アメリカ合衆国

基礎データ
英語名称:  The United States of America
首  都: ワシントンD. C.(Washington, D. C.)
面  積: 962.8万km2
人  口: 2億6,053万人(人口増加率1.0%)
言  語: 主として英語(法律上の定めはない)
宗  教: プロテスタント60%、カトリック24%、ユダヤ教2%他、その他6%、なし8%
略史:1776年独立宣言、1783年英国が独立を承認、1787年合衆国憲法制定、1789年初代大統領ワシントンの選出・就任、1993年クリントン第42代大統領就任。
政  体: 大統領制、連邦制
大統領: ウィリアム・ジェファソン・クリントン (William Jefferson Clinton)
国務長官: マデレーン・オルブライト(Madeleine Korbel Albright)(97年1月以降)
軍事力: 総兵力148.4万人(陸49.5万、海42.7万、空38.8万)96年予算2,664億ドル
G N P: 67,373.7億ドル[一人当たり25,860ドル]
経済成長率: 2.0%(1995年)、3.5%(1994年)、2.3%(1993年)
物価上昇率: 2.8%(1995年)、2.6%(1994年)、3.0%(1993年)
失 業 率: 5.6%(1995年)、6.1%(1994年)、6.9%(1993年)
通   貨: ドル(1ドル=116.00円)
対日輸入: 127,195百万ドル・自動車・同部品コンピュータ等
対日輸出: 64,298百万ドル・航空機・関連製品コンピュータ等
我が国の政府開発援助: ---百万ドル
    無償資金協力: ---百万ドル
      技術協力: ---百万ドル
     政府貸付等: -----百万ドル
日本からの直接投資: 221億9,312万ドル
在 留 邦 人 数: 263,577名

 96年の米国内政は、大統領選挙を軸に繰り広げられた。
 共和党のドール候補(上院院内総務)は、予備選挙において苦戦を強いられたが、3月中旬には、経験・組織力を背景に指名を確実にし、6月には35年間在籍した連邦議員を辞し選挙運動に専念することとした。一方、クリントン大統領は、年初以降、現職の強みを活かし「大統領らしさ」をアピールしつつ政局運営に当たった。財政赤字縮小や減税を支持し、福祉改革法案に署名する等により「リベラル」との批判を封じると同時に、福祉・教育・環境・犯罪対策等でも共和党側の「過激さ」を強調し、中道穏健路線を堅持するという巧みな選挙キャンペーンを展開した。
 8月の両党大会の後、選挙戦は本格化した。ドール陣営は、一律15%所得税減税案を打ち出し、投票直前数週間は、クリントン大統領の倫理・人格面にも厳しい批判を繰り返したが、クリントン大統領との差は最期まで縮まらなかった。
 11月5日の投票の結果、選挙戦を終始優位に進めてきたクリントン大統領が、民主党の現職大統領としてはフランクリン・ルーズベルト大統領以来の再選を果たした。再選の背景としては、引き続き堅調な経済状況、クリントン陣営の中道路線と巧みな選挙キャンペーン、共和党議会の不人気、ドール候補の盛り上がりに欠けた選挙運営が挙げられよう。
 なお、大統領選挙と同時に行われた連邦議会選挙では、共和党側が苦戦を強いられたが、結局上下両院の多数を維持した。
 クリントン大統領は第2期政権においても、基本的にはキャンペーン中に強調した、医療福祉、教育、環境保全、財政赤字縮小等を中心に中道路線を維持するものと見られているが、憲法で3選が禁止されている中、同大統領が、共和党議会と共存しながら、歴史に業績を残すため如何なる施策を展開するか、その動向が注目される。
 米国経済は、95年末から96年初めにかけて豪雪や政府機関の一部閉鎖の影響もあり減速したが、2月頃から回復し、4~6月期に拡大テンポを強めた後、7月以降には安定的な拡大を示し、91年以降引き続き景気拡大傾向を続けている。
 外交面では、クリントン政権は、これまでの外交成果を米国民にアピールすると共に、種々の困難な対外問題にも着実に対応した。
 イスラエルでの保守派ネタニヤフ政権の登場(6月)で中東和平進展にブレーキが掛かり、サウディ・アラビアでの米軍基地爆破事件も発生(6月)したが、クルド問題を契機としたイラク爆撃(9月)、イスラエル・パレスチナ首脳会合開催(10月)等でリーダーシップを発揮し、国民の広範な支持を得た。また、エリツィン大統領の再選(7月)、米地上軍の安全が懸念されたボスニア統一後初の地方選挙の終了(9月)もクリントン政権の外交政策を助けることとなった。
 アジアに関しては、3月の中台関係緊張時に台湾海峡に空母2隻を派遣、4月のクリントン大統領の日本及び韓国訪問、7月のレーク大統領補佐官の中国訪問が行われ、また、米国大統領選挙の後には、11月中旬のマニラでのAPEC首脳会合出席の際の、豪州・フィリピン・タイ訪問、クリストファー国務長官の中国訪問、ペリー国防長官の訪日等を通じアジア太平洋地域への米国の継続的関与の姿勢を印象づけた。
 クリントン第2期政権においても、引き続きボスニア和平、中東和平等の外交分野で指導力を発揮してゆくと共に、NATO拡大や米中関係改善等にも努力を傾注して行くと見られている。
 日米関係については、1月に発足した橋本内閣は対米関係重視の姿勢を明確に打ち出し、同年1月には池田外務大臣が訪米し、また、2月には橋本総理大臣がカリフォルニア州サンタモニカ市を訪問し、日米首脳会談を行った。
 その後、4月にはクリントン大統領が国賓として訪日し、日米両首脳は2つの共同文書(「両国国民へのメッセージ」「日米安保共同宣言」)に署名した。これによって両国は冷戦終了後の新たな時代における、日米同盟関係の重要性を再確認し、21世紀に向けた日米関係の方向性を打ち出すことに成功した。
 さらに、6月のリヨン・サミット、9月の国連及び11月のAPECフィリピン会合の際にも、日米首脳会談が行われ、両首脳の個人的な関係が深められると共に、緊密な意見交換がなされた。
 日米安保関係では、日米政府間の緊密な対話が実施されている。4月の「日米安保共同宣言」では、日本の防衛及びアジア太平洋地域の平和と安定に対する米国のコミットメントの継続及び日米安保体制の重要性が確認された。また、その際、「日米防衛協力のための指針」の見直し開始について意見の一致を見ると共に、「日本国の自衛隊とアメリカ合衆国軍隊との間における後方支援、物品又は役務の相互提供に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定」が署名される等、日米安保関係の着実な進展が見られた。また、沖縄の米軍施設・区域の問題に関連しては、最大の懸案であった普天間飛行場の返還につき4月に基本的に意見の一致を見、その後の「沖縄に関する特別行動委員会」(SACO)を通じた検討・協議の結果、12月に同委員会の最終報告が閣僚レベルの日米安全保障協議委員会にて了承された。
 経済関係では、96年の日本の対米貿易黒字は3兆5,461億円と、前年比16.7%減という大幅な縮小を記録した。個別分野では半導体、保険、航空、フィルム、港湾運送等の問題が日米間で取り上げられた。それらの問題のうち、半導体及び保険問題については、両国間で決着をみ、フィルムについては、WTOの枠組みの下で協議等が続けられている。航空、港湾運送及びその他の問題については引き続き協議を行う予定である。
 コモン・アジェンダ(地球的展望に立った協力のための共通課題)については、4月のクリントン大統領訪日の際に、自然災害の軽減、テロリズム対策などの新たな協力分野が決定されるなど、順調に進展してきている。