六、戦犯者の釈放と抑留邦人送還に関する努力

1 戦犯の現況

講和条約発効の当時一、二四四名を数えていた戦犯も、政府の各関係国政府に対する不断の釈放要請の結果、中、比、仏、蘭関係戦犯ならびにA級戦犯者が全員釈放あるいは仮出所を許可されて、昭和三十一年末においては巣鴨に服役の戦犯は米、豪、英関係の一〇九名となつた。この内訳は米国関係八四名、豪州関係二三名、英国関係二名である。しかし、英国関係二名は本年一月一日付で釈放されたので、戦犯は米豪両国関係のみとなつたから、政府は戦犯問題の全面解決を図る方針で両国政府に対し強く釈放要請を行つて来た。これに対し豪州政府は昭和三十一年六月末に決定した戦犯に対する措置に基き釈放の促進を示し、四月末には一四名を残すのみとなつた。これら残存者に対してメンジス総理訪日の際岸首相より釈放の申入れを行つた結果、同総理から岸首相あてに残存戦犯全員は六月末までに釈放するとのメッセージがあり、六月二十九日その釈放が実現し、豪州関係戦犯問題は終結を見るにいたつた。

一方米国関係戦犯の釈放振りを見ると、本年に入り毎月三、四名宛現在(九月十五日)までに二七名の仮出所を許可しているが、巣鴨プリズンにはなお五六名が服役している。

政府としては残存する米国関係戦犯についてもこれが根本的解決を計るべく努力中である。

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2 在ソ抑留邦人の送還

在ソ抑留邦人の引揚促進は日ソ復交のもつとも大きな眼目の一つであつたが、日ソ共同宣言第五項は「ソ連において有罪の判決を受けたすべての日本人は、この共同宣言の効力発生とともに釈放され、日本国へ送還されるものとする」と規定し、昭和三十年九月ロンドンにおいてマリク全権から松本全権に渡されたいわゆるマリク名簿に登載されている有罪の判決を受けた服役邦人およびソ連官憲に抑留されている漁船関係者はすべて釈放の上送還されることとなり、またさきにソ連へ調査方を要請してある一一、一七七人の消息不明者については、同項で「ソ連は日本国の要請に基いて消息不明の日本人について引続き調査を行うものとする」と明示してあるので、わが方の希望は一応全部受け入れられた形となつた。

ソ連は国交回復後共同宣言の条項に従い有罪の判決を受けた日本人全部を釈放し、帰国を許す措置をとつたが、日ソ双方の打合せの結果、十二月二十二日ナホトカ港へ興安丸を派遣し、邦人一、〇二五名を引取り、同船は同月二十六日舞鶴へ帰港した。これがいわゆる第十一次引揚げである。

ちなみにロンドンにおける日ソ交渉開始以降昨年末までに至る間の引揚状況は次表の通りとなつている。

そこで本年に入つてからの在ソ抑留邦人の帰還問題の懸案としては、マリク名簿記載者中未帰還者の帰還、消息不明者の調査、マリク名簿以外の帰国希望者にたいする援助、とくに残留者の多い樺太からの帰還促進や死亡者の遺骨引取等の問題が残つたが、三月十六日テヴォシャン・ソ連大使は岸大臣を来訪し、本国政府の訓令として、在ソ抑留邦人消息不明者について、調査した結果、(イ)無国籍人としてソ連に居住する邦人七九三名が存在することが判明し、その中帰国を希望する日本人二二五名およびその家族でこれに同伴して日本へ赴く希望の朝鮮人一四六名がいること、(ロ)日本側提出の一一、一七七名の名簿は事実に即しないものがあるが、調査の結果、内一三九名が帰国済、八九五名が死亡したことが判明したが、なお調査を続行し、判明次第日本側に通報すること、(ハ)(イ)の帰国希望者は日本側で受入れに異議なければ双方の合意する時期に送還の用意があることを通報した。そこで政府は早速ソ連側にたいし、(イ)帰国希望者の詳細、(ロ)帰国を希望しない者の希望しない理由、(ハ)帰国済み一三九名の詳細、(ニ)死亡者の詳細について通報を要求し、また帰国希望者引取船を四月中旬配船することについて、ソ連側の都合を尋ねたところ、三月二十日ソ連側は門脇大使にたいし帰国を希望する日本人二二五名、朝鮮人一四六名の名簿を渡し、また七九三名の中、帰国を希望しないと称される残りの五六八名については本人の同意を要するので名簿を手交できないとの態度をとつた。

そこで政府は四月九日門脇大使を通じソ連側にたいし、先に渡された名簿の中、日本人および日本人の家族であるという了解の下に朝鮮人全員を四月中旬興安丸を配船して引取る旨通報し、配船の時期、指定港等についてのソ連側の意向を確かめ、同時に五六八名の名簿の早期手交をも求めた。

その後わが方よりの数次にわたる督促にもかかわらずソ連側の準備がおくれ、のびのびになつていたところ、七月十三日にいたり、ソ連は日本人引揚げの第一グループとして、二五八名を送還するから、七月二十八日真岡(ホルムスク)港に日本船を派遣することを求めてきた。

よつて七月二十四日引揚船興安丸は舞鶴を出港、二十八日真岡に着き、左の内訳の二一九名を引取り、二十九日出港、八月一日舞鶴に帰還した。

二一九名の内訳は左の通りである。

(イ) ソ連側から通告のあつた者の中、日本人五八名、朝鮮人九六名

(ロ) 通告以外の同伴家族、日本人一六名、朝鮮人三七名

(ハ) 日本側から追加を申入れた者四名中の二名

(二) 通告以外の者一〇名

右の中、朝鮮人は三十四世帯で、また全員中一二名はシベリヤからで、その他は樺太西沿岸の各地出身者である。

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3 中共抑留邦人の送還および調査問題

一九五三年三月五日の「日本人居留民帰国問題」に関する日赤、日中友好協会、平和連絡会の日本側三団体代表と中国紅十字会代表との共同コミュ二ケにより、同月二十三日舞鶴入港の第一船によつて中共地域からの邦人の集団引揚が行われて以来、本年五月二十四日舞鶴入港の第十六次引揚船による分までの引揚者の数は、集団引揚二九、六四二名(北ヴィェトナムからの帰国者七一名を含む)個別引揚三七名、釈放戦犯一、〇二四名、他に外蒙戦犯四名となつている。

最終の集団引揚は前記の興安丸による第十六次引揚げであるが、同船で釈放戦犯六名(ソ連側引渡し戦犯四名、中共側戦犯二名)と一般引揚者八七名計九三名が帰国した。なお右の他に一時帰国者八五六名、終戦後中国本土へ渡航し、今回および帰国した者五二四名、中国籍を有する者一三名、計一、三九三名が同船してきている。

なおわが国と中共の間には現在の段階では公式協定や政府代表の交換はないが、「戦犯」として抑留されている人々の早期釈放および消息不明者(三五、七六七名)の生存死亡の別、生存者の帰国の意思の有無を調査し、生存者の日本帰還を一日も早く実現することは、純粋に人道上の問題である。

よつてわが政府としてはこれが解決に極力努力し、在ジュネーヴ総領事からは中共側に協力方を依頼している。しかるに最近中共当局は、これに対し否定的な回答を寄せてきたが、政府としてはさらに真意を説明して解決の促進をはかりたいと考えている。

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