一 世界の動きとわが国

 

キューバ事件

 

一九六二年最大の国際問題はキューバ事件であった。

一九五九年初めにキューバに成立したカストロ政権は、その後次第に共産陣営へ接近の度を強めていたが、共産陣営側のキューバに対する援助も、特に一九六二年七月以降、急激に増大した。十月二十二日、ケネディ大統領は、ソ連が中距離弾道、ミサイルなどの攻撃的兵器を、秘密裡にキューバに配置したことが確認された旨明らかにするとともに、翌二十二日からキューバ向けの武器輸送を遮断すると発表した。このため、キューバへ向けて航行中であったソ連船と米海軍がカリブ海で衝突するのではないかという危倶も生じ、一時、深刻な危機感が全世界にみなぎった。

しかし、国際連合における中立諸国やウ・タン事務総長の調停工作が糸口となって、十月二十六日から二十八日にかけて、米ソ両国首脳の間に書簡が交換された結果、ソ連は国連の監視下にキューバから攻撃的兵器を撤去することに同意した。こうしてキューバ事件は一応解決したが、米ソ両国首脳がこの問題解決のために行なった話し合いのいわば副産物として、両国が軍縮、核実験停止およびNATO(北大西洋条約機構)とワルシャワ条約機構の間の関係を調整する問題について話し合うことに意見の一致をみた点も注目をひいた。

ソ連はキューバ事件が平和的に解決できたのは、ソ連がいわゆる平和共存を重視し、戦争を避けようとしたからだと強調しているが、事実問題としては、それまではキューバに配置していないといっていた攻撃的兵器が発見され、その撤去を余儀なくされたからである。このことは、共産圏各国の指導者に対し、表面上はともかく、実際上はかなり深刻な衝撃を与えたとみられ、特に中共は、その後ソ連の態度をますます鋭く批判するようになった。

他方、自由主義陣営は一致して、終始、米国の立場と決断にみちた行動を支持した。また中立諸国の間でも、こうした米国の態度を批判する声はほとんど聞かれなかった。

わが国も、キューバ事件にさいし、ソ連がキューバへ攻撃的兵器を持ち込んだことは、国際的均衡をいちじるしくくずすものであったとして、米国の立場に対して十分な理解と支持を表明した。

要するに、キューバ事件は、米ソ、ひいては東西対立の歴史における一つの頂点をなすものであり、その後の国際情勢に大きな影響をおよぼしたばかりでなく、国際共産主義運動の内部に具体的論争の種子をまいた点でも、まことに画期的な事件であったといえよう。

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東 西 関 係

米ソ両国の宇宙開発計画は、一九六二年にますますめざましい進展を見せ、米国は"フレンドシップ"7号(二月)につづいて"オーロラ"7号(五月)"シグマ"7号(十月)、さらに一九六三年五月には"フェイス"7号の軌道飛行に成功して、人間の宇宙旅行の第一段階である"マーキュリー"計画を一応順調に完了し、他方、ソ連も一九六二年八月、"ヴォストーク"3号、4号を相ついで軌道に打ち上げ、初のグループ飛行に成功した。

また一九六二年三月、米ソ両国首脳は宇宙開発における協力問題について書簡を交換したが、さらに十二月には、通信衛星計画に関する協力協定が両国の間に結ばれるなど、宇宙開発の面での国際協力の機運が芽生えた。

しかしながら、軍縮、ベルリン問題など、いわゆる従来の東西間の懸案について見れば、わずかに米ソ直通通信線の問題をのぞいては、特に具体的な進展もなく、双方の基本的対立がほぼそのままつづいたといえよう。

軍縮問題については、十八カ国軍縮委員会が、一九六二年三月ジュネーヴで、フランス欠席のまま開かれ、この間題をめぐる東西交渉は、一九六〇年六月以来、約二年ぶりに再開された。この委員会では全面的軍縮、部分軍縮、核兵器実験停止などの問題について、平行的に審議を進めたが、どの問題についてもこれという成果を見ないまま、米ソ両国がそれぞれ一連の大気圏内核兵器実験を再開するという事態に立ちいたった。

しかし、その間、核兵器実験停止問題については、国際世論の高まりと、科学的探知技術の進歩などによって、東西双方の主張の差はかなり狭まってきたことがうかがえる。

いまのところ、この問題をめぐる東西の基本的対立は、要するに、地下実験に対する現地査察を認めるか、どうかの点にある。ソ連は、国別の探知組織だけで十分であり、米英の主張する現地査察については、軍事的情報の収集がねらいであるとして強く反対してきた。しかし、ソ連は、一九六二年十二月のジュネーヴ軍縮委員会で、地下実験に対する現地査察の代りに、探知と識別の手段として封印した自動地震記録計(ブラック・ボックス)をソ連領内の三カ所に設けてもよい、と述べた。つづいて、同月米ソ両国首脳の間に交された書簡のなかで、ソ連は、現地査察は必要でないという従来の立前は一応維持しながらも、事実上年二回ないし三回の現地査察を認める用意があることを明らかにして注目された。

その後、東西の主張は、現地査察の回数や実施方法など具体的問題をめぐっていぜん対立しているが、一九六三年七月にはモスクワで開かれた米英ソ三国の高級会談の結果、地下実験を除く部分的な核実験禁止に関する条約について話し合いがまとまり、この条約は八月五日モスクワで署名された。

また米国は、一九六二年十二月のジュネーヴ軍縮委員会で、米ソ両国首脳を結ぶ直通通信線の開設など、一連の偶発戦争防止措置を提案したが、このうち、ワシントン・モスクワ間の直通通信線設置について、六三年六月両国の間に協定が署名されたことは、限られた範囲のものではあるが、偶発戦争を防ぎ、軍縮へ向う第一歩であり、また六二年三月、十八カ国軍縮委員会が開かれていらいの唯一の具体的成果である。

他方、ベルリン問題については、一九六二年初頭からつづけられた米ソ間の瀬踏み交渉は、キューバ危機のために一時中断され、六三年初めに再開された。しかし、これらの会談を通じて、ソ連は、終局的には西ベルリンの占領体制を清算せよというこれまでの主張を譲ろうとせず、これに対して米英側も、ベルリン駐留権は交渉の対象にはできないという基本的態度を堅持しているので、いまのところ双方の間に歩みよりは見られない。

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中ソ間の論争

中ソ間のイデオロギー論争は、フルシチョフ首相が一九六一年十月のソ連共産党第二十二回大会で、考え方の点で中共に近いアルバニアを批判したことから表面に出たが、六二年を迎えてますます激しくなった。もっとも、三月頃には一時和解への動きが見られたこともあったが、六月、モンゴルのコメコン(経済相互援助協議会子)加盟、ソ連の対ユーゴー接近などによって、両国の関係は再び悪化し、九月以後、ハルビン、上海、ウルムチなどにあるソ連の総領事館がつぎつぎに閉鎖された。

こうした両国の対立を一層険悪な状態に追い込んだのが、十月中旬に発生したキューバ事件と中印国境問題であった。

キューバ問題では、中共がソ連の米国に対する譲歩を「無原則の妥協」と攻撃したのに対して、ソ連は「理性の勝利」によって核戦争を避けえたのだと応酬した。また中印紛争では、中共は、ソ連が「社会主義の兄弟国」である中共を積極的に支持しないで、「帝国主義の手先」であるネールを支持し、軍需物資を提供したと非難した。こうして中ソ論争は、たんなるイデオロギー論争の範囲を越えて、具体的な外交政策をめぐって批判し合うまでに発展した。

キューバ事件の直後、十一月初めから十二月初めにかけて、ブルガリア、ハンガリー、イタリア、チェッコスロヴァキアなど各国でつぎつぎに共産党大会が開かれたが、これらの大会で、東欧や西欧の各国共産党代表は、こぞってフルシチョフ首相の平和共存路線を強く支持するとともに、はっきりと中共の名をあげて激しく攻撃した。これに対し、中共代表団は、チェッコ共産党大会で声明を出し、世界各国共産党大会を召集して是非を明らかにするよう要求した。しかし、ソ連側ははじめこの中共の要求を無視し、またフルシチョフ首相は、十二月十二日ソ連邦最高会議で演説したさい、直接的ではなかったが、それとわかるような表現で、中共がキューバ問題でとった態度は、ソ連を米国との熱核戦争に押しやろうとする「トロッキスト」的なものだと酷評した。

中ソ論争はこのように白熱化の一途をたどっていたが、一九六三年二月十日付のプラウダ社説は、中共がさきに要求した世界共産党大会を開く足がかりとして、まず中ソ二党の間で話し合おうと提案し、またソ連共産党中央委員会は二月二十一日付で中国共産党中央委員会に書簡を送って、これを正式に申し入れた。そしてその後双方で協議の結果、二党会談は七月五日からモスクワで開かれたが、意見の一致を見るにいたらなかった。

こうした中ソの対立は、たんに共産圏内部の紛争というだけでなく、ひろく国際共産主義運動全般に影響をおよぼし、また他方では共産圏の西側に対する出方にも関連するものとして注目すべきであろう。

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西欧の情勢

キューバ問題では、米国の立場を支持して強い団結ぶりを示した西欧内部にも、英国のEEC(欧州経済共同体)加盟交渉の挫折や西欧核武装の問題などをめぐって、多少の波乱があった。

EECは、一九六二年の初め共通農業政策を打ち出して、いわゆる第二段階に入り、ますます繁栄への道を進んでいる。英国のEEC加盟交渉は、一九六一年八月に始まり、六三年春頃には妥結するものと期待されていた。ところが六三年一月末、フランスは、英国にはEEC設立条約(いわゆるローマ条約)の本質的内容をそのまま受諾しようという態度が認められないとして、この交渉をつづけることに反対した。他のEEC五カ国はあっせんに努力したが成功せず、結局英国のEEC加盟交渉は中断された。

この出来事は西欧内部にいろいろな波紋を呼び起したが、その一つとして、ヨーロッパの政治統合問題が棚上げになったことがあげられる。

がんらい、EECを始め、ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)、EURATOM(欧州原子力共同体)などの結成は、究局的には政治面においてヨーロッパ諸国を統合しようという希望に出たものである。この政治統合問題自体についても、EEC六カ国の間で、しばしば話し合いが行なわれた。ところがこの話し合いで、スパーク・ベルギー外相らいわゆる欧州主義者は、各国が主権の一部を放棄して、超国家的な強力な機構をつくるべきだと主張したが、これに対してドゴール・フランス大統領は、各国が主権を保ちながら、ゆるやかに結びつくことを主張して意見が対立した。また一九六二年四月、パリの六カ国外相会議で、オランダやベルギーは欧州の政治統合を実現するには、まず英国をEECに加盟させることが先決だと強く主張したので、この問題はいっそう困難になった。そのうえ、一九六三年一月英国のEEC加盟交渉が中断されたため、欧州の政治統合問題も当分棚上げの状態となった。

また、米国は、かねてから論議されていたNATO核兵力創設の問題を推し進め、一九六二年十二月ナッソーで開かれた米英首脳会談で、ポラリス・ミサイルの提供を中心とする具体的構想を打ち出すとともに、フランスにも参加を呼びかけた。これに対しドゴール大統領は、フランスは独自に核兵力をもつ計画であり、また米英の構想はフランスにとって時期尚早であるとして、この呼びかけに応じなかった。しかし、米英としては、フランスも最終的には参加するものと期待しながら、その後もNATO諸国と具体案の協議を進めている。他方、フランスも、基本的には自由世界全体の団結と安全を尊重し、米国との協力も惜しまない精神に立っている。

このほか、ヨーロッパでは、独仏の友好関係がますます強まり、一九六三年一月十二日両国間に協力条約が署名され、従来の両国関係の歴史に新生面を切り開いた。

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池田総理の訪欧

こうした西欧の情勢を背景として、大平外務大臣およびこれについで池田総理大臣が一九六二年秋、西欧諸国を訪問したことは、特に大きな意義があった。池田総理の訪問の期間は十一月五日から二十四日まで、訪問先はドイツ、フランス、イギリス、ベルギー、イタリア、ヴァチカンおよびオランダの七カ国であった。

この池田総理の訪欧は、わが国がアメリカ、ヨーロッパとならんで、自由陣営を支える三本の柱の一つであるという基本的認識に立って、めざましい経済成長の途上にある日本と、経済的団結と繁栄をますます高めている西欧諸国とを、これまでより一層強いきずなで結びつけることを、主な目的としていた。

訪欧の具体的成果としては、第一に、池田総理の英国訪問の機会に、長年の懸案であった日英通商居住航海条約の署名が行なわれ、英国がこれにともなって日本に対ずるガット(関税および貿易に関する一般協定)第三十五条の援用を撤回したこと、第二に、フランス、ベネルックス渚国も、池田総理に対し、ガット第三十五条の援用を撤回する問題について、今後話合いを一層促進しようという好意的態度を示したこと、第三に、OECD(経済協力開発機構)に加盟したいというわが国の希望に対して、各国政府ともこれを支持する態度を表明し、その後の具体的交渉の糸口がつくられたこと、などがあげられる。さらに池田総理大臣は、EECが閉鎖的なものとならないよう要望したが、各国首脳は、EECがそうした政策をとることはありえないと確言した。

こうした具体的成果のほかに、池田総理大臣の訪欧は、わが国経済の高度成長の事実と自由陣営の一員としての力強さとを、西欧諸国に改めて強く印象づけ、その後の英国、フランス両国外相訪日の糸口をつくったことなど、これまでわが国と米国との関係に比べれば、必ずしも十分とはいえなかった西欧諸国との関係を強化し、わが国の国際的地位を一段と向上させるのに大いに役立った。

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韓国の情勢

韓国では、一九六三年夏に民政移管を予定して、六二年十二月にそのための憲法改正案を国民投票に付し、八割近い賛成を得た。つづいて朴正煕国家再建最高会議議長は、革命主体勢力が将来の民政に参加すると正式に表明した。一方、韓国側はわが国との国交正常化にも熱意を示し、日韓会談最大の懸案である請求権問題についても、朴議長の特使として派遣された金鐘泌中央情報部長は大平外務大臣との間に、無償三億ドル、長期低利借款二億ドルの経済協力による解決について話し合いをつけるにいたった。

しかるに、六三年一月一日韓国において政治活動の自由が認められたのにともない、民間政治家は完全な民政移管を要求し、軍事政権に対して激しい攻撃を展開した。また、軍事政権内部でも、その主流派と見られていた金鐘泌氏の一派と、金東河最高委員を中心とする反主流派の対立抗争が、にわかに表面化するようになった。そのため、朴議長は二月十八日、大統領選挙に出馬しない方針を明かにするとともに、つづいて金鐘泌氏も外遊することになった。

しかし、三月上旬になると、金東河氏ら反主流派はクーデター計画を行なったとの理由で逮捕され、事態は一段と悪化した。ここにおいて朴議長は同月十六日、軍政を四年間延長することについて国民投票を行なう旨の声明を発表したが、これは野党政治家の強い反撥を招き、政局の混迷と動揺は極度に達した。

米国務省は三月二十五日にいたり、軍政延長は韓国政情の安定にとって脅威となりうるものであり、軍事政権と民間政治家が全国民に受け入れられるような民政移管の準備を進めることが望ましい旨声明した。この声明をきっかけに、軍事政権側と民間政治指導者側の間にようやく事態収拾の動きが起り、朴議長は四月八日の声明で、軍政延長問題についての国民投票は九月まで延期すること、また国民投票を実施するか、それとも大統領および国会議員選挙を行なうかは、九月に各政党代表と話し合ってきめると述べた。この結果、韓国の政局は、不安定ながらも、秋の総選挙を目標とした準備運動の段階にはいることとなった。

こうした政局不安の原因は、真に韓国の実情に即した民主主義を確立するには、なにが最良の方法であるかということについて、韓国国民の間に見解の相違があることによるもので、その解決はいうまでもなく、韓国国民自身の問題であるが、わが国としても韓国国民のこうした苦悩と努力に対し、十分な理解と同情をもちつづけるべきものと考える。

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アジアの情勢

アジアの他の地域では、一九六二年には、ラオス協定の署名や西イリアン(西ニューギニア)紛争の解決など、建設的な動きと、中印国境紛争など、アジアの安定の脅威となるような事件が織りまざっていたといえよう。

まずラオスでは、一九六一年五月からジュネーヴで開かれた十四カ国会議で、中立ラオスの樹立について一応意見が一致していたが、その後も三派連合政府の閣僚の割当てをめぐって各派の意見が対立し、内戦がつづいていた。六二年五月、左派(パテト・ラオ)と中立派連合軍の大攻勢に対して右派軍の敗北は決定的となったが、米国はこうした事態の発展が隣接地域におよぼす影響を心配して、五月十七日、米タイ軍事協定にもとづいて、海兵隊をタイに上陸させ、ついで英、豪、ニュー・ジーランドのSEATO(東南アジア集団防衛条約機構)諸国も、それぞれ小部隊をタイに派遣した。

こうした経緯ののち、六月二十三日、中立派のプーマ殿下を首班とする三派連合政府がようやく正式に成立した。またラオス情勢が落ちつくにつれて、タイに派遣されたSEATO軍も、七月初めからつぎつぎに撤退した。他方、休会となっていたジュネーヴ会議は、ラオス統一代表団を迎えて再開され、七月二十三日、十四カ国がラオスの中立を維持する宣言と議定書に署名した。

しかし、一九六二年末ごろから、中立派軍と左派軍の関係は険悪となり、六三年に入り、両派の対立激化は表面化し、中立派軍の有力将校ケッツアナ大佐やポルセナ外相の暗殺など連鎖する暗殺事件の発生をみ、両派の間に戦闘が始まるにいたった。

ラオスの東隣りの南ヴィエトナムでは、一九六二年にはいってから、政府軍の共産ゲリラ討伐作戦が一段と積極化し、また軍事行動と平行して、戦略部落の造営など、抜本的なゲリラ対策がとられた。米国は、物資機材の補給や訓練などの面で政府軍に強力な援助を与えているが、オーストラリアも軍事顧問団を派遣し、作戦援助の関心を示している。こうした作戦は、ゲリラ攻撃を阻止するうえにかなりの効果をあげているものの、ゲリラ活動もいぜん執拗につづけられている。他方、南ヴィエトナム中立化を目指す民族解放戦線も六二年には活動を強化しており、南ヴィエトナム情勢は今後も十分の注意が必要であろう。

ところで中印国境問題は、たんに最近における大規模な国境紛争というだけでなく、かってはともに平和五原則をうたい、きわめて親密な関係にあった両国の間の紛争という点で、各方面の注目を集めた。

中印両国の国境紛争は一九五九年八月から表面化していたが、六二年四月頃から、西部ラダク地方で中印両軍の対峙が伝えられ、九月頃から東部国境で両軍の小ぜり合いが起るなど、不穏な情勢となった。ところが十月二十日、中共軍は東西両方面で大攻勢を展開し、十一月中旬には、東部ではアッサム平原に迫る勢を示すとともに、西部でもインド軍の拠点四三を奪取するなど、インドの国防上重大な形勢となった。しかし、十一月二十一日、中共政府は突然停戦声明を発表し、翌二十二日から今日まで、事実上の停戦がつづいている。

この間、セイロンのバンダラナヤケ首相の提唱によって、中印紛争の解決を促進するための中立六カ国会議(セイロン、カンボディア、ビルマ、アラブ連合、インドネシア、ガーナ)が、一九六二年十二月コロンボで開かれた。その結果、バンダラナヤケ首相は、年末から六三年初めにかけて中印両国を訪問、調停案を示して両国首相とそれぞれ話し合った。これに対し、インドは中立国調停案を全面的に受諾したが、中共が調停案の一部について態度を留保し、これの直接交渉による解決を主張しているため、調停は行詰り状態になっている。しかし、中立六カ国は、中印会談実現のため、いまなお努力をつづけている。

中共は、一九六〇年秋から六三年春にかけて、ビルマ、ネパール、モンゴル、パキスタンなど隣接諸国とつぎつぎに取決めを結んで、国境問題を平和的に解決していながら、ひとりインドに対しては武力を行使した。中共の真意がなんであるかは別として、根本的要因としては、インドが領有権を主張している西部国境ラダク地方に中共が建設した新蔵公路が、中共にとって、チベットヘの補給線として確保する必要があるためとみられている。

わが国はかねて、領土紛争を含めあらゆる国際紛争は、すべて平和的手段で解決すべきであるとの立場を堅持している。中印問題についても、わが国は、中共が国境紛争解決の手段として大規模な軍事行動に訴えたことを違憾とするとともに、インドが難局に直面していることに深い同情を表明し、この紛争が一日も早く、平和的に、また国際正義にもとづいて解決されるよう希望している。

他方、西イリアン(西ニューギニア)の領有権問題については、ウ・タン国連事務総長や米国のあっせんのもとに、インドネシア、オランダ両国が交渉をつづげた結果、六二年八月十五日に協定が署名され、長年にわたる両国の紛争も平和的に解決した。この協定にもとづき、西イリアンの管理権は六二年十月一日、オランダから暫定的に国連に移され、さらに六三年五月にはインドネシアに引きつがれたが、最終的帰属は六九年末までに住民投票で決めることになっている。

マレイシア連邦の構想は、ラーマン・マラヤ首相が一九六一年五月に初めて提唱したもので、マラヤ連邦を中核として、これにシンガポール、北ボルネオ、サラワクおよびブルネイを加えて連邦を結成するというものである。新連邦は六三年八月三十一日に成立する予定であるが、これによって東南アジアでは、香港をのぞく全部の英国植民地が独立することになり、この地域の安定と繁栄に大きく寄与するものと期待されている。

ところが一九六二年十二月、マレイシア連邦の構想に反対し、北部ボルネオ三地域の独立を要求する勢力がブルネイで反乱を起したことをきっかけに、マレイシア連邦問題をめぐって、マラヤ連邦、インドネシア、フィリピン三国の関係がもつれてきた。

フィリピンは北ボルネオに対する領土権を主張し、他方インドネシアは、マレイシア計画をもって、北部ボルネオ住民の意思に反し、マラヤが英国の手先となって、これら地域の支配をつづけるための新しい形の植民地主義であると主張した。しかし、六三年五月末、ラーマン首相は、訪日中のスカルノ・インドネシア大統領の招請に応じて東京を訪問し、二日間にわたって会談した。その結果、両国首脳は、善隣友好の精神で対立の解消に努め、たがいに悪意ある攻撃をつつしむといら共同声明を発表し、その後フィリピンを加えて三国が平和的な話し合いで問題を解決する道が開けた。

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中近東とアフリカ

中近東、アフリカでも、一九六二年から六三年前半にかけて、いろいろ新しい時代の動きが見られた。

まず一九六二年七月、アルジェリアは七年半にわたる闘争に終止符を打って、正式に独立した。その後、一時は国内の派閥抗争が激化し、経済が麻痺状態に陥るという混乱もあったが、九月、初代の正式政府としてベンベラ内閣が成立し、新しい国つくりに努力することとなった。アルジェリアの独立は、この地域の安定と発展に寄与するところが大きい。

しかし、六二年九月イエメンで起きた革命は、革命政権を支持するアラブ連合と、王党派を支持するサウディ・アラビアおよびジョルダンとの抗争に発展し、両者の対立は容易に解消しそうにない。

また、六三年二月イラクで、つづいて三月シリアでクーデターが勃発、アラブの統合と社会主義を主張するバース党を主力とする政権が誕生した。この結果、アラブ連合と、シリア、イラク両国の間には再び統合の機運が動き、六三年四月十七日、三国が五カ月以内に統合して新しいアラブ連合共和国を結成する旨の宣言がカイロで発表された。しかし、これら三国の内部には、ナセル主義者とバース党の間の指導権争いなど複雑な事情があり、前途は必ずしも予断を許さない。

つぎにアフリカの情勢に目を移すと、コンゴー問題が一応解決したことは、歓迎すべき出来事であった。コンゴー問題は、これまで多くの曲折をへてきたが、六二年における事態の焦点は、カタンガ州の分離をどのようにして速やかに終らせるかという点にあった。ウ・タン国連事務総長は六二年八月、ウ・タン案と呼ばれるコンゴー国家和解計画を中央政府とカタンガ州政府に提示したが、カタンガ州のチョンベ首相はその実施を渋り、誠意を見せなかった。そこで十二月に入り、ウ・タン事務総長と米国は、ウ・タン案に含まれているカタンガに対する経済制裁を国連加盟国に呼びかけるにいたったが、チョンベ首相はあくまで抵抗する姿勢を示した。そのため十二月下旬、国連軍とカタンガ軍の間でついに衝突が起り、国連軍は積極的行動を展開してカタンガの主要地点を制圧した。ここにおいて六三年一月、チョンベ首相もついに屈服して中央政府に全面的に協力することを約束し、コンゴーはようやく統一に向かうこととなった。

さらに、アフリカ地域における動きとして注目に値するのは、アフリカ統合への努力である。

アフリカ諸国の間には、かねてアラブ連合、ガーナなどのカサブランカ会議派と、旧仏系アフリカ諸国と中心とするモンロヴィア会議派の対立が目立っていたが、前者カサブランカ派は、六二年後半に各国首脳が参加して開く予定であった政治委員会も結局実現せず、グループとしての活動も一時より低調になってきた。これに比べ、モンロヴィア派の諸国は六二年一月、ラゴスで第二回首脳会議を開いて、主権平等、内政不干渉の原則にもとづくアフリカ・マダガスカル諸国機構憲章案を原則的に採択し、その後十二月に開かれた外相会議でこの憲章案に署名するなど、統合への道を着々と進んできた。

こうして六三年五月、アフリカの独立国三十カ国の首脳がエティオピアの首都アディス・アベバに集まり、アフリカ独立諸国の首脳会議を開いた。この首脳会議で、「アフリカ統一機構」憲章が採択され、アフリカ統一へ向かって歴史的な第一歩を踏み出した。いまのところ、アフリカ統合の具体的方法などについて、急進的なカサブランカ派と、穏健なモンロヴィア派の間に考え方の相違があり、また植民地解放問題や各国の経済建設など、前途には多くの難問が横たわっているが、このアフリカ統一機構が今後どのように運営されるか注目される。

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中南米の情勢

中南米諸国では、米国の「進歩のための同盟」やLAFTA(ラテン・アメリカ自由貿易連合)ならびに中米共同市場の地域的組織を通じて、経済の発展と社会の安定化のための努力がつづけられた。しかし、「進歩のための同盟」計画は、中南米各国側が右同盟計画に対応する具体的計画を当初期待された早さでつくり上げなかったばかりか、アルゼンティン、ペルー、グァテマラなどではクーデターが起こり、民主的な政治・経済機構への脱皮未だしの感をいだかせる状況であった。

さらに、この地域の唯一の共産主義的国家であるキューバに対する各国の足並みも必ずしもそろわなかったが、キューバ事件が発生するや、すべての中南米諸国が共産主義の拠点としてのキューバの存在を身近に認識するようになり、米国の措置を支持する態度をとるとともに、米州機構特別理事会は、キューバから直ちにミサイルおよび攻撃的兵器を除去することと、必要があれば武力をも含む集団的、個別的のあらゆる手段を執ることを満場一致で決議した。

しかし、キューバはその後もひきつづき共産圏、特にソ連と緊密な関係を保ち、一九六三年四月にはカストロ首相が訪ソした。ソ連側も、キューバとの結びつきを固めるべく努めている。これに対して、中南米諸国の大部分はキューバ事件のさいに示した対米協力の態度をさらに強めており、六三年三月コスタ・リカのサン・ホセ市で開催された米国、パナマ、コスタ・リカ、グァテマラ、エル・サルヴァドル、ホンデュラスおよびニカラグァの七カ国大統領会議では、中南米経済共同体の設立に努力すべきことや、共産主義の侵略に対応する手段を強化することを主な内容とする「中米宣言」が署名された。

一方、六三年四月、ブラジル、メキシコ、チリ、エクアドルおよびボリヴィァの五カ国大統領は中南米核非武装共同宣言を発表し、五月のジュネーヴ軍縮会議にブラジルから同趣旨の提案が行なわれた。この宣言は、六二年の国連第十七回総会にもチリ、ブラジル、エクアドルおよびボリヴィアにより提出されたが、中南米各国の足並みがそろわないために審議未了となっていたものである。

現在ラテン・アメリカにある自由貿易連合と中米共同市場の二つの経済的地域統合組織は、中南米諸国の経済体質を改善し、国民の生活水準を引き上げることを目的としたものであるが、自由貿易連合発足後満二年を経過した現在、域内の自由化は品目別にみて約三〇パーセントに達している。中米共同市場は、エル・サルヴァドル、グァテマラ、ニカラグァ、ホンデュラスの間で発足したものであるが、近くコスタ・リカも加盟する予定である。

中南米とわが国をつなぐ「血の通った橋」ともいうべき南米移住者で、政府の渡航費貸付をうけて渡航した者は一九五二年いらい五万四千名を越えているが、一九六二年度にはわずかに二、二〇一人にとどまった。しかし、日本人移住者の声価は、この十年の間に次第に高まり、ブラジル、ボリヴィァ、パラグァイ、アルゼンティンの四カ国は、それぞれの国土開発の重点地帯に今後さらに多くの日本人移住者を導入したいと希望している。すなわち、今後の移住は、南米諸国に対する開発協力という見地から推進されるべきものである。アルゼンティンヘの移住協定は六三年五月に発効し、また、ブラジルとの協定も近く発効が期待きれる。さらに、相手国に歓迎される移住者を多数送り出して、国民の海外発展を円滑に促進するための海外移住事業団がつくられた。

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国連第十七回総会

一九六二年九月に開かれた国際連合第十七回総会は、十月下旬、キューバ問題をめぐって安全保障理事会が開催され、またウ・タン事務総長がキューバに飛んでカストロ首相と会談するなど、緊迫した場面もあったが、総じて見れば、大きな波乱もなく、一応「静かな総会」に終わった。

この総会は、八月十五日オランダとインドネシア両国の間に署名された西イリアン(西ニューギニア)の行政権移譲に関する協定を承認し、ウ・タン事務総長を正式に任命したほか、核兵器実験停止問題、軍縮問題、中国代表権問題、その他多くの問題を審議した。

核兵器実験停止問題については、国際管理の原則のもとに実験の停止を求める二つの決議を採択した。わが国は、有効な国際管理の原則はあくまで必要であり、これをともなう全面的な実験の停止が最終の目標ではあるが、地下を除く部分的停止は現時点においても実施可能である旨を説いた。また中国代表権問題については、国民政府を閉め出し、中共を出席させようとするソ連の決議案は多数で否決された。わが国は、この問題は憲章の目的と原則にしたがい、極東および世界の平和に寄与するような方法で、平和的に解決がはかられるべきである、との見解を表明した。

これらのいわゆる東西冷戦問題をめぐって、両陣営の対立があまり激しくならなかったのは、キューバ事件後の東西関係を反映していたとも見られる。

しかし、植民地問題、南北問題、国連財政問題などについては、かなり活発な議論が展開された。

なかでも植民地問題は、アジア・アフリカの新興国の増加にともない、第十七回総会で最も激しい論争を呼び起こした議題の一つであった。加盟国の一部には、あるいは理想を求めるに急なあまり、あるいは自己の政治目的に利用するため、植民地の独立に一定の期限をつけようと主張するなど、ややもすると行きすぎの傾向も見られたが、わが国は、あくまで植民地の現実に即して、その住民の真の利益と福祉に役立つような解決をはかるべきであるという、公正かつ建設的な立場を貫いた。

またわが国は、この総会で経済社会理事会の理事国に再選されが、これはわが国の国力と、同理事会におけるこれまでの業績が認められた結果とも見られる。

他方、経済問題では、先進国と低開発国の格差をどのようにして速かに解消するかという、いわゆる南北問題が、第十七回総会で一つの焦点となった。これまで低開発国は、先進国から資本や技術の援助を受け入れることに特別の関心を向けていたが、最近では、先進国との貿易を増大することによって、経済を発展させ、後進性を克服しようとする傾向が強くなっている。このため低開発国側は、主要な輸出品目である一次産品や半製品に対する関税、その他の貿易上の障壁を緩和するよう要求している。

このような背景のもとに、低開発国側は第十六回総会いらい、低開発国対先進国の貿易問題を国連の場で討議するよう提案していたが、第十七回総会で、遅くも一九六四年初めまでに、国連貿易開発会議を開くことが決議された。わが国は、アジアにおける先進国として、低開発国との貿易問題について、今後一層の努力を払うことが要請されている。

さらに、国際連合自体の問題として、国連の財政危機は最近大きな関心の的となっている。第十七回総会でも、コンゴー、中東への国連軍派遣費分担金の支払いを一部の加盟国が拒否している問題をめぐって、討議が行なわれた。日本も国連の財政危機解消のため、六三年三月五百万ドルにのぼる国連公債を買付けるなどできるだけの努力をしたが、この問題は、五月十四日から特別総会を開いてさらに討議をつづけることになった。

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世界経済の流れ

一九六二年の世界経済の流れで目立つ点は、各国が国際協調を一層緊密にすることによって貿易を拡大しようと努力したこと、しかしこの努力は途中いくたの急流や暗礁にぶつかって難航したこと、である。

各地域の動向を見ると、まず一九六〇年下半期に後退した米国の景気は、六一年第一・四半期を境として再び上昇に転じ、六一年下半期から六二年上半期にかけて、一応順調な拡大を見せた。しかし、六二年下半期にはいると、経済拡大の速度が落ち、八月以降は工業生産指数も横ばいになり、先行き指標も下降を示すものが多く、その前途が懸念されるようになった。

他方、西欧経済は、一九六〇年には一大投資ブームをまきおこし、めざましい成長を遂げたが、六一年下半期には、投資ブームが峠を越したため、一時的に停滞の様相をみせた。その後、西欧の生産活動は一九六一年末から六二年にかけて再び上昇に転じたが、労働力不足にもとづくコスト・インフレのため投資意欲が減退し、六二年下半期にいたって、西欧経済の上昇力も次第に弱まり始めた。

短期的には、西欧経済にもこのような消長があるが、長期的観点から見れば、米英両国の経済がおおむねつねに停滞気味であるのに反して、EECがめざましい経済発展をとげつつあることは明らかである。そこで、米英両国は、六二年になって、EECとの接近策を積極的に打ち出してきた。

米国が十月に成立させた通商拡大法は、EEC諸国との間で相互に大幅な関税一括引下げを行なうことにより、EECの対外共通関税の壁を低めさせ、先進工業国間の貿易をさらに進展させようというものである。こうした米国の通商政策にともない、一九六二年末からガットで関税一括引下げ問題が大きくとり上げられるようになった。

また、英国は一九六一年八月いらい、EEC加盟のための交渉をつづけていたが、六三年一月、この交渉は無期限に中断された。

このように、先進国間で国際的協調を強化しようとする動きは活発であったが、まだ十分に具体的な成果をあげるにいたっていない。

他方、低開発国の経済の伸び悩みも、世界経済の問題として表面化してきた。一九五三年から六一年までの八年間に、先進国相互の貿易は一〇〇パーセント増えたのに対し、低開発国と先進国の貿易はわずか三八パーセント、低開発国相互間の貿易は二五パーセント増えたにすぎない。一九六二年においても、一次産品の価格は全体として下り気味であり、その輸出も伸びていない。

特にわが国に縁の深いアジアでは、一九六二年、農業生産は横ばいに終わり、工業生産も前年と同様伸び悩んだ。輸出も大幅な増加は見られず、外貨事情は改善されなかった。

ラテン・アメリカ、中近東、アフリカの各地域の経済も、六二年は慢性的な停滞から脱し切れず、急速な人口増加と急激な経済開発の推進によって、外貨不足が一層深刻になった。六二年ガットや国連で低開発国の貿易拡大問題が大きく取り上げられたのも、こうした情勢を反映したものであり、今後この面でますます国際協調の必要が強調されるものと思われる。

目を転じて、共産圏諸国の経済の動向を見ると、六二年は悪天候や農業政策の失敗などによって、農業生産が減少した。その結果、ソ連の国民所得増加率は、一九六〇年では八パーセントであったものが、六二年には六パーセントにとどまり、東欧諸国では、同期間に六パーセントから三パーセントに低下した。また共産諸国間の貿易は、中共を除いて最近緩慢ながら増加しているが、なかでもコメコン諸国の域内貿易はいちじるしい伸びを示している。

世界経済の動向はおよそ上述のとおりであるが、わが国のみがこうした動向、特に自由世界経済の動向から孤立し、あるいは逆行することは、わが国の占めている国際政治、経済上の地位にかんがみ避けねばならない。自由世界の一員という立場に立って、各国との経済関係を緊密にし、かつ積極的に国際協調をはかりながら、わが国の経済的利益を増進することが、究局においてわが国の発展に役立つのである。わが国はこのような考え方から、いろいろな国内問題を克服して、自由化率を六二年十月には八八パーセント、六三年四月には八九パーセントまで高めるとともに、国連、ガットなどの場において国際協力に努力している。他方、不断の外交折衝を通じ、また二国間の通商航海条約、通商協定または貿易取決めを結ぶことによって、各国の対日貿易差別待遇を撤廃あるいは緩和させるとともに、諸外国との人物交流による相互理解の増進に努めている。この点について、特に注目すべきことは、六二年から六三年にかけて、わが国と西欧諸国との関係がこれまでになく密接になったことである。わが国とこれら諸国との間に、経済使節団が往来し、また池田総理大臣、大平外務大臣、その他政府首脳が西欧諸国々訪問して、相互の関係改善に非常な努力が払われた。この結果、長年の懸案であった日英通商居住航海条約が署名され、また六三年三月からOECDとわが国の加盟交渉が始められ、七月二十六日わが国はOECD理事会から加盟の招請を受けるにいたった。

このようにして、わが国と西欧諸国との関係は、一九六二年から六三年にかけて大いに改善され、わが国の国際政治、経済上の地位の向上に寄与した。

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わが国の経済協力

国際連合は一九六一年の総会で、一九六〇年代を「開発の十年」とする決議を採択したが、現在の世界で、低開発諸国に対する経済協力が重要な意義をもっていることはいうまでもない。新興国国民の生活水準向上と経済自立への強い民族的要望に援助の手をさしのべることは、先進国が行なうべきものと期待されている。また東西冷戦の現実のなかで、低開発地域が政治的に安定することは、世界平和を維持するための重要な条件でもある。さらに、先進国がその高い経済的繁栄を維持するためにも、低開発地域を含めた世界全体の経済の発展が必要である。

特に一九五〇年代の後半、共産圏諸国からの援助が活発になるとともに、他方欧米諸国の経済力の飛躍的な上昇にともない、米国を中心とする自由陣営は、援助を強化する多くの措置をとってきた。一九五七年には米国の開発借款基金が設立され、五八年には対インド援助国会議、全米開発銀行、国際開発協会(いわゆる第二世銀)、国連特別基金などが設けられ、六一年には中南米諸国の「進歩のための同盟」、OECDの開発援助委員会(DAC)が発足した。

こうして先進国が直接あるいは国連を通じて、低開発国援助に支出した金額は、一九五六年には約六〇億ドルであったが、一九六一年には九三億ドルと、五年間に五〇パーセント以上の増加を示している。

現在先進国が行なっている経済協力を見ると、援助の量を増すばかりでなく、その質を向上させるため、つぎのような傾向が顕著になっている。

(一) 援助受入国の支払い能力が乏しいことを考慮して、贈与や長期低利の借款を供与するなど、援助条件を緩和する。

(二) 生産設備建設のための借款供与だけでなく、国際収支を補うための非資本財援助を行なうなど、援助の種類を多様にして、効果をあげる。

(三) 援助の重複を避けるとともに、開発計画に見合った効果的な援助を行なうため、先進国の間で援助を調整する。

(四) 資金援助の効果を増大するため、専門家の派遣や、現地要員の訓練など、技術協力を強化する。

このような先進国側の努力に応じて、低開発国側も、積極的に開発計画の整備、国内資金の調達および援助受入体制、特に外資導入体制の合理化をはかるなど、自らも努力している。

このような世界の動向に応じて、わが国も、低開発国に対する経済協力を年を追って強化してきた。特にアジアの低開発諸国と政治的、経済的に密接な関係にあるわが国としては、アジア諸国に対する経済協力を強化して、これら諸国の経済発展と政治的安定を助けることが、わが国自身の安全と繁栄のためにも重要である。

低開発国に対する経済協力が、わが国外交政策の重要な一環を占めているのは、こうした考え方にもとづいている。わが国の経済協力の実績は年々着実に増加している。一九六〇年にわが国が低開発諸国に提供した資金総額は、賠償、技術協力、円借款、輸出信用、民間投資などを含め、二億四千六百万ドル、六一年は三億八千二百万ドルであった。六二年は一部受入国側の事情で支出が遅れたことなどもあって、実績は二億八千百万ドルで前年より減少したが、六三年には再びかなりの増加が見込まれている。

わが国の経済協力の地理的配分を見ると、政府が行なっているものの大半はアジア地域向けであり、残りはほとんど中南米地域に向けられている。これは、わが国がアジア諸国に対し多額の賠償を支払っていることのほか、地理的、歴史的に最も密接な関係にあるためであり、また中南米地域は、未開発資源が豊富で、開発計画が比較的進んでいるためである。民間で行なっているものも、ほとんどがアジアおよび中南米地域に対するものである。

また、右のうち技術協力の実績は、六一年二千四百万ドルから六二年三千六百万ドルに増え、研修員の受け入れ、専門家の派遣、海外技術協力センターの設置、開発調査実施などの面で拡大強化された。また、政府が行なう技術協力を総合的、効率的に実施するため、六二年六月に海外技術協力事業団が設立された。

このように、わが国の経済協力の制度および規模は、ここ数年間飛躍的に拡大したが、他の先進諸国の実績に比べると、まだきわめて小規模である。わが国経済の高度成長にともない、わが国の協力を求める声は急速に高まっている。わが国としては今後、量質ともに援助の拡大に努力し、他の先進国と協調して、積極的に低開発国援助の一翼をになうことが必要となるであろう。

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