第1章 国際情勢認識と日本外交の展望 1 情勢認識 現在、国際社会は時代を画する変化の中にある。自由で開かれた安定的な国際秩序の下、中国を始めとする新興国・開発途上国は、グローバル化の恩恵を受けて力を蓄え、存在感を増している。その結果、世界は、米国が圧倒的な政治力・経済力・軍事力により先進民主主義国と共に主導力を発揮して国際社会の安定と繁栄を支える時代から、米中競争、国家間競争の時代に本格的に突入した。 加えて、2022年2月にロシアがウクライナを侵略した。独自の世界観、歴史観に基づき、外国に政策や体制の変更を要求し、それが実現しないと見るや武力を行使して他国の国土に侵攻し、多くの一般市民を犠牲とする深刻な人道上の危機に至る被害を相手国に与え、国境線の変更や自国の勢力圏の拡大を図る。このことは、人類が過去1世紀にわたり築き上げてきた武力の行使の禁止、法の支配、人権の尊重といった国際秩序の根幹を揺るがす暴挙であり、決して許されない。ウクライナへの侵略は、欧州の安全保障の構図を根本的に覆すのみならず、冷戦後の世界秩序を脅かすものであり、歴史の大転機であると言える。 同時に、気候変動、新型コロナウイルス感染症(以下「新型コロナ」という。)、軍縮・不拡散といった地球規模課題への対応や、新型コロナの打撃を受けた経済秩序の再構築は引き続き国際社会の喫緊の課題となっている。国際協力・協調の重要性がこれまで以上に高まっている一方で、こうした分野においても国家間の主導権争いが見られるようになっている。 (1)既存の国際秩序をめぐる動き (ア)透明性を欠く軍事力の強化や一方的な現状変更の試み これまで国際社会の平和と安定を支えてきた法の支配を始めとする国際関係における基本原則が、挑戦を受けるようになってきている。とりわけ、日本の周辺には、強大な軍事力を有する国家が集中し、軍事力の更なる強化や軍事活動の活発化が顕著となっており、日本を取り巻く安全保障環境は格段に速いスピードで厳しさと不確実性を増している。 ロシアによるウクライナ侵略は、武力の行使を禁ずる国際法の深刻な違反であり、欧州のみならず、アジアを含む国際秩序の根本を揺るがす暴挙である。プーチン政権の下でロシアは冷戦後失った勢力圏を取り戻すべく、周辺国の領土の一体性を毀損する動きを積み重ねており、ロシアを取り巻く地域に深刻な懸念を呼び起こしている。 中国は、国防費を継続的に増大させ、軍事力を広範かつ急速に強化・近代化しており、宇宙・サイバー・電磁波といった新たな領域における優勢の確保を目指している。既存の国際秩序と相容(い)れない独自の主張に基づき、東シナ海、南シナ海などの海空域では、力を背景とした一方的な現状変更の試みを継続するとともに、軍事活動を拡大・活発化させており、日本を含む地域と国際社会の安全保障上の強い懸念材料となっている。 また、北朝鮮は、累次の国連安全保障理事会(安保理)決議に従った、全ての大量破壊兵器及びあらゆる射程の弾道ミサイルの完全な、検証可能な、かつ、不可逆的な廃棄を依然として行っていない。北朝鮮は、2021年には関連する国連安保理決議に違反する弾道ミサイル技術を用いた発射を4回行った。2022年に入ってから、北朝鮮は極めて高い頻度で、新たな様態での発射を繰り返しており、1月には立て続けに弾道ミサイルを6回、2月27日及び3月5日には、その最大射程ではなかったもののICBM級弾道ミサイルを発射した。さらに、同月24日には、新型とみられるICBM級弾道ミサイルを発射し、同ミサイルは日本本土から約150キロメートルの排他的経済水域(EEZ)内に落下したものと推定される。このような事態を更に悪化させる弾道ミサイル発射を含め、一連の北朝鮮の行動は、日本、地域及び国際社会の平和と安全を脅かすものであり、断じて容認できない。 (イ)安全保障の裾野の拡大 デジタル化社会への本格的な移行は、安全保障の裾野を従来の伝統的な軍事中心のものから、経済や新興技術分野にまで拡大した。これらは非国家主体をも巻き込んで広がりを見せており、ますます重要なものとなってきている。 第一に、重要・新興技術の保護・育成が国家の安全保障にも大きな影響を及ぼしつつある。5G(第5世代移動通信システム)、AI(人工知能)、IoT(モノのインターネット)、量子技術などの技術革新は、社会や日常生活に本質的な変化をもたらすのみならず、国家の競争力にも直結し、さらには軍民両用技術として軍事力を強化する動きにつながっている。 第二に、グローバル・サプライチェーンの拡大・精緻化に伴い、経済的な依存関係を利用した威圧のリスクが高まっている。恣意的な貿易制限措置は、公正な輸出や輸入にとってのリスクであり、経済安全保障の観点から、国民の生存や国民生活・経済活動にとって重要な物資の安定供給を確保することの重要性が増している。各国は、戦略的自律性や戦略的不可欠性の確保に向け、自由で公正な経済圏の維持・拡大、既存の国際法との整合性なども念頭に置きつつ、経済安全保障上の取組を進めている。また、サプライチェーンの強靱(じん)化に向けて、有志国間の協力を拡大する動きも見られる。 第三に、サイバー空間における悪意のある活動・攻撃や偽情報の拡散による世論の攪(かく)乱・誘導といった新たな脅威が顕在化している。とりわけ、ソーシャルメディアなどを通じて偽情報が選挙に影響を及ぼすことは、民主主義に対する深刻な脅威と認識されている。選挙への直接介入のみならず、日常的な偽情報への暴露が国民の正常な意思決定を阻害する危機感から、民主主義社会において対策が進められている。 第四に、国際的なテロの脅威も引き続き深刻な状況にある。新型コロナの長期化による格差・貧困の拡大、人種民族問題の顕在化による社会的分断は、テロや暴力的過激主義の拡大リスクを高めている。また、インターネットやSNSへの依存が高まる中で、これらを悪用した過激思想の拡散やテロ資金の獲得といった問題も生じている。 (ウ)普遍的価値への挑戦 現在の国際社会の繁栄と安定の基礎を提供してきた自由、民主主義、人権といった普遍的価値も課題に直面している。グローバル化に伴う格差や貧困といった問題が拡大する中、急激に進展するデジタル化は、生活の利便性の向上に大きく貢献した一方、こうしたグローバル化の負の側面を加速化する結果も生み出すとともに、それと知らないままに人々をバイアスのかかった情報にさらし、イデオロギーに基づく世論の分断を助長している側面もある。 (エ)地球規模課題への対応をめぐる動き 気候変動を始めとする地球規模課題の深刻さは国際社会に共有され、多国間協力による解決に向けた努力が続いている。気候変動は、今後長期にわたり国際社会の政治的・経済的リソースが注がれ、イノベーションや経済成長の中核ともなり得る分野であることから、国際的な規範・規格の形成、あるいは投資環境整備などでの主導権をめぐり、主要国間の競争も加速している。10月31日から開催された国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)では、パリ協定のルールブックが完成に至ったが、2週間にわたり厳しい交渉が行われた。 新型コロナ対応をめぐっては、COVAXファシリティを通じた低所得国などへのワクチン供給が2022年1月に10億回分に達するなど、ワクチンへの公平なアクセスに向けた国際協力が進んでいる。同時に、新型コロナへの対応の中で、世界的な感染症拡大のような喫緊の地球規模課題への対応が、国際社会における各国の政治的発言力・影響力を左右するようにもなっている。 (2)社会・経済的変動と外交 (ア)国内の社会様相と外交 上述のとおり、世界の繁栄を支え、新興国の台頭の背景にもなってきたグローバル化は、一方で、各国国内で格差や貧困の拡大といった負の現実をもたらした。グローバル化の恩恵を十分に受けていないと感じる国民層の不満は、イデオロギーにも触発された敵味方の二分論を生み出しつつ、各国内の分断を深刻化させている。また、長期化する新型コロナの流行により、反グローバル化に端を発する内向き志向が、一層力を増している。デジタル化の恩恵により人々の生活の利便性が高まり社会の価値の多様化が進む一方、大量の情報の中で人々の確証バイアス1が高まり、社会における寛容性が小さくなったとも言われている。こうした国内の社会様相は、外交政策の形成過程や政策に関するコンセンサス形成にも、これまで以上に影響を与えている。 新型コロナからの回復、さらには国内の分断の克服に向け、各国では相次いで新たな国内経済政策が発表されている。米国では、超党派のインフラ投資・雇用法が11月に成立し、また社会保障・気候変動関連歳出法案である「より良い回復(Build Back Better)」法案についても引き続き議会内で調整が続いている(2022年3月現在)。また、EUも1月から、新型コロナ後の経済復興計画である「次世代のEU」(復興基金)の運用を開始した。こうした新たな政策が、各国の社会様相、さらには外交政策にいかなる影響をもたらすのか、今後の動向が注目される。 (イ)経済秩序の再構築 新型コロナにより大きなダメージを受けた世界経済は、2020年の3.1%のマイナス成長から、2021年は5.9%のプラス成長見込み(いずれも国際通貨基金(IMF)発表)に転じるなど回復の兆しが見られた。しかし、引き続き、新たな変異株への懸念などの不確実な要素があり、また国・地域によっても回復状況が大きく異なるなど、予断を許さない状況にある。 新型コロナの影響で顕在化したサプライチェーンの脆(ぜい)弱性は、経済回復の遅延要因となるばかりでなく、必需品の国内確保を優先する各国による一方的な貿易制限措置を助長している。 デジタル分野や気候変動対策分野といった、世界経済成長を牽(けん)引する、新たな成長市場の出現は世界経済にとっての希望である一方で、対処すべき課題も明らかとなっている。デジタル分野においては、その潜在力を十全に活用するために、「信頼性のある自由なデータ流通(DFFT)」の実現に向けた国際ルール作りや、リスク管理としてのサイバーセキュリティ対策が急務となっている。また、脱炭素社会への移行を新たな経済機会とするための政策転換が各国で進む中、必要となるエネルギー・鉱物資源の安定的な確保を始めとする課題も顕在化している。 1 確証バイアス:ある仮説を検証する際に、多くの情報の中からその仮説を支持する情報を優先的に選択し、仮説を否定する情報を低く評価あるいは無視してしまう傾向のこと(出典:時事用語辞典)