わかる!国際情勢 トップページへ

Vol.51 2009年12月18日
悠久のペルシャ~現代イランの成り立ちとその素顔

最近、ウラン濃縮活動など核問題のニュースでよく耳にする「イラン」。ペルシャ帝国繁栄の歴史を受け継ぎながら、独自のイスラム国家を築いてきたイランとは、一体どのような国なのでしょうか。これまでの歩みを振り返りながら、現代イランの成り立ちと社会情勢、日本との意外な共通点などについて見ていきます。

イランはペルシャ帝国繁栄の舞台

夕焼けに映えるペルセポリス(アケメネス朝ペルシャの都) イラン・イスラム共和国は、今から歴史をさかのぼること約2500年、古代オリエント世界を統一する大帝国を築いたアケメネス朝ペルシャ(紀元前540年成立)が興った場所でした。アケメネス朝の後、226~651年にわたって栄えたササン朝ペルシャ時代には、シルクロードを経由して、遠く日本とのつながりも生まれました。奈良・正倉院に収蔵されているガラス器「白瑠璃碗」は、往時のペルシャ帝国の繁栄をしのぶ品として有名です。現在のイランは、日本の4.4倍(約165万平方km)の広大な国土に、7,000万人以上の人々が暮らす地域大国です。ペルシャといえば、「砂漠」に「ラクダ」のイメージが強いかもしれませんが、首都テヘラン(Tehran)などイラン北西部はとても緑豊かな高原が広がっており、中東最高峰のダマーヴァンド山(標高5,604m)をはじめとする4,000m級の山々も連なっています。冬には国内外からスキーヤーが集まるスキー場もあります。カスピ海沿岸地方では、水田による稲作も行われています。

イラン・イスラム共和国
 
 

ペルシャから世界へ

最古のペルシャ絨毯は約2,500年前にさかのぼることができる。「ペルシャ」と名のつくものの中で、まず連想されるのが「ペルシャ絨毯」「ペルシャ猫」などですが、ペルシャ絨毯は紀元前7世紀頃にはイランの主要産業として確立し、中東一帯の宮廷で装飾品として珍重されていました。すべて手織りのため同じものは二つとない上、品質の高さと文様の華麗さは、今も変わらず世界中を魅了しています。意外と知られていないペルシャ発祥のものに「古典音楽の楽器」があり、ペルシャの打弦楽器「サントゥール」は、ヨーロッパに伝わって「ピアノ」のルーツになったと言われています。また、ペルシャ語も世界各地に伝わり、例えば、英語のレモン(lemon)とライム(lime)はペルシャ語のリームー(limu)から、パラダイス(paradise)、シャーベット(sherbet)、キャラバン(caravan)、市場(bazar)などもペルシャ語からきた言葉です。世紀を超えて世界に影響を与えてきたペルシャの面影は、ユネスコの世界遺産「ペルセポリス」「イスファハンのイマーム広場」などの歴史的遺跡に凝縮されています。

 

イランの近代化とイスラム教

ブルーなどのタイルを使った幾何学模様で美しく装飾されたモスク(イスラム寺院)現在のイランはイスラム教国家ですが、もともとササン朝ペルシャの時代までは、イラン中央部の都市ヤズドが発祥とされるゾロアスター教の国家でした。イスラム化が進んだのは、ササン朝滅亡後、モンゴル帝国の侵攻などを経て、1501年にイスラム教シーア派を国教とするサファヴィー朝が成立して以来のことです。しかし、1925年、クーデターによってパフラヴィ朝を開いたレザー・ハーンは、政治の非宗教化などによってイランの近代化を進める政策を急速に進めました。それは、イランを「脱イスラム化」路線に転換させるもので、1936年にはイスラム女性が全身を覆うために着る黒い布「チャードル」の着用禁止令を出し、代わりに洋服着用令を発令、さらには、後継の国王が1962年から農地改革、婦人参政権、識字運動を進めていきました(白色革命)。しかし、この急激な改革は、秘密警察などを伴った強権的なものでもあったため、結果として国民の強い反発を招くこととなりました。そして、それが後にイスラム革命を引き起こす要因となりました。

 
 

イラン・イスラム革命とホメイニ師

近代イラン略史近代化、脱イスラム化を旗印とする「白色革命」が進む中、国王批判を展開したホメイニ師(後のイスラム共和国の初代最高指導者)は、政府によって逮捕され、後に国外へ追放されました。国民はこれを宗教弾圧だとして不満を募らせていき、1978年、ついにこの不満が表面化しました。ホメイニ師を中傷する記事を巡る暴動を皮切りに、国内各地で暴動が相次ぎ、次第に民主化を求める勢力や左翼勢力も巻き込んで、大規模な王制打倒運動へと発展していきました。軍とデモ隊が衝突し死傷者が出る事件も起こり、事態収拾に行き詰まった国王は翌1979年、国外に退去。国王と入れ替わる形で、ホメイニ師が15年ぶりに母国イランへ帰国し、パフラヴィ朝に代わる「イスラム共和国」の設立を宣言しました(イラン・イスラム革命)。革命後、新政権はパフラヴィ朝をバックアップしていた米国との対決姿勢を強め、両国の関係は急速に悪化していきます(1980年、国交断絶)。一方、周辺のイスラム諸国(主にスンニ派)は、厳格なシーア派国家となったイランからの「革命の輸出」に対する警戒感を強めました。この結果、イランは欧米諸国だけでなく、イスラム諸国の中でも次第に孤立を深めていくことになりました。

高学歴化する現代ムスリム女性たち

医療に従事するイラン女性

イラン・イスラム革命後に表れた変化のひとつに、「女性の活躍」があります。一般的に、イスラム社会では女子教育に消極的なケースが多いとされていますが、イランではイスラム教の教義に基づき、「男女隔離政策」を徹底した上で、女子校の増設や女性教諭の育成・派遣など女子教育にも力を入れてきました。こうした取組が、「男性の目に触れるのではないか」という両親の懸念を払拭し、都市部だけでなく、保守的な地方農村などでも女子教育が浸透したと言われています。また、イラン・イスラム革命から約30年が経過した現在、イランでは大都市を中心に女性の高学歴化が進み、教育や医療をはじめ多くの分野で女性が活躍するようになりました。企業の管理職や閣僚、国会議員にも、少数ながら女性の姿が見られるようになり、女性専用タクシー会社の設立や女性のバス運転手採用なども話題となっています。

 
 

石油、国境、イラン・イラク戦争

イラン・イラクそして、イラン・イスラム革命から間もない翌1980年、イランが再び国際社会の注目を集める出来事が起こります。それが、「イラン・イラク戦争」です。争いの発端は、両国経済を支える「石油」の輸出の要所で、国境付近を流れる「アルヴァンド川(シャットル・アラブ川)」の使用権をめぐる衝突でした。この時、米国、欧州、ソ連などは、敵対するイラクのサダム・フセイン政権を強力に支援。1988年に停戦が成立するまで、攻防が続けられました。8年間に及んだイラン・イラク戦争は、両国に多くの犠牲と経済的損失をもたらしただけでなく、中東地域、ひいては国際社会の安定にも大きな影を落としました。なお、この戦争からわずか2年後の1990年、今度はイラクがクウェートに軍事侵攻し、米国など多国籍軍との間で「湾岸戦争」が始まったのでした。

イラン人の"ジャパニーズ・ドリーム"

イラン・イラク戦争の停戦後、イラン政府は復員兵士の雇用促進を図るため、海外への「出稼ぎ労働」を奨励しました。当時、バブル経済に沸いていた日本では円高が進んでおり、イランの人々にとって、日本はとても魅力的な出稼ぎ先でした。さらに、日本とイランは石油貿易などで経済的結びつきが強く、査証免除協定によって「ビザなし」で入国ができたため、「日本へ行けば、将来豊かな生活が送れる」という"ジャパニーズ・ドリーム"がイラン人の間に広まっていきました。このため、1990年頃には多くのイラン人が出稼ぎのためにやってきました。しかし、一部のイラン人による麻薬取引や偽造テレフォンカード売買など違法行為が後を絶たず、1992年、査証免除協定は一時停止されました。

 

ウラン濃縮活動と経済制裁

さらに、2002年以降、再び国際社会でイランの動向が注目されるようになったのが、現在も新聞やテレビのニュースなどで頻繁に報じられている核兵器開発疑惑です。イランのアフマディネジャード大統領は、原子力発電など「平和利用目的」での核開発を主張し、ウラン濃縮活動を続けているとしています。しかしながら、米国などは「核兵器開発の懸念が払拭できない」としてイランを非難し、国連安全保障理事会は制裁措置などを含む決議を採択しています。これに対し、イランは査察の受け入れなどIAEA(国際原子力機関)との協力を継続していますが、今なお国際社会の理解は得られていません。日本は、この問題が平和的・外交的に解決されるよう、あらゆる場でさまざまな働きかけを行っています。

 

イランの石油が支えた日本の成長

ペルシャ湾の油田設備(写真提供:Ali Majdfar)では、日本はイランとこれまでどのような関係を築いてきたのでしょうか。世界第2位の石油埋蔵量を誇るイランは、「イランの石油が日本の高度経済成長を支えた」と言われるほど、昔も今も日本にとってなくてはならない存在です。かつて、日本にとっての「最大の原油輸入国」がイランだったという事実が、それを物語っています(現在は3番目)。イランでは、今も石油が国営事業として経済の根幹をなしていますが、これに加えて、近年では天然ガス田の開発(天然ガスの埋蔵量世界第2位)や自動車産業の振興など、石油以外の取組も進められています。

 
 

日本人にも通じるイラン人の「心」

芸術性あふれるペルシャ語の「書」日本人とイラン人には、意外な共通点もあります。イランでは、ゾロアスター教の文化習慣が色濃く残っているため、日常生活では、春分の日(毎年3月21日)に新しい年が始まる「ヒジュラ太陽暦」を使っています。3月20日の「年末」には、家族でペルシャ絨毯を洗って大掃除をし、「正月」は親戚の家に集まって新年の挨拶をしたり、子どもにお年玉やプレゼントをあげたりして過ごします。また、日本人が俳句や短歌を楽しむように、イラン人も幼い頃から詩に親しみ、普段の会話の中にも古典詩句をよく引用します。日本の書道によく似たペルシャ文字の「書道」も盛んです。ペルシャ語の会話では、「お疲れさまです」「お手を煩わせます」といった日本的な表現や、「ここは私が払います」「いやいや、ここは私が・・・」といったお約束のやりとりもあります(これらは「ターロフ文化」と呼ばれています)。「おもてなしの心」や「義理人情」「恩義」を大切にするところも、どこか日本人に通じるものがあり、日本のTVドラマ「おしん」はイラン人の琴線に触れて大ブームを巻き起こしました。

 

日本の知恵と技術をイランへ

標高約1,200mの場所にあるイランの首都テヘラン(中央はミーラッドタワー) さらに、日本とイランには共通する社会的課題もあります。その代表的な例として挙げられるのが、「地震」と「環境汚染」です。イランは日本と同じく火山帯に位置しており、2003年12月にはイラン南東部でバム地震が発生し、約34,000人の死者を出す大災害となりました。地震大国の日本は、すぐに国際緊急援助隊医療チームの派遣、緊急援助物資の供与、緊急無償資金協力などを実施。さらに、国際協力機構(JICA)を通じて、地震対策に関する日本の知見を伝えたり、早期被害予測システム開発への協力をしたりしています。また、首都テヘランで深刻な問題となっている大気汚染対策についても、日本の知恵と経験に基づいた技術協力を行っています。2009-2010年は、日本とイランの外交関係が開設されてから80周年にあたりますが、シルクロードを超えた交流の歴史はすでに1000年以上にも及んでいます。イランの発展、そして、国際社会との協調と安定を目指し、日本はイランとの友好を更に深めていきます。

 
メルマガ登録希望の方はこちらからお申込みください。
ご意見ご感想もお待ちしています。 (外務省国内広報課)
このページのトップへ戻る
目次へ戻る