している。1966年10月7日のジョンソン大統領の演説は,「われわれの課題は,東側との和解を達成することにあり,これは狭い平和共存(peaceful coexistence)の概念から,より広い平和的かかわり合い(peaceful engagement)のヴィジョンへ脱皮することである」と述べ,いわゆる東側への「橋渡し」政策を打ち出しているが,その政策には引続き変更はないものと考えられる。

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2. フルシチョフ失脚以降の米ソ関係

1964年秋のフルシチョフ第一書記兼首相の失脚以降,ソ連は対米関係について,より慎重な態度をとるようになった。

これは一つには,フルシチョフの対米政策が,核を前面に出した緊張政策(ベルリン,キューバ危機)から,米国とのかなり思い切った平和共存政策(部分核停条約)と,振幅の大きいものであったことに対する反動であり,また,ブレジネフ集団指導体制が,政策の比重を国内問題および中ソ関係の再検討を含む社会主義陣営内部の諸問題に移した結果でもあった。さらに米国が1965年2月コスイギン首相のハノイ訪問中に北爆を開始したこともあり,ヴィエトナム戦争の激化が,米ソ関係の「凍結」(1965年9月のソ党中央委総会におけるブレジネフ演説)およびさらに「悪化」(66年3月のソ党第23回党大会におけるブレジネフ演説)の要因として言及されたことが指摘されよう。

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3. 過去1年間の米ソ関係

(1) 68年3月31日のジョンソン声明以降チェッコスロヴァキア事件まで

この期間の米ソ関係の特徴は,両国間で主として実務面の諸懸案が相次いで解決ないし進展したことである。

すなわち,1968年4月22日,両国は英国とともに,前年12月国連宇宙空間平和利用委員会の承認を得た宇宙飛行士の救助と返還に関する国際協定米ソ案に署名し,4月26日には,ソ連は,64年6月1日モスクワで署名されたまま批准待ちの状態にあった米・ソ領事条約を批准した(米上院の批准は67年3月31日)。

さらに,7月15日には,67年末失効したままになっていた米ソ文化交流協定が,より幅の広い内容に改訂されたかたちで署名され,また同日,66年11月4日に署名されていた米ソ民間航空協定に基づく相互乗入れが開始された。

次に,ミサイルの管理および削減に関する米・ソ交渉は,ジョンソン大統領が1967年1月,新任のトンプソン駐ソ大使にABM(弾道弾迎撃ミサイル)凍結のための合意を呼びかける親書を携行せしめたのが契機となったといわれている。ソ連は同年6月のグラスボロ会談で本件が問題になった時も特別の反応を示さなかったが,68年6月27日に至って,グロムイコ外相は「防衛用を含む戦略核兵器運搬手段制限の問題につき,ソ連は意見交換の用意がある」と述べ,これに対し,ジョンソン大統領は7月1日本問題について「できるだけ早い時期に」米・ソが話合いを開始することに合意したと発表した。

その後の経緯の詳細は明らかにされていないが,ソ連のチェッコスロヴァキア介入直後の米紙報道は,チェッコスロヴァキア事件直前に米ソミサイル交渉の開始日時および場所につき,米ソ間に,合意をみ,その旨公表する段どりになっていたと報じている。

以上のごとく,従来なんらかの理由により遷延されていたこれらの諸懸案が,この時期に解決ないし進展をみた理由は必ずしも明らかではないが,その背景としては,ジョンソン声明により,ソ連が欲する場合,米ソ関係の円滑化を妨げる障害が一つ減ったことが挙げられよう。

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(2) チェッコスロヴァキア事件以後

チェッコスロヴァキア事件は,ソ連にとって政治体制(共産党の役割)およびイデオロギーそのものに係わるものであり,かつ安全保障上の考慮もあって,極めて深刻な問題であったが,ソ連は基本的にはこれをブロック内の問題として片づけ,米ソ関係およびその他の西側諸国との関係に対するチェッコスロヴァキア事件の影響を,極小におさえようとの態度をとっている。他方米国は,チェッコスロヴァキア介入後直ちにソ連を非難し,また国連安保理の緊急集会を要請,米国内および国際の世論を考慮した反応を示したが,他方,事件直後の9月3日,クリスチャン報道官は「東欧の不穏な情勢にもかかわらず,ジョンソン大統領は依然として,ソ連と戦略核ミサイル管理削減の交渉を始めたいと望んでいる」と語っており,米国もソ連のチェッコスロヴァキア介入を,核均衡を基本とする米ソ関係全体とは切離してとらえたものと見なしえよう。

すなわち,チェコ事件は,限定された対立を基本的性格とする,米ソ係関の中の「平和共存」部分(熱核戦争の防止の点で米ソが共通の利害関係を有すること)に関しては,特別の影響を与えなかったといえよう。

他方,米国の対ソ政策の他の一面,すなわち,いわゆる東側への「橋渡し」政策については,チェッコスロヴァキア事件はかかる形の西側の緊張緩和政策に対するソ連の従来からの警戒的態度を端的に表わしたものであり,米国の「橋渡し」政策は,そもそも長期的なものであったとはいえ,そのタイム・テーブルはチェコ事件によって,いっそう不定となったといえよう。

他方,ソ連内においては,その後もミサイル交渉の是非について

かなりの議論がなされたもようであるが,69年1月20日,ニクソン大統領の就任に時期を合わせるかのように,ザミアチン新聞情報部長は記者会見において,軍拡競争制限措置は困難ではあるが実現可能であること,防衛システムを含む戦略的核運搬手段の相互抑制措置につき,68年米ソ間に交渉開始の合意が達成されたが,ソ連は本件問題につき,真剣な話合いに入る必要性を再確認すると述べた。3月14日にニクソン大統領は,米国の新しいABM建設計画を明らかにしたが,従来の主として中共向けといわれた「薄いABM」構想に代って,今回ソ連の脅威に対しても,ABMを配置するということは,ソ連を刺激する要因ともいえようが,他方,都市防衛からミサイル基地防衛に切り換えたことは,ABMの目的に関するソ連の誤解を排除する効果をもち,また段階的に建設を進めるという計画は,将来計画を縮小ないし中止する含みをもたせたものといえるものであり,ニクソン大統領としては,国内各方面からの圧力を調整しながら,ミサイル交渉に対するマイナスの影響を最少限にするようなかたちで,今回の決定を行なったものとみられ,事実,現在までのところ,本件発表に対するソ連の反応ぶりから見て,ソ連は本件計画が,ミサイル交渉の障害になるとは受け取っていないもようである。

チェッコスロヴァキア事件以降,米ソの協調的側面を表わす事象の例としては,中東紛争がある。

中近東は石油資源および戦略上の要衝であるところから,ソ連はアラブ,イスラエルの対立を最大限に利用し,米国との対決を避けつつ,その勢力扶植に努めてきた。特に1967年6月の中東戦争以後は,一方において国連特別総会を通じて米国との密接な接触の下に安保理決議の採決を図り,紛争の拡大に歯止めを行なうとともに,他方でアラブ諸国に対する軍事的挺子入れを強化し,敗戦で大打撃をこうむったアラブ連合およびシリアの軍事的再建に積極的に協力するとともに,イラク,アルジェリアおよびイエメンに対しても軍事援助を強化した。

ソ連の中東地域に対するかかる軍事的進出が,中東問題解決の手がかりのつかめない間に行なわれたことから,ソ連は,中東において平和でもなければ戦争でもない状態の継続を有利とし,したがって中東紛争が解決されてしまうことは望んでいないのではないかという見方が強まった。しかし68年後半以来,ソ連はソ連の南部国境に接する中東地域において危険な戦争の再発を許さないと述べるとともに,同年12月30日中東紛争解決に関するソ連案を提示し,その後米国,フランスおよび英国との接触を保ちつつ,活発な外交活動を行なっている。

ソ連としては,紛争解決の目途がつかない間に,アラブ,イスラエル間の小衝突が次第に拡大し始め,またパレスチナ・コマンド(挺身隊)がアラブ諸国のコントロールを離れた動きを見せ始めたこともあり,戦争再発およびこれに伴う米ソ対決の危険が増大したこと,アラブ連合が紛争の解決を望んでおり,またソ連として,スエズ運河が何時までも閉鎖されることがもたらす不利益から,紛争の政治的解決を真剣に望むに至ったものと考えられ,紛争の収拾に関する限り,今や米ソの基本的利害の間に,大きな差はないとの見方も行なわれている。

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