第7節 ア フ リ カ
1. 民主化の進展と経済構造調整努力
アフリカは、現在、民主化の急速な進展、依然として深刻な経済困難克服のための経済構造調整、さらには南アフリカ情勢の急展開といった状況の中で、アフリカの年と呼ばれた1960年以来の大きな転換期に直面している。
独立直後のアフリカでは、部族をとりまとめ、国としての統一性を維持する必要もあり、強力な指導者及び一党独裁の下での中央集権的な支配体制がとられた。また経済面では、民族資本が欠如していたことから国家経済の建設を目的として政府の主導による経済運営を行わざるを得す、さらに、旧植民地支配への反発や東西冷戦の影響もあり、多くの国で社会主義的経済政策が導入された。しかしながら、こうした政策は失敗し、多くの国において世界銀行や国際通貨基金(IMF)の主導による経済構造調整政策(注)が導入されることとなった。
他方でソ連や東欧諸国における民主化の影響を受けて、生活苦に基づく国民の漠然とした不満は政府に対する批判という形で表面化し、民主化を求める国民の意識は高まった。この結果、多くの国で、政府は複数政党制の導入や民主的な選挙制度の確立に向けた努力を始めており、今や民主化は逆戻りできない状況となっている。
2. 日本の対アフリカ政策
日本は人道的見地より、またその国際的地位にふさわしい責務を果たすという観点より、アフリカ諸国自身によるこのような変革や経済困難克服のための努力を支援している。
アフリカ諸国の日本に対する期待も高く、日本を訪問するアフリカ諸国の要人も急増している。90年11月の即位の礼にはアフリカ45か国より元首11名を含む代表が参列し、91年7月には鈴木外務政務次官がタンザニア、ケニア、ジンバブエ、ザンビア及び南アフリカを訪問した。
アフリカに対する日本の二国間政府開発援助(ODA)は近年著しく増大している。89年の支出純額ベースの援助額は85年の約4倍であり、これは日本の世界全体に対する援助の約15%を占めており、また、日本はフランス、イタリアに次ぐ対アフリカ援助国となっている。なお、日本の二国間ODAの約6割は返済義務を負わない贈与(無償資金協力及び技術協力)である。
1. 南アフリカ情勢
南アフリカにおける人種隔離政策(アパルトヘイト)の撤廃に向けた改革は、もはや不可逆的なものとなっている。90年2月のマンデラ氏釈放、アフリカ民族会議(ANC)等の反アパルトヘイト団体の合法化等に次いで、同年10月までには南アフリカ全土で非常事態宣言が解除された。政治犯釈放問題も基本的に決着し、交渉開始のための障害とはならなくなっている。91年6月には、アパルトヘイトの法的根幹をなす人口登録法、集団居住地法、土地法(注)が廃止された。アパルトヘイトは法律によって人種別の取扱いを規定するものであるが、これにより、今後は、黒人を含む全人種に参政権を認める新憲法の制定が残された課題となる。
南アフリカの改革がここまで進展したのは、デ・クラーク大統領とマンデラANC議長の指導力によるところが大きい。双方ともアパルトヘイトを維持したままでは南アフリカの将来はないとの考えに立ち、南アフリカ問題を平和的に解決するという強い決意を有している。南アフリカにおいて人種差別のない民主的な体制を樹立するには、今後も紆余曲折がありえようが、関係当事者の努力により困難が克服され、新たな憲法制定のための交渉が早期に開始されることが期待される。
日本は、南アフリカにおける積極的な変化を評価し、南アフリカ問題の平和的解決に向けた努力を支援するとの観点から、施策を講じてきている。第1は、南アフリカ政府、ANC等との対話の拡大である。90年10月にマンデラANC副議長(当時)を日本に招待したのもその一環である。また、91年7月には鈴木外務政務次官が南アフリカを訪問した。第2は、新たな南アフリカ社会において白人以外の国民、特に黒人が主体的な役割を果たし得るように黒人支援を強化している。そのため政府は、民間援助団体(NGO)や国連南部アフリカ教育訓練計画などに対する拠出を拡大しているほか、マンデラ副議長の訪日を機に南アフリカからの研修員受入れ、小規模無償資金協力の導入を決定した。また、南アフリカに対する規制措置については、これまで日本は他国に比べて政治、経済、文化などの広範囲において厳しい規制措置をとってきたが、91年6月、アパルトヘイトの根幹をなす法律の廃止を始めとして南アフリカの情勢が積極的な方向に進展していることを受け、南アフリカとの
東京におけるマンデラ・アフリカ民族会議副議長と中山外務大臣の会談(90年10月) |
人的交流の規制を緩和した。その他の規制措置のあり方についても、情勢の推移を踏まえつつ、見直しを行っている。
南アフリカの変革は、単に同国だけにとどまらず、南部アフリカ、さらにはアフリカ全体に大きな影響を及ぼしうる。日本は、こうしたアフリカの新しい秩序形成の動きに積極的に関与していく考えである。
2. 地域紛争の動向
米ソの緊張緩和による東西関係の変化は、アフリカにおける地域紛争の収拾を促す側面も有しているが、同時に、アフリカにおける米ソ両超大国による危機管理能力が従来より弱まる結果、地域紛争はむしろ流動化していく可能性もある。したがって、紛争の解決に向けてアフリカ諸国自身がこれまで以上に努力していくことが求められると言えよう。
(1) アンゴラ情勢
アンゴラでは独立以来過去16年間内戦が続いていたが、旧宗主国ポルトガルの仲介の下に行われてきたアンゴラ政府と反政府組織アンゴラ全面独立民族同盟との交渉が、米ソのオブザーバー参加の下に90年9月から本格的に行われた。この交渉の結果、91年5月には正式に包括的な和平合意が成立した。これにより停戦が発効し92年秋には国連を含む国際的な枠組みの下で、複数政党の参加による自由選挙が行なわれる予定である。米ソ間の緊張緩和が、地域情勢の安定につながった顕著な例と言えよう。
(2) エティオピア情勢
エティオピアにおいては、独立または自治権拡大を要求するエリトリア人民解放戦線やエティオピア人民革命民主戦線などによる攻勢の激化により、91年5月にはメンギスツ政権が崩壊し、約30年間続いた内戦が終結した。その後、広範な政治勢力が参加した国民会議の合意を受けて、8月に暫定政府が樹立された。今後2年ないし2年半以内に国際監視の下で、憲法制定議会の選挙が行われる予定である。またエリトリアの分離独立問題については、2年後に住民投票が行われることが予定されている。
(3) ソマリア情勢
91年1月に1969年以来政権の座にあったバレ大統領が首都を追われ、ソマリアは、氏族を背景とした複数の集団による群雄割拠の状態となった。和平の努力も行なわれているが、その実現の見通しは立っていない。
(4) リベリア情勢
89年12月、経済の悪化や部族対立等を原因とし発生した反政府武装集団と政府軍との戦闘は、部族間の殺戮、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)による平和維持軍の派遣、反政府側によるドウ大統領の暗殺を経て激化した。91年7月、西アフリカの関係国は象牙海岸のヤムスクロにおいて首脳会議を開催し、紛争当事者の同席の下、92年1月までに総選挙及び大統領選挙を実施することを決定したが情勢は流動的である。
(注) | 経済活動における公的部門の役割の削減と市場経済原理の導入を主眼とし、経済体制の効率化を目指す政策。 | |
(注) | 人口登録法は、全ての南アフリカ人を白人、黒人、カラード(混血)といった人種として登録することを定める法律で、人種区別の法的基礎を成す。集団居住地法は、人種を基礎に居住地の指定を行う法律。土地法は、国土の87%の土地について白人以外には所有を認めないとする法律。 |