IV.欧州

(1)内政

 94年のロシアの政局は、93年12月の国民投票・議会選挙の結果成立した新憲法・新議会の枠組みの下で、全体的には安定を保って推移したが、秋口からやや波乱含みの情勢となり、12月にはチェチェンへ軍部隊が導入され、95年に向けて複雑な状況が醸成されることになった。
 2月にはエリツィン大統領は新議会に対し年次教書を送付し、国家体 制の強化、犯罪との戦い、改革推進などを含む内外政策の基本方向を明らかにした。4月には、三権の機関、連邦構成主体、諸政党により「社会的合意に関する協約」が署名され、国民和解をスローガンにロシア国内の政治休戦を図る試みが行われた。大統領と議会の関係は、93年10月までの旧最高会議と大統領の関係に比較してはるかに良好なものとなり、議会制度が漸次根付いてきた。
 内閣については、その実務化・官僚化の傾向が見られた。1月、ガイ ダール第一副首相、フョードロフ蔵相ら急進改革派の閣僚が相次いで閣 外に去り、一方、チェルノムィルジン首相をはじめとする実務派がその まま閣内に残った。エリツィン大統領は更に11月、「暗黒の火曜日」(10月11日のルーブル暴落)を奇貨として内閣改造を行い、政党色の薄い実務的な人材を起用した。
 諸政党と大統領の関係に関しては、大統領の政治力の基盤であった民主主義諸政党は、ガイダール党首率いる「ロシアの民主的選択」が一貫して大統領支持の姿勢を保持したほか、他の民主主義政党も時に政府批判を交えつつも大統領との対立関係に入ることは避けてきたが、12月のチェチェン問題の処理をめぐってこれらの政党による批判が高まることとなった。
 エリツィン大統領は特定の党派を支持基盤として依存することを避 け、国民の大統領としての地位を保つことに努め、同時に改革路線の続行をうたいつつ、おおむね安定した立場を維持してきている。しかし、その反面、ロシア国内には生産の低下、債務未払い、インフレ懸念、失業の増加など一連の経済・社会問題が山積している。
 このような中で、エリツィン大統領は12月、過去3年間ロシア連邦か らの独立を主張してきたドゥダーエフ大統領の率いるチェチェン共和国に対し、憲法秩序の回復を目指してロシア軍を投入した。この作戦は民間人を含む多くの犠牲者を出したことから内外の批判を浴びることとなり、チェチェン問題は、今後のロシア情勢に大きな影響を与える見通しとなった。
 経済面では93年12月の新議会選挙後、チェルノムィルジン首相は「急進的」経済改革を批判し、国際金融機関及び西側先進諸国との協調を図りつつ緩やかな緊縮財政を実施した。この政策の特徴は、緊縮的予算を組みながらも断続的に国内企業に対する融資や特典の供与が行われたことにある。こうした経済政策の下でロシア経済は、94年前半には、生産、雇用の悪化、債務未払いの拡大が生じたが、一方で急速なインフレ率の 低下とこれに伴う国内貯蓄の増大、安定的な為替の下落など、一定の改善傾向が見られた。しかし、後半に入ってからは、財政支出の拡大等を背景に9月のインフレは月率7.2%に上昇、更に為替市場への投機的活動が活発化し、10月11日にはルーブルが大暴落した(「暗黒の火曜日」) 結果、10月以降インフレ率は上昇を続けている(12月16.4%)。また、12月に発生したチェチェン紛争もロシア経済に影響を与えている。
 94年の経済実績については、対前年比で工業生産21%減、農業生産9% 減、物価3.2倍(対94年12月の前年同月比)、国民総生産15%減となった。失業者は、11月末現在で公式登録者数が160万人、失業率は2.1%であるが、潜在的失業者は1,010万人(労働人口13.5%)に達している。対 外経済面では、198億ドルの貿易黒字(対CISは除く、1-11月)を計 上している一方で対外債務が拡大している。

(2)対外関係

 2月のエリツィン大統領の年次教書は、国際協調を基調としつつも、 大国ロシアとしての主張を前面に押し出す外交に転換していくことが必要であると強く訴えた。対米関係に関し、1月のクリントン大統領の訪露、9月のエリツィン大統領の訪米等を通じ、ロシアは、露米両国が対等な関係にあることを確認し、また、6月のNATOとの「平和のため のパートナーシップ」(PFP)枠組み協定の署名、EUとの協力協定の署 名、7月のナポリ・サミット政治問題の討議へのエリツィン大統領の出 席等を通じ、先進主要国との一層の関係発展に努めた。同時に、米国等における貿易・経済分野でのロシアに対する差別的措置の撤廃を求める等の主張を強く展開した。
 また、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争、対イラク制裁解除問題、北朝鮮核開発問題等の主要な国際問題において、先進主要国とロシアとの間で立場や見解の相違が次第に目立つようなった。ロシアは、12月初頭の国連安保理におけるボスニア問題の審議において、旧ソ連時代以来初めての拒否権を行使した。さらに、NATO拡大問題をめぐり、当初12月初頭に予定されていたロシアによるPFP協力関連文書等の署名が中止された。ロシアは、6月の金泳三(キムヨンサム)韓国大統領、ラオ・インド首相、9月の江沢民(コウタクミン)中国国家主席によるロシア訪問等を通じ、アジア諸国との間でも関係の発展、とりわけ経済関係の拡大に努めている。また、6月にはマレイシアに対するロシア製戦闘機売却契約が締結されるなどロシアは国際的な武器市場への参入に関心を高めている。
 CIS諸国及びバルト諸国との関係は、ロシア系住民の人権、ロシアへ の紛争拡大阻止、国境線の維持等の観点から重要課題の一つであると位置付けられている。隣国ウクライナとの間では、1月のロシア、米国、ウクライナ3か国首脳会談等を通じ核兵器問題の解決が図られたが、黒海艦隊の分割に関する交渉が妥結しておらず、エリツィン大統領のウクライナ訪問が実現していない。トランス・コーカサス及び中央アジア地域に関しては、グルジア内アブハジア紛争、ナゴルノ・カラバフ紛争及びタジキスタン国境周辺の紛争について、ロシアは外交的ないし軍事的に関与している。バルト諸国との関係については、ロシア軍の撤退が完了した。8月末のドイツからの最後のロシア軍部隊の撤退とあわせ、欧州方面においては戦後49年を経てロシア軍の撤退が終了した。

 

(3)日本との関係

 過去1年間、日本側は、93年10月のエリツィン大統領訪日の際に合意 された東京宣言及び経済宣言に依拠しつつ、両国関係を均衡のとれた形で拡大することに努め、特に両国間の最大の懸案である北方領土問題の解決に向けて努力した。3月の羽田副総理兼外務大臣の訪露では、日露双方は、エリツィン大統領訪日後の政治対話のモメンタムを維持するとともに、東京宣言を基礎として両国関係を更に進めていく決意を確認した。
 11月末から12月初めには、サスコベッツ第一副首相が訪日し、東京宣言なかんずく、第2項に依拠しつつ平和条約を早期に締結するために更に一貫して前進していく両国の意図が確認された。また、両国の副首相クラスを議長とする貿易経済に関する日露政府間委員会の設置に合意するなど経済面でも進展があった。
 94年(1-9月)の日露貿易は往復総額で32.9億ドルとなり、前年同 期比5.5%の伸びとなった。対露輸出は、ロシアの経済状況、円高等を反映して16.0%減少し9.2億ドルとなった。一方、対露輸入は17.1%増 の23.7億ドルとなった。日本からの対露投資については、ロシア側資料 によれば、ロシア国内の日露合弁企業の数は94年6月末時点で268件と されている。
 日本は94年においても、民営化、金融システム等の分野における人材育成を目的とする日本経営教育センターや、極東、東シベリアの中小企業育成のための地域企業基金の設置などの技術支援を中心に、ロシアの民主化、市場経済化を促進するための支援を継続した。
 93年10月にロシアが日本海において放射性廃棄物の海洋投棄を行ったため、日本側はその即時停止を申し入れるとともに、日露間でこの問題に関する協議が続けられた。その結果、両国は、日露核兵器廃棄協力の資金の一部を利用し、低レベル液体放射性廃棄物の貯蔵・処理施設の建設につき協力することで意見の一致を見ている。また、94年3月から4月にかけて、日本海の露側投棄海域における放射能調査が韓露共同で実施されたが、船上で放射能の簡易測定を実施した結果、特段の異常は認められなかった。
 94年は、北方水域におけるロシア国境警備隊による日本漁船に対する発砲・拿捕事件が相次いだ。前述のサスコベッツ第一副首相の訪日の際、日露双方は、かかる状況の改善を目指し、双方にとって受入れ可能な合意を達成すべく、北方四島周辺水域における漁業分野における協力のための枠組みを設定するための交渉を開始することで合意した。なお、別途、例年の日露さけ・ます交渉及び日露200海里交渉が行われた。
 10月4日の北海道東方沖地震は北方四島にも甚大な被害を及ぼした が、日本側は、人道的観点から、二度にわたる緊急人道支援を実施し、 官民あわせ総額約1.5億円相当の援助物資を被害住民に対し提供した。

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