2010年1月に発生し,多くの人々が犠牲となった「ハイチ大地震」から半年余り。未曾有の震災を乗り越えて,ハイチは今,国際社会の支援の下で復興の途を歩み始めています。日本人にはなじみの少ないハイチという国がどのような国なのか,そして,震災発生から緊急援助,復興支援までの道のりがどのようなものだったのかについて見ていきましょう。
■ハイチは“カリブ海のアフリカ”
カリブ海に浮かぶハイチ共和国は,米国フロリダ半島の南東に位置するイスパニョーラ島の西側を国土とする小さな島国です。北海道の3分の1程の国土面積に,人口約988万人(2008年)が住んでいます。その9割が植民地時代に奴隷としてアフリカから連れて来られた人々の子孫です。国民の多くはキリスト教を信仰していますが,アフリカにルーツを持つブードゥー教も人々の生活に深く浸透しています。このため,ハイチはラテンとアフリカが融合した独特の文化をはぐくんできており,人々の生活風景などを原色中心の強い色彩で描いたヘイシャンアート(Haitian Art)は外国人にとても人気があります。
■東西に分かれたイスパニョーラ島
イスパニョーラ島は現在,西側がハイチ,東側がドミニカ共和国に分かれていますが,ここにハイチがたどった歴史の一片を見ることができます。イスパニョーラ島は,大航海時代にインドを目指して大西洋に船を出したコロンブスによって1492年に「発見」され,元々はスペインによって全島が支配されていました。その後,フランス人がイスパニョーラ島の西側に入植して領有を主張したことから,1697年,ライスワイク条約により島の西側(現在のハイチ)をフランスに割譲。島の東西で異なる歴史を歩むことになりました。植民地時代のハイチでは,アフリカ人が奴隷として大勢連れて来られ,砂糖やコーヒーのプランテーションで過酷な労働を強いられました。一方で,18世紀のハイチは世界最大の砂糖生産地にまで成長し,本国フランスの貿易を支える存在になっていました。
■フランス革命とハイチの独立
ところが,この植民地支配に終止符を打つきっかけとなる出来事が,フランスで起こりました。それが1789年のフランス革命でした。圧政に苦しむフランス市民が蜂起したこの革命を背景に,1791年,ハイチでは黒人奴隷や混血たちが支配層のフランス人に対して反乱を起こします(ハイチ革命)。反乱軍は,ナポレオンが派遣したフランス軍によって一度鎮圧されますが,1803年に再び蜂起してフランス軍を駆逐。翌1804年,中南米の国では初めて植民地からの独立を宣言しました。しかし,当時はハイチの独立を承認する国家は存在せず,ハイチはフランスから独立の承認を得るために,巨額の賠償金支払いに応じることになりました。この賠償金が長年にわたってハイチ経済を圧迫し,結果的に社会の発展を阻害する要因の1つとなりました。また,独立後のハイチは,相次ぐ元首交代など政治的な混乱も続くことになりました。
■フランスへの賠償金と米国の軍事占領
1870年代ごろになると,ハイチは砂糖貿易の振興などで経済発展の兆しが見え始めましたが,引き続き,フランスへの賠償金支払いが重くのしかかっていました。そうした中,今度はドイツがハイチに度々干渉するようになりました。このことは,カリブ海の一角を占めるという地理的条件から,米国の警戒を呼ぶことになり,1915年,米国はフランスに対する賠償金支払いを肩代わりするのと引き替えにハイチを占領しました。実際にハイチが米国の軍政下に置かれたのは1934年までですが,カリブ海の要衝として米国が対ハイチ政策を重視する姿勢は現在でも変わっていません。
■独裁体制がもたらした政情不安
20世紀後半に入ると,ハイチの社会は独裁政権の誕生によってさらに不安定なものとなっていきました。1957年に就任したデュバリエ大統領は,当初,国民に慕われた政治家でしたが,途中から独裁政権へと転じ,反対派勢力を弾圧して国家財政を私物化し,社会インフラ整備を軽視する政策をとりました。それだけでなく,国際社会が経済制裁を発動したことにより,ハイチの社会経済は大きな打撃を受けることにもなりました。1991年には初の民主的な選挙でアリスティッド政権が誕生しますが,国民の期待とは裏腹に,軍事クーデターによってアリスティッド大統領は2度の亡命を余儀なくされるなど,政情はより一層不安定化していきました。このため,1994年,多国籍軍がハイチに展開し,これを引き継ぐ形で1995年には国連PKO(平和維持活動)である国連ハイチミッション(UNMIH)が展開しました。現在は,2004年に新たに設立された国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)が展開し,治安確保や人道支援など幅広い分野でハイチ政府を支援しています。
■2010年ハイチ大地震の悲劇
こうした中,突如としてハイチを襲ったのが,2010年1月13日(現地時間12日)に起きたハイチ大地震でした。首都ポルトープランス郊外約15kmを震源とするマグニチュード7.0の地震が発生し,死傷者は約22万2,500人,被災者は約370万人(人口の3分の1以上)にも上る大きな被害が発生しました。被災地の中心部では建物の8~9割が倒壊し,水道や電気などのライフラインや通信網,空港・港湾施設なども壊滅的な打撃を受けました。ハイチ政府や国連の建物もほとんどが壊れ,現地に駐在していた国連関係者などにも死傷者が出ました。ハイチはこの地震によって,GDPの約120%に相当する約78億ドルの損失を被ったとも試算されています。なぜここまで被害が拡大したのかと言えば,これまでの政情不安などによるハイチの貧困の深刻さが背景にあります。世界銀行によると,ハイチは人口の54%が1日1ドル以下,78%が1日2ドル以下(いずれも2001年データ)で暮らしているとされ,安全な飲み水の確保や衛生的な生活環境の整備も十分ではありません。このため,街全体が災害時に被害を最小限にとどめる備えができておらず,甚大な被害に見舞われてしまいました。
■緊急援助~地震発生からの日本の対応
地震発生の翌日,日本はテント,毛布などの緊急援助物資のほか,ユニセフ(UNICEF)や国連世界食糧計画(WFP)などと協力し,食料,水などの緊急支援を行うことを決めました。被災地でどのような支援が必要かを把握するため,すぐに調査チームを派遣し,1月18日には国際緊急援助隊の医療チームが震源地に近い首都郊外のレオガン市に到着して医療活動を開始しました(医療チームのメンバーは,自発的な意志に基づいてあらかじめ登録された医師や看護師などから構成され,緊急時に機動的な医療活動を行いますが,普段は日本の病院などで勤務しています)。その後,自衛隊の医療部隊(約100人)が国際緊急援助隊として派遣され,医療チームの活動サイトを引き継ぎました。今回は,医療チームが最初の1週間で延べ534人を診察した後,自衛隊の医療部隊がその医療活動を引き継ぎ,3週間に延べ2,954人を診察しました。医療チームと自衛隊部隊の活動したサイトはさらに,日本赤十字社の医療チームが引き継いでいます。半年余りが経過した現在では,地域の衛生状況や住環境の改善など病気を予防するための支援を行っています。
■自衛隊のハイチPKO派遣
同じように,国際社会においても,地震発生直後から迅速な対応がとられました。国連安全保障理事会は1月19日,ハイチの復興と安定化に向けた取組を支援するため,国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)の要員を増やす安保理決議第1908号を全会一致で採択しました。これを受け,日本は2月から自衛隊員(約330人)をMINUSTAHに派遣。現在でも,首都を拠点として重機によるがれきの除去,道路補修などの復興支援を行っています。
■いまだ150万人超が避難所生活
地震発生から2か月余りが経過した2010年3月,米国ニューヨークではハイチ支援国会合が開催されました。ハイチ政府から提出された復興開発のための行動計画と復興支援ニーズ調査の結果を基に,日本,米国,カナダ,EUなど59か国・機関は,当初の目標額をはるかに上回る計約53億ドルの支援を約束しました。日本はこの時,喫緊の課題である仮設住宅の建設や感染症対策といった追加的支援を表明しましたが,これらの取組によって日本の対ハイチ支援総額は1億ドルに達することになります。しかし,地震発生から半年以上が経過した現在,被災地では空港・港湾施設などの交通インフラや情報通信網の機能は徐々に復旧しつつありますが,いまだに150万人を超える人々が,避難所(テント村)での生活を離れることができていません。さらに,一部の被災者については,避難所での国際社会からの支援に慣れてしまい,なかなか自宅に戻りたがらないという新たな問題も起き始めています。ハイチ社会が抱える従来からの貧困問題を背景に,震災からの復興は今まさに正念場を迎えています。
■ディアスポラのネットワーク
こうした状況下で,ハイチ国外に居住(移住)していたために被災を免れたハイチ人たちのネットワークを,震災後の復興開発の原動力に活用すべきではないかという声もあります。彼らは「ディアスポラ」(海外離散民)と呼ばれ,かつての独裁政権による弾圧,政情不安,貧困などを理由に,北米やフランスなどへ移住していった人たちです。ディアスポラの中には,移住先の国で社会的・経済的に成功を収めた人も少なくなく,例えば,カナダのミカエル・ジャン総督は,デュバリエ独裁政権時代に家族で出国したハイチ移民です。ディアスポラは祖国ハイチへの思いを忘れず,今もハイチに住む家族や親族らに海外送金をしたり,投資をしたりして,ハイチ経済を外から支えています。このようなディアスポラのネットワークを,ハイチの復興・開発にいかに取り込んでいくかも,今後の課題の1つとなっています。
■ハイチ人の手による真の国家再建へ
「真の国家再建とは,単に地震前の状態に戻ることではなく,教育,医療,雇用,法の支配といった面で,国民のニーズに十分応えるだけの基盤を備えた国家としてハイチが生まれ変わることを意味します」――。3月のハイチ支援国会合で演説した岡田外務大臣は,ハイチの復興のあり方についてこう強調した上で,国際社会がハイチ政府の取組を協調して支援していくことが大切だと訴えました。震災国・日本は,過去に何度も大きな地震を経験し,それを乗り越えて災害に強い国づくりを目指してきました。日本はその経験と知見を活かしながら,ハイチに対して教育・人材育成,保健・医療,食料・農業の3分野を重視した支援を行ってきています。ハイチの人たちが一日も早く震災の悲劇から立ち上がり,再び将来に向けての希望を取り戻せるよう,日本は国際社会とともに支援を続けていきます。