【日・ASEAN関係】  日本とASEANは、30年の友好協力の歴史に培われた、互いに相手を必要とする「共に歩み、共に進む」重要なパートナー同士となっている。貿易、投資及び経済協力の面においても、日本はASEANにとり最重要のパートナーであり、日本にとってもASEANは最も重要な貿易・投資パートナーの一つである。このような関係を背景とし、日本は2003年12月に日・ASEAN特別首脳会議を開催し、将来の日・ASEAN関係の方向性を示す東京宣言と、約120にも及ぶ具体的な措置を定めた行動計画を発出した。  2004年11月の日・ASEAN首脳会議の際には、日本は行動計画に盛り込まれた措置の着実な実施を確認する日・ASEAN行動計画進捗報告書を提出するとともに、2004年4月にASEANとの間で包括的経済連携の締結に向けた交渉を開始することに合意し、人材育成・メコン地域開発等への着実な実施を示した。さらに、国際テロリズムとの闘いにおける協力に関する日・ASEAN共同宣言(168ページ参照)を発出した。また2005年1月6日に行われたスマトラ島沖大規模地震及びインド洋津波被害に関するASEAN緊急首脳会議(22ページ参照)の際には、小泉純一郎総理大臣が出席し、「アジアの人々の痛みは我々の痛みであり、アジアにおける大災害は我々自身の問題でもある」として、インドネシア、スリランカ、モルディブの各被災国に対し、当面5億ドルを限度とした支援を無償で行うことや、国際緊急援助隊、自衛隊を活用した支援活動の実施など、資金、知見、人的貢献の三点において最大限の支援を行うことを表明した。 <インドネシア>  2004年4月に総選挙が実施され、新たに地方代表議会が創設されるとともに、国会ではスハルト旧政権時代の与党であるゴルカル党が第1党、メガワティ大統領率いる闘争民主党が第2党となった。7月に行われた大統領選挙では、上位2組による9月の決選投票の結果、スシロ・バンバン・ユドヨノ候補(前政治治安担当調整相)が約6割の票を獲得、現職のメガワティ大統領を破り当選し、10月20日、第6代大統領に就任した。今回の大統領選はインドネシア史上初めて国民の直接投票によって実施され、ユドヨノ大統領は経済の低迷等、メガワティ政権に失望した多くの国民の支持を受けて当選した。ユドヨノ新政権は発足以来、地方紛争や汚職、テロへの対策(注43)等に政策の重点をおく一方で、投資環境の整備(インフラ整備、法制度整備等)を急務の課題として取り組む姿勢を示している。日本はこれら一連の選挙を支援するとともに、11月のチリでのAPEC首脳会議の際に行われた日・インドネシア首脳会談において、経済協力、投資環境の整備等、二国間の関係強化につき幅広い意見交換を行った。また、12月に発生したスマトラ沖大地震の災害に対しても、日本は積極的に支援を表明し、これを実施してきている。 <カンボジア>  カンボジアでは、2003年7月の国民議会(下院)選挙以来、新政権が成立しない状態が続いていたが、2004年7月、フン・セン首相を首班とする第3次連立内閣が発足した。また、同年10月には、シハヌーク国王が引退し、子息であるシハモニ国王が新たに即位した。  1975年4月から79年1月の間カンボジアを統治し自国民の大量虐殺を行ったクメール・ルージュ(KR)の犯罪を国連の協力による国際水準の審判に付すためのKR裁判の実施が長年の課題となっていたが、11月、カンボジア政府と国連事務局の間の裁判設立に関する「合意文書」の批准が完了し、KR裁判を実施できる条件が次第に整ってきた。  また、国際的には、10月にWTO加盟を果たし、同月アジア欧州会合(ASEM)への加盟も承認された。  日本との関係では、5月に田中和徳外務大臣政務官(当時)が、同9月に阿部正俊外務副大臣(当時)がそれぞれ同国を訪問し、同年8月にはキュー・カニャリット情報大臣が鈴木善幸元総理大臣の葬儀への特使として来日している。 (表記注:田中和徳外務大臣政務官(当時)の徳の文字はCDROM本文中の表記が正しい表記である) <シンガポール>  8月、リー・クァンユー元首相の長男リー・シェンロン前副首相が首相に就任し、新政権が発足した。経済面では、中国・インドが台頭する中、地域における国際競争力、エレクトロニクス、物流、通信等の知識集約型産業のハブ機能を維持・強化すること、また、内政面では少子化対策が新政権の課題として挙げられている。外交面では日本・米国・中国との関係において、適切なバランスを維持することに努めつつ他のASEAN諸国やインドとの関係強化にも配慮するという従来の基本政策を踏襲する見込みである。日本との関係では、リー・クァンユー上級相(当時)及びトニー・タン副首相が訪日した。日本からは、谷垣禎一財務大臣、茂木敏充IT等担当大臣(当時)、中川昭一経済産業大臣、石原伸晃国土交通大臣(当時)、森喜朗前総理大臣がシンガポールを訪問した。 <タイ>  タイでは、2004年初めから最南部の治安が悪化、年間を通じて多数の犠牲者を出した。また、鳥インフルエンザが発生するなど、様々な問題に直面してきたが、高い経済成長を背景に、タクシン政権は依然として高い支持率を保っている。外交面では、タイは各国とのFTAの推進、周辺国との経済格差の是正に積極的なイニシアティブを打ち出している。日本との間では、日タイ経済連携協定(JTEPA)の早期締結を目指して交渉が開始された(201ページ参照)。また6月にはスラキアット外相が訪日し、川口順子外務大臣(当時)と会談を行うなど、閣僚レベルでも緊密な往来があった。2004年12月にはスマトラ島沖大地震によるインド洋津波が、プーケットなどのアンダマン海沿岸に多大な被害を及ぼしたため、日本はタイに対し、国際緊急援助隊の派遣等の支援を行った。 <東ティモール>  東ティモールの国づくりを支援する国連東ティモール支援団(UNMISET)(注44)の任期は2004年5月に終了する予定であったが、東ティモール政府の意向を尊重する形で「定着フェーズ」(注45)として、同年5月及び11月にそれぞれ半年間ずつ延長され、2005年5月まで継続することとなった。内政・治安とも比較的落ち着いていたが、外交面では、インドネシアとの間で、国境の確定、避難民の帰還、過去の人権侵害問題への対応など依然課題が残るほか、国家財政上期待されているティモール海の石油・ガス田の開発を巡り、オーストラリアとの間で交渉が継続されている。日本との関係では、2004年1月、在東ティモール日本大使館が公式に開館し、特命全権大使が派遣され、2月には、逢沢一郎外務副大臣が東ティモールを訪問した。東ティモールからは、シャナナ・グスマン大統領が2004年2月と12月に訪日し、小泉総理大臣と首脳会談を行うなど二国間関係の強化が図られた。なお、2002年2月からインフラ整備等の後方支援業務のためUNMISETに派遣されていた自衛隊は、任務を終了し、2004年6月に撤収した。 <フィリピン>  2004年5月に大統領選挙が行われ、現職のアロヨ大統領が当選した。アロヨ大統領は、引き続きイスラム勢力や共産主義勢力といった反政府勢力との和平交渉に取り組むとともに、財政赤字問題を緊急かつ最大の課題と位置付け、税制改革や徴税能力の強化のための諸改革を断行する姿勢を示している。日本との関係では、同年6月、川口外務大臣(当時)が大統領就任式典に出席したほか、フィリピンからは10月、ドリロン上院議長が参議院議長の公式招待により来日した。日・フィリピン経済連携協定については、2月からの交渉の結果、11月の首脳会談において物品の貿易、サービス貿易、投資、人の移動、協力等の分野につき大筋合意に達したことを確認した。  米国との関係では、7月のイラクにおけるフィリピン人労働者の人質事件とこれを受けたフィリピン人道支援部隊の撤退により、一時、比米関係の悪化が指摘された。 <ブルネイ>  2004年はブルネイの独立20周年に当たり、2月の独立記念日にはブルネイにおいて華やかな記念行事が実施された。政治面では、9月、1984年の独立以来解散されていた立法評議会が開かれた。経済面では、従来進められてきた経済多様化に向けた石油・ガス川下産業開発プロジェクトにおいて、受注企業が指名される等具体化しつつある。日本との関係においては、国交樹立20周年に当たることから、5月にはブルネイ大使館が実施した日・ブルネイ国交樹立20周年記念式典開催に合わせ、渡部恒三日本ブルネイ友好促進議員連盟会長がブルネイを訪問し、国王等と会談を行った。また、9月にはビラ皇太子の結婚式が盛大に行われ、日本からも皇太子殿下が出席された。ブルネイからは、12月、モハメッド・ボルキア外相が非公式に来日し、町村信孝外務大臣と会談し、二国間関係の強化が図られた。 <ベトナム>  ベトナムは、近年、国際社会における役割を向上させていることが注目される。例えば、2004年10月にはASEM第5回首脳会議(ASEM5)を主催し、2006年にはAPEC首脳会議を主催することになっている。日本との関係では2004年6月にカイ首相の訪日、7月には川口外務大臣(当時)のベトナム訪問、10月には小泉総理大臣のASEM5への出席、町村外務大臣のベトナム訪問など要人の交流が活発に行われた。川口外務大臣はベトナムに訪問した際に、二国間の現状と将来像に関する「日本−ベトナム社会主義共和国外相共同声明・不朽のパートナーシップの新たな地平へ向けて」(注46)をニエン外務大臣との間で署名した。経済は引き続きGDPにおいて7%以上の成長を続けており、各国からの投資も増加してきている。日本からの投資も倍増しており、2004年12月に発効した日越投資協定がベトナムの投資環境改善にさらに貢献することが期待されている。 <マレーシア>  マレーシアでは、2004年3月にアブドゥラ首相就任後初となる総選挙が実施され、与党連合(国民戦線、BN)が下院議席の90%を獲得して圧勝を収めた。国民からの信任を得たアブドゥラ首相は、総選挙後速やかに内閣改造及び省庁改編を行う一方、引き続き、汚職への対策強化、行政の透明化改善、農業振興等に優先的に取り組むなど、好調な経済状況にも支えられて堅調な政権運営を行った。外交面では、特にOIC(イスラム諸国会議機構)の議長国として、イラク情勢やパレスチナ情勢の現状について、欧米諸国の対応を批判する一方、自国の経験に基づきイスラム社会の近代化の必要性を訴える等、積極的な動きを見せた。日本との関係では、6月にアブドゥラ首相が訪日し、小泉総理大臣と会談を行ったほか、1月より経済連携協定締結交渉(201ページ参照)が開始され、11月までに計6回の交渉が行われた。 <ミャンマー>  2004年1月以降、ミャンマー政府は、同国最大の少数民族武装勢力であるカレン民族同盟(KNU)との和平交渉を開始、同年5月には約8年振りに国民会議が再開される(その後、同年7月に休会に入り、2005年2月に再開予定)など、民主化に向けた一定の動きが見られた。  2004年10月、キン・ニュン首相が更迭され、ソー・ウインSPDC第一書記が首相に就任した。ミャンマー政府は、首相交代後も、国内外の政策に変更はなく、今後も民主化に向けた7段階のロードマップに基づき民主化プロセスを進めていく旨様々の場で発表している。また、ミャンマー政府は、同年11月以降、政治犯を含む囚人の釈放を順次発表した。(同年12月末時点で、合計14,318名が解放された。)  一方、国連をはじめとする国際社会のミャンマー政府に対する強い働きかけにも関わらず、2003年5月に拘束され、同年9月以降、自宅軟禁下にあるアウン・サン・スー・チー女史の解放やNLDの国民会議への参加は未だ実現していない。  日本は、今般の首相交代によりミャンマーの民主化が遅れることがあってはならないと考えており、スー・チー女史を含む全ての関係者が関与した形での民主化プロセスの具体的進展を求め、ASEM首脳会合の際の日・ミャンマー外相会談(10月)、日・ASEAN外相会合の際の外相会談(11月)、ASEAN+3首脳会議の際の首脳会談(11月)等の機会を捉え、ミャンマー政府への働きかけを積極的に行っている。 <ラオス>  ラオスでは、2004年1月にビエンチャン市内で鳥インフルエンザの感染が確認されたため、日本は、緊急的措置に必要な機材、専門家の派遣について二国間技術協力を行うとともに、国連食糧農業機関(FAO)との共同プロジェクトを通じた支援を実施した。6月にメコン河委員会事務局が加盟国間の合意に基づきプノンペンよりビエンチャンに移転し、同委員会はラオスに事務局を置く初めての地域国際機関となった。ラオスは7月からASEAN議長国となり、11月にASEAN+3首脳会議等を成功裡に主催した。また、10月にはラオスのASEM加盟が正式に承認された。日本との関係では、1月にブアソーン副首相が訪日し、また、3月に南部サバナケット県で日本の円借款で建設されるメコン第二国際架橋の起工式が開催され、日本から荒井正吾大臣政務官が出席した。11月のASEAN+3首脳会議等の機会には、日ラオス首脳会談、日CLV(カンボジア、ラオス、ベトナム)首脳会議及び日ラオス外相会談等が行われ、小泉総理大臣はブンニャン首相に対しラオスの「メコン地域電力ネットワーク整備計画」に対し円借款を供与する旨表明した。 ▲メコン第二国際架橋の起工式に出席した荒井外務大臣政務官(左端)、ブンニャン・ラオス首相(左から2番目)、タクシン・タイ首相(前列右から2番目)(3月)