第6節 中 近 東
1. 湾岸の安全保障
湾岸危機は、国際秩序にかかわる問題として、国連安保理決議に基づく多国籍軍の武力行使により解決された。クウェイトを含む湾岸6か国の組織である湾岸協力理事会(GCC)(注)は加盟国に対する安全保障として「半島の盾」軍による共同防衛を予定していた。しかし、イラクの圧倒的な軍事力による突然の侵攻に対し、GCCのみによる防衛は実質的に機能しなかった。
この湾岸危機の経験に基づき、91年3月、湾岸危機の際にイラクに対する共同歩調をとったGCC加盟国にエジプト、シリアを加えた8か国の外相はダマスカスにおいて会合し、安全保障等に関する湾岸危機後のアラブ諸国間の協力及び調整の原則を定めたダマスカス宣言を採択した。この宣言は、8か国によってアラブ平和維持軍を創設する構想に言及している。8か国は6月に専門家会合を、7月には外相会合を開催し、この構想に基づく安全保障体制のあり方について協議を継続している。
他方、GCC各国は米国等の域外国との二国間協力を進めつつある。9月、クウェイトは米国軍のクウェイト内軍事施設の利用、軍事装備のクウェイト内の事前集積、米軍との共同訓練や演習等を内容とする期間10年の安全保障取極に署名した。
さらに、湾岸地域全体の長期的な安定を確保していくためには、イランを含めた協力関係の構築が必要であるとの認識が湾岸諸国で共有されており、サウディ・アラビアを始めとするGCC諸国とイランとの関係の改善や緊密化を背景に、GCC諸国とイランの間で経済交流など可能な分野から信頼醸成のための協力を行っていく気運が出てきている。
2. 中東和平問題
(1) 湾岸危機と中東和平問題
イラクのフセイン大統領は、90年8月2日のクウェイト侵攻後、8月12日の声明でこの侵攻を中東和平問題と結び付け、国際社会に対してこの2つの問題を同時に解決するよう要求した(いわゆるリンケージ論)。このような要求の背景には、中東和平問題に関連する国連の諸決議の実施に関する国際社会の対応が、湾岸危機に関連する諸決議の実施に関する対応に比較して極めて不十分であると主張すること (いわゆるダブル・スタンダード論)により、中東和平の達成に向けた動きが停滞していることに不満を募らせていたアラブ世界の世論をイラク支持に引き付けようという意図があったことは明白である。国際社会は、イラクが主張するリンケージ論を退けつつも、中東の安定化のためにはパレスチナ問題を含む中東和平問題の解決が必要であるという認識を再確認することとなった。
湾岸危機の間は、中東和平問題は危機後の課題として取り扱われ、中東和平に向けた動きに進展は見られなかった。しかし、この間にも、10月8日にイスラエル占領下の東エルサレム旧市街でアラブ系住民とイスラエル当局の大規模な衝突が発生し、アラブ系住民に多数の死傷者を出す事件が発生した(テンプル・マウント事件)。この事件を契機に国連安全保障理事会の場で中東和平に関する討議が行われ、12月20日にパレスチナ問題に関する決議681が採択されるとともに、その際の安保理議長声明において、中東和平に関する国際会議の招集が中東和平の達成に向けた努力を促進することが言及されて注目を集めた。
91年1月、湾岸において多国籍軍の武力行使が開始されると、イラクはイスラエルを戦闘に巻き込むために、テル・アビブ等にミサイル攻撃を加えた。イスラエルは、米国や日本を始めとする国際社会の説得もあって、イラクに対する反撃を差し控えた。イスラエルは、自制と引きかえに米国からのパトリオット・ミサイルの提供を受け、また国際的にその立場を強化することとなった。一方、従来からイラクとの関係を深めていたパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長は、フセイン大統領のリンケージ論の主張に応えていち早くイラク支持を表明し、これは中東和平の達成に向けた動きに進展がないことに不満を覚えていたパレスチナ人民衆の支持を受けた。しかし、湾岸危機がイラクの敗北に終わると、PLO指導部は湾岸アラブ諸国を含む国際社会の信頼を失い、危機後の中東和平の達成に向けた動きにおいては低姿勢を余儀なくされた。これに対して、アラブ諸国の中では多国籍軍に加わったシリアとエジプトが、91年3月以降、和平に向けた動きの中でアラブ側の立場を代表するようになった。
(2) 湾岸危機後の動き
多国籍軍とイラク軍の間で停戦が成立すると、国際社会は中東和平問題の解決に再び取り組むこととなった。湾岸危機の解決に中心的役割を果たした米国では、ブッシュ大統領が3月6日の演説で国連安保理決議242及び338並びに領土と和平の交換の原則に基づき、この問題を終結せしめる時が来たと表明した。ベーカー国務長官は、3月から8月初旬にかけて6度にわたりイスラエル、エジプト、シリア、ジョルダン等の中東和平問題の当事国を訪問し、従来からアラブ側の主張してきたパレスチナ問題を解決するためのイスラエルとパレスチナ人間の交渉と、イスラエル側が強調してきたアラブ諸国とイスラエルの間の二国間平和交渉の双方を同時並行的に進めることを基礎として(いわゆる2トラック・アプローチ)、米ソ共催の下に和平会議を開催し、これらの当事国が一堂に会して問題を討議するとの構想を推進した。
湾岸危機とその解決がもたらした中東紛争当事者間の力関係や思惑の変化と米国の精力的な外交努力を背景として、この構想の具体化に向けて進展が見られた。その間、主要な争点として、会議への国連の参加の是非と会議の継続性の問題をめぐってイスラエルとシリアの見解が対立し、両国の参加を確保するための調整が難航した。しかし、7月14日に至り、アサド・シリア大統領が会議への参加につき柔軟な姿勢を見せたことを契機に事態は急展開し、7月末の米ソ首脳会談において、和平会議を10月に招請することを目標に努力を進めるとの共同声明が発出されるに至った。和平会議に対するパレスチナ代表をいかにして選出するかという問題など、会議の開催に向けて解決するべき問題は残されているが、会議の実現に向けて米国を始めとする国際社会の努力が続けられている。また、7月のロンドン・サミットの政治宣言は、当事者間の信頼を醸成するために、占領地におけるイスラエルの入植地の建設といわゆるアラブ・ボイコット (イスラエルとの経済取引に対するアラブ諸国によるボイコット)の双方が停止されるべきであるとしている。
(3) 日本の立場
政府は、湾岸危機の間から、中東和平問題を危機後に取り組むべき最大の課題の一つと位置付け、そのためにもアラブ諸国とイスラエルの双方との対話を従来にも増して深めるべく努力を開始した。2月には外務省幹部をイスラエル及びアラブ関係国に派遣し、和平の達成に向けた取組などに関して意見交換を行った。また、3月には、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の要請に応え、危機により経済的打撃を被ったパレスチナ難民に対し1,000万ドル相当の食糧を供与することとした。また、ベーカー国務長官が提案した和平会議の開催を和平の達成に向けた有効な努力と位置付け、これに支持を表明するとともに、関係諸国との政治対話等を通じて、この努力を側面的に支援してきている。特に、中山外務大臣は、5月末から6月初めにかけて日本の外務大臣としては2度目のイスラエル訪問を行い、同国首脳との対話の中で、和平達成に向けての柔軟な対応、占領地パレスチナ人の処遇の改善、入植地建設の停止を申し入れた。さらに、米ソ両国による和平会議の開催が現実のものとして近付いたことを受け、一層積極的な外交努力を展開している。
政府は従来より、中東和平問題の解決に際しては、国連安保理決議242及び338を基礎とし、(あ)イスラエルが1967年以降の全占領地から撤退すること、(い)独立国家樹立の権利を含むパレスチナ人の民族自決権が承認されること、(う)イスラエルの生存権が承認されることにより、公正、永続的かつ包括的な和平が達成されるべきであるとの基本的立場を堅持している。そして、この立場にのっとり、あらゆる機会をとらえて関係当事者等との政治対話を促進するとともに、アラブ・イスラエル間の信頼醸成に貢献してきている。このような観点から、占幀地のパレスチナ人に対しては、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)、国連開発計画(UNDP)等の国際機関を通じて支援を実施するとともに、イスラエルによる占領地住民の追放措置等を非難してきている。また、アラブ諸国によるアラブ・ボイコットについては、自由な国際経済取引を阻害し、望ましくないものである旨を明らかにしてきており、ロンドン・サミットにおいては、他のサミット参加国とともに、政治宣言の中で、アラブ・ボイコットの廃止を求めることを明らかにした。和平会議の実現そのものや同会議での実質問題の進展を含め、和平の達成に向けた動きの展開は予断を許さないが、政府は今後とも、中東和平の達成を中東地域のみならず国際社会の安定にとって不可欠な課題の一つととらえ、そのために外交努力を継続していく方針である。
1. イスラエルと占領地
湾岸危機において、イスラエルはイラクより無差別かつ一方的なミサイル攻撃を受けながら、これに対する反撃を自制することにより、戦闘の拡大を防ぐとともにその早期終結に貢献し、対外的な立場を強化した。国内の一部には、初めてテルアビブが直接のミサイル攻撃を受けたことに対し反撃を求める声もあったが、野党の支持を得て自制を貫徹したことにより、リクード連立政権の土台も強まったと言えよう。ただし、湾岸危機の影響で、経済活動が低下し、貿易量が減少し、観光収入が激減したこと等に加え、ソ連からの移民が増大したことなどにより、イスラエルの経済状況は極めて厳しくなっており、雇用の拡大を始めとする経済問題の克服が、中東和平問題とともに湾岸危機後の最大の課題の一つとなっている。
日本との関係については、イスラエルは経済関係の強化を強く望んでおり、中山外務大臣が5月イスラエルを訪問した際にも日本に対し、航空機の乗入れ、融資、アラブ・ボイコットの撤廃について協力を要請した。このイスラエル訪問は、中東和平問題に関して日本も相応の貢献を行うという観点、及びイスラエルとの関係を改善し、よりバランスのとれたものとするという観点から行ったものである。この機会に日本は中東和平問題の鍵を握るイスラエルに対し、占領地への入植の中止と占領地のパレスチナ人の処遇の改善、和平プロセスへの柔軟かつ現実的な対応を申し入れた。この訪問は、88年の宇野外務大臣の訪問に次いで2回目の日本の外務大臣によるイスラエル訪問であり、外相レベルでの政治対話が定着したと言えよう。
イスラエルにより占領されかつ管理されている東エルサレムを含む西岸地区及びガザ地区においては、87年12月に始まったイスラエルに対する占領地パレスチナ人の抵抗運動(インティファーダ)が、湾岸危機の前後を通じて継続した。特に、91年10月8日に発生したテンプル・マウント事件の後、イスラエル当局は、インティファーダの取締りを強化し、外出禁止令や追放処分などの措置を占領地で実施した。湾岸危機の際には、外出禁止令の発令等によって占領地の経済活動が停滞し、湾岸諸国のパレスチナ人からの仕送りが減少し、イスラエル本土での就労が困難になるなど、占領地の経済情勢は一層悪化した。日本は、湾岸危機によって経済的打撃を被ったパレスチナ難民に対し、UNRWAを通じて1,000万ドルの緊急食料援助を行ったほか、パレスチナ人援助の拡充に取り組んでいる。
2. エ ジ プ ト
湾岸危機に際し、エジプトは、イラクのクウェイトからの撤退とクウェイト正統政府の復帰を譲ることのできない条件ととらえ、一貫して国連安保理決議を遵守した。エジプトは自ら開催を提案したアラブ連盟首脳会議の決議に基づきサウディ・アラビアの要請に応えて率先して多国籍軍に軍隊を派遣するなど毅然とした態度を貫いたが、このようなエジプトの積極的対応は、アラブ世界においてイラクを支援する動きを抑え、クウェイト解放に向けた国際的な団結の確保に大きく寄与した。湾岸危機後も、エジプトは中東和平問題、湾岸の安全保障、軍備管理等に関し、域内の重要当事者として活発な活動を展開している。
湾岸危機によってイラクやクウェイトに在留するエジプト人からの送金が停止したほか、観光収入やスエズ運河通航料による収入が減少するなど、エジプトの外貨収入は減少した。他方、イラクやクウェイトから帰国した約60万人の自国民を受け入れ、その雇用対策等のために支出が増加した。このようにしてエジプトは大きな経済的損失を被り、その額は約200億ドルに上るとも言われている。
しかし、他方で、湾岸危機に際してエジプトが果たした役割や同国が直面している経済困難を勘案し、米国が67億ドルの軍事債務の取り消しを決定したのを皮切りに、エジプトを支援する国際的な動きが活発化した。日本も、エジプトに対し緊急商品借款を主体とした約6億ドルの経済援助を決定した。エジプト内政の最大の課題である経済改革の推進については、91年5月にIMFとの交渉がようやく決着し、これを受けて同月、パリ・クラブ債権国会合が開催され、エジプトの公的債務を実質50%削減することが決定された。
日本は、中東地域において特に外交面で重要な役割を担うエジプトとの間で関係を強化し、政策協調を行うことは、二国間のみならず日本とアラブ諸国全体との相互理解の促進に寄与するものであるとの認識から、エジプトとの関係を重視している。湾岸危機発生後の90年8月に中山外務大臣がエジプトを訪問したのに引き続き、同年10月に海部総理大臣が日本の総理大臣として初めて同国を訪問した。中山外務大臣は、91年5月にもイスラエル訪問に先立ってエジプトを訪問し、同国首脳との対話を継続している。
3. シ リ ア
湾岸危機に際し、シリアは多国籍軍に参加するなど、湾岸の平和回復のために大きな役割を果たし、また、レバノンとの協力条約締結を通じて関係を強化したこともあって、中東諸国の中での立場を強化した。他方、シリアは、避難民の流入や出稼ぎ者の帰国、クウェイトからの海外送金の停止等を通じて、多大の経済的・社会的損失を被り、日本は、これに対する支援として、約649億円の円借款を供与することとした。
4. イ ラ ク
多国籍軍に対する軍事的敗北によりフセイン政権は弱体化した。このため91年3月初めクルド人やシーア派がフセイン政権の打倒を目指して反乱を起こしたが、政府側は国内鎮圧のための軍隊としては未だ相当の軍事力を温存していたことや、反乱グループは十分組織化されていなかったこともあり、反乱は4月初めにはほぼ鎮圧された。フセイン政権は、クルド人との自治に関する話合いや複数政党制の導入などによって政権の安定化に努めている。また、国内の復興を促進するため経済制裁の早期解除を希望しているが、大量破壊兵器の査察を妨害し、虚偽報告を行うなど、国連安保理決議の履行に非協力的な行動を繰り返しており、国際的孤立の状況が変わる見通しは立っていない。
イラクは、湾岸での戦闘で、陸軍は装備の約3分の2、空軍は作戦機の約3分の2、海軍はほぼ全艦艇がそれぞれ損壊し、また兵員は軍全体で約30%を失ったとされているが、依然として地域的な軍事大国であり、その動向には引き続き注目していく必要がある。
5. ジョルダン
ジョルダンは従来から欧米諸国と良好な関係を維持してきたが、湾岸危機に際して同国がとった立場が国際的にはイラク寄りであると受け取られた結果、米国議会がジョルダンに対する援助の停止を決定するなど、米国との関係は大きく後退した。日本は、フセイン国王が国内の親イラク勢力への配慮からこのような立場をとらざるを得ないことにある程度理解を示すとともに、ジョルダンの安定が中東地域の平和に重要な意味を持つことを重視し、ジョルダンとの良好な関係を維持した。湾岸危機はジョルダンの経済に甚大な影響を及ぼしたため、日本は、低利の緊急商品借款等の7億ドルの有償資金協力を行った。
6. 湾 岸 諸 国
サウディ・アラビアはイラクのクウェイト侵攻により自国の安全保障に対する脅威にさらされ、米軍を初めとする多国籍軍の展開を要請した。また、自ら多国籍軍に参加し、他の参加国に対する援助を行うとともに、反イラク包囲網の形成のため周辺国に対する経済支援にも積極的に努力した。このような積極的な外交姿勢への転換は、湾岸危機後も継続しており、他の湾岸協力会議(GCC)諸国を指導しつつエジプト、シリアとの関係を強化し、イランとの外交関係を再開するなど、湾岸地域における安全保障体制の再構築を図っている。逆に、サウディ・アラビアは、湾岸危機に際してイラクを支持したイエメン、ジョルダンなどに対しては、厳しい姿勢を継続しており、これら諸国とGCC諸国との関係は冷却化している。
湾岸諸国は伝統的な王制、首長制に基づく政治体制を守っているが、湾岸危機を契機に国民の政治参加や民主化を求める要求にどう対応していくかが課題となってきている。
7. イ ラ ン
ラフサンジャニ政権の下のイランは、議会を中心とする左派勢力の抵抗はあるものの、徐々に現実主義路線を定着させてきている。
経済再建を目的とする経済復興5か年計画は3年目に入っているが、未だ円滑に実施されているとは言い難く、経済面では種々困難を抱えている。
外交面では、国交が断絶していたイラク、テュニジア、モーリタニア、英国、ジョルダン及びサウディ・アラビアとの国交が再開されたほか、EC諸国との関係改善、GCC諸国との大使の交換など、外交的孤立からの脱却に向け大きく前進した。ただし、米国との関係では大きな進展は見られていない。
イラン・イラク紛争については88年の停戦以来、和平交渉が継続していたが、90年8月にイラクがクウェイトに侵攻した直後、突如として一方的に譲歩したことにより捕虜の交換及び国境の確定についてはほぼ合意が得られた。しかし、イランにとっては戦争責任問題と賠償問題が今後の課題となっている。
湾岸危機に際して、イランはいち早くイラクのクウェイト侵攻を非難し、中立を標標榜しつつも経済制裁措置をとるとの立場を堅持した。また、イランは、湾岸危機後のペルシャ湾岸地域の安全保障体制の確立に積極的に関与していく姿勢を示し、イランとGCCがその中核を成すべきであると主張している。
日本との関係では、91年5月、中山外務大臣がイランを訪問し、ラフサンジャニ大統領を始めとするイラン政府要人と会談し、湾岸危機後の地域情勢等につき意見交換を行うとともに、二国間の関係の強化のため、これまでの技術協力に加え、今後資金協力を検討するとの方針を伝えた。
8. ト ル コ
湾岸紛争に際してトルコは、イラクからの石油パイプラインの閉鎖、イラクやクウェイトとの貿易の停止を始め、イラクに対する経済制裁を厳格に実施し、また、多国籍軍には参加しなかったものの、イラクとの国境方面の兵力を増強しイラクを牽制したり米軍にイラク爆撃のための国内基地の使用を許可するなど、国際社会の平和回復活動に積極的に協力した。
政治的には湾岸危機の間、国内には戦闘の波及を懸念して多国籍軍に対し積極的に協力する政府を批判する声もあったが、基本的には挙国一致で危機に対応した。戦闘が比較的短期間のうちに多国籍軍側の勝利に終わったため、政府の対応が正当化されることとなり、湾岸危機は内政に大きな影響を与えなかった。
一方、トルコはイラクの隣国として、従来からイラクとは緊密な経済関係を有していたため、経済制裁はトルコに大きな経済的損失をもたらした。また、石油価格の上昇、観光収入の激減、国際民間金融機関の湾岸近隣諸国に対する融資の見合わせ、軍事費の増大等による損失を加えると、トルコ政府の概算によれば約70億ドルの経済的損失を被った。また紛争終結後も、イラク政府軍の弾圧を恐れたクルド人を中心とする40~50万人の避難民がイラクとの国境地域に流入し、トルコはこれらの避難民がイラクに帰還するまで避難民支援のため大きな財政的、人的負担を負うこととなった。
トルコは地政学的に重要な位置を占めるとともに、民主主義的政治体制をとっており、比較的発展した経済を持つ国であることから、政府は同国を地域における安定勢力として重要視しており、政治対話、経済協力、人物交流、文化交流等を通じて関係の強化を図っている。最近では90年8月に中山外務大臣が、10月に海部総理大臣がトルコを訪問した。また、湾岸危機に際し、日本は周辺国援助の一環として、トルコに対し7億ドルを供与した。
9. アルジェリア
90年6月、アルジェリア史上初めて複数政党制に基づく地方議会選挙が実施され、民主化の大きな一歩を踏み出した。しかし、この地方議会選挙の結果、これまで一党独裁を続けてきた国民解放戦線(FLN)に対し、イスラム原理主義政党のイスラム救国戦線(FIS)が勝利を収め、地方議会選挙に引き続き91年6月に行われる予定であった国会議員選挙においてもFISの大幅な伸長が予想されるに至った。
こうした状況の中で与党FLNは国会議員選挙の実施に備えるため、91年4月に改正選挙法と選挙区区分法を国会で採択したが、FISはこれらの法律がFLNに有利に改正されたとしてその廃棄を求め、国会議員選挙と大統領選挙の同時繰上げ実施を要求してゼネストを呼び掛けたことから、治安が急激に悪化した。このような状況の下で政府は6月5日、全土に戒厳令を布告するとともに、国会議員選挙の延期、ハルムーシュ内閣の総辞職とロザリ外相の政府首班指名を発表した。ロザリ新首相は組閣に先立ち野党とも協議を行い、6月17日、野党勢力をも取り込んだ超党派内閣を成立させた。
アルジェリア政府は政治面での諸改革とともに経済面でも民主化と自由化に向けて一連の経済改革を進めている。しかしこの政策は深刻なインフレと失業を惹起してきており、イスラム原理主義の台頭の一因ともなっている。同政府は、このような社会的不安要因を除去するため雇用拡大を始めとする措置を講じているが、目立った効果は出ておらず、厳しい経済運営を余儀なくされている。
(注) | GCCの構成国は、バハレーン、オマーン、カタル、サウディ・アラビア、アラブ首長国連邦、クウェイト。 |