IV.欧州
(1)クロアチア
クロアチアは、セルビア人居住区の実効的支配を喪失したままであり(いわゆるクライナ問題)、国内の不満が大きい。94年3月にはクロアチア政府と「クライナ・セルビア人共和国(RSK)」間で停戦合意が成
立したものの、その後交渉は一向に進展を見なかった。12月に入り国連及びEUの仲介によって経済分野での合意が締結されたとはいえ、双方の主張の隔たりは依然大きく、根本的解決にはまだ時間がかかる見通しである。
外交面では、1月に新ユーゴーとの関係正常化に向け交渉を開始し、
4月にボスニア共和国との国家連合条約を締結するなどの動きがあった
が、いずれも旧ユーゴー紛争を打開するには至っていない。独立前後の
戦闘、及びその後の戦争政策遂行のため著しく悪化していた経済状態は、93年10月以降の経済再建策によりやや回復、インフレが鎮静化したのを受け、94年6月より新通貨クーナが導入された。94年後半以降経済は安定的に推移している。
(2)スロヴェニア
独立後3年を経て、スロヴェニアは旧ユーゴー紛争の直接の影響を受けることなく独自の道を歩み続けている。しかし内政面では4党連立政権内の不協和音が表面化し、独立時の指導者であるヤンシャ国防相やペテルレ外相が相次いで辞任した。
外交面では、「平和のためのパートナーシップ」(PFP)への参加、EU
との連合協定など西欧への接近を目指す外交を継続しているが、イタリアとの関係でイストリア半島の旧イタリア系住民の財産権問題が障害となってEUとの連合協定は未締結のままとなっている。また、クロアチアとの関係でもピラン湾をめぐる国境確定が問題となっている。
経済は独立当時の困難を克服、93年に独立後初めて成長率がプラスに転じ、失業率も低下した。94年の成長率は4%を越えると予想され、今後の見通しは明るい。
(3)ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(注1)
92年春に始まったボスニア・ヘルツェゴヴィナ(以下ボスニア)紛争 は94年中も解決を見ず、このため避難民・被災民の発生、それに伴う国際的人道援助活動、国連保護隊(UNPROFOR)の展開が継続した。ボ スニアではイスラム教徒、セルビア人、クロアチア人の3民族が内戦を 繰り広げているが、94年3月、米国の仲介によりイスラム教徒とクロア チア人の間で連邦の創設が合意され(ワシントン合意)、イスラム教徒・ クロアチア人対セルビア人という二極対立の構図がほぼ出来上がった。4月、紛争解決を目指す欧米5か国(米、露、英、仏、独)は「コンタクト・グループ」を結成した。同グループは7月、ボスニアの一体性を保ちつつもイスラム教徒・クロアチア人とセルビア人の支配地域を51:49に分割するという和平案を提示したが、ボスニアの7割を事実上支配するセルビア人側は同和平案を拒否し、その後和平交渉は暗礁に乗り上 げた形となった。12月に至り、カーター元米大統領が紛争当事者間の調 停に乗り出し、停戦についての原則合意の取付け等にこぎ着け、これをフォローアップする形で、UNPROFORの仲介により95年1月1日から4か月間の敵対行為停止についての合意が成立した。
(4)マケドニア旧ユーゴースラヴィア共和国
マケドニア旧ユーゴースラヴィア共和国の国内情勢は、その厳しい国際環境にもかかわらず、それなりの安定を保っている。マケドニア人(全人口の67%)とアルバニア人(同23%)との関係は、6月に実施された
独立後初の国勢調査の際一時緊張したものの、10月に実施された大統
領・共和国議会選挙にはアルバニア人系政党及びアルバニア人も参加
し、グリゴロフ大統領が再選を果たすとともに、穏健路線の継続を掲げる与党連合が大勝した。
外交面では、ブルガリア及びアルバニアとの関係が良好である一方、新ユーゴー及びギリシャとは緊張関係にある。新ユーゴーとは相互に国家承認をしておらず、仮に新ユーゴーのコソヴォで衝突が起こった場合の紛争波及が懸念されている。また、ギリシャは「マケドニア共和国」たる国名及び国旗の変更と憲法改正を強硬に要求しており、EUの場でもマケドニア旧ユーゴースラヴィア共和国への援助プログラムに反対し続けている。国連との関係では、UNPROFOR約1,200名が展開しており、同地への紛争波及予防に貢献している。
マケドニア旧ユーゴースラヴィア共和国の経済は国連の対新ユーゴー制裁の影響及びギリシャが2月より開始した経済封鎖により、閉塞状態に陥っている。94年の成長率はマイナス11%と予想されており、国民総生産は旧ユーゴー時代の半分近くにまで落ち込んでいる。
なお、日本は3月にマケドニア旧ユーゴースラヴィア共和国との外交関係を開設した。
(5)新ユーゴー(注2)
ボスニア紛争を契機として新ユーゴーには92年5月から国連安保理決 議に基づく広範な制裁措置が課せられたが、国連制裁という国際的孤立状態の中で、ミロシェヴイッチ・セルビア大統領をはじめとする新ユーゴー指導部は、94年には国際社会に歩み寄る姿勢を見せ始めた。その表れとして、8月にボスニアセルビア人がコンタクト・グループ和平案を拒否した際、新ユーゴーが同和平案支持の立場からボスニアセルビア人との断交に踏み切ったことが挙げられる。このような新ユーゴーの動き に伴い、10月には民間航空機の乗入れ、文化・スポーツ交流の再開といっ た分野で新ユーゴーに対する制裁の一部が期限付きで緩和された。しかし、貿易や資本取引の禁止など制裁の基本的部分は依然として有効であり、新ユーゴー当局は引き続き厳しい内政・経済運営を余儀なくされている。なお、アルバニア系住民の多いコソヴォなど、新ユーゴー国内の少数民族多数居住地域における人権状況に対し、右が旧ユーゴー紛争の拡大につながりかねないとの認識からも国際社会の厳しい批判の目が注がれている(旧ユーゴー紛争については第1分冊P8~12参照)。
(注1)日本はボスニア・ヘルツェゴヴィナを国家承認していない。
(注2)旧ユーゴーのセルビア、モンテネグロからなり、「ユーゴースラヴィア連邦共和国」として発足。日本は国家承認していない。