外務省員の声

文化外交最前線
―第20号―

2005年7月30日
近藤誠一

はじめに

形は石の中にあるのではない。
そもそも石の中に入る前に、設計者の中にあるのだ。

(プロティノス)

今月のテーマ:形の世界-2

<キュービズムの歴史的意義>

 西欧は遠近法を確立しましたが、その限界にいつまでも甘んじていた訳ではありませんでした。1900年代フランスに始まったキュービズムは、それまでの写実主義と訣別し、経験によって認識された対象の全体像を二次元的に再提示するもので、様々な視点からみたものを同一カンバスに描くものです。ピカソのように、正面から見た顔に、横からみた鼻や反対側の目がつくのです。

 これはこれまでの「体系」、すなわち人間の目から見た一瞬の静止画という枠、箱を超えて、新たなパラダイムを提示したという意味で、物理学における相対性理論の発見に匹敵すると称されるのも頷けます。フランスの評論家ジャック・リヴィエールによれば、キュービズムの目的は、対象をあるがままに模写することであり、そのために「明暗をなくす必要がある」のです。

 なぜならそれはその対象のある特定の瞬間を反映しているからです。そして視覚とは連続的な感覚なので、ある一つの対象についてその本質を描くためには、遠近法は排除しなければなりません。なぜなら遠近法は、明暗と同様偶有的なものだからです。空間におけるある特定の位置を反映しているに過ぎないのです。しかも対象の状況ではなく、観察者の状況を示しているのです。つまり、線的遠近法は、ある人が、ある地点にいる、ある瞬間のみを反映しているのです(ゼキ『脳は美をいかに感じるか』)。

 キュービズムに先立ち、自然を写実的にではなく、すべてを球と、円錐と、円筒で処理しようとしたセザンヌは、対象を観念的に捉える走りであったと言えます。

<脳科学からみた美術>

 ゼキによれば、人間の脳は、視覚経由で届く絶えず変化する膨大な量の情報の中から、物体や表面の恒常的かつ本質的特性を同定するために必要な情報を選択し、それを脳内に蓄積されている過去の記憶と比較し、その結果物体もしくは場面を固定し、分類することができるのです。画家が行うことは、まさにこれなのです。この本質的なものは、プラトンの言う「イデア」に似ています。彼によれば、ひとが様々な形態をもつ寝椅子を、様々な角度から見ながら、それをあくまで寝椅子と判断できるのは、そもそも寝椅子という理想型(イデア)が存在するからなのです。

 しかし「今月の引用」で明らかなように、プラトンは「イデア」というものは人間の外に存在すると考えていましたが、脳科学者の立場から見れば、この理想型は、各人の脳の中に蓄えられているのです。画家は、この蓄積された情報から、ある特定の対象物を絵にするのであって、目に見えるものを写真のように模写する訳ではありません。寝椅子の絵は、すべての寝椅子についての知識を与えてくれる恒常的な要素、本質的なものの表象でなければならないのです。美女の絵を描くには、一人のモデルのみでなく、沢山の美女を見ておくことが必要なのです(ゼキ前掲書)。

<ドガの踊り子>

 今年六本木の森美術館で行ったフィリップス・コレクションの展示会で、ドガの「稽古する踊り子」を見ました。これはドガ晩年の作(1900年ごろと推定)で、死後アトリエで発見されたものですが、これは写真に異常な関心を示したドガこそ、動きを静止画面に表現する天才だったことを確信させるものです。フランスのリリアーヌ・ブリヨン=ゲールが次のように述べていることに全く同感です。

 「(絵画は)、連続的なものを停止させ、空間的および時間的につながっている一連の画像の中から一つの瞬間を分離させなくてはならない。しかしながら、奇妙なことに、写真とドガの絵画を比較すると、間違っているように見えるのは写真の方なのである。これは、私たちが実際に知覚しているのは写真が忠実に再生しているような動きの断片ではなく、動きの漸進的な展開であることによるものと思われる・・・(ゆえにドガの絵は)ある特定の瞬間における現実を超え、すべての瞬間の統合体を知的再構築の中で表現しているのである」 (Cezanne et l'expression de l'espace ゼキ『脳は美をいかに感じるか』より間接引用)。

 さらにヴァレリーも言うように、ドガは「或る体の或る一瞬間を最も正確に、併 しそれと同時に最も普遍的に要約する、唯一の線の組み合わせというものを求めて居た」(『ドガに就て』)のです。
 従って西洋絵画は、線的遠近法や陰影法という、普遍的力のある体系がもつ制約の中で、前号で述べた物語画での工夫や、セザンヌやドガの技法によって、対象物の「本質」や「動き」、「時間」を表現しようとしてきましたが、ついにキュービズム運動のような遠近法への正面からの挑戦となったのです。山水画や絵巻などによって、ひとつの視点に縛られる遠近法の枠にはめ込まれずに発展してきた中国や日本画において、キュービズムがあまり栄えなかったのは当然かも知れません。
 逆にキュービズムという、合理的写実性の枠からの出口を見つけた西洋画で、巻物の手法があまり使われなかったのもうなずけます。それでもミロのように抽象画の「マキモノ」に挑んだアーチストも生まれました。その動機が何であれ、芸術が、既存の常識の「枠」を破る力をもっていることの証左と考えるべきでしょう。

<明治以降の美術教育>

 本シリーズ第9号では、明治以降の音楽教育について触れました。では美術は西欧近代化の課程でどのように教育されてきたのでしょうか?明治初期においては、西欧文化は東洋文化より優れているという風潮の中で、明治5年の学制発布に伴う「図画教育」では幾何学的遠近法や、明暗とプロポーションを計算する幾何学的描法による写実的な西洋画の手本が与えられ、これらを鉛筆により正確に模写する訓練が課されたようです(『学校教育全書12 美術教育』より)。しかし西欧化に対する反動は早く、既に明治15年の内国絵画共進会では洋画の出品が拒否されるなど国粋主義が台頭し、同18年には、フェノロサや岡倉天心らの主張によって、毛筆を使った日本画の学習などが始まり、明治末まで続きました。

 戦後の文部省中学校学習指導要領を見てみると、昭和33年には「わが国および諸外国のすぐれた美術作品を鑑賞させ、・・」とあったのが、その後44年、52年ではなくなり、そして平成元年の改訂において、「日本及び世界の文化遺産としての絵画や彫刻に関心を深め、それらを尊重すること」との文言が加えられました。

 さらに平成10年の改訂では、ちょうど和音楽の再評価がみられたのと同様、美術でも先ず教育課程審議会答申において、「我が国やアジアなど諸外国の美術文化についての関心や理解を一層深められるよう鑑賞の充実を図る」(改善の基本方針)、「我が国及び諸外国の美術文化や表現の特質などについての関心や理解、作品の見方を深める鑑賞の指導が一層充実して行われるようにする。その際、我が国の美術についても重視する」と書かれています(改善の具体的事項)。これを受けて学習指導要領は、「日本の美術の概括的な変遷や作品の特質を調べたり、それらの作品を鑑賞したりして、日本の美術や文化と伝統に対する理解と愛情を深め、美術文化の継承と創造への関心を高めること」と定めています。(いずれも下線は筆者)

<日本画と西洋画>

 和音楽(雅楽)と西洋音楽(クラシック)の違いは明確ですが、日本画と西洋画の違いはどこにあるのでしょうか。「日本画」が「西洋画」の相対概念として表れたのが、明治15年のフェノロサの講演「美術真説」でのJapanese painting の翻訳であった由です(佐藤道信『<日本美術>誕生』)。そして明治23年の外山正一の「日本絵画の未来」と題する講演に対する森鴎外の反駁が契機となって、世の関心が高まり、西洋美術概念の消化と、これらの概念の定着につながったようです。

 日本には、それまで狩野派や土佐絵など個別のジャンルしかなかったのに対し、総称としての「美術」や「建築」という概念が発展し、また画工、彫工も「美術家」という概念に進化したそうです(八束はじめ『思想としての日本近代建築』、佐藤前掲書)。イタリア・ルネッサンスにおいて、画家や彫刻家の地位が「単なる職人」から「自由な芸術家」に上がった(ラングミュア『物語画』)ことを想起します。

 日本人の美意識や表現能力は世界の先端にある可能性が高いのに、それらを合理的、体系的に整え、また分類して外に広げるという発想がなかったために、西欧の芸術の力に圧倒され、それを消化する過程で本来の力に目覚め、自信を取り戻しつつあるのです。日本の美術的表現は、時間の要素や視点の位置など、あまりに多様さと繊細さが重視されたので、線的遠近法や、陰影法など特定の手法、体系でくくりきれないという事情があったのでしょう。

<普遍的なるもの>

 視覚から入るものの変化、様態を記憶し、そこから対象の「本質」を抽出し、またその特徴的な動きを記憶し、それを新たな情報の判断に使うという点では、すべての人間の脳に差はありません。ただそれを二次元の世界で表現する手法において、あるひとたちは数学的、合理的正確さ、客観の対象化を重視し、その体系の「普遍的」正しさを主張しますが、他のひと達は対象の本質、動き、物語の展開や全体像を表すために、同一画面にあえて複数の視点を埋め込む融通無碍さを使うのです。後者は、一見非合理的、非科学的ですが、かえって真理に近づけるように思えます。

 ただこうした差は相対的なもので、それぞれは学び合い、その表現力を高めてきました。あいまい性の中のヒントによって物語を観察者の想像力にまかせるのは、共通した技法でした。また「来る」ものは「左から」という絵巻の原則も、西欧の舞台でも俳優や指揮者は左から出てくること、「受胎告知」の多く(フラ・アンジェリコなど私の手許にある11の「受胎告知」のうち10)で、天使ガブリエラが左からマリアに向かっていることを考えれば、普遍性があるのかも知れません。

今月の資料

 中学校学習指導要領(平成10年12月 文部省)の関連部分(PDF)PDFを同封します。

今月の引用

 プラトンのイデア論は、ものの本質たるイデアが人間の脳の外に実在すること、従って画家が描くときは、そこに見える「特定の」椅子を真似るのであって、画家の脳に蓄えられた「本質」の記憶ではないという議論です。
 「それでは、ここに三つの種類の寝椅子があることになる。一つは本性(実在)界にある寝椅子であり、ぼくの思うには、われわれはこれを神が作ったものと主張するだろう。・・・」・・・「つぎに、もう一つは大工の作品としての寝椅子」・・・「もうひとつは画家の作品としての寝椅子だ。」・・・「いったい、画家が真似て描写しようと試みる対象は、先に述べたあの、本性(実在)界にあるそれぞれのもの自体なのか、それとも職人たちが作った製作物なのか、君にはどちらだと思えるかね?」「職人たちが作った製作物のほうです」と彼は答えた。「それを実際にあるとおりに真似るのかね、それとも、見えるとおりにかね?この点をさらに区別してもらわなければならないからね」・・・「・・・いったい絵画とは、ひとつひとつの対象についてどちらを目ざすものなのだろうか?実際にあるものをあるがままに真似て写すことか、それとも、見える姿を見えるがままに真似て写すことか?つまり、見かけを真似る描写なのか、実際を真似る描写なのか?」「見かけを真似る描写です」と彼は答えた。」(プラトン『国家』岩波文庫)

今月の数字

 OECD加盟国の過半数で、女性の平均教育年数は男性より0.7年以上長い由です(Education at at Glance: OECD Indicators - 2004 Edition

今月のクイズ

 今年秋に、国際交流基金主催のトリエンナーレが開かれますが、場所は次のどこでしょうか?

 (1)東京 (2)千葉 (3)横浜 (4)川崎 (5)鎌倉 (6)逗子 (7)下田 (8)葉山
(正解は次号)

 前号のクイズ(2004年の特許の国際出願数の順位)は、1位:米国、2位:日本、3位:ドイツです。


後記

 このニュース・レターは、近藤・前広報文化交流部長が仕事を通じて感じたことを、個人の資格と責任で書いたものであり、外務省の公式見解ではありません。ご意見やコメントは以下のいずれかにお寄せください。

郵便:100-8919 千代田区霞ヶ関2-2-1 外務省広報文化交流部総合計画課
Fax:03-5501-8126
E-mail:seiichi.kondo@mofa.go.jp

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