第2章 地域別に見た外交 第5節

(注1) 6月のシーアイランド・サミットの際の日露首脳会談、同月の川口順子外務大臣(当時)の訪露、11月のチリAPECの際の日露首脳会談及び外相会談等が挙げられる。

(注2) 日本側の座長は森喜朗前総理大臣。第1回会合を4月にモスクワにて開催。

(注3) 中央アジア諸国は、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタンの5か国、コーカサス諸国は、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニアの3か国を指す。

(注4) 1855年、当時の江戸幕府と帝政ロシアとの間で日魯通好条約(通称下田条約)が調印され、2005年はその調印から150周年にあたる。

(注5) ソ連のサンフランシスコ平和条約の署名拒否を受け、1955年6月から1956年10月にかけて、日ソ間で個別の平和条約を結ぶために交渉を行ったが、色丹、歯舞諸島を除いては、領土問題につき意見が一致する見通しが立たなかった。そのため、10月19日、日ソ両国は、戦争状態の終了、外交関係の回復等を定めた日ソ共同宣言に署名した(両国の議会で批准された条約)。同条約第9条において、歯舞・色丹の二島が平和条約締結後に日本に引き渡されること、及び日ソ両国が引き続き平和条約締結交渉を継続することが規定されている。

(注6) プーチン大統領は、12月23日の内外記者会見においても記者の質問に答え、北方領土問題について要旨以下のとおり述べた。
 日本との関係は非常にうまく発展しているが、今まで平和条約の問題が解決していない。関係発展を阻害するあらゆる問題は「除去する」ことが両国の国益に適う。ラヴロフ外相は、島々を(引き渡すことを)提案した訳ではない。日本が1956年宣言を批准したにもかかわらず、四島を望むのは幾分不可解である。同宣言第9項には、平和条約の署名が二島引渡しの条件であると書かれており、これにて全ての領土紛争が解決されると明確に解釈される。

(注7) 1993年の東京宣言のポイント
 1)領土問題を、北方四島の島名を列挙して、その帰属に関する問題であると位置付けたこと。
 2)四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結し、両国関係を完全正常化するとの手順を明確化したこと。
 3)領土問題を、(i)歴史的・法的事実に立脚し、(ii)両国の間で合意の上作成された諸文書、及び(iii)法と正義の原則を基礎として解決する、との明確な交渉指針が示されたこと。
 4)ロシアがソ連と国家としての継続性を有する同一の国家であり、日本とソ連との間のすべての条約その他の国際約束は日本とロシアとの間で引き続き適用されることを確認したこと。
 ⑤「全体主義の遺産」「過去の遺産」の克服という考え方が謳われたこと。

(注8) 日本からは、経団連日本ロシア経済委員会等の民間経済団体のミッションが多数訪露し、ロシアからも、キリエンコ・沿ヴォルガ連邦管区大統領全権代表他の訪日に多数の企業関係者が同行し、日露のビジネス関係者の間で今後の協力につき具体的な話し合いが行われた。

(注9) 2003年1月に小泉総理大臣が訪露した際、プーチン大統領との間で首脳会談を行い、日露両国間の幅広い分野でのこれまでの協力と今後の方向性をとりまとめたもの。「平和条約交渉」、「政治対話の深化」、「国際舞台における協力」、「貿易経済分野における協力」、「防衛・治安分野における関係の発展」、「文化・国民間交流の進展」の6つの柱から成っている。

(注10) このほか、オゼロフ連邦院議員一行、ペトレンコ連邦院議員一行が訪日。

(注11) 1998年11月のモスクワにおける日露首脳会談(小渕恵三総理大臣(当時)、エリツィン大統領(当時))での日露間の国民レベルの人的交流の抜本的な拡充をすべきとの合意を受けて、1999年3月に行政取極に基づく国際機関として日露青年交流委員会が設立され、同年5月に東京に事務局として、日露青年交流センターが設立。日露青年交流委員会による交流事業は、(1)招聘・派遣事業、(2)若手研究者フェローシップ事業、(3)日本語教師派遣支援事業の3つを主な事業として、1999年7月の事業開始以来、2004年12月末までの間に1,571名の交流事業を実施。

(注12) CIS:旧ソ連諸国のうちバルト3国を除いた12か国が参加する国際機関。