外務省員の声

文化外交最前線
―第11号―

2005年6月20日
近藤誠一

はじめに

われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分かちがたき
ただひとつの心を、

奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に揶げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。

石川啄木『ココアのひと匙』(講談社文芸文庫)

今月のテーマ:文明間の対話は可能か?

<文明の衝突と9.11事件>

 世界には約200の国と、約3,000の異なる文化があるそうです。ハンチントン教授の『文明の衝突』論(1996年)以来、異なる文明とりわけ一神教たるキリスト教文明とイスラーム文明の間では、妥協は成立せず、衝突あるのみといった思考が広がりを見せました。

 これに対し、異なる文明の間では「対話」が成立し得るし、その努力を強化しなければならないという議論が沸き起こりました。イランのハタミ大統領の提唱で国連は2001年を「文明間対話の国連年」と名づけ、以来世界で様々な「対話」の試みが始まりました。その直後に9.11事件が起きたのは皮肉です。私は最近ユネスコ関連のいくつかの「対話」に出席してみました。

 本来「対話」とは「説得」や「折伏」ではなく、相手の言うことに耳を傾け、さらに自分の主張を変える用意がなくてはいけません。しかしこれまでの「対話」では、相手の話を辛抱強く聞くところまではいっても、自分の立場を変えることまで考えていません。その典型的なものが「近代化」についての考え方です。本シリーズ「その5」でもご紹介したように、世界には、人類の目指すところはひとつで、そこに至る進歩は一本道であるとの考え方、目的地はひとつでもそこに至る道のりは国によって異なるとの立場、さらに文明の生態史観のようにそもそも目的地は同一ではなく、各自が他の影響を受けつつも自らの道を歩むという考え方があります。「対話」はここまで来るといつも壁にぶつかって先へ進まなくなります。

<若者は何故テロに走るのか?>

 欧米は一般的に言って第一の立場に近いと思われます。その裏には見事に体系化された「近代合理主義」があります。この体系はそれ自体が強い理念の力をもち、西欧は勿論、日本のようにそれをいち早く、かつうまく取り入れた国も近代化に成功しました。この実績が、この理論の「普遍性」の証となり、欧米の自信を強めました。このように成功したものにとっては、えてして「対話」とは相手に成功のモデルを教えてやるもので、変わるべきは相手であって、相手に変わる意思や能力がないなら、対話は時間の無駄と映りがちです。

 第二、第三の立場をとるものにとっては、歴史、文化、宗教、民族紛争などの制約要因の中で自分なりに近代化に努めてきたが、加速する一方のグローバリゼーションの下で欧米的システムがそのままの形で世界の基準となり、それに合わせられぬ自分達は、ただ広がるばかりの格差の前になす術もないと感じます。しかもかつては世界のリーダーの地位にあったと自負する国の人々の間には、自分達は欧米の植民地主義によって収奪され、その結果出遅れたことが今の問題の根源にあるとの「集団的記憶」や屈辱感が根強く残っています。

 彼らにとっては、「対話」とはあくまで支配者が相手の立場を理解し、寛大な支援につなげるべきものです。従って行き詰まると、結局相手は自分の文化に基づくモデルを押しつけることしか考えないのであり、相手にとって対話はジェスチャーに過ぎないと受け取ります。そして国際社会は強者が支配し、こうした不正義を対話によって正すメカニズムがないという絶望感に導かれ、それが時として宗教上の扇動者に利用されてテロへと駆り立てられるのではないでしょうか。

 啄木に冒頭の詩を作らせたのは、こうした弱きものの「言葉」即ち「対話」への絶望感と、「おこなひ」に訴えざるを得ない心の葛藤への同情だったのでしょう。

<西遊記と妖怪>

 昨年京劇の『西遊記』を観ました。そこでは老人に化けて出現した妖怪を懲らしめようとする孫悟空に対し、三蔵法師が「たとえ妖怪だとしても改心を勧めるべきだ」と強く諭す場面があります。それにも拘わらず「妖怪を退治しなければ、経典求めがたし」として妖怪を打ち殺した孫悟空は、仏の道に反したとして破門の憂き目にあいます。最後は白骨精という妖怪につかまった三蔵を救うことで無事許されます。単なる平和主義、対話主義だけではかえって悪をはびこらせてしまうことの教訓でしょうが、現在世界にある「対立」の当事者たちはみな、相手には相手の事情があることを知らず、または国内政治上の要因でそれを知らぬふりをして、相手のことを、一方的に暴力(経済支配やテロなど)に訴える妖怪、対話の余地なき敵とみたてているとしか思えません。しかし人間はみな妖怪なのでしょうか。

<宗論>

 言い換えれば「対話」は所詮強きもののジェスチャーか、弱きものの時間稼ぎであり、対立を確認し、強きものの支配を正当化するだけで、問題の解決に導くことはないのでしょうか。日本人は伝統的に対立を乗り越える寛容さと知恵を備えてきたように思います。例えば狂言の『宗論』では浄土宗と法華宗の二人のお坊さんが旅で一緒になります。話しているうちにお互いが異なる宗派の僧侶であることが分かり、早速自分の宗派こそが正しいと口論(すなわち宗論)を始めます。

 翌朝お勤めの時間になると、お互いが自分の念仏を唱え始め、念仏合戦になり、興奮して踊り出してしまいます。ところがふと気がつくと、お互いに相手のお経を唱えているのです。二人ははっと悟ります。所詮どちらもお釈迦さまの教えから発したものであり、自分の宗旨こそが優れているなどと主張することは愚かしいと。

<プサントレンの先生たち>

 この話は仏教という多神教ゆえの寛容さと開かれた心を示すものであり、キリスト教やイスラーム教のような一神教では、対話といっても所詮相手を説得して改宗させる手段にすぎないのではないかという反論もあり得ましょう。答の代わりに咋年のあるエピソードをご紹介しましょう。インドネシアにはプサントレンという、私立のイスラーム寄宿塾があります。外務省は昨年秋、インドネシア各地のプサントレンの校長先生、教頭等10名を日本に招待しました。2週間にわたって日本の高校の視察や、京都や奈良見学をアレンジしました。私もオフィスでお茶を点てながら、日本人の伝統的な精神文化を紹介しました。日本を発つ日、印象を聞かれた団長さんがこう言ったそうです。「日本には、インドネシア以上にイスラームの教えが根付いていることを知って感激した」と。

 我々は当初、敬虔なイスラーム教徒の先生方は、初めて日本を見て、きっと日本人は無宗教と知って心の中でばかにするだろうと密かに心配していました。しかし実際は日本人が大切にしている自然への慈しみ、他人を敬う気持ち、和の精神に共感したのです。わずか2週間の滞在で、彼らは日本人の精神の真髄を感じ取って親近感を覚え、我々もまたイスラームが、日々の報道から連想する過激な原理主義ではなく、我々と同じ精神的価値観を基盤としていることを教えられたのです。

 今年の3月には天台声明の一行がロシアのサンクト・ペテルベルグの教会で現地の合唱団とコラボレーションを行いました。最初教会側には宗教性をめぐって躊躇があったようですが、ロシア正教の荘厳な教会で、仏教の僧侶の厳かな声が響いたとき、その場にいた者は宗教の奥義を超えた、何か共通のものを感じたようです。

 これらは、政治や宗教の権力が介入しない限り、ひとには異なるものとの間に「響きあうもの」を見出す能力、否、情熱さえあることを示しているように思います。

<世界文明フォーラム>

 こうした力や情熱がすべての人間に備わっているのなら、どうすればそれが十分に発揮されるのでしょうか。『宗論』に現れているように、またプサントレンの先生方が感じたように、日本の精神的価値観には寛容さなど普遍的側面があるなら、日本は日本らしい方法で対話の場を提供し、世界を共通の価値観を分かち合えるひとつの文明圏へと発展させていくことに貢献するべきではないでしょうか。

 こうした問題意識の下で、この7月に21世紀の人類のあるべき文明を話し合う「世界文明フォーラム」が開催されます。これまでの「文明間対話」と異なり、イスラーム文明など特定のグループを念頭におかず、また世界には複数の文明が並存し、衝突するという前提はとりません。何が近代化の正しいモデルかといった議論もしません。文化や民族は異なっても人類は協同して皆が公正と感じる文明をつくる努力をすべきであり、そのために政府とビジネス、市民社会はどうやって協力すべきか、市場経済制度など人類が発見した合理的メカニズムをいかにして人間開発のために活用するか、世界の若者の心をつなぐための芸術の役割は何かなど、人間を妖怪の立場に追い込まぬ方策を話し合います。

 ノーベル経済学者アマルティア・セン教授や、『歴史の終わり』で有名なフランシス・フクヤマ氏など世界の約15カ国から様々な分野の有識者が集います。小泉総理も4月のアジア・アフリカ会議の演説でこの会議の開催に言及頂きました。日本が世界の叡智を集めて21世紀の文明を語る場を提供しようという試みなのです。

<夕鶴>

 このフォーラムの準備を続けていたこの2月、オペラ・シティーで鮫島有美子さんのオペラ『夕鶴』を観ながら、ふと疑問が湧きました。フォーラムが目指すように、対立を超えて世界をひとつの文明に近づけるということは、みなが妥協を余儀なくされ、自分の純粋な文化を保持できなくなることを意味するのでしょうか。物質欲というある意味で普遍的な欲望に染められた与ひょうのために、最後の2枚の布を織り、羽根を使い切ってしまった「つう」は、あまりに純粋であるがゆえに、結局ひとりで空へと戻らねばならないのでしょうか。

今月の資料

「世界文明フォーラム」のパンフレットを同封します(日本語版 他のサイトヘ英語版 他のサイトヘ)。

今月の引用

 対話に必要な謙譲の美徳は、ギリシャ悲劇でも説かれています。

 「しかし、人間として、よし賢明とされてる場合も、人に就いていろいろ学び知るというのは、けっして恥ずべきことではありません、あまり自説ばかりを押し通そうとかからずに。ご存じのとおり、冬の急淵の流れのそばでは、なびいて撓む木の枝は無事に助かる、それに反して、流れに逆らい突っ張る樹々は、根こそぎにされ倒れるのです、それと同様、舟の帆綱をあまりに強く張り、けっして緩めることがなければ、引っくり返って、それからは漕座も逆になったまま、浮いていくことになりかねません。」(ソポクレース『アンティゴネー』岩波文庫(呉茂一訳)P.49)

今月の数字

 外務省調べでは、昨年10月1日現在の海外在留邦人の数(長期滞在者と永住者の合計)は、961,307人で、今年には100万人を突破する見込みです。なおこのうち女性は493,680人で、467,627人の男性を上回っています。

今月のクイズ

 上記統計で、在留邦人が最も多い外国の都市はどこでしょうか?多い順に3つの都市名を挙げなさい(正解は次号)。

 前回のクイズ(外交関係を記念して今年行っている文化行事)の正解は、(3)日韓国交正常化40周年です。なお今年度はこれ以外にも、日露修好150周年、日ノルウエー国交樹立100周年、日サウジアラビア国交樹立50周年など多くの国との外交関係の節目を祝うと共に、日―EU市民交流年、日・中米交流年など複数の相手国との交流年事業や、日本におけるドイツ年などを行っています。


後記

 このニュース・レターは、広報文化交流部長が仕事を通じて感じたことを、個人の資格と責任で書いたものであり、外務省の公式見解ではありません。ご意見やコメントは以下のいずれかにお寄せください。

郵便:100-8919 千代田区霞ヶ関2-2-1 外務省広報文化交流部総合計画課
Fax:03-5501-8126
E-mail:seiichi.kondo@mofa.go.jp

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