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Vol.3 2008年8月5日
カンボジア総選挙 民主化に向けた日本の支援

7月27日に行われた第4回カンボジア総選挙には、日本は、政府関係者、民間人の23名からなる政府監視団を10日間現地に派遣し、選挙運動や投票・開票状況の監視等を行いました。カンボジアの最大の支援国である日本は、カンボジアの平和構築から民主化、経済発展にいたるまで幅広い支援を行っています。今回は、カンボジアの歴史にさかのぼって解説します。

アンコール帝国からシアヌーク政権まで

カンボジア地図9~13世紀のカンボジアは、現在のアンコール遺跡を拠点に、インドシナ半島の大部分を支配する「アンコール帝国」として黄金期を築きました。19世紀後半には隣国のタイとベトナムの脅威に対抗するためフランスの保護領となり、その後、ベトナム、ラオスとともに「仏領インドシナ」としてまとめられました。第2次世界大戦後の1953年、「カンボジア王国」として完全独立し、90年間におよぶフランス支配からの脱却を果たしました。その後17年間は、非同盟・中立を追及したシハヌーク国王のもと、平和の時代が続きました。

 
 

親米派ロン・ノル将軍によるクーデター

カンボジアの歴史シハヌーク殿下率いるカンボジア王国政府は、中国、ソ連、北ベトナム等社会主義陣営の国々と接近、日本やフランスなどの米以外の民主主義国家とは友好関係を維持するものの、米、南ベトナム、タイとの関係は冷却化していきます。そして、60年代末からのクメール・ルージュ(KR)のゲリラ活動の活発化、計画経済の失敗等を背景に、1970年、シハヌーク殿下の外遊中に反中親米派のロン・ノル将軍によるクーデターが起こり、王制は廃止、「クメール共和国」が樹立されました。

 

ポル・ポト政権樹立

ロン・ノル将軍は、政権をとるや南ベトナムと共同してベトナム・カンボジア国境地帯に出没する共産ゲリラの掃討作戦を開始します。一方、米・南ベトナムによる東部カンボジアに対する爆撃も開始され、カンボジアはベトナム戦争に組み込まれていきます。シハヌーク殿下は中国政府の支援を得て北京に亡命政府を作り、反ロン・ノル運動を展開、これにKRが呼応します。米と南ベトナムを後ろ盾とするロン・ノル政府軍と、北ベトナム、南ベトナムの共産ゲリラ、KRの連合軍との間で全面戦争となりました。この内戦は、1975年KR側が勝利し、「民主カンボジア(ポル・ポト)政権」を樹立しました。

 

ポル・ポト政権下の虐殺と反ベトナム政策

同政権下では、100万とも200万とも言われる自国民の虐殺が行われ、類を見ない「恐怖政治」が国内外を震撼とさせました。帰国したシハヌーク殿下も幽閉されます。ポル・ポト政権幹部は、思想的に文化大革命当時の中国に大きな影響を受けたと言われておりました。また、ポル・ポト政権は、ベトナム戦争終結後、ソ連に接近したベトナムに対しても、伝統的な反越感情と相まってあからさまな敵対政策をとります。

 
 

民主カンボジア三派連合 VS プノンペン政権による内戦の激化

カンボジア内戦:対立の構図 こうしたカンボジアの反越政策に対し、ベトナム軍は1978年12月カンボジアに電撃侵攻し、翌年1月首都プノンペンを陥落させます。そしてKRの地方小幹部であったヘン・サムリンを元首とする政権を擁立しました。ポル・ポト率いるKRはタイ国境地帯のカンボジア西部へと逃れました。以降カンボジアでは、5~10月の雨期には反ベトナム勢力である民主カンボジア三派連合(KR、王党(シハヌーク)派、共和(ソン・サン)派)がタイ国境付近からゲリラ戦を展開し、11月~4月の乾期にはヘン・サムリン政権が重火器で攻勢する、という内戦が10年間くり返されました。戦火を逃れたカンボジア人は国境を越えてタイに流入し、多くの人々が祖国を追われたまま「難民」として保護されました。

 

日本の和平会議参加

こうした情勢を憂慮した国際社会は、カンボジア和平に向け様々な取り組みを行い、1989年に第1回カンボジア問題パリ国際会議を開催し、日本は招かれて参加します。和平会議に日本が参加したのは戦後初めてのこととなります。翌90年には日本は、「カンボジアに関する東京会議」を開催しました。地域紛争の解決を目指した取り組みとしては、日本の外交史上例を見ない試みでした。この会議で、プノンペン政権と三派連合政府が対等参加する最高国民評議会の設置などに合意することができました。

 

日本の和平会議参加

こうした情勢を憂慮した国際社会は、カンボジア和平に向け様々な取り組みを行い、1989年に第1回カンボジア問題パリ国際会議を開催し、日本は招かれて参加します。和平会議に日本が参加したのは戦後初めてのこととなります。翌90年には日本は、「カンボジアに関する東京会議」を開催しました。地域紛争の解決を目指した取り組みとしては、日本の外交史上例を見ない試みでした。この会議で、プノンペン政権と三派連合政府が対等参加する最高国民評議会の設置などに合意することができました。

 

日本のPKO派遣

1991年のパリ和平協定により、カンボジアの内戦は終結。これを受けて翌92年、国連カンボジア暫定機構(UNTAC)による暫定統治が開始され、国際社会の支援がようやく本格化しました。日本では92年、「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」が成立し、この年、日本による初のPKO派遣を実施(92~93年)して、UNTACの活動に参加し、カンボジア和平に向けて人的な貢献を行いました。

 

第1回総選挙

1993年には、UNTAC監視のもと、第1回制憲議会選挙が行われ、王党派フンシンペック党が勝利しました。そこで定められた新憲法で、カンボジアに王制が復活。シハヌーク殿下が再び国王に即位し、ラナリット第一首相(フンシンペック党)、フン・セン第二首相(人民党:旧プノンペン政権)の2名による首相制連立政権が発足し、「カンボジア王国」として再出発しました。

 
 

総選挙をめぐる政変

当初は内戦時代を反映した二人首相体制のもとで、国家再建が開始されましたが、総選挙を翌年に控えた97年、フンシンペック党と人民党の間で武力衝突が発生しました(7月事変)。ラナリット第一首相が失脚するなど、国内情勢は再び不安定化しました。

カンボジア総選挙
 

カンボジア民主化への道と日本の果たした役割

この事態を受け、日本は、訪日したフン・セン首相への働きかけや、停戦とラナリット殿下の選挙参加に関する4項目提案を行うなど、カンボジア国内情勢の正常化に向けて尽力しました。98年7月の総選挙に対しても、資金的協力を行うとともに、選挙専門家1名と監視員32名を派遣し、自由・公正な選挙の実施に向けて貢献しました。

 

国際社会への復帰 ~ASEAN、WTOへの参加~

この選挙で第一次フン・セン首班連立政権が発足。99年には上院が新しく設けられ、カンボジア王国は二院制へと移行します。同年ASEANへの加盟を果たしました。2003年に行われた第3回選挙では、第二次フン・セン首班連立政権が発足。翌04年にはシハヌーク国王が引退してシハモニ新国王が即位。同年WTOへの加盟とASEMへの参加も決定するなど、カンボジアは着実に民主化への道を歩みはじめました。

 

司法制度作りへの日本の貢献

日本はカンボジアへの最大の援助供与国でありますが、同時に、法の支配と人権状況の改善に向けての協力も数多く行っています。カンボジアの司法体制の整備と向上のため、日本は、現地に専門家を派遣して、民法・民事訴訟法の起草に協力しました。30代の女性判事や検事が何度もカンボジアに行って、現地の人と一緒に国の根幹である法律を作っていったのです。民事訴訟法は2006年7月、民法は2007年12月にそれぞれ公布されました。

 
 

「クメール・ルージュ裁判」への支援

また、ポル・ポト政権下で行われた自国民の大量虐殺の罪を裁くため、国連の支援を受けてカンボジア国内裁判所に「クメール・ルージュ(KR)裁判特別法廷」が設置されました。この裁判に対しても、日本は当初予算(156.3百万ドル、3年間を想定)の国連負担分(43百万ドル)のうち、約半分にあたる21.6百万ドルを拠出しています。カンボジア政府負担分予算には、295万ドルの支援を実施しています。さらに1999年より2005年まで、国連の「カンボジア人権状況決議案」の主提案国であった日本は、カンボジアの人権状況を公平な視点から評価しつつ、さらなる進展を促すという、国際的に重要な役目を担っているのです。

日本の協力

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これからのカンボジア支援

2008年は日カンボジア外交関係樹立55周年にあたります。その記念すべき年の7月、カンボジア王国では第4回総選挙が行われ、日本は過去の支援に引き続き今回も、政府関係者および民間人の計23名(内、JICA職員3名はアドバイザー)からなる日本政府選挙監視団を派遣し、監視結果 を報告しました。 また、7月31日には「日・カンボジア投資協定」も発効し、民主化の道を着実に歩き始めたカンボジアを経済面でも支援してゆく体制です。

 
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