アメリカから戻った咸臨丸は、ロシアが対馬を占拠した際に同島へ派遣されるなどの重要な任務を果たしていた。展示史料は、帰着して約1年半後に小笠原島探索に出航した咸臨丸の図。
当時の小笠原諸島は、イギリスが領有を宣言したり(1827年=文政10年)、浦賀に来航する途次のペリーが、現在の父島に貯炭地を設置する契約を島民との間に結び、かつ島民に植民政府樹立を宣言させる(1853年=嘉永6年)など、領有権が曖昧な状態にあった。こうした事態を危惧した幕府は、外国奉行の水野忠徳(筑後守)一行を咸臨丸にて小笠原諸島に派遣した。1862年1月18日(文久元年12月19日)、父島に到着した水野は、父島・扇浦に幕府の役所を設置すると同時に、同諸島が日本領であることを島民に伝達して、小笠原諸島の日本領有を明確にした。これを受けて幕府は、同年6月(文久2年5月)、各国代表に小笠原諸島の領有権を通告した。
(『続通信全覧』雑門「小笠原島真景図 父島之部」所収)
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