2008年5月に連邦民主共和制への移行が宣言され、240年近く続いた王制が廃止されたネパール。新たな国づくりに向けて動き出した一方で、マオイスト(共産党毛沢東主義派)兵(PLA兵)の国軍への統合や新憲法制定などの課題も抱えており、民主化と平和構築の行方に国際社会の注目が集まっています。ネパールがどのような国なのか、最近の情勢を踏まえて解説します。
■インドと中国にはさまれたネパール
北は世界最高峰「エベレスト」で知られるヒマラヤ山脈、南はインドへと続くタライ平野に囲まれたネパール連邦民主共和国は、国土が北海道の約1.8倍(14.7万平方km)の小さな国です。人口2,643万人(2006/2007年度政府中央統計局推計)で、リンブー、ライ、タマン、ネワールなど多様な民族が暮らしています。地理的にインドと中国の両大国の間に位置しているネパールは、「非同盟中立」を外交の基本としており、雪を冠したヒマラヤ山脈の風景とあいまって、まるで"アジアのスイス"のような存在と言えるかもしれません。
■観光客を魅了する"神秘"の世界遺産


ネパールの首都カトマンズ(Kathmandu)は、古くから大小様々な王国が興亡したカトマンズ盆地に位置し、「カトマンズの谷」や「仏陀の生誕地ルンビニ」など今に残る貴重な歴史的建造物は、ユネスコ(UNESCO)の世界遺産にも登録されています。悠久の歴史と豊かな文化を感じさせる神秘的な遺跡や街並は世界中の観光客を魅了し、美しいヒマラヤ山脈は登山家・トレッキング愛好家たちをとりこにしています。ネパールは国民の約7割が農業に従事している農業国ですが、このように観光産業も大きな収入源としての可能性を持っており、近年は政情不安によって外国からの観光客が減少傾向にありますが、ネパール政府は2011年を「ネパール観光年」として世界中から観光客を誘致する計画をしています。
ネパールはブッダ生誕の地
ネパール南部にある都市ルンビニは、仏教の開祖であるブッダ(釈尊、ゴータマ・シッタルダ)が生まれた場所とされ、仏教徒の巡礼地として国内外から多くの人が訪れています。現在ではヒンドゥー教徒が全人口の8割を占め、仏教徒は1割ほどですが、これは歴史的にヒンドゥー教が王国統一の象徴とされてきたためです。19世紀以来、ネパール王室は長らくヒンドゥー教を国教としてきましたが、2007年1月に公布された暫定憲法では、ネパールを特定の宗教にとらわれない「世俗国家」と定め、約240年続いた王制も2008年5月に廃止されました。
■国家統一とラナ将軍家の専制政治
現在のネパールの原型は、1769年、プリトビ大王(シャハ王家)の国家統一によりできあがります。19世紀に入り、ゴルカ王国という国が誕生しますが、その後も一族内での抗争が絶えず、1846年、シャハ王家の子孫であるラナ将軍家が実質的な権力を掌握することになります。ラナ将軍家は専制政治を断行し、ヒンドゥー教を統一の象徴として、国内の少数民族をカースト制度に基づき支配するようになりました。これに反発した最大政党のコングレス党(ネパール会議派)は、ラナ専制政治の打倒に向け武装闘争を開始し、1950年、ラナ体制を崩壊させました。その後、1959年に行われたネパール初の議会総選挙では、このコングレス党が国民の支持を受けて圧勝し、カースト制度などによる不平等の改善に乗り出そうとしますが、翌1960年、マヘンドラ国王が軍事クーデターによって突然議会を解散。「国王主権」を掲げた新憲法の下で、国王親政制度(パンチャヤート)を定めました。王制打倒を目指すコングレス党を始めとする諸政党が武装闘争を続けますが、パンチャヤート体制は世界的な民主化の波が押し寄せる1990年まで続きました。
■マオイストたちの民主化運動
そして、1990年、ついにネパール各地で民主化を求める大規模な人民運動が起こり、パンチャヤート体制は崩壊しました。一方、王制の廃止と世俗国家の実現を目指すマオイストの活動が高まりを見せ、1996年には武装闘争を開始し、広範囲を勢力下に収めていきました。この間、王位にあったビレンドラ国王は、民主化への理解を示しており、国民にも慕われていましたが、この国王をはじめ王妃など王族10人が突然に殺害される大事件が発生。それが2001年6月の王宮乱射事件でした。ネパール政府の調査によれば、この事件はディペンドラ皇太子が王宮で銃を乱射してその場にいた王族を殺害し、皇太子自身も自殺によって命を絶ったとされ、事件後は、王宮を離れていて無事だったビレンドラ国王の実弟ギャネンドラ皇子が国王に即位しました(事件の真相は、時間が経った今でもわからないところがあり、2009年、改めて調査委員会が発足するなど余波は続いています)。しかし、この事件による国王の交代劇は、後にマオイストたちの反発を更に強め、民主化運動が最終局面へと突入していく大きなきっかけとなります。
■国王との対立が招いた内戦の激化
新しく王位に就いたギャネンドラ国王は、民主化の流れに逆行する動きを見せ始め、2002年には下院の解散と首相解任を断行。新たに自ら首相を指名し、事実上の国王親政を再開しました。しかし、国王の指名した内閣はいずれも短命に終わり、政治的に不安定な状況が続きます。一方で、マオイストが組織した人民解放軍(PLA)と国軍との対立によって、ネパール国土は政府が支配する地域とマオイストが支配する地域に分断。そして、2005年2月、ギャネンドラ国王はついに内閣を解散して直接的に政権を掌握し、表現の自由などの基本的人権の一部制限、政党指導者らの拘束、報道検閲などを含む緊急事態令を発令しました。これに猛反発した政党とマオイストは、国王の先制政治と共に闘うための連携の道を模索し、全国規模で抗議集会を展開していきました。追い詰められた国王は2006年4 月、国民向けのテレビ演説で、2002年に解散した下院の復活を宣言。これにより、翌5月にはコングレス党のコイララ首相率いる新政権が誕生し、国王は政治・軍事などに関する権限を剥奪され、国家元首の地位を失いました。こうしてネパールは、民主化、そして和平に向けて大きく踏み出したのでした。
■新生ネパールの誕生と国連ネパール政治ミッション
これを境に、もとは反政府勢力だったマオイストと、新政権との間で和平交渉が開始され、2006年11月には包括的和平合意に署名。これによって10年間に及んだ内戦(犠牲者は約1万3,000人)はようやく終結の日を迎えました。2007年には、政党政権とマオイストが合意した暫定憲法の公布(1月)、さらに暫定政府発足(4月)など、ネパールは民主化・平和構築に向けて大きな一歩を踏み出しました。一方で、国際社会はネパール政府のそうした取組を支援するため、国連ネパール政治ミッション(UNMIN)を設立。日本も2007年3月から自衛官6名をUNMINの軍事監視要員として派遣(これまでに4回派遣延長)し、ネパール国内7か所の人民解放軍(PLA)キャンプと国軍兵舎やUNMIN本部で、武器の管理や兵士の監視などを担当しています。
■難航するPLA兵の国軍統合問題
ネパールの民主化・平和構築プロセスにとって目下最大の課題は、国軍とマオイスト傘下の人民解放軍(PLA)の統合問題です。UNMINは、設立後、PLA兵士の数を確定させるための認証作業を行い、PLA兵として登録された兵士約3.2万人のうち、約2万人が認証兵士、約4,000人が非認証、つまり"失格"とされています(約8,000人は認証面接を辞退)。この中には、少年兵やPLA兵としての期間が短い兵士などが含まれており、職業訓練などを通して社会復帰を支援していく必要があります。認証された兵士についても、すでに10万人規模で存在する国軍にどのように組み込んでいくか、各政党や国軍の間で意見が異なっており、まだ方向性は見えていません。このため、2009年5月にはマオイストのダハール首相が陸軍参謀長を解任、大統領がその決定に異を唱えるという事態が発生し、続くダハール首相の辞任、2008年8月から連立内閣を率いてきたマオイストの与党離脱など、政府と議会は不安定な状態が続いています。
■新憲法制定に向けた険しい道のり
新しい国づくりに不可欠な民主憲法の制定作業も難航しています。2008年4月、ネパールで初めての制憲議会選挙が実施され、数年前まで反政府組織だったマオイストが、過半数には及ばなかったものの「第一党」に躍進し、ダハール党首が首相に選出されました。同年5月の第1回議会において、王制が正式に廃止され、「連邦民主共和制」へと移行することが宣言されました。その後、2010年5月28日までの新憲法公布が約束されましたが、ネパールは近代的な法制度整備の経験に乏しいことに加えて、連邦制のあり方などに対する各政党間の意見の相違などにより、起草作業は見込みよりも大幅に遅れています。日本をはじめとする国際社会は、法制度整備に関するさまざまな支援を通して、ネパールの国づくりをバックアップしています。
政党間の合意に向けた「ハイレベル・メカニズム」
このような状況下で、PLA兵の国軍統合問題や新憲法制定といった喫緊の課題に迅速に取り組むため、コングレス党のコイララ総裁は「ハイレベル・メカニズム」という新たな仕組みを提唱しています。これは、混乱が続く議会に代わり、制憲議会の全政党から構成される別の枠組みを作り、広い視点から重要課題を協議した上で、政党間の合意を目指す仕組みです。すでにコングレス党、マオイスト、共産党UMLの主要3党によって、ハイレベル・メカニズムを具体化するためのタスクフォースが設置されており、ネパールの民主化・和平プロセスを前進させる手段として注目されています。
■日本のネパール支援
このほかにも、民主化や経済自由化、貧困削減、地域・カースト・民族間の格差解消、インフラ整備、中央・地方政府のガバナンス強化、産業振興など、ネパールの国づくりに向けた課題は山積しています。日本は1969年にネパールへの有償資金協力を開始し、現在は、地方の貧困削減、民主化・平和構築支援、社会・経済基盤整備に重点を置いた支援を実施しています。日本とネパールは、1956年の国交樹立以来、皇室と王室(当時)の交流や仏教文化を土台に、多角的・多層的な友好関係を築いてきましたが、インドや中国、そして欧米諸国とも異なる存在として、ネパール人は他に類のない「親しみ」を日本に示してくれています。2009年3月に、日本はネパールとの間でクールアース・パートナーシップを構築しており、気候変動対策支援についても始まっています。ネパールの民主化・平和構築に向けて、日本はこれからも着実な支援を行っていきます。