東欧地域 |
一九六二年十月十五日のタス通信は、ソ連政府は、同年十月十六日から同十一月三十日まで、ロケットの発射実験を行なうため、太平洋の一部に他国の船舶および航空機の立ち入りを禁止する閉鎖海域を設定すると報道した。
よって、政府は十月十七日在ソ連大使館からソ連外務省へ口上書を送り、つぎのように申入れた(「わが外交の近況」第六号一九〇ぺージ参照)。
(1) ロケット発射実験のため太平洋の一部に他国の船舶と航空機の立ち入りを禁止する閉鎖海域を設定するのは、他国の海洋使用権を不当に侵害するものであり、日本政府は、これを遺憾とする。
(2) しかも、この海域の上空は日本航空の定期路線上にあたるので、その損害はきわめて大きい。この損害を最少限にくいとめ、航空の安全を保障するため、ソ連政府が、ロケット発射実験を行なう九六時間前にそのつど日本政府に事前通告を行ない、さらに二四時間前もこの事前通告を確認することを要求する。
(3) 前述の閉鎖海域は、日本の航空事業のほか、漁業などにも大きな利害関係があるので、今度のソ連の措置または行動によって、日本国と日本国民が損害、損失をこらむった場合には、国際法上要求できる補償を請求する権利を留保する。
これに対し、ソ連外務省は、十一月九日、在ソ連大使館に口上書を送って回答してきたが、その中で、ソ連政府は、日本政府が要望した事前通告を行なうことを拒否し、ソ連側の実験による好ましくない結果は、日本政府が国民に周知させる措置によって防止されるとする、従来からのソ連政府の立場をくり返した。
国後、択捉、色丹各島および歯舞諸島がいまだソ連の占領下にあるため、これらの島に近い海域で漁撈を営む日本漁船は、しばしば「ソ連領海侵犯」と「密漁」のかどでソ連当局にだ捕されており、その場合、船体を没収されたり、船長など乗組員のうち責任者が一年ないし四年の禁錮鋼刑をうけることが多い。政府は、これまで機会あるごとにこのような不幸な状態をなくするようソ連側と交渉してきたが、遺憾ながら、この問題はいまだに解決をみていない。
一九六二年七月二十一日、ソ連外務省極東部長は山田駐ソ大使に対し、日本漁船が日本政府の奨励をうけて故意に「ソ連領海」を侵犯しているので、今後も侵犯が続くならば、ソ連側はその根絶を期するためにさらに厳しい措置を講ずるという趣旨を述べた口上書を手交してきた。山田大使は直ちにこれを全面的に反駁したが、ソ連側は態度を変えなかった。
ソ連の態度がこのようであるので、北方海域に出漁している日本漁船のソ連側によるだ捕は依然として続いており、一九六三年三月三十一日現在で、終戦以来のソ連側によるだ捕漁船と乗組員総数は一、〇五二隻、八、八二一名にのぼり、そのうち七〇九隻、八、六七一名が帰還し、このほかに一七隻が沈没または船体放棄され、一三名が抑留中に死亡したので、三二六隻、三二六名がソ連側に抑留されたままと推定される。
外務省は、右の期間内に二四回にわたりソ連側から釈放された漁船乗組員および船体の引渡しについて通告をうけ、その都度海上保安庁に連絡し、同庁の巡視船を使用して引取りを行なった。また同期間内に五回にわたり抑留漁船および乗組員の釈放を在ソ大使館を通じてソ連側に要求したが、その都度拒否された。
一方、北方海域で海難に会った日本漁船のうちソ連側に救助されたものは同期間中に七件あり、いずれもソ連側の通告により、海上保安庁に連絡し、同庁巡視船を派遣して救助された漁船乗組員を引取った。
ソ連にある日本人墓地の参詣については、その他の引揚問題に関する諸案件とともにわが方からくり返しソ連当局へ申入れてきたが、一九六一年四月ソ連側はハバロフスクおよびチタにある日本人墓地の参詣を許可してきたので、同年八月遺族代表三〇名など墓参団が派遣された。また、同年八月来日したミコヤン第一副首相に対し、小坂外務大臣が要望した前記の地区以外の墓地については、一九六二年一月三十一日ソ連側から山田駐ソ大使に対し、ナホトカ、イルクーツク、タシュケントおよびモスクワ近郊のクラスノゴルスク、リュブリノの七地区にある日本人墓地の訪問を許可する旨通報してきた(「わが外交の近況」第六号二〇三ぺージ参照)。その後、イルクーック飛行場が修理中のため同地区墓地の訪問は不可能となり、また、参詣団は一グループ三〇名以内とし、それには、政府職員、宗教関係者は加わらないこと、報道関係者は一、二名のみ認められることなどの細目が決定された。よって一行は、八月二十一日ハバロフスクから、ナホトカ班とクラスノゴルスク・リュブリノおよびタシュケント班の二班に分れて墓参を行ない、帰路再び合流して同月二十八日帰国した。
一九六一年に河野農林大臣とミコヤン・ソ連副首相との間で合意された日ソ農業技術者交換計画(「わが外交の近況」第六号二〇四ぺージ参照)は、一九六二年にいたって実現した。日本側視察団の第一陣として、小麦、甜菜および飼料作物の各専門家である農林省職員三名が同年六月二十四日モススクワに到着し、通訳を担当する駐ソ日本大使舘員一名とともに作物育種班を構成し、ソ連側の案内でモスクワ、キエフ、ハリコフ、クラスノダール、レニングラードなど各地の関係機関および施設を一カ月にわたり視察して帰国した。
これに対応するソ連側視察団としては、四名の専門家から成る養禽班が九月二十三日に来日し、一カ月にわたり農林当局の案内で、人工孵化、雌雄鑑別、伝染病対策などを含むわが国の養鶏事業を主として視察した。
日本側第二陣としては、育種、飼養管理および家畜衛生の各専門家である農林省職員三名が八月二十四日モスクワに到着し、通訳を担当する駐ソ日本大使舘員一名とともに畜産班を構成し、一カ月にわたりモスクワ、ハリコフ、ポルタヴァ、レーニングラードなど各地の関係機関および施設を視察した。ソ連からは、第二陣として専門家四名からなる野菜班が十月二十七日来日し、一カ月にわたり各地の野菜専門農場、育種試験場、農業試験場などを視察した。
日本側第三陣としては、九州、関東および北海道の民間農業経営者各一名および通訳を担当する農林省職員一名、計四名からなる農民班が一九六三年四月二日モスクワに到着し、一カ月の予定でソ連各地のコルホーズとソフホーズの経営状態、農業機械化、畜産の導入、農業普及教育などの諸問題について視察を開始した。
これらの視察団の経費に関しては、派遣国が当該視察団の往復旅費を、受入れ国がホテル代など滞在中の一切の費用を負担することに、その都度日ソ両国間に合意をみている。