ODAとは? ODAちょっといい話

第四話
歴史に学ぶ

その1


遣唐使と留学生



 日本政府はいろいろな招聘制度によって、途上国からの留学生や研究員、そして研修生を国費で招き、研究・研修の機会を与えている。
 勿論アジアの国々からの人々が多数を占める。
 ところで、日本は現在、先進工業国として多くの途上国に教育支援を行っているが、いつでも支援する側であった訳ではない。
 西暦609年、聖徳太子の時代に、はじめて小野妹子を大使とする第一回目の遣隋使が中国大陸(隋)に派遣された。
 後の630年、こんどは舒明天皇によって、犬上御田鍬を大使とする第1回目の遣唐使が派遣された。大陸は既に唐大帝国の時代になっていた。以後15回、894年まで260余年の長きに亘り、遣唐使が派遣されたのである。
 遣唐使一行は4隻の船に、外交使節の他、水夫、修理のための大工、そして医師、音楽隊が乗船していたが、実は他に多数の留学生、留学僧が乗船しており、その総数は約600人の大編成であった。15回の派遣により、約1万人が渡唐し、医学、化学、建築学など諸々の文化と学問を修め帰国し、文化国家日本の建設の礎となったのである。
 唐の国はその勃興(618年)から滅亡(907年)までの290年間のほとんどの期間の260余年、日本の留学生を引き受け、学問を授け、面倒を見続けてくれた。唐の国の恩義を忘れてはいけないのである。



その2


カルタゴの滅亡



 今から2000年以上の昔、北アフリカ沿岸都市国家の一つで、地中海世界で有数な国家として栄えていたカルタゴは、紀元前200年頃、軍事大国ローマと第2次ポエニ戦争を戦い敗れて無条件降伏した。その時の講和条約の内容は次のとおりであった。
(1)独立は認めるが、本国以外の海外領土は全て放棄すること、
(2)専守防衛に限り自衛軍の存続を認めるが海外派兵は認めない、
(3)カルタゴ駐留のローマ軍の経費は全てカルタゴが負担すること、
(4)賠償金を支払うこと、等である。
 戦後、カルタゴは経済活動のみに専念し、奇跡の経済復興を成し遂げた。
 勝ったローマの方は表面的には華やいでいたものの、勝者としての国際的責任と義務をかかえこみ、逆に財政赤字に苦しむ国家となっていった。
 発展をつづけるカルタゴを苦々しい思いでみていたのはローマの元老院(議会)ばかりでなく、他の地中海諸国も同様であった。このままの状態がつづけば、世界の富は全てカルタゴに支配されてしまうと恐れをいだいた軍事大国ローマは、いろいろな無理難題をカルタゴにおしつけ、それを拒否したカルタゴに一方的に宣戦を布告し大軍を送った。カルタゴは、仲介をたのむ国もなく、孤立無援の戦いをつづけ、紀元前145年、ついに全国民玉砕し、カルタゴは地球上から完全に抹殺されてしまったのである。
 カルタゴは、ローマとの関係を重視し、約束を守り、友好関係をつづけてきたつもりでいたにもかかわらず、ローマ国内にカルタゴに対する嫉妬、憎しみ、いらだちが充ちあふれていたことに気づかなかった。
 既にローマの属国となっていたギリシアは、そのヘレニズム文明がローマ人に敬意をもって受け入れられていたために、国家としても安泰であった。
 カルタゴには、ローマが敬意を払うような文化もなく、十分な軍事力もなく、また、外交の稚拙さゆえに友好国家を作ることもなく、ただただその自国の経済力のみを頼りにしてきたのであるが、その経済力があだとなり、ローマの憎しみの前には何の力も持つことなく、地球上から消えていった。
 強力な軍事力をもたないカルタゴは、その巨大な経済力で近隣諸国との友好関係を築いておくべきだった。
 我々も“歴史を学ぶ”のではなく、“歴史に学ぶ”べきであろう。


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