3.地域紛争と日本の取組

   (1) 国連平和維持活動(PKO)

[PKOを巡る議論]
 国連平和維持活動(PKO)は、旧ユーゴーやルワンダへの大規模な派遣の終 了にともない、派遣要員の総数は最大時の約3分の1の2万数千名に縮小し、また96 年に設立された国連PKOはいずれも従来から活動していたPKOを継承す るものだけで、新たな地域に国連PKOは設立されなかった。こうした国連P KOをめぐる環境の変化や旧ユーゴー、ソマリアの国連PKOにおける苦い経 験も踏まえ、現在PKOの量的拡大よりはむしろ質的向上を図る動きが顕著にな っている。
 特に、PKOの緊急展開能力の向上については、顕著な進展が見られている。 従来より存在した国連待機部隊制度は、派遣するか否かの最終的決定権は各派遣国に 委ねられているため、緊急にPKOを展開または拡大する必要がある場合の制約 要因となっていると指摘されているが、こうした問題点を打開するための方策として 登場したのが「緊急展開司令部」構想である。これは、各国から派遣された20~30名 の要員が国連に常駐し、PKOが設立された際には先遣隊として現地入りし、PKO立ち上げのために必要な作業の中核を担うという構想である。また、現在の 待機部隊制度をベースとしつつ展開時間の短縮を意図して構想された「国連緊急即応 待機旅団」も、99年からの本格的運用を目途にして、96年末にカナダ、オランダ、北 欧諸国などの7か国国防相により創設が合意された。
 この他にも、国連においては、PKO地域訓練ワークショップの開催やPKO 教訓ユニットの設立に見られるように、PKO要員の資質の向上や過去のPKOから得られる教訓・反省を今後のPKOに役立てようとする取組が行わ れている。

国連平和維持活動(PK
O)

国連平和維持活動(PKO)

[日本の協力]
 日本は、2月からゴラン高原の国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)に自衛隊 輸送部隊など45名を派遣している。これは、自衛隊のPKOへの派遣としてはカ ンボディア、モザンビークに続き3回目となり、日本としてのPKO参加はアン ゴラ、エル・サルバドルの選挙監視と合わせて5回目の派遣である。UNDOFに 派遣された自衛隊員は円滑に業務を遂行し、その活動振りについては現地司令官を含 む国連関係者及び派遣先国から高く評価されている。

UNDOFに派遣された日本
の部隊を訪問する池田外務大臣(8月)

UNDOFに派遣された日本の部隊を訪問する池田外務大臣(8月)

 また、「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(国際平和協力法)」 は、95年8月に施行後3年を迎えたため、同法附則に基づきいわゆる法律の見直しの 検討作業が開始されており、9月に行われた橋本総理大臣に対する報告では、特に法 改正について早急に結論を出すべき事項として、(イ)武器の使用について指揮官の判 断にかからしめることができるようにすること、(ロ)国連PKOとしての選挙監 視活動に類する国際的な選挙監視活動に対しても円滑・適切な協力が行えるようにす ること(ハ)人道的な国際救援活動に対する物資協力につき停戦合意が成立していない 場合でも実施できるようにすることが挙げられている。関係省庁では過去の教訓・反 省を参考にしつつ、結論を得るべく引き続き検討作業を行っている。

 

   (2) 難民問題

[問題の所在]
 冷戦終結後とりわけ、地域紛争の頻発化に伴い多くの難民が発生していることは、 人道上の問題であると同時に難民流出国や滞留地域全体にとっての重大な不安定要因 であり、世界全体の平和と安定にも影響を及ぼしかねない問題ともなっている。また 、こうした難民の他に近年は紛争等のためにやむなく居住地を離れ流浪する国内避難 民の問題も国際的関心を集めており、これらの人々が他国に流出し難民化するのを防 ぐためにも、国際的な対応を講じるシステムを早急に確立することが必要である。難民・避難民は、政治的、民族的、宗教的対立により発生している という背景もあり、多くの場合二国間援助の対象とはなりにくく、通常、国連難民高 等弁務官事務所(UNHCR)などの国際機関が中立、公正な立場から人道支援を 行っている。しかしながら、難民問題の恒久的解決のためには、こうした人道支援の みならず、政治、軍事、開発などの側面をも考慮した国際社会による包括的な取組を 通じて対策を講じることが必要である。具体的には、政治的紛争解決、PKO等 の軍事的措置、難民の保護・救済を目的とする人道援助活動、さらに帰還及び再定住 を促進するための開発援助(ODA)を総合的に調整し、一体化した施策を打ち 出すことが重要となっている。

世界の難民数の推移

[96年の動き]
 96年現在、世界の難民は約3,000万人存在する。
 5月末にジュネーヴで開催された「CIS諸国等の人口移動等に関する地域会 議」においては、旧ソ連地域に存在する潜在的な難民・避難民などの問題につき予防 外交の観点から討議が行われ、これらの問題への取組の指針となる行動計画が採択さ れた。他方、過去20年以上にわたり懸案であったインドシナ難民問題が終息しつつあ ることに伴い、これまでこの問題の解決のために関係各国及び国際機関が協調して実 施してきた包括的行動計画(CPA : Comprehensive Plan of Action)が6月 末に終了し、難民と認定されないままアジア各国に滞留していたヴィエトナム人ボー ト・ピープルの多くが本国に送還されるに至った。アフリカでは、11月、ザイール内 戦の勃発をきっかけに94年以来同国に滞留していた100万人を越えるルワンダ難民の 多くが帰還を開始し、その後タンザニアに滞留していたルワンダ難民も本国に帰還し 始めている。

[日本の貢献]
 こうした難民問題の恒久的解決を慫慂するためには、帰還難民の再定着などに向け た難民の流出国・流入国を含めた地域全体の取組に対し、国際的な支援を継続するこ とが重要である。
 日本としては、難民・避難民に対する人道援助を国際貢献の重要な柱の一つと位置 づけ、UNHCRを始めとする人道・難民支援関連の国際機関に対する主要拠出国 として積極的な役割を果たしている。また、ザイール東部情勢の悪化により悲惨な状 況に置かれている難民・避難民の支援のため11月中旬に発出された「大湖地域国連統 一フラッシュ・アピール」に対し、総額2,152万ドルの拠出を行ったほか、現地で活 躍する日本のNGOの活動にも支援を行っている。

 

   (3) 中東和平

[和平を巡る動き]

中東和平クロノロジー中東和平プロセスの枠組み

 91年に開始された中東和平プロセスは、パレスチナ暫定自治原則宣言、ガザ・ジェ リコ先行自治合意、イスラエルとジョルダンの平和条約締結、パレスチナ暫定自治拡 大合意などの重要な進展を遂げてきた。95年11月には、イスラエルのラビン首相が暗 殺されるという大きな事件が発生したが、その後も、イスラエル・シリア間の和平交 渉再開、95年12月のジョルダン川西岸主要都市からのイスラエル軍の撤退に続き、96 年1月のパレスチナ評議会選挙とパレスチナ暫定自治政府の成立といった前進が見ら れた。しかし、2月末から3月にかけてエルサレムやテルアビブで発生した爆弾テロ 事件により、治安面に関するイスラエル世論の不信感が高まり、和平プロセスはシリ ア・イスラエル交渉の中断やイスラエルによるパレスチナ自治区への経済封鎖など、 停滞を余儀なくされることとなった。この間も、「平和創設者のサミット」の開催( 3月)、パレスチナ民族評議会によるパレスチナ憲章におけるイスラエル敵対条項の 削除(4月)、最終的地位交渉の開始(4月)といった一定の成果は見られたが、他 方で4月にイスラエル空軍と南レバノンの民兵組織ヒズボラとの戦闘が激化するなど 、予断を許さない状況が続いた。
 5月のイスラエル総選挙では、右派リクード党のネタニヤフ党首が現職のペレス首 相を破り当選したが、新政権は、和平プロセスを進めるとしつつもイスラエルの安全 保障を強調し、パレスチナ独立国家の樹立の否定、入植地の存続、ゴラン高原及びエ ルサレムにおける主権の維持など、それまでの労働党政権と異なる立場を主張したため、和平当事者間の話合いは中断し、和平プロセスは停滞した。9月 下旬には、アラブ側の焦燥感の高まりと封鎖による経済悪化を背景とし、イスラエル によるエルサレム旧市街のトンネル開通問題が契機となって、西岸及びガザの諸都市 でパレスチナ人とイスラエル軍との間で衝突が発生し、双方に多数の死傷者が発生す る事態となった。この事件を受け、クリントン大統領の呼びかけにより、10月にワシ ントンでネタニヤフ首相とアラファト議長の間の首脳会談が行われ、米国の仲介を得 つつ、ヘブロン問題を始めとする暫定自治合意の実施に関する協議が当事者間で行わ れることとなった。(その後、97年1月に交渉がまとまり、いわゆるヘブロン合意が 結ばれた。)

[日本の役割]
 日本としては、中東和平を支える国際的な協力の一翼を担う観点から、8月の池田 外務大臣の中東訪問、9月のアラファト・パレスチナ暫定自治政府長官の招聘、11月 の松永総理特使の派遣により、当事者への和平努力を直接働きかける一方、和平の環 境の整備のために様々な協力を実施してきている。中でも、パレスチナ支援について は、これまで約2億5千万ドル以上(96年末現在)の協力を行っており、また、ジョ ルダンとイスラエルを結ぶシェイク・フセイン橋の建設など、和平当事者への支援を 積極的に進めている。
 また、和平プロセスの進展及び地域の安定に向けた政治的貢献の一環として、1月 にパレスチナ評議会選挙に際し70余名の監視要員を派遣する一方、2月にはゴラン高 原の国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)に自衛隊部隊等を派遣した。さらに、 日本が作業部会の議長を務める環境分野の他、観光、水資源分野などの多国間協議に 積極的に参画するとともに、中東・北アフリカ経済協力開発銀行、中東・地中海観光 協会(MEMTTA)、中東淡水化研究センターの設立にも協力を行った。

 

   (4) 旧ユーゴー問題

[旧ユーゴー和平を巡る情勢]
 91年6月以降、4年余りにわたり紛争が継続した旧ユーゴー地域においては、95年 12月の和平合意署名を経て、96年には、民生面及び平和維持面双方において和平へ向 けての進展が見られた。
 民生面では、最重要課題の一つであるボスニア選挙が、9月14日、民族間の大きな 衝突などのトラブルもほとんどなく概ね平穏裡に終了し、共同国家機構の設立が開始 された。同日に実施予定であった市町村議会選挙は、実施の条件が整っていないなど の理由で二度にわたって延期されたが、12月の和平履行評議会(PIC)ロンド ン会合(日本より高村外務政務次官が参加)において、97年夏までに実施する旨の国 際合意が全当事者を交えて形成された。

ボスニア和平履行メカニズムボスニア・ヘルツェゴヴィナ

 平和維持面では、紛争当事者間の武力の引き離しなどの履行が順調に遵守されてお り、NATOを主体とする和平実施部隊(IFOR)による抑止効果もあって 、ボスニアの軍事情勢は全般的には平穏が維持された。なお、IFORのマンデ ートが12月20日に終了した後も、国際社会として引き続きボスニアに軍事プレゼンス を継続させるという観点から、後継部隊として、約3万1千人規模の安定化部隊(SFOR)が98年6月末までのマンデートの下に展開されることとなった。
 今後は、難民・避難民の帰還・再定住の促進、移動の自由の確保、市町村議会選挙 の実施など、民生面での和平履行における残された重要課題に国際社会がいかに協力 していくかが焦点となる。

[旧ユーゴー和平に対する日本の立場]

旧ユーゴー情勢クロノロジー

 旧ユーゴー和平は地理的・歴史的に欧州に関わりの深い問題であるが、人道的観点 から、また、冷戦終結後の国際秩序の構築にかかわる国際的な課題であるとの観点か らも、グローバルな意味合いを有していると言える。このような立場から、日本は、 96年には、人道・難民支援として、ボスニアを含む旧ユーゴー地域全体を対象に約8, 700万ドルを拠出している。さらに、96年の復旧・復興支援として少なくとも1.3億ド ルの支援を供与する旨、また、96年から99年までの4年間の復旧・復興支援は概ね5億ドル程度となる見込みである旨表明するなど、旧ユーゴー和平を確実なもの とするために積極的な役割を果たしてきた。
 ボスニア和平はようやく緒についたばかりであり、日本は、PIC運営委員会 の一員として、引き続き民生面での和平合意の履行のための国際社会の支援努力に積 極的に参画していく必要がある。

[セルビア地方選挙を巡る情勢]
 11月17日のセルビア地方選挙を巡る混乱が年末には死傷者が出る事態にまで発展す る中、ゴンザレス前スペイン首相を団長とする欧州安全保障協力機構(OSCE )調査団が派遣され、ベオグラードを含む14市とベオグラードの8つの区議会での野 党側の勝利を認定した。欧米主要国は一様に新ユーゴー側に対しOSCE報告の 受け入れと民主的諸権利の尊重を要求したが、新ユーゴー当局は一部での野党側勝利 を認めつつも、基本的には本件は国内問題であり、国内手続きにより規定されるとの 立場を表明しつつ、警察による規制を強化するなど態度を硬化させた(96年12月現在 )。(その後、政府与党は、内外の圧力により、97年2月11日に上記OSCE報 告を受け入れるための特別法を採択し、これによりベオグラードを中心とする都市部 において野党の市長及び野党主導の議会が発足した。)