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略史:1917年ロシア革命によりロシア帝国が崩壊し、ソヴィエト社会主義共和国連邦成立。1991年8月の政変で共産党支配が終焉。同年12月のソ連解体に伴いロシア連邦が成立。 | ||||||||||||||||
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6月16日(第1回投票)と7月3日(決選投票)に実施された大統領選挙では、「過去の体制への回帰か、改革の継続か」が争点とされ、現職のエリツィン大統領がジュガーノフ共産党議長を破り再選を果たした。国家元首を公選するというロシア史上初の選挙は、おおむね自由かつ公正に実施され、ロシアに民主主義が根付きつつあることを示した。選挙後、エリツィン大統領は従来からの虚血性心疾患を再発させ、治療・療養を繰り返し、大統領のクレムリン不在の状況が続き、ポスト・エリツィンに向けた権力闘争を表面化させることとなったが、11月5日には心臓のバイパス手術を無事に終え、年末には職務への復帰を果たしている。 8月10日にチェチェン担当大統領全権代表に任命されたレベジ安全保障会議書記(当時)は、同月末にチェチェンの政治的地位を向こう5年間棚上げすることでチェチェン側独立派と合意し、これにより1年9か月にわたるチェチェン紛争は終結した。チェチェン側独立派は、チェチェンにおける行政上の主導権を握り、事実上の独立路線を進めており、こうした中、97年1月末には大統領・議会選挙が予定されている。 国内経済については、96年も前年に引き続きIMFとの協調路線が取られ、3月にはIMFとの間で向こう3年間のEFF(拡大信用供与)に合意した。こうした政策の結果、インフレ率はさらに低下し、8月には92年の改革開始以来初めて前月比でマイナスの-0.2%となった。為替レートは所定の変動枠内で安定的に推移し、貿易黒字も継続している。しかしながら、底を打つかにみえた生産の低下は96年も継続し、1~11月期のGNPは前年同期比マイナス6%となっている。また、徴税の低迷による税収不足が深刻化し、政府は優遇廃止・罰則強化等の徴税強化策を講じているが、96年の年間歳入目標は達成困難とみられる。経済活動の不振は企業の支払い能力を低下させ、税金のみならず企業間債務・給与等の未払い問題を生じさせており、国内各地で給与支払いを求めるスト・デモが頻発している。今後は、いかにして国内投資を拡大し経済成長をプラスに転じるかが課題であり、政府としては、国債の発行抑制及び金利の引き下げ並びに国内法制整備等による外国投資の導入促進に向けて努力していくことが必要となっている。 対外政策は、1月のプリマコフ外相就任以来、コズィレフ前外相の西側協調主義から、全ゆる地域との関係を活発化する「全方位外交」へとシフトした。その背景には、ここ数年高揚してきた民族主義・愛国主義的傾向やNATO拡大問題への配慮があるとされる。また、外交目標として、国内環境改善のため最適の対外環境の確保を掲げ、政治面のみならず、軍事協力や原子力協力を含め経済・貿易面での国益の確保や、テロ・犯罪対策面での協力についても努力を傾注している。 西側諸国との間では、エリツィン大統領の提案による原子力安全サミット(4月)を成功させた後、リヨン・サミット(6月)では政治問題及び地球規模問題の議論に参加した(ただしエリツィン大統領は欠席し、チェルノムィルディン首相が代理出席)。12月には、NATO拡大への反対は維持しつつも、NATOとの関係に係る協議に入る旨を表明するなど、懸案解決に向けて前進を見せた。アジア太平洋に対する外交も活発化し、特に4月のエリツィン大統領訪中では中露間の「21世紀に向けた戦略的パートナーシップ」が謳われた。また、CIS諸国との関係強化は、引き続き最優先課題の1つであり、96年春にはベラルーシとの共同体創設条約並びにベラルーシ、カザフスタン、キルギスタンとの統合深化条約が署名された。しかし、CIS全体の統合プロセスの今後の推移は明確でなく、特にウクライナとの懸案は未解決のままである。 日露国交回復40周年という節目に当たる96年の日露関係は、それに相応しく政治対話が活発化した年であった。 3月には池田外務大臣が訪露し、エリツィン大統領への表敬、プリマコフ外相との第6回外相間定期協議、サスコヴェッツ第一副首相(当時)との貿易経済に関する政府間委員会第一回会合を行った。4月19、20日には、モスクワで原子力安全サミットが開催され、橋本総理大臣が訪露し、93年10月のエリツィン大統領訪日以来、約2年半ぶりに日露首脳会談を行った。総理大臣の訪露は、85年3月に中曽根総理大臣(当時)がチェルネンコ書記長の葬儀に参加するために訪露して以来実に11年ぶりである。さらに、4月27日から29日にかけて、臼井防衛庁長官(当時)が日本の防衛庁長官として両国関係史上初めて訪露し、グラチョフ国防相(当時)との会談では、日露間の信頼醸成のための多くの措置について今後調整を進めることで意見が一致した。また7月のエリツィン大統領再選後は、日露国交回復40周年を祝う多くの行事が両国で開催された。10月には東京で平和条約作業部会・事務レベル協議が行われ、その成果をも踏まえ、11月14日から17日にかけてプリマコフ外相が訪日し、橋本総理大臣を表敬した他、池田外務大臣との間で第7回外相間定期会合を行った。 経済面では、95年に過去最高額に近い59億ドルまで回復した往復貿易額は、96年に入り再び低迷している。ロシア経済の長引く不振、旧ソ連の未払い債務問題、国内法制の未整備などの要因は、引き続き両国間の経済関係の発展を阻害しており、3月にモスクワで開催された貿易経済に関する政府間委員会の第一回会合は、こうした問題の除去につき閣僚レベルで話し合う初の試みであった。同委員会は95年11月に開催された3つの分科会の共同報告を採択した(97年1月には第2回分科会が開催された。イリューシン第一副首相が訪日して97年3月1日に第2回会合が開催される予定であったが、ロシア側の事情で延期された)。他方、日本企業も参加するサハリン-1、サハリン-2の大規模石油・ガス開発プロジェクトが進展を見せ、また、日本輸出入銀行の融資によるプロジェクトの中で、シベリア横断通信網が3月に完成したほか、これまで調整が続いていた5億ドル融資の実施に関しても進展が図られるなど、いくつかの協力が成果を挙げつつあることも確かである。 |