第11章 国際共産主義運動

1. チェッコスロヴァキア事件以前の動向

ソ連はチェッコスロヴァキア事件以前に,フルシチョフ以来の懸案であった世界共産党会議を1968年11月25日にモスクワで開催するというところまでこぎつけたものの,すでに当時国際共産主義運動におけるソ連の指導力の低下は顕著であった。

これを如実に示したのは1968年2月のブダペスト協議会である。先ず各党の参加ぶりに関しては,第一に,政権をとっている14の共産党のうち7党が参加したに過ぎなかった(ユーゴースラヴィアは招請されず,ルーマニアは途中で退場し,中共,アルバニア,北越,北鮮,キューバが参加しなかった),第二に,参加国を地域別に見ると,アジアの12党中,参加したのがわずか3党(モンゴル,インド,セイロン)のみであった点が指摘される。

ソ連の指導力の低下は各党の参加ぶりのみならず,協議会の運営面にも反映された。同協議会は従来の同種の会議と異なり半公開の形で行なわれ,いわばある程度「民主的」に運営された。会議の半ばにして,ソ連の中共非難,シリアのルーマニア非難によりルーマニア代表が帰国したことも,更に結局はソ連等多数の反対で否決されたとはいえイタリア党やルーマニア党がすべての反帝勢力の参加の下に国際会議を開くことを提唱し,フランスなど数ヵ国の党がこれを支持したことは,協議会に参加した諸党の間にすら,見解の相異が歴然としており,ソ連がかろうじて最終的に意思の統一をはかり得たことを示すものがあった。

そしてソ連の指導力の低下を最も劇的に示したのがチェッコスロヴァキアにおける「人間の顔をもつ社会主義」への動きであったことはいうまでもない。イデオロギー面においてもツィーサルジ書記が「ソ連の共産主義者の一般化された経験が,次第にマルクス主義的思考とマルクス主義的政策の唯一の可能な方向として定められ,レーニン主義が時とともにマルクス主義の独占的解釈に変えられたということの幾つかの否定面を打ち消すことはできない」と述べ,ソ連のイデオロギー上の指導性に重大な挑戦を行なった。

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2. チェッコスロヴァキア事件の与えた影響とソ連の立場

チェッコスロヴァキアに対する軍事介入に関し,ソ連指導部内で見解の対立があり,軍事介入反対の一つの理由として,既にソ連の指導力の低下した国際共産主義運動にいっそうの打撃を与える結果になることが指摘されたであろうことは,広く一般に推測されているところである。現実の介入の結果は,上記のソ連指導部の懸念を実証するがごとく,世界党会議開催問題の大幅な後退をもたらした。チェッコスロヴァキア介入に対する諸国共産党の反応で特に顕著であったのはイタリア,フランス,フィンランドの有力党をはじめ西欧諸党がこぞって反対の意を表明したことであった。また,チェッコスロヴァキア事件の結果,1968年11月25日に予定されていた世界党会議が延期されるはめとなった。

この間ソ連は,いわゆる「社会主義共同体」論,および「限定主権論」を展開し,この間ゴムルカは,資本主義国の諸党の批判を非難し,こうしてイデオロギー面からチェッコスロヴァキア介入を弁護するとともにチェッコスロヴァキア介入の国際共産主義運動に対するマイナスの効果をできるだけ小さくする努力を行なった。

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3. 世界党会議開催準備

ソ連にとっては,世界党会議はフルシチョフ,ブレジネフと2代にわたって公約してきたところであり,さらにソ連がいやしくも国際共産主義運動の指導者を以て任じ続けようとする限り,是非開催しなければならない事情にある。このため,ソ連は,68年11月のブダペストにおける第4回準備委員会において,会議の基本文書を作成する作業グループの設置をはじめ,今後の準備計画を策定するとともに,イタリア,フランス両党を中心とする西欧諸党,キューバ,日本等のいわゆる自主路線派の諸党をはじめ,世界の各党に対し世界党会議に出席するよう精力的な働きかけを行なった。

準備委員会作業グループは69年2月21日より3月4日までブダペストで,更に3月10日からモスクワで会合し,その結果に基づいて3月19日からモスクワで準備委員会が開催されたが,ブダペストの会合およびモスクワの準備委員会がいずれも予定より遅れて始まったこと,および3月10日からの会合が当初予定されていなかったものであることは,世界党会議で採択されるべき文書につき議論が紛糾したことを示唆するものであり,チェッコスロヴァキア事件後69年5月に予定されていた世界党会議の開催は6月5日に更に延期されることとなった。

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