スロヴェニア、クロアチア、
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、
マケドニア

[スロヴェニア]
 スロヴェニアは、旧ユーゴーのうち最北端に位置し、旧ユーゴースラヴィア紛争の影響を受けることなく着実に国の基礎を築きつつある。ドゥルノヴシェク首相は、96年においても困難な内政運営を強いられたが、11月に実施された議会選挙では、連立与党(同首相が党首を務める自由民主党及びキリスト教民主党)は過半数に遠く及ばない結果となった。そのため、新たな連立の組み合わせを巡って各党間で話し合いが行われている。なお、選挙制度改革を巡り12月には国民投票が実施されたが、いずれの改革案も投票総数の過半数を獲得することができず、引き続き議会で検討が続けられることとなった。
 経済面では、94年の高度成長をピークにEU諸国の景気後退等の影響により、95年、96年と経済成長がやや鈍化し、96年はGDP成長率は3%となった。また、EU加盟を念頭に置き、インフレの収束に力を入れ、96年は10%にまで抑えることに成功した(いずれも政府見通し)。
 外交面では、EU、NATO、OECDなどへの加盟を目指す政策を継続し、特にEUとの関係では96年6月に連合協定に署名し、政治対話を含めた幅広い協力関係の構築に向かっている。また、歴史的にイタリア、チェッコ、ハンガリー等の諸国との関係が深く、中欧イニシアティヴ(CEI)や中欧自由貿易連合(CEFTA)を重視している。
 日本との関係では、日本からの技術協力を中心とした経済協力及び文化面での交流が着実に進展している。

[クロアチア]
 95年のクロアチア軍による国内セルビア人支配地域の軍事的制圧の結果、唯一新ユーゴーと国境を接する東スラヴォニアの統合が残された主要懸案となった。同地域には、1月より国連暫定機構(UNTAES)が展開し、復旧・復興、難民・避難民の帰還等を通じた解決が図られている。95年10月の下院選挙の結果、与党のクロアチア民主同盟が過半数の議席を獲得し、国政レベルでは基本的に安定しているが、首都ザグレブでは野党連合が与党を圧し、96年を通じ市長の選出をはじめとした議会の運営は順調に行われているとは言えない。その他、少数民族の人権問題、メディアの自由等の問題で国際社会及び国内野党からの圧力を受けており、97年の大統領選挙及び上院選挙に向けた国内情勢が注目される。経済面では、93年10月より民主化・市場経済化促進を柱とする政策を採用し、国内経済は安定している。実質上の固定為替制度をとっており、インフレ抑制、通貨安定には成功しているが、反面住民は物価高を強いられている。
 外交政策の最重要課題である欧州統合プロセスについては、11月に欧州評議会に正式加盟を果たし、また、CEI及びOSCEにも積極的に参画しており、将来的にはEU及びNATOへの加盟を目指している。経済面では、CEFTA及びWTO加盟に向け努力している。ボスニア和平プロセスについては、95年末に成立したデイトン合意の署名国であり、ボスニア内クロアチア人に対する影響力を通じた和平履行への積極的貢献が期待されている。また、8月に新ユーゴーとの関係正常化に合意し、旧ユーゴー地域の安定に貢献している。
 7月の民間経済ミッションの来訪に見られるように、日本経済界のクロアチアへの関心は高まっている。また同7月、邦人渡航自粛が解除され、人的往来の拡大が期待されている。96年には、超党派の日・クロアチア友好議員連盟を中心とする議員交流が軌道に乗り、また12月にはグラニッチ副首相兼外相が訪日し、伊藤衆議院議長、池田外務大臣、佐藤通産大臣等と意見交換を行った。クロアチア側よりは在クロアチア日本国大使館の開設及びODA供与に対する強い要望が表明された。

[ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(BH)]
 92年4月に勃発したBHにおける紛争は、95年11月、米オハイオ州デイトンにおいて包括的和平合意(デイトン合意)が締結(同年12月パリにて署名)されたことによりようやく終結し、BH連邦とスルプスカ共和国という2つのエンティティから成る国家が成立した。デイトン合意のうち、軍事的側面は、NATOを中心とした和平履行部隊(IFOR)が展開されたこともあり、ほぼ順調に履行されているが、ビルト上級代表が中心に進めている民生部門では、当事者の協力姿勢に問題が見られ、合意の履行は遅れている。特に、難民・避難民の帰還、移動の自由の確保、戦犯容疑者の逮捕及びハーグ国際刑事裁判所への引き渡し等をめぐり問題が絶えず、国家の真の再建には国際社会を含め多くの努力が必要とされている。そのような状況の中、9月14日に国家及びエンティティ・レベルの選挙が無事実施されたことは重要な進展といえよう。選挙後、国際社会の強力な仲介により大統領評議会がようやく成立し、その他の共同国家機構の成立に向けた努力が続けられている。
 国内経済は、約3年半の激しい戦闘の結果、著しく疲弊し、95年の一人当たりGDPは推定200~500ドルまで落ち込み、失業率は9割を越えたといわれており、国際社会による復興支援が行われている。
 BHは国連(92年5月)やIMF(95年12月)等に加盟しているが、現在のBHは、政治的・経済的に国際社会及び近隣諸国に大きく依存しており、独自の外交を展開するには多くの困難の克服が必要である。
 日本は、1月にBHを国家承認、2月に外交関係を開設し、7月には、池田外務大臣がサラエヴォを訪問した。また、日本は、BHの和平履行評議会(PIC)の運営委員会に参加し、復興支援(96年分として少なくとも1.3億ドルの供与を表明)、人道支援(96年分として8,700万ドルを供与)、選挙監視(2名の専門家及び29名の選挙監理要員等の派遣)など、多岐にわたる人的・財政的支援を行っている。

[マケドニア]
 マケドニアは、旧ユーゴースラヴィア地域の和平等の国際環境の好転とともに、外交及び内政面の安定度を増しつつある。内政の不安定材料であるマケドニア人(全人口の67%)とアルバニア人少数民族(同23%)との関係も基本的には良好で、アルバニア人政党は連立政権に参加している。11月には市町村選挙が実施され、都市部においては民族主義政党が票を伸ばしたものの、全体としては国会における与党第1党の社会民主同盟が最多得票を獲得する結果となった。なお、2月には連立与党間の対立から内閣改造が実施され、同第2党の自由党が政権から離脱し、アンドフ同党党首は国会議長を辞任した。
 外交面では、近隣諸国との関係が改善しており、新ユーゴースラヴィアとの間では4月に関係正常化に関する合意を締結し、9月には自由貿易協定を締結した。また、ギリシャとの間では、1月に連絡事務所を相互に開設し、政府関係者や経済関係者の往来が活発化している一方で、懸案のマケドニアの国名問題に関する交渉を国連の仲介で断続的に行っている。国連との関係では、平和維持活動の国連予防展開隊(UNPREDEP)約1200名を引き続き国内に迎えており、地域情勢の安定の維持に努めている。
 他方、経済面では、IMFの主導の下に行われているマクロ経済安定化政策により、インフレ率低下、為替レートの安定化等の成果をあげてはいるが、大企業の民営化の遅れや主要輸出品であった非鉄金属や農業製品の生産及び輸出が伸びず、大量の失業や大幅な貿易赤字といった問題を抱えている。大企業の労働者を中心に賃金の長期未払い問題も解消しておらず、たびたびストライキなどが発生している。
 日本との間では、9月にミトレヴァ議会外交委員長が訪日したほか、11月にはマケドニアに対する初のプロジェクト型無償資金協力(5億5千万円)によるスコピエ大学病院等への医療機材の引き渡しが行われた。