[8]ミャンマー

1.概 説

(1) ミャンマーは48年に英連邦外の共和国として独立した。62年に国軍がクーデターで全権を掌握したが、88年ネ・ウィン体制下の一党支配による政治的閉鎖性及び経済困難に対する不満を背景とした全国規模での民主化要求デモが勃発した。国軍はこれを鎮圧するとともに、国家法律秩序回復評議会(SLORC)を設置し、自らを暫定政権と位置付け、総選挙実施後の政権委譲を公約した。90年5月に行われた総選挙の結果、スー・チー女史率いる国民民主連盟(NLD)が8割以上の議席を獲得したが、SLORCは、選挙結果を無視して政権委譲を行わず、政権委譲までの手続きとして新憲法に盛り込む基本原則決定のための国民会議を断続的に開催している。
 スー・チー女史は、89年に国家防御法違反で自宅軟禁措置となったが、95年の自宅軟禁解除後、支持者に対し政府批判の演説等を行ったため、政権側は96年9月以降、自宅敷地外での政治活動を制限した。NLDは95年11月国民会議をボイコットして以降、政府との対決的姿勢を次第に強め、98年8月にNLDが90年の総選挙の結果に基づく国会を独自に召集することを示唆したことを受け、政権側は国会議員を含むNLD関係者を大量に拘束し、両者の対立が強まった。その間、SLORCは97年11月、汚職閣僚の排除、国軍人事の若返り、対外イメージ改善等を狙い国家平和開発評議会(SPDC)に改組し大幅な国軍幹部の人事異動を実施した。
 外交面では、現政権成立後ASEAN諸国、中国等、近隣諸国との関係緊密化に努めており、これら諸国との間で要人交流及び経済交流が活発化してきている。ASEAN等の地域協力にも積極的であり、96年7月にはASEAN地域フォーラム(ARF)に新規参加したのに続き、97年7月には正式にASEANへの加盟を果たした。
 ASEAN各国は、ミャンマーに対し、内政不干渉を原則としつつも、経済面を中心とした交流を進めながら同国のミャンマーの人権状況改善や民主化を促していく「建設的関与政策」を推進している。98年ASEAN外相会議の際に、内政事項であっても率直な意見交換を行うべきとする「柔軟関与政策」の是非が議論されたが、結局ASEANとしてこうした方針をとることは見送られた。一方、欧米諸国はミャンマーの民主化・人権状況に強い懸念を表明し、米国はミャンマーへの自国企業による新規投資禁止措置、欧米諸国は政府高官等に対する査証発給制限等の措置をとっているが、欧州は2000年4月に従来の措置の延長に加え、人道援助拡大の検討といった制裁緩和措置をも盛り込んだ決議を採択した。こうした中、中国は政治、軍事、経済各面に亘り、ミャンマーとの交流を行っている。
 国連は、98年秋以降、ミャンマー情勢の改善に向けた働きかけを強めており、99年10月にはデ・ソト事務次長補が国連事務総長の特使としてミャンマーを訪問し、キン・ニュン第一書記及びスー・チー女史と会談したほか、2000年6月及び10月にはラザリ元国連総会議長が新たな特使としてミャンマーを訪問し、キン・ニュン第一書記及びスーチー女史と会談を行った。
(2) 62年以降、農業を除く主要産業の国有化等社会主義経済政策を急速に進めたが、その閉鎖的経済政策等により外貨準備の枯渇、生産の停滞、対外債務の累積等経済困難が増大し、87年12月には国連より後発開発途上国(LLDC)の認定を受けるまでに至った。88年9月に成立した現政権は、四半世紀にわたる社会主義経済政策等を放棄し、外資法の制定、輸出入業務の自由化、タイや中国等との国境貿易の合法化などの市場経済開放政策を推進した。更に、様々な経済関連法や諸制度の整備に努めるとともに、経済インフラの整備、民間活力の導入、外国投資の誘致を図り、特に95年までの4年間のミャンマー経済は、順調な農業部門を背景に、年平均成長率7.5%を達成した。また、96年度からの新経済5か年計画においては年平均6%の成長を目標としている。
 しかし、97年以降、主要輸出品である米の不作、インフラの未整備、外国投資の伸び悩み等により、外貨準備高の逼迫が表面化した。更に97年7月以降には、タイ・バーツの変動相場制移行と並行してチャットが短期間に急落したため、また、タイやマレイシアなどで働くミャンマー人労働者からの送金が減少したため、外貨証券(FEC)預金による外貨送金を月5万ドルに制限すると共に、不要不急の輸入に対する規制措置という緊急手段をとらざるを得ない状況にある。その結果97年及び98年の経済成長率はそれぞれ4.6%、5.0%となった。なお、ミャンマー政府は99年の成長率は10.9%であったと発表している。
(3) 我が国とミャンマーは、政府間のみならず国民各層における交流を通じ伝統的に友好関係にある。こうした伝統的な二国間関係を基本として、現政権に対し民主化及び人権状況の改善を促すべく粘り強く働きかけてきているが、最近では、99年11月、マニラにおけるASEAN+日中韓首脳会合の機会に、小渕総理(当時)がタン・シュエ議長との間で15年振りとなる日・ミャンマー首脳会談を行い、民主化及び人権状況の改善につき直接働きかけを行った。我が国との貿易額は、98年で、我が国からの輸出240百万ドル、我が国への輸入117百万ドルとなっている。ミャンマーにおける我が国企業の投資は、諸外国と比較して低調で、99年10月末時点での対ミャンマー投資の累積認可額は、約2.2億ドルで第9位、全体の3.1%に過ぎない。

2.我が国の政府開発援助の実績とあり方

(1) ミャンマーは、我が国と緊密で良好な関係を有し、独立後一貫して親日国であること、及び同国の大きな開発ニーズを踏まえ、他の東南アジア諸国と並んで我が国援助の重点国の一つとして位置付けられていた。しかし、88年の政変以降は、一定の分野を除いてミャンマーへの経済協力は実質上停止されていた。
 95年7月のスー・チー女史の自宅軟禁解除等に見られる事態の進展を受け、上記方針を一部見直し、同国の民主化及び人権状況の改善を見守りつつ、既往継続案件や民衆に直接裨益する基礎生活分野の案件を中心にケース・バイ・ケースで検討の上実施するとの方針に基づき協力が実施されている。
(2) 99年度、我が国の対ミャンマー援助は、無償資金協力8.85億円(その他に債務救済無償として15.86億円)、技術協力10.86億円の総額19.71億円である。
 有償資金協力は、87年度以降は新規の供与を行っていない。但し、98年3月、既往案件である「ヤンゴン国際空港拡張計画」につき、その後の同空港の利用状況の急増及び施設の著しい老朽化から、同空港の安全維持のためには緊急な対応が必要と判断し、安全面に絞った必要最低限の応急措置を決定(約25億円の貸付の実行)している。
 無償資金協力については、99年3月、98年に引き続き、乳幼児死亡率と妊産婦死亡率の低減を目的とする「第2次母子保健サービス改善計画(子供の健康無償)」(5.97億円、ユニセフ経由)を実施したほか、保健医療や水供給分野及び小学校建設等の教育分野を中心に草の根無償資金協力を47件実施した。
 技術協力においては、BHN、民主化、経済開放化に資する協力を中心に実施している。ミャンマー山岳地におけるケシ栽培に従事する少数民族の生活改善と麻薬関係作物の転作のための「蕎麦栽培プロジェクト」として短期・長期専門家派遣、また、市場経済化及びBHN分野を中心とした本邦研修員受入、ポリオ等のワクチン供与の他、母子の健康対策特別機材の供与等を行ったほか、農業分野でのプロジェクト方式技術協力を実施している。また、開発調査として、水供給マスタープラン調査、再生可能エネルギー導入調査、経済構造調整支援調査を実施している。
 更に、99年11月の日・ミャンマー首脳会談の際、小渕総理より、ミャンマーの経済構造調整支援を行う用意がある旨表明したことを踏まえ、日本、ミャンマーの政府、産業界、学界からなる合同タスクフォースが設立され、支援が開始されている。

(参考1)主要経済指標等
(参考2)主要社会開発指標
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