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Vol.62 2010年8月6日
ポルトガルと日本~海がつないだ友好の絆

日本にとってポルトガルはヨーロッパの中でも最も長い友好の歴史を持つ国の1つであり,2010年は日本とポルトガルの修好通商条約締結150周年です。そのポルトガルがどのような国なのか,歴史的経緯や最近の情勢などとともに見ていきます。

大西洋を臨むヨーロッパの西海岸

ポルトガルヨーロッパのイベリア半島南西部に位置するポルトガル共和国は,東と北の国境をスペインと接し,西と南は大西洋に面した海岸線が広がる欧州最西端の国です。国土は日本の約4分の1で,国民約1,064万人のほとんどがキリスト教徒(カトリック)です。公用語はスペイン語とよく似たポルトガル語が用いられています。大西洋の海の幸に恵まれたポルトガルでは,料理の素材に魚介類が多く使われ,日本人と同じくイワシやタコを好んで食べる食文化があります。北部の都市ポルトから出荷されるポートワインは有名で,世界中で愛飲されています。ワインボトルの栓などに使われる「コルク」はポルトガルの特産品の1つで,世界生産の実に50%以上を占めています。ポルトガルにはファド(ポルトガル語で「運命」という意味)という大衆歌謡があり,ポルトガルギターなどの伴奏で人々の細やかな感情を哀愁たっぷりに歌い上げます。どこか日本の演歌とも通じるところがあります。

 

12世紀にポルトガル王国建設

リスボン郊外の街カスカイス地理的にヨーロッパなどのさまざまな民族が進出したこの地では,紀元前1200年頃,フェニキア人が最初に都市建設を行ったとされ,紀元前8世紀にはギリシャ人がリスボンに植民しました。紀元前205年,リスボンはローマ帝国の支配下に入りましたが,5世紀には西ゴート族などゲルマン人が侵入。711年にムーア人(北アフリカのイスラム教徒)によって占領されて以降,400年近くにわたってイスラム王朝に支配されることになりました。しかし,この間,もともとポルトガルに住んでいたキリスト教徒たちは,「レコンキスタ」(国土回復運動)と呼ばれる反イスラム勢力との戦いを続け,徐々に国土を奪還していきました。そして,1143年,再びキリスト教徒によるポルトガル王国が建国されました。

 
 

7つの海を制した大航海時代

中世の面影を残すリスボンの街並みこのポルトガル王国が,"7つの海を制した"と言われるほど繁栄を極めたのが,15世紀に始まる大航海時代でした。ポルトガルは,エンリケ航海王子がアフリカ西岸の探検航海を指揮したのを皮切りに,南アフリカの喜望峰到達(1488年),ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓(1498年),ブラジル発見(1500年)などを次々と成し遂げ,大航海時代の先駆者となりました。やがて東南アジアや中国のマカオにも勢力を拡大し,ポルトガルは香料貿易を独占して巨万の富を得ることに成功しました。こうして16世紀前半のリスボンは,世界最大級の都市にまで発展しました。

 

日本との出会いは室町時代

日本・ポルトガル交流史ポルトガル人が日本に初めて到来したのも大航海時代でした。1543年,ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し,鉄砲(火縄銃)の技術が日本に伝わりました。その6年後には,ポルトガル国王の命でキリスト教の海外布教活動を行っていたイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル(スペイン出身)が鹿児島に上陸し,日本にキリスト教を伝えました。やがてポルトガルは,日本・中国・ポルトガルの間で「南蛮貿易」をスタートさせ,戦国武将の織田信長や豊臣秀吉らもそれを後押して経済基盤を強化していきました。しかし,一方で,西国大名が南蛮貿易で財力を増したり,カトリックに改宗したキリシタン大名が出現したりするようになり,これに危機感を抱いた江戸幕府は,海外貿易を制限し,キリスト教の信仰を禁じるといった鎖国政策に転じました。そして,1639年,江戸幕府はポルトガル船の入港を禁止することになりました。

ポルトガルブーム~日本に浸透した南蛮文化

室町・安土桃山時代から江戸時代に至るまで,ポルトガルは南蛮渡来の貿易品だけでなく実に様々なものを日本に伝えました。例えば,16世紀末,豊臣秀吉はきらびやかな刺繍を施した深紅のビロードのマントやカッパなどの南蛮ファッションを好んで着用し,家臣にも勧めたと言われています。京都では,ポルトガル人が着ていた袴(カルサン)や下着(じゅばん)などが,庶民の間で大流行し,南蛮モードを安価で仕立てる店まで出現しました。また,当時の日本人が初めて見聞きする品物にはポルトガル語がそのまま使われ,徐々に日本人の暮らしになじんでいきました。今でも日常的に使われるボタン(botão),パン(pão),タバコ(tabaco),てんぷら(tempero),こんぺいとう(confeito)などは,ポルトガル語が転じて日本語になったものです。

 

共和制,独裁体制から民主化へ

こうして大航海時代に隆盛を誇ったポルトガルですが,同じ時期に商機を求めて新大陸に船を出したスペイン,英国,オランダなどとの植民地競争は次第に激しくなっていきました。当時のポルトガル経済はブラジルのサトウキビ生産など植民地経営に大きく支えられていましたが,19世紀に入るとブラジルの独立や内政の混乱が続き,さらには産業革命の出遅れも影響したこともあって,国勢は次第に縮小していきました。こうした流れのなかで,ポルトガルは1910年に共和制に移行しますが,1933年にはエスタード・ノーヴォ(新国家)と呼ばれる独裁体制に転向。以後,第2次世界大戦をはさんで40年以上も独裁政治が続きました。そして,ポルトガルに民主化の風が吹いたのは,1974年,左翼軍人らによる無血クーデター(カーネーション革命)が成功してからですが,この後,「最後の植民地帝国」と呼ばれたポルトガルはついにすべての植民地を手放すことになりました。

 
 

EUの中のポルトガル

ポルトガルは,独裁体制が続いていた頃からNATO(1949年加盟)や国連(1955年加盟)に加盟し,革命後は欧州連合(EU)(1986年加盟)に積極的な姿勢を示すなどして,米国や欧州諸国との安全保障関係を重視した外交を行ってきています。EUでは2007年12月,ポルトガルが欧州理事会の議長国として,EUの新しい基本条約と位置づけられるリスボン条約(2009年12月発効)の調印を成功させました。また,欧州委員会委員長など主要なポストにポルトガル人を輩出するなどして,EUの中でも独自の存在感を示しています。

 

財政再建が目下の課題

リスボンの街を走る路面電車ポルトガルの経済は,輸出入の面でEU諸国に大きく依存しており,世界経済危機によるEU主要国の景気後退はポルトガルにも大きく影響しました。EU加盟直後は,ポルトガルの安価な人件費がフランスやドイツなどの企業進出を誘引しましたが,旧社会主義圏の東欧諸国が相次いでEU加盟を果たしたことで,さらに人件費の安い東欧諸国に企業の関心が移っているという現状もあります。こうした事情などから,ポルトガルの失業率は11%(IMF2010年予想値)と高く,雇用改善が大きな課題となっています。また,ギリシャの財政危機に関連して,EUの中でも財政状況の脆弱さが懸念されるPIIGS(ポルトガル,イタリア,ギリシャ,スペイン,アイルランド)の1つとも言われていることから,ポルトガル政府は現在,2013年までに財政赤字を対GDP比3%以内(ユーロ導入の条件)に抑えることを目指して,財政再建策に取り組んでいます。

 

ポルトガル語圏諸国共同体の連携強化

ポルトガルの社会経済を支えるもう1つの柱として挙げられるのが,ポルトガルと旧植民地7か国から成る「ポルトガル語圏諸国共同体」(CPLP)です。1996年,大航海時代に築いた世界的な基盤に基づいて設立され,現在では人口2億人以上とされるポルトガル語圏諸国間の協力・連携を強めていくことを目的としています。これにより,ポルトガルはEU依存型の経済から脱却するとともに,ポルトガル企業によるCPLP加盟国への海外進出などを進めたい考えで,最近ではブラジルと協力して,アフリカ諸国への支援にも力を入れています。CPLPのネットワークによる取組からも,大航海時代の歴史と繁栄を伺い知ることができます。

ポルトガル語圏諸国共同体(CPLP)のネットワーク
 
 

日本・ポルトガル修好150周年

ポルトガル海軍の練習帆船サグレス号このようなポルトガルに対して,日本は約470年にもわたり,海がつないだ友好の絆を深めてきました。江戸幕府の鎖国政策などで一時的に両国間の交流が途絶えたこともありましたが,1860年には二国間の修好通商条約を締結し,未来に向けた外交関係をスタートさせました。そして,2010年は日本・ポルトガル修好150周年の節目にあたり,往時の航海風景をほうふつとさせるポルトガル海軍の練習帆船サグレス号が,両国関係にゆかりの深い横浜,種子島,長崎に寄港するほか,ポルトガルにおいて能の公演(4月),裏千家家元による茶道デモンストレーション(7月)が行われるなど,いろいろな記念事業も行われています。日本とポルトガルの人々がこれまでの長い歴史を振り返り,そして,新たな時代を共に考えるきっかけとなることが期待されています。

 
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