第10章 その他の地域の情勢
(イ) 1967年6月5日にアラブ連合,ジョルダン,シリア3国とイスラエルとの間に勃発した中東戦争は,イスラエルが電撃作戦によってシナイ半島,ジョルダン河西岸全域およびシリア領土の一部を占領し,6日間で停戦が成立したが,その戦後処理は今日に至るまでなお解決していない。
(ロ) そして戦後処理が未解決のままイスラエル軍による占領が長期化し,停戦後も双方が砲火を交えた事例が頻発かつ激化しているほか,範囲もジョルダン・イスラエル間からスエズ運河地帯やシリア方面に拡大している。69年3月上旬にもかなりの規模の戦闘が展開され,ア連合の国軍参謀総長が戦死した。
アラブ内部にシナイ・アラブ・コマンドー(挺身隊)やパレスチナ・コマンドー等の急進的組織体による反イスラエル・ゲリラ活動が展開され,その活動が,アテネ空港(68年12月)やチューリッヒ空港(69年2月)におけるイスラエル旅客機襲撃事件等に見るように,海外にも及んでおり,関係アラブ諸国政府もかかるゲリラ活動をパレスチナ人の祖国回復の正当な権利の行使として容認し,これを抑制する立場にないとしている。これに対し,イスラエル側もアラブ・ゲリラ基地に対する攻撃,レバノン空港空襲等の手段で反撃しており,この問題は中東紛争の平和的解決に対する新たな障害となっている。
(ハ) スウェーデンのヤリング駐ソ大使(国連事務総長特使)による調停工作は1967年12月より熱心に続けられ,その過程で,アラブ・イスラエル双方ともイスラエル軍の占領地よりの撤退,交戦状態の終結,イスラエルの生存権尊重等を骨子とする1967年11月22日の安保理決議を受諾する用意があるという点まで漕ぎつけたが,アラブ側は右決議をイスラエル軍の全面撤退を求めたものとしているのに対し,イスラエル側はこれを交渉と合意による恒久的平和確立のための大わくを定めたものであるとの立場をとり,決議の実施方法についても双方の意見の調整がつかず,ヤリング特使の68年末の努力も具体的成果を見なかった。
(ニ) その間,米・ソともに自らの主導による解決への努力を行なった。
米国は,68年10月,ニュー・ヨーク滞在中のア連合外相に対しラスク長官より中東紛争解決のための7項目を提案し,更にニクソン大統領は,大統領に選出された直後の68年12月にスクラントン前ペンシルバニア州知事を特使として現地に派遣した。一方,ソ連は68年12月下旬にグロムイコ外相をア連合に派遣するとともに,中東紛争解決に関するソ連案を米国に提示し,更に69年1月早々には英・仏にも提示した。
フランスはソ連案の基本方針を受入れたが,米国もかかるソ連の動きを歓迎するとともにソ連案に対する疑問点や米国の立場を説明した回答を行なった。フランスは68年12月4大国会議開催を提唱したが,ソ連はこれに同調したものの,米英が消極的な態度を示したため,フランスは,69年1月17日,改めて国連の場における4大国協議開催を提案した。この仏提案に対しては,ソ連が1月20日同意する旨発表し,英国も1月25日これに同意する旨回答した。米国は2月5日,仏提案を好意的に考慮する用意があるが,さし当り2国間ベースで速やかに予備的討議を開くべきであると回答したといわれる。この結果,2月より国連内での2国間ベースの予備的会談が開始されており,4月早々,4大国会議開催の運びになるものと伝えられている。しかし4大国が解決策につき合意に達するまでには,長期的かつ困難な折衝を要するものと見られ,またたとえ合意ができたとしても,イスラエルはアラブ側との直接交渉を基本的に望んでおり,大国による解決案の押し付けを拒否すると言明し,アラブ側も自己の権利が確保されない妥協案は拒否するとの態度をとっているので,その実施には幾多の困難が予想される。
(イ) 英国が1968年1月に,1971年末までにペルシャ湾地域を含め,スエズ以東より撤兵する方針を発表したことは,英国の保護下にあるペルシャ湾岸の土侯国にショックを与えた。英国の撤退によって生ずる湾岸地域における力の真空状態に対処するため,同地域の9土侯国首長は68年はじめ地域集団防衛,外交統一を目途としたアラビア首長国連邦結成の協定に調印した後,その組織化のための首長会議を続けてきたが,連邦結成についての具体的措置については未だ最終的決定を見るに至っていない。
(ロ) ソ連は,1967年6月の中東戦争後,敗戦にによって多大の軍事的損失を被ったアラブ側の軍事力再建のため,武器の供与,軍事専門家の派遣などを行ない,これによってア連合の軍事力も戦前の水準に回復したものと見られているが,ソ連は,このようにして,この地域における地歩を築きつつあり,最近の地中海周辺におけるソ連の活動も強化されている模様である。中東戦争後,ソ連の地中海における艦船の数は増強されており,空母を含む40余隻がアレキサンドリア,ポートサイド,ラタキアなどの諸港に常時出入しているといわれる。また,紅海およびペルシャ湾方面においても,ソ連艦隊の頻繁な往来が伝えられており,イェーメン,南イェーメンに対するソ連の進出が目立っている。
アフリカの新興国の多くは,独立後すでに数年を経ており,概して独立当初の急進的理想主義から脱皮し,漸次経済開発を重視する現実的かつ穏健な傾向を強めている。これに伴い政治的安定の方向がはっきり看取できるのであるが,なお部分的には不安定要因が残っており,流動的である。68年8月のコンゴー(ブラザヴィル)および同11月のマリにおける軍事クーデターなどをも含め,過去数年来頻発した軍事クーデターによって急進的指導者が相次いで失脚したことは,それ自身前記穏健化傾向を示すものであると同時に,中共のアフリカにおける影響力を減退させる効果を持つものと考えられ,その国際政治上の意義は看過すべからざるものがある。
また,現実化,穏健化の傾向を反映して,「アフリカ統一機構」(OAU)の活動もアフリカ域内の国境問題の解決の努力に見られるように,アフリカのことはアフリカ人自身で解決しようという方向を示している。また,「中央アフリカ関税経済同盟」「東アフリカ協力機構」,「アフリカ・マダガスカル機構」などに見られる経済発展のための地域協力の動きは強化の方向を志向していると考えられる。
(イ) ナイジェリアの東部州が「ビアフラ共和国」の名の下に分離独立宣言(1957年5月)して以来,独立を認めない連邦政府とビアフラとの間に戦闘が開始され,OAU,英連邦事務局などの和平調停の努力にもかかわらず,ビアフラ側は「先ず停戦,次いで交渉」,連邦政府側は「分離独立の撤回」をそれぞれ要求して譲らず,これまでのところ何ら解決に向っていない。
米国は当初より不介入の態度を維持し,英国は連邦政府を支持しつつも,武器供与については慎重な態度をとっているが,他方,ソ連は1967年8月頃より連邦政府に対して武器供与,軍事専門家派遣などの支援を行なっていると伝えられる。反対に,フランスは,68年7月,民族自決の原則のもとにビアフラ支持の態度を表明している。本問題は,東部州の石油をめぐる利害とも絡んでいるといわれている。
(ロ) 南アフリカおよび南ローデシアでは従来人種差別が問題となっているが,南ローデシアのスミス政権が1965年11月に一方的独立宣言を行なって以来,これを認めない英国政府と南ローデシアとの間に展開されているローデシア問題は,双方の重ねての交渉,国連決議による経済制裁(1966年12月および1968年5月)にもかかわらず,現在に至るまで解決されていない。1968年10月にはウィルソン・スミス会談が行なわれ,11月にはトムソン英連邦担当相がソールスベリーに赴くなど,熱心な打開工作が行なわれており,英国はその過程で「多数による支配が確立するまでは独立を認めない」という従来の原則を事実上放棄したが,「多数による支配への妨げられざる進展」を確保するための保障措置を要求しており,今後主にこの点をめぐって更に交渉が続けられるものと考えられる。
(ハ) 1966年,国連総会は,南西アフリカに対する南アの委任統治権を終らせ,国連の責任の下に置くことを決定し,1967年の特別総会で国連南西アフリカ理事会(68年の第23回国連総会では,南西アフリカの新呼称を「ナミビア」と定め,同理事会を国連ナミビア理事会と改称した)を設け,同理事会に施政権が委譲されるべきである,との決定を行なったが,南アはその実施を拒否している。
1968年度の中南米の情勢は,メキシコの学生運動,ペルーおよびパナマのクーデター,ブラジルの国会閉鎖等の一連の動き以外は,一般的に平静に推移したといえる。ペルー,パナマにおけるクーデターをもって約2億4,000万の中南米の人口のうち半数が軍事政権下におかれることとなったが,中南米の軍部は,一般に,中流階級以上の出身者で占められており,米国等への留学を通じて軍事以外の知識も深く,政権担当能力を有するものが多いこともあって,中南米のほとんどの軍事政権は安定している。政情不安が起るのは,多くの場合,この軍自身の内部に不統一が生じた時であると考えられる。
また,一般に中南米のクーデターは,他域のそれと異なり,政権交代の一形式とも言いうる種類のものであり,クーデターという言葉から連想されるような深刻なものではないのが特徴である。ペルー,パナマの場合も,クーデター後深刻な政治的不安は発生しておらず,ペルーについては,IPC問題をめぐる米国との紛争(後述)はあるが,両国の軍事的政権ともそれぞれの国内問題と真剣に取組んでおり,今のところ安定した状態にあるといえよう。
(イ) 1968年7月以来4ヵ月余りも続いたメキシコの学生騒動はオリンピックと前後してかなりの緊迫状態をかもし出したが,結局農民層,労働者層の支持は得られず,現政権の屋台を揺るがすに至らなかった。
(ロ) ペルーでは,68年10月クーデターが起り,4年間続いたベラウンデ政権を倒し,軍部が政権を握ったのであるが,クーデター直後新政権は米国系石油会社1PCの石油施設を接収した。右接収の補償問題につき両国間で話合いがつかず,米国が対外援助法ヒッケンルッパー修正法を適用すれば,対ペルー経済援助が停止され,更には砂糖買付クォーターの停止等にも発展するおそれがあるが,米国としてもペルーとの関係を悪化させることは好むところではなく,同国に特使を派遺して交渉に当らせる等,この問題の解決に努めている。
新政権はソ連等の共産圏諸国と次々と外交関係を樹立して共産圏諸国への接近の動きを見せているが,これは過度の経済的対米依存から脱却しようという新政権の経済的考慮を反映するものであると同時に,政治的にも,IPC問題にからんで,多分に対米ジェスチャーの意味を持つものとも考えられている。
(ハ) パナマのクーデター(同じく68年10月)は,前大統領の行きすぎにより,軍部との間の勢力均衡が破れたことにもとづくものであり,それ自体は国際政治上余り重要でないが,従来懸案となっているパナマと米国との間の運河条約改訂交渉の進捗を遅らせる要因となったことは否定できない。
(ニ) ブラジル政府は,68年12月,議会の無期限閉鎖を含む一連の非常措置をとり,独裁的性格を強めたが,これは追放政治家、野党,学生,教会急進派などの現政権反対ないし批判諸勢力に対する政府の態度が生ぬるいとする軍部強硬派のつきあげによるものであると考えられている。
軍部内の諸勢力が目下のところ一致してコスタイ・シルバ大統領支持の立場をとっていること,現政権反対勢力が完全に抑えられていること,財政,経済安定政策およびその他の諸改革が強権によって,一応破綻なく推進されていること等から判断して,ブラジルの政情はさし当り現状のまま安定を続けるものと見られているが,現政府が反政府分子の追放弾圧を強行しすぎると,政府内部に摩擦を生ずる可能性もある。
(ホ) 中南米唯一の共産圏であるキューバでは,1970~75年を実現期とする農業中心の経済開発計画を推進するために,カストロ首相は「革命的攻勢」のスローガンのもとに国民の勤労強化と耐乏生活を求めているが,これに対する国民の不満はかなり根強いといわれる。
キューバと米国との関係については,米国の対キューバ政策には,ニクソン政権成立後も今までのところなんらの変更もみられず,近い将来変化が起る兆候もない。また中共との関係は,1966年初頭の両国論争のしこりは未だ除去されず,膠着状態が続いている。対ソ連関係については,カストロ政権は1966年初頭頃よりソ連の対外政策を痛烈に批判してきたが,最近これをさしひかえ,ソ連との関係を改善せんとする兆があらわれている。これは山積する経済問題をかかえたキューバにとり,ソ連の経済援助は欠くべからざるものであるとの認識がキューバ政府内で強くなっているためと考えられる。