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Vol.40 2009年7月7日
スリランカ内戦の終結~シンハラ人とタミル人の和解に向けて

2009年5月19日、スリランカのラージャパクサ大統領は国会で、政府軍と反政府武装組織「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE)の間での内戦の終結を宣言しました。26年間で7万人以上の犠牲者を出したシンハラ人とタミル人の対立。その背景と今後の課題について考えます。

スリランカに住むシンハラ人とタミル人

スリランカ民主社会主義共和国は、シンハラ人(74%、主に仏教)やタミル人(18%、主にヒンドゥー教)、スリランカ・ムーア人など約2,000万人が住む多民族国家です。シンハラ人は、紀元前483年に北インドから上陸したアーリア系(インド・ヨーロッパ語族)の民族とされます。タミル人は、主に南インドに住むドラヴィダ系(ドラヴィダ語族)の民族で、紀元前2世紀中頃にセイロン島北部に到来したり、英国植民地時代に紅茶などのプランテーション労働者として強制移住させられたりして、定住するようになりました。公用語はシンハラ語とタミル語ですが、両民族間をつなぐ言葉(連結語=link language)として英語が使われています。「スリランカ」とは、シンハラ語で「光輝く島」という意味です。※文中の数字は2007年現在

スリランカ地図
 
 
 

民族対立に火をつけた英植民地の分割統治

シンハラ人とタミル人の対立の発端は、大航海時代に始まる外国の植民地支配にあるとされています。セイロン島は、1505年にポルトガル、1658年にオランダがシナモンを求めて来航し、それぞれ湾岸地域を植民地化。1815年には、キャンディ王朝の滅亡により、全島が英国の植民地となりました。シンハラ人の王朝があった古都キャンディ

(提供:スリランカ航空)この時から、それまであった両民族の慣習的な居住区域(境界線)は無視され、統一的に支配されるようになり、さらに英国は"少数派"のタミル人を行政府官吏に重用して、"多数派"のシンハラ人を統治させる「分割統治」を行いました。その結果、シンハラ人は貧しい農村でコメの生産などに従事する一方、タミル人のみが優れた教育を受け、官吏以外にも商人や資本家など社会的に高い地位を占めるようになりました。これが後に民族間の確執へと発展する火種となったのでした。

 

対立を決定付けた1956年のシンハラ人優遇政策

100年以上に及ぶ英国支配の後、スリランカは1948年に英連邦自治領「セイロン」として独立。1951年にスリランカ自由党(SLFP)を創設したバンダラナイケ氏が、分割統治によって社会的に虐げられてきたシンハラ人の利益を尊重する政治姿勢を打ち出したことで、風向きが一気に変わりました。バンダラナイケは「シンハラ人優遇政策」を掲げ、1956年の選挙で圧勝。シンハラ語を唯一の公用語とするシンハラ・オンリー政策など急進的な政治を展開しました。タミル人はこれに強い反感を抱き、同年以降、シンハラ人との間で大規模な衝突が頻発するようになりました。

民族問題・内戦の経緯
 

タミル人青年たちの反政府武装組織化

シンハラ人優遇政策が展開される中、1972年公布の新憲法では、シンハラ語を唯一の公用語と明記しただけでなく、シンハラ人の大多数が信仰する「仏教」に特別な地位を与えることを宣言。さらに、少数派に不利な立法を監視する「第二議院」を廃止した上、英国統治下で1947年に制定された憲法にあった「少数派保護の条項」をほとんど削除しました。タミル人はこれに猛反発し、民族内での結束を強めて武装組織を次々結成。この時、後に「タミル・イーラム解放の虎」(LTTE:Liberation Tigers of Tamil Eelam)となる過激派組織も結成され、スリランカ北・東部を"タミル人のホームランド(母国)"として、「タミル・イーラム」(イーラムはタミル語で国の意味)の独立を求めるようになりました。これら武装組織の中心となったのは、当時、高等教育を受けながらも失業状態にあったタミル人青年たちでした。

 
 

全面的な戦闘状態に突入した1983年

徐々にエスカレートしていたシンハラ人とタミル人の衝突は、1983年を境に政府軍とLTTEの全面的な戦闘状態へと突入します。そのきっかけとなったのは、1984年まで首都だったコロンボ。人口の半数以上がタミル人。(提供:スリランカ航空)ジャフナで発生したタミル人によるシンハラ人兵士13人の殺害事件でした。当時、シンハラ政府は社会主義経済の行き詰まりから、経済自由化を推し進めていましたが、急激な自由化で国内ではインフレが進行するなどしており、シンハラ人の不満はタミル人に向けて噴出しました。コロンボでは、多くの犠牲者を出す大規模な暴動が勃発し、タミル人難民がカナダなど北米をはじめ、欧州、アジア各国に避難しました。

 

インド平和維持軍とノルウェー政府の仲介

紛争の激化に伴い、1987年にはインドが平和維持軍(IPKF)をスリランカに派遣し、LTTEとの仲介に乗り出しました。しかし、事態の改善には至らないまま、1990年に撤退。政府軍とタミル人武装組織との間で激戦が再開しました。その後、中東和平などで仲介外交の実績を持っていたノルウェーが仲介に入ったことで、2002年2月、ウィクラマシンハ首相率いる政府側とLTTEとの間で、一時的に停戦合意が成立。その背景には、2001年の米国同時多発テロ事件(9.11)以降、国際社会が足並みを揃えて取り組んできたテロとの闘いがありました。

 

内戦の最終局面を支えた海外のタミル人ネットワーク

しかし、停戦合意後に6回の和平交渉が行われ、2003年には「スリランカ復興開発に関する東京会議」が開催されましたが、散発的なテロや政府要人暗殺が発生するなど和平に進展は見られず、2005年のラージャパクサ大統領就任後には再び戦闘が激化しました。停戦合意は事実上守られていませんでしたが、2008年1月には正式に失効しました。LTTEは、世界各国で社会的な成功を収めたタミル人からの後方支援(活動資金、武器弾薬の調達、世論形成など)を得て、軽飛行機による空爆などで政府軍への応戦を続けました。また、LTTEはインターネットを活用して「スリランカ政府が少数民族を迫害している」と非難し、これに呼応する形で、海外のタミル人(カナダの25万人をはじめ、欧州など世界各国に多数居住しているとされています)を中心にスリランカからの分離独立を求めるも声も強まりました。また、こうしたアピールや海外からのタミル人のロビー活動は、欧州諸国でのスリランカ内戦に対する世論形成にも少なからず影響を与えました。

 

内戦の終結宣言

一方で、スリランカ政府軍はLTTEの武器補給ルートを絶つなど徐々に攻勢を強めていき、北・東部のLTTE支配拠点を次々と奪回。そして、2009年5月19日、ラージャパクサ大統領は、LTTEのプラバーカラン議長が戦闘で死亡したことを確認し、内戦の終結を宣言しました。26年間に及んだ内戦による死者は7万人以上。ラージャパクサ大統領は、その後国会で、すべての国民に受け入れ可能な政治解決に取り組んでいくことを表明しています。

 

国内避難民28万人の再定住が最重要課題

最終局面で激化した内戦によって、約28万人ものタミル人らが国内避難民(IDPs:Internally Displaced Persons)となり、避難民キャンプでの生活を余儀なくされています。埋められたままになっている地雷キャンプでの生活は衛生面などに問題があり、スリランカ政府は2009年末までに80%の国内避難民を再定住(帰還)させる方針を示しています。しかし、内戦で破壊された住居やインフラの復興、埋められたままになっている地雷の除去など課題は残されています。日本は、国内避難民の再定住に向けた緊急人道支援と地雷除去支援を実施してきています。

 
 

平和の定着に関する日本の支援

日本は2002年の停戦合意以降、平和の定着への貢献に資するとの観点から、明石康・元国連事務次長を「スリランカにおける平和構築及び復興・復旧担当政府代表」に任命し、定期的にスリランカに派遣して、関係者への働きかけを行いました。また、2003年3月に第6回和平交渉を箱根で開催、同年6月にはスリランカ復興開発に関する東京会議を、米国、ノルウェー、EUと共に開催するなど、スリランカ民族問題に積極的に関与してきています。

 

シンハラ人とタミル人の和解に向けて

26年間に及ぶ内戦で分断された社会を再び統合していくには、シンハラ人とタミル人の和解が欠かせません。このため、ラージャパクサ大統領は、スリランカとして単一国家を維持しながらも、“セイロンティー”の茶摘みをするタミル人女性(提供:スリランカ航空)北・東部を含む各州に一定の自治を認める「権限委譲」を進めていく考えを示しています。また、タミル人をはじめとした少数民族の不満解消に向け、少数民族の声がより反映されやすい上院の設置なども議論され始めています。1983年の内戦突入時、混乱状況下にありながらも、身の危険を冒してタミル人をかくまったシンハラ人もいたといいます。今後、民族の対立を越えた着実な民族融和の進展が期待されます。

 
 
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