第1項 地域全般
1. 民主化の進展と経済構造調整
アフリカ諸国では冷戦の終結後、旧ソ連諸国や東欧諸国における民主化の影響を受け、一党独裁制から複数政党制への移行、軍政から民政への移管という形での政治的民主化が進められている。91年から92年にかけては各国で大統領及び国会議員選挙が実施され、目に見える形で民主化プロセスが進められたが、特に92年に入り、モーリタニア、マリ、ガンビア、コンゴー、アンゴラ、カメルーン、中央アフリカ、マダガスカル、ガーナ、ケニアの10か国で大統領選挙が実施されたほか、マリ、カメルーンなど11か国では国会議員選挙が実施された。選挙を実施した国の中には初めて普通選挙を経験する国も多く、準備の遅れ等から投票日が延期されるなど、若干の混乱が見られた。しかし各国とも、日本を含む先進諸国から選挙用資機材の供与、選挙監視団の派遣(注1)等の支援を受け、全体的にはほぼ順調に選挙日程を消化している。他方、経済面では、サハラ以南のアフリカ諸国46か国中34か国では、80年代以降、直面する経済困難を克服するために、世銀や国際通貨基金(IMF)の主導による経済構造調整が進められている。この経済構造調整は、各国の経済効率化には一定の成果を挙げているが、構造調整導入後に国民の経済生活がかえって苦しくなった国もあり、当初期待された成果が必ずしも現れているとはいえない状況にある。
アフリカでは、従来からアフリカ統一機構(OAU:1963年設立、加盟国50か国)が中心となり、加盟国の共同行動がとられてきている。近年、OAUは特に地域紛争解決等の政治面での地域協力に重点を置いているほか、92年11月には、「アフリカの子供支援のための国際会議」を主催するなど、社会面や人道面でのイニシアティヴも発揮している。このほか、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)は、地域の経済協力機構であるだけでなく独自の軍隊を紛争地域に派遣し、紛争解決に向けた政治的努力も行っている。また、西アフリカ通貨同盟(UMOA)など、通貨面における地域統合の動きも活発化している。さらに、南部アフリ力においては92年8月、南部アフリカ開発調整会議(SADCC)が、地域協力関係を更に緊密にするため南部アフリカ開発共同体(SADC)という地域経済共同体に発展した。
アフリカは日本にとって歴史的にも地理的にも遠い存在である。しかし、日本は、人道的見地、また国際秩序の担い手のひとりとして国際的責務を果たしていくといった観点から無償資金協力及び技術協力を中心に経済協力を行っており、91年の対アフリカ政府開発援助(ODA)は対前年比14.9%増の9億977万ドルとなった。
なお、近年、アフリカ諸国は従来型の開発援助だけでなく、各国の民主化や経済改革のための支援等様々な援助を要請することも多くなっている。
また、国際社会の関心と援助がともすれば旧ソ連諸国や東欧諸国に向かいがちな中で、日本は、アフリカに対する国際社会の関心を改めて喚起し、もってアフリカにおける政治・経済面の好ましい変化を支持するため、93年10月東京でアフリカ諸国、主要援助国及び国際機関の代表が参加する「アフリカ開発会議」を開催することとしている。
1. 南アフリカ共和国
南アフリカ共和国では、91年にアパルトヘイト(人種隔離政策)の根幹を成していた法律が撤廃された後、新憲法制定のための当事者交渉を行うなどアパルトヘイト撤廃が進展しており、紆余曲折はあるものの民主的国家建設に向け歴史的変革期にある。日本は、南アフリカ共和国における改革努力を評価しており、一層の改革を奨励するとの観点から南アフリカ共和国との関係を順次正常化してきている。しかし、短期的には、92年6月以来、暴力事件による犠牲者の増大、複数政党間交渉の中断等憂慮される事態も見られる。日本は全当事者の参加による暴力問題の早期解決と平和的交渉再開による民主的な南アフリカ共和国の実現を希望しており、様々な機会をとらえて関係者に働き掛けを行ってきている。
アフリカ大陸で最大の人口(約1億人)を有する国であり、周辺国に多大な影響力を有するナイジェリアは、85年以来の懸案である民政移管を実施すべく、これまでに、地方、州及び連邦の議会選挙を平穏に実施してきた。しかし、大統領選については92年9月の大統領予備選挙に不正が認められたため、改めて実施されることとなり、当初93年1月に予定されていた民政移管は同年8月に延期された。ナイジェリアは、サハラ以南アフリカ最大の産油国かつ石油輸出国機構(OPEC)のメンバー国であるが、膨大な累積債務を抱え、経済状態は引き続き低迷している。
91年の国内での民主化要求の高まりの中で、日本等の先進諸国もケニア政府に対し、同年11月パリで開かれた援助国会合などで政治、経済面での改革を強く求めた。ケニア政府はこれに応じる形で同年12月、複数政党制導入を決定し、92年12月その下での選挙が行われた。その結果モイ大統領が他の野党候補を敗り再選され、国会議員選挙では与党のケニア・アフリカ人国民同盟(KANU)が勝利した。
中央アフリカの大国ザイールにおいては、近年、経済困難に対する国民の不満が高まっていたが、91年9月、兵士への給与不払いが直接の原因となって首都キンシャサで大規模な暴動が発生し、在留外国人の大半が国外退避し、日本大使館員も国外退避を余儀なくされた。92年1月モブツ大統領は国民会議を無期延期する旨発表したが、4月に国民会議が再開され、8月には、国民会議において野党のチセケディ党首が暫定政府首相に任命された。現在の政情は一応小康状態にあると見られるが、大統領権限の問題を巡り、新政府側と大統領側は対立を続けており、先行きは依然不透明である。また、ザイール政府は90年夏以来の世銀との確執を解消していないことから、先進諸国の援助が期待できず、ザイール経済状況の早急な回復は見込めない。
ソマリアは、91年1月バレ政権崩壊以来、各地に氏族に基づくグループが割拠し、無政府状態となっている。内戦による多数の難民、数万の死傷者の発生に加え、干ばつ被害が深刻化し、依然100万人以上が飢餓状態にあるという悲惨な状況が続いている。92年3月には国連の仲介による首都モガディシュでの停戦が実現、さらに4月には、停戦の監視及び人道援助物資の配給確保を目的に国連ソマリア・オペレーション(UNOSOM)の設立が安保理で決議されたが、首都への停戦監視団(50名)の配置と500名の警護隊のモガディシュ入りが実現したのみで、その後追加派遣が決議された3,000名の警護隊の受け入れについては国内当事者の同意が得られず、配置の見通しの立たない状況が続いた。
こうした中で、治安の欠如により援助物資配布に著しい支障をきたしているとの認識の下、92年12月、国連安保理はガリ事務総長の提案に基づき、関係国に国連憲章第7章下での行動をとる権限を付与する決議を採択し、これを受けて、米軍を中心とする統一タスクフォースが同月モガディシュに上陸、中部、南部へ向けて展開した結果、この地域の治安は大幅に改善された。日本は安保理決議により設立された国連ソマリア信託基金に対して1億ドルを拠出する一方、各国に拠出を呼び掛けるなど積極的な協力を行っている。また、人道援助については、日本は92年だけで2,700万ドルのソマリア関連援助を行った。
89年に経済状況の悪化と部族対立を原因とする内乱が発生し、翌年には在留外国人の大半及びリベリア国民の半数近くが国外退避した。国内は、現在まで複数の武装勢力に分断されており、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の調停努力にもかかわらず、統一政権の樹立には至っておらず、92年10月にはECOWASより派遣された平和維持軍と武装勢力との間で戦闘が再開され、一時的に緊張が高まったが、短期間で本格的な戦闘は停止し、小康状態を保っている。
アンゴラにおける選挙は、92年9月、第2次国連アンゴラ監視団(UNAVEMII)の監視の下に行われ、日本からも3名の監視要員が派遣された。 |