移住者送出および受入状況

1 昭和三十七年度移住者送出の概況

昭和三十七年度の移住者送出予定数は農業移住者一万名、技術移住者一、○○○名、計一万一、○○○名であったが、送出実績は国内事情などの影響から二、二〇一名にとどまった。

一九五二年に移住が再開されてから一九六三年三月末までの渡航費貸付移住者の送出合計は、五万四、四八○名となっている。

昭和三十七年度の送出実績の国別内訳は、つぎのとおりである。
ブラジル 一、八三〇名   ボリヴィア 三名
パラグァイ 一五一名   コロンビア 一〇名
アルゼンティン 一九八名   アメリカ合衆国 八名
ドミニカ 一名
二、二〇一名

         

       

          

        

               

目次へ

2 ドミニカ移住問題

(1) ドミニカヘの移住は一九五六年から一九五九年までに前後一一回にわたり行なわれ、二四九家族、一、三一八名が移住したが、一九六一年五月末のトルヒリョ元帥暗殺による政情および経済情勢の悪化などにより、同年八月から一九六二年四月までに前後六回にわたり、一三三家族、六一一名(国から帰国費の貸付を受けた者一二七家族、五九五名、資金自己調達六家族、一六名)が集団帰国した。

政府は、閣議決定により、前記帰国者に対し海外からの一般引揚者に準じて援護を与えることになったが、就職および公営住宅のあっせんについてはほぼ解決されており、国民金融公庫の融資あっせんおよび国内開拓、干拓地への入植については引続き努力中である。また、これと併行して生活保護法による必要な保護を与えており、現在帰国者の生活は安定しつつある。

(2) さらに、ドミニカから南米へ直接転住を希望する者に対しては、南米転住特別措置として、海外協会連合会からは渡航費貸付、海外移住振興会社からは営農資金の貸付(三〇万ないし六〇万円)をそれぞれ行なって、転住先での営農基盤の確立に助成策を進めることとしたので、一九六二年三月から一九六三年三月までの前後六回にわたり、七〇家族、三七六名(ブラジル五二家族二六八名、アルゼンティン一四家族八五名、パラグアイ四家族二三名)が集団転住した。

(3) 前述の帰国および南米転住により、一九六三年四月以降のドミニカでの日本人移住者数は、約一〇〇家族、五〇〇名となったが、これら残留者は、固い決意をもって引続きドミニカに定着して営農に従事している。これら定着者に対しては、帰国者および転住者の既配分土地をドミニカ政府から追加として配分(二五タレアないし五〇タレア)を受け、従来問題になっていた土地問題もほぼ解決し、営農基盤確立の見通しも明るくなった。他方、「進歩のための同盟」による米国の経済援助の促進および同国農産物の対米輸出再開により、ドミニカ経済事情も好転したので、邦人移住者の生計も徐々に豊かになっている。これを裏書きするように、一九六三年初頭、定着者の中から日本国内の家族または近親者呼寄せの例が二件あったほか、また最近二名の青年が帰国して結婚し、花嫁をドミニカへ同伴した例もあり、同国における移住者の生活は一段と明るさを増している。

目次へ

3 技術移住の推進

技術移住のあっせんは、一九六一年二月以降、いわゆる求人方式をもって開始された(それ以前は指名呼寄せであった)。しかし、現地会社の求人条件に合わせて適格者を厳選するこの方法では、一応優秀な移住者の送出は可能であっても、積極的な技術移住受入先の開拓は望めないので、移住希望者の希望に基づいて適当な現地受入先を開拓し、これを結合させて、随時その希望実現を達成させるいわゆる求職方式を併用することが効果的であると判断されるにいたり、一九六三年一月から、この新方式を採用した。

なお、昭和三十七年度中の送出実績は、つぎのとおりである。

        技能者   同伴者    計

海協連扱い   四五名    一名   四六名

指名呼寄せ   一五名    四名   一九名

 計      六〇名    五名   六五名

目次へ

4 派米農業労務者

(1) 一九五九年日米両国政府の合意により、派米農業労務者(通称「派米短農」)事業が発足し、日本政府が設立した社団法人農業労務者派米協議会が運営しているが、同協議会は、一九六三年三月末までに三、五六〇名の農業労務者を、米国のカリフォルニア州へ派遣した。

この事業は、日本の農村青年に米国での生活と就労の機会を与えることによって、米国および米国人の理解者とすること、ならびに米国で学んだ農業技術を日本でもできるだけ活用させることを目的としており、同時に、これにより日米両国の親善関係を緊密にする一助となることを意図したものである。

(2) 本事業は、当初、滞米実数年間三、○○○名を越えないこと、また毎年一、○○○名の日本農村青年の入国を認めること、滞米期間最高三カ年とすることなどを条件として発足した。その後、米国経済の後退により国内失業労働者が漸増したため、前記三、○○○名の枠を一九六二年十月以降一、二〇〇名に減らすよう申入れがあり、一九六一年十一月この旨日米間の了解が成立した。一九六三年三月末現在の滞米短期農業労務者は、一、一八○名である。ところが派米短農の実績は現地側でもきわめて高く評価され、一九六三年の米側の求人申込みは前述の一、二〇〇名の枠をはるかに超過しているので、この制限枠はある程度緩和される模様である。

(3) 短農満期(三カ年)帰国者は、日本の津々浦々に散在し、日本国際農村連盟を組織してたがいに連絡を保ちながら、自家または新開拓地で営農の指導的立場に立っており、なかには南米に移住し実績を挙げている者も相当の数にのぼっている。一九六三年三月末現在の帰国者の内訳は、つぎのとおりである。
農業指導職員 六四名
サラリーマン 九八名
再渡米者 三四名
南米移住者 六〇名
自家農業者 一、八二二名
死 亡 者 一四名
不   明 二八八名
  計 二、三八○名

なお、一九六三年三月末現在の送出、滞米および帰国者の統計は、つぎぎのとおり。
送出総数 三、五六〇名
滞米短農 一、一八○名
帰 国 者 二、三八〇名

目次へ