第7節 アフリカ

 

第1項 地 域 情 勢

1. 概  観

 「アフリカの年」と呼ばれ、アフリカ諸国の独立の相次いだ1960年から30年を経て、89年から90年にかけてアフリカ諸国は大きな政治的変革期を迎え。90年3月21日にアフリカ大陸で唯一残されていた植民地のナミビアが独立を達成したほか、南アフリカにおいてもマンデラ氏が釈放され、南アフリカ政府と反アパルトヘイト勢力との直接対話も開始された。また、いくつかの国においては単一政党制から複数政党制への移行を始めとする民主化の動きが見られ、これらはソ連・東欧情勢の変化により、更に加速されつつある。

 政治面での進展に対して、経済的にはアフリカ諸国は依然として停滞を続けている。アフリカ諸国の多くは現在、経済の再建のため、経済活動における政府等公的部門の役割減少と市場経済原理の導入を主眼とする経済構造調整政策を実施中であり、経済成長率、インフレ率等の経済指標の上ではその成果が現れつつある。他方、調整政策の一環として実施される公務員の削減、公企業の閉鎖ないし再編等を含む緊縮財政政策による国民の生活水準低下に対する不満が高まりつつあり、国内の不安定化要因となっている。また、アフリカ諸国の累積債務残高は88年末において総額1,396億ドル、対GNP比99.5%(途上国全体では43.9%)に達し、アフリカ諸国の経済規模に鑑みれば極めて大きな負担となっている。

2. 地 域 紛 争

(南部アフリカ問題については第2章第1節第3項参照)

(1)チャード・リビア紛争

 89年8月、アルジェリアの仲介のもと、チャード・リビア両国間において本件紛争の平和的解決に係わる二国間協定が締結された。本件紛争の最大の焦点となっているアウズウ地帯の帰属に関しては、1年間の期限を設けて両国間の交渉による解決を図ることとし、合意に至らない場合には国際司法裁判所に本問題を付託することと定められているが、当事者間の交渉は進捗していない。

(2)セネガル・モーリタニア紛争

 89年4月の国境地帯での騒擾を背景にセネガル・モーリタニア関係は悪化し、89年8月には外交関係が断絶される事態にまで発展した。本紛争に関しては、エジプトのムバラク大統領(90年7月までアフリカ統一機構(OAU)議長)が仲介活動を行っているほか、フランス、マリなどの、両国と緊密な関係を有する国が仲介活動を重ねているが、紛争解決のめどは立っていない。

(3)リベリア内戦

 リベリアにおいては89年12月に反政府軍(リベリア愛国戦線(NPFL))が隣国の象牙海岸から侵入し、政府軍との間で戦闘を開始した。反政府軍は終始戦闘を有利に展開し、90年5月には首都モンロヴイアから約100kmにあるリベリア第2の港湾都市ブキャナンを陥落させ、首都に接近した。ドウ大統領は米国に救援を要請したが、米国はリベリア在住自国民保護のためにリベリア沖に艦隊を派遣したにとどまり、本紛争には中立の立場を堅持している。6月に入ってリベリア教会評議会の提唱により政府とNPFLどの和平交渉が隣国シエラ・レオーネの首都にて開始されたが結局物別れに終わり、7月にはNPFLから分派した独立リベリア愛国戦線(INPFL)が首都攻撃を開始する等、戦闘はむしろ激化しており和平のめどは立っていない。

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第2項 主要国情勢

1.ナイジェリア

 ナイジェリアは92年の民政移管達成を目標に民主化措置を実施中であり、89年5月の新憲法の制定と政党活動の解禁を受けて政党の公認登録の申請受付けを実施した。しかしババンギダ大統領は9月には登録を申請した政治集団すべてが政党公認のためのガイドラインを満たしていないとしてこれら集団の解散を命じるとともに、政府主導にて2大政党(「社会民主党」及び「国民共和会議」)を新たに組織する旨発表した。同大統領は92年の最終的な民政移管の目標には変更はない旨言明している。

 経済的には現在国内の不満を抱えつつも構造調整政策を着実に推進中であり、このような努力は国際的にも高く評価されている。

 しかし、90年1月に予定されていたババンギダ大統領の訪米が、内政上の理由から直前に中止されたほか、4月にはクーデター未遂が発生し、内政に若干の動揺も見られる。

2.ザイール

 ザイールではモブツ大統領が1965年の政権確立以来、国民革命党(MPR)の一党支配の下、絶対的な権力を維持しているが、東欧諸国の長期独裁政権の相次ぐ崩壊を受け、民主主義をめぐる議論に関して国民の意見を直接聴取するため、90年2月から3月にかけて全国11都市において「国民対話」集会を開催した。この対話の結果を受けて4月24日、モブツ大統領は3党からなる複数政党制の導入、党と国家との分離、新憲法の制定等を骨子とする政治改革を発表した。今後の具体的民主化措置の実施ぶりが注目される。

3.象牙海岸

 象牙海岸は1960年にフランスから独立して以来、ウフェ・ボワニ大統領が政権の地位にあり、内政の安定と豊かな経済力を背景に国際的にも高い評価をうけている。

 しかし経済の低迷を受けて89年から構造調整計画の実施に着手した。同計画の実施に伴う国民の不満の高まりは90年2月から学生のデモをきっかけに、労働者、知識人等をも巻き込んだ大規模なデモ、ストライキに発展し、さらに東欧情勢の影響も受けて、急速に複数政党制の導入等、民主化を要求する反体制政治運動へと転化していった。

 これに対し、政府は4月に構造調整計画を一時中断することを決定するとともに、経済社会調整計画関係閣僚会議を設置し、構造調整計画の再編に着手した。さらに象牙海岸民主党(PCDI)による単一政党制を放棄し、複数政党制の導入を決定した。複数政党制の導入は遅滞なく実施に移され、6月までに12政党が公認された。

 これらの措置により、情勢は一応の鎮静化を見たが、高齢のウフェ・ボワニ大統領の後継者問題及び構造調整計画の再実施問題などの内政の不安定化要因は依然として継続している。

4.エティオピア

 エティオピア政府と反政府分離独立組織(エリトリア人民解放戦線(EPLF)、ティグレ人民解放戦線(TPLF))との内戦については、89年より和平交渉が開始されたものの、目立った進展が見られず、90年2月よりEPLFの攻勢が再開された。この攻勢により、EPLFは2月上旬にエティオピア北部の重要港であるマッサワを占拠し、これに呼応する形でTPLFも反撃に転じた。このため政府側は内戦開始以来最大の窮地に陥っている。このように政府側が苦戦している要因として、ソ連の軍事援助の削減と厭戦気分の高まりがある。メンギスツ政権はこうした困難な状況に際し、90年3月、マルクス主義の放棄を含む大幅な政治及び経済の改革を発表した。

 一方、89年雨季の降雨不足のため北部(主として反政府組織の支配地域)で深刻な干ばつが発生し、食糧不足のため400万人以上の被災民が発生するとの推定が発表された。そのため、現在各国からの大量の食糧援助が行われており、また、6月の米ソ首脳会談ではエティオピアの飢餓問題についても話し合われ、米ソ両国の協力が表明された。

5.ザンビア

 膨大な対外債務(88年末現在62億ドル)と慢性的な経済停滞に直面したザンビアは、89年6月にIMF・世銀の指導による経済構造調整計画を再実施し、価格統制の撤廃、通貨切下げ、財政赤字の削減などの、経済政策の合理化に努めている。しかし、高い失業率、物価高のため、国民生活は耐乏を強いられており社会不満も強い。

 このような経済不満も相まって、カウンダ大統領の率いる統一国民独立党(UNIP)の一党支配体制に対し、複数政党制への移行を要求する声が労働組合を中心として起こっており、91年8月に複数政党制の可否につき国民投票を行うことが決定された。

6.ジンバブエ

 90年3月大統領選挙及び議会選挙が行われ、ムガベ大統領が再選されるとともに、与党ジンバブエ・アフリカ民族同盟・愛国戦線(ZANU・PF)は120議席中116議席を獲得した。アフリカにおける多元主義の動きの中で、ムガベ大統領はこれを機にZANU・PFの一党支配への指向を強めている。

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第3項 わが国との関係

1.概  観

 わが国とアフリカ諸国との関係は近年経済協力関係を中心に着実に緊密化しつつある。アフリカ諸国の貧困問題解決及び経済開発のためにはアフリカ諸国自身のイニシアティヴのもと、国際社会全体の支援が今後とも不可欠である。わが国としてもその国際的地位に見合った貢献を行うべく、アフリカ諸国に対する援助の強化に努めている。特に、アフリカ諸国は最近のソ連・東欧情勢の変化により国際社会の関心がアフリカから離れていくのではないかとの懸念を有しているが、アフリカは引き続き国際社会からの支援を最も必要としている地域であり、わが国としてもアフリカ地域の発展と安定のために積極的な役割を果たすことが必要である。

2. 経済技術協力及び経済関係

 わが国は近年、アフリカ諸国の経済開発及び経済構造調整等の経済困難克服努力に対する支援の強化に努めており、この結果、わが国のサハラ以南アフリカ(スーダンを含む)に対するODA実績は88年には約9億4,300万ドルと米国の実績(7億7,200万ドル)を上回り、DAC加盟18か国中、フランス、イタリア、西独に次いで第4位の規模となった。

 最近のアフリカ援助をめぐる国際的動向として、構造調整支援が重視されているが、わが国は87年のヴェネチア・サミットにおいて、87年度から89年度までの3年間でアフリカ諸国等の経済構造改善努力を支援するため約5億ドルのノン・プロジェクト型無償援助を供与する旨表明し、その実施に努めてきたが、89年度末までにアフリカ26か国に対して計617億円の資金供与を実施し、この目標を達成した。さらに、わが国は90年度より3年間で、新たに6億ドル程度に規模を拡大してこの援助をアフリカ諸国等に供与することとしている。また、構造調整支援に関しては無償資金協力のみならず、サハラ以南アフリカの債務問題を抱える低所得国に対する特別計画(SPA)の枠組みの下、世銀との協調融資により円借款も供与している。

 89年のわが国とアフリカ諸国との貿易は、わが国輸出の0.8%、輸入の0.7%と例年並みにとどまった。

アケ象牙海岸外相と交換公文を取り交わす中山外務大臣(90年3月)

3. 要人往来

 わが国とアフリカ諸国との関係の緊密化に伴い、わが国を訪問するアフリカ諸国要人の数も急速に増加してきている。

 ジンバブエのムガベ大統領(89年10月)及びタンザニアのムウイニ大統領(同年12月)が国賓として訪日したほか、ブルキナ・ファソのコンパオレ国民戦線議長(89年9月)、ザイールのケンゴ首相(当時)(同年11月)、マリのトラオレ大統領(90年6月)等、元首クラスの訪日が相次いだ。

 わが国からは90年4月に礼宮殿下(当時)が御修学先の英国からケニアとマダガスカルを訪問された。

4. アフリカ理解の促進

 わが国におけるアフリカのイメージは、飢餓や地域紛争の多発等の暗い側面に偏りがちであるが、アフリカ諸国との友好協力関係を築き上げていくためには国民による広いアフリカ理解が不可欠である。そのため、アフリカに育まれた豊かな文化の紹介等を中心とした「アフリカ・カルチャー・キャンペーン′89」(注)を実施するとともに、一般市民とアフリカの人々の交流の機会を設け、アフリカ理解の促進に努めた。

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(注)

89年8月から90年2月にかけて民間関係者の協力の下、「アフリカ映画祭」、「アフリカ音楽祭」、「ナイジェリア・ベニン王国美術展」、「アフリカ・ファッション・ショー」を開催した。また、市民の参加を得て、「植林ツアー」、「アフリカ自然保護協力ツアー」を実施した。さらに、在京アフリカ諸国大使館員の協力を得て、「アフリカ自然保護キャラヴァン」を実施した。