![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() | ||||||||||
|
トップページ > 各国・地域情勢 > 中南米 |
![]() | ||||||
![]() | ||||||
|
青木大使記者会見(概要) |
---|
(答)この事件の発端の時もそうだが、突然爆発があったとき「あっ、これで私の人生も終わりだな」と。しかし、1人でも多くの皆様に生き延びてもらうために、私の部屋にいた人達に、「絶対動かないように」と何度も言った。同時に気がついたことは、誰かが私の頭の上にマットレスを置いてくれていた。また、味の素の酒井社長は、私が煙にむせていると、まだ撃ち合いの最中なのに、水で濡らしたタオルを顔にかけてくれた。 こうした人質同士のすばらしい連携が、今日私が生きて話ができることの最大の理由である。
(質問)突入時の武装グループ側の対応はどうであったか。突入を察知している様子はあったか。
(答)残念ながら、何一つ存じない。
(質問)加の外交官は、今回のことを受け入れはするが、やはり平和的解決が良かったと述べている。大使は、平和的解決は可能だったとお考えになるか。
(答)公邸でトゥデラ外相と話していた。平和的解決というのは、解決でなければならないのだ。もし、彼らが再び今度のような事件を起こした場合、私達の4ヶ月の苦労は何の意味もなくなる。
今回の事件に際し、犠牲になられた人々に心から哀悼の意を表するとともに、今回のような事件が2度と起こらないという教訓をテログループに与えたであろうと信じるし、そのようにしてもらいたい。
(質問)解放後のフジモリ大統領との会談の内容を教えていただきたい。また、これからも日本大使としてペルーに留まられるか。
(答)エスプレソ紙はこれから絶対読まない。
(質問)突入の予兆は感じていたか。
(答)予兆ということではなく、先程述べた平和的解決のあり方、つまり人質も武装グループも解放されることが、国際社会にとり、また人質達の将来の仕事にとりいいことか、というのがあったので、MRTA側が強硬な態度を取り続ける限り、こういう結果になり得るという覚悟はあった。但し、私の結婚記念日にフジモリ大統領がプレゼントをしてくれるとは思わなかった。
(質問)ペルー政府が、人質が外部と交信することを許可しなかったことをどう思うか。
(答)自分はの希望として、日本とペルーの友好関係増進のために働き続けたいが、自分の処遇は日本政府と国民が決めることである。(外部との交信は)MRTAが許すはずはなかった。これは政府の問題ではなく、MRTAの問題だ。仮に政府とMRTAが許可したとしても、私の出す情報がMRTAの脅迫、誘導によってゆがめられたものではなかったという保証はない。大臣であろうが大使であろうが人質は人質であり、黙って生きているのが人質である。
(質問)公邸での人質生活は想像できないほど厳しいものだったと思うが、特につらかったこと、またつらい中でも嬉しかったこと、は何か。
(答)まずつらかったことは、この問題がMRTAというペルーのゲリラとペルー政府の間の問題であるにもかかわらず、ボリヴィア大使、ペルー民間人、及び日本の民間企業の人達が、人質のまま解放されなかったことである。もう一つつらかったのは、妻に4ヶ月以上会えなかったことである。今日も何度か叱られたが、本当に嬉しかった。
今述べたような状況にもかかわらず、ボリヴィア大使は英雄的にテロリスト達に面と向かって言いたいことを言っていたし、また日本の民間企業の方々は不平を一言も言わず、平和的解決、つまり生きて出るために、最初から最後まで私どもを支えて下さった。このことは決して忘れない。
これは人質となっていた人達にも聞いてほしいが、メッセージやラジオを通じて、私達は決して孤立してはおらず、皆様の支援の下に生きていることを毎日感じたことは、一生忘れられない大事な宝物である。最後に、トゥデラ外相を始め負傷した兄弟達が一日も早く回復されることを願う。
目次 |
| ||||||||||
![]() |