第2章 国際社会の主要動向とわが国の外交課題
第1節 国際政治の動きとわが国の立場
第1章第1節でも言及したように、米ソを中心とする東西間の対話は、85年3月、ソ連にゴルバチョフ政権が誕生して以来、着実に進展し拡大してきた。過去1年間を振り返って見ると、88年後半にコール西独首相、デミータ伊首相、ミッテラン仏大統領が相次いで訪ソし、ゴルバチョフ書記長も89年にはいり、英国、西独及びフランスを訪問した。米ソ両国間においても、88年12月ゴルバチョフ書記長が国連総会に出席した際に、ブッシュ及びレーガン新旧両大統領との三者会談が行われ、ブッシュ新政権の下でも米ソ間の対話を継続することが確認された。これを受けて、べーカー国務長官とシェヴァルナッゼ外相は、89年3月、ウィーンにおいて欧州通常戦力交渉(CFE)が開催された機会に、米国新政権発足後初の外相会談を行った。同年5月には、ベーカー国務長官が初めてソ連を訪問した。その際、従来の軍備管理・軍縮、地域紛争、人権及び二国間関係の4分野に加えて、環境、自然災害、テロ、麻薬といった全地球的問題についても話し合われた。最近では、89年7月、ブッシュ大統領が、米大統領として12年振りにポーランドを、また、米大統領として戦後初めてハンガリーを訪問した。他方、ゴルバチョフ書記長は、同じく7月に初めて欧州評議会で演説を行った。このほか軍事関係者の交流(注)も注目される動きである。こうした動きは、東西間の対話が進展し、東西関係が新しい局面に入りつつあることを示しているといえる。
今日の東西関係をもたらした背景には、種々の要因があろうが、基本的には次の2点を挙げることができよう。
第1点は、自由と民主主義を奉じる西側諸国が、一方において、北大西洋条約機構(NATO)や日米安全保障条約により、自らの安全を確保するとともに、他方において、政策協調を図りつつ、それぞれ自国の政治的安定と経済・社会発展を達成してきたことである。
第2点としては、経済的困難に直面するソ連・東欧諸国において進められてきた改革が、経済分野にとどまらず、政治・社会等広範な分野に拡大してきたことがあげられよう。こうした改革はこれらの諸国の対外政策にも影響を及ぼしてきている。
国内改革について見れば、ソ連、ポーランドにおいて、89年に一部複数候補制と自由・秘密投票に基づく議会選挙が行われ、ポーランド、ハンガリーにおいては複数政党制度への動きも見られる。このような政治的多元主義の容認は、従来の共産党一党支配体制の下ではタブー視されてきた大胆な改革といえよう。他方、一部の東欧諸国の中には、国内改革に対して依然否定的・消極的態度をとっているところもあり、その対応は一様ではない(詳細は、第3章第6節ソ連・東欧の項参照)。
ソ連は、国内の改革を進めるためには平和で安定した国際環境を必要とし、このために、「新しい思考」に基づく外交を進めている。ゴルバチョフ書記長は種々の演説において、相互依存、利益の均衡、選択の自由、国際法の尊重、脱イデオロギー、「欧州共通の家」といった考え方を示してきた。88年12月ゴルバチョフ書記長が国連演説で発表した50万人の一方的な兵力削減や国防費・軍事カデータの公表、欧州における東西の戦力比較の公表なども「新しい思考」の表れといえよう。
このような動きに対して、西側諸国は、ソ連・東欧諸国内の政治改革志向を「自由と民主主義の拡大を我々と同様に希求する兆候」として、これを積極的に評価し、東側諸国との「対話と協力の増進のための基礎が形成されることを希望」している(89年7月アルシュ・サミットにおける「東西関係に関する宣言」)。特に西欧諸国の中には、現在東側諸国において生じている改革への動きや外交における新しい展開は、東西関係をより一層安定化させていくための好機であると受け止め、新たな関係の樹立を目指してこの機会を活用しようとする考えが広まってきているといえよう。ブッシュ大統領は、5月のテキサス演説において、「封じ込め」政策はソ連にペレストロイカの必要性を認識させた点で功を奏したと述べた上で、今後は「封じ込め」を超えてソ連を国際社会に「統合」していくことを提唱した(詳細は、第3章第3節北米の項参照)。これは、新しい東西関係の方向を示唆するものとして注目される。アルシュ・サミットの「東西関係に関する宣言」も、「我々は、世界各地の紛争に公正な解決を見い出し、低開発と闘い、資源と環境を保護し、そしてより自由でより開かれた世界を築くため、西側諸国と東側諸国が共に働く好機を目前にしている」との認識を示している。
東西関係の個別分野における過去1年間の主な動きは次のとおりである。
(1) 軍備管理・軍縮(詳細は、第2章第1節4.軍備管理・軍縮の項参照)
軍備管理・軍縮の分野でも新たな展開が見られる。ソ連は、東欧駐留軍の一部を含む50万人兵力の削減を開始したほか、西側の要求を受け入れて、未だ完全ではないが、より詳細な国防費や極東を含む全ソ連兵力のデータを公表した。いくつかの東欧諸国においても兵力の削減が開始された。ワルシャワ条約機構(WP)も北大西洋条約機構(NATO)との詳細な戦力比較を公表した。
米ソ間の種々の軍備管理・軍縮交渉は89年6月に再開され、欧州においても、89年3月、欧州通常戦力交渉(CFE)が開始された。
わが国にとって直接的な関心のある極東ソ連軍に関しては、ソ連は、極東地域からの12万人兵力削減を表明し、同地域の軍事力データの公表等を行った。それ自体は基本的に評価できるが、削減内容の詳細は不明であり、わが国の北方領土に駐留する部隊は対象にならないといわれている。公表されたデータに関しても、部分的なものであり、対象地域、部隊及び兵器の種類等、依然不明確な部分が多い。
(2) 地域紛争
地域紛争は、基本的にはその地域固有の歴史的、民族的、宗教的あるいは社会的要因によるものである。しかし、紛争の過程で大国の利害や思惑、東西間の力関係が複雑に絡み合っている場合が多く、なかには、70年代後半にソ連及びその同盟国が直接第三国へ進出・介入したことに端を発しているものもある。地域紛争が東西関係の枠内で重視されるのはそのためであり、問題の解決にあたっては、関係国や国連の努力などに加えて、米ソ両国や西側各国の役割が重要となっている。
アフガニスタン問題は、このような東西関係における地域紛争の典型例であった。それだけに、アフガニスタンからのソ連軍の撤退は、米ソ・東西関係の雰囲気の改善に資するとともに、他の地域紛争にもよい影響を与えた。アンゴラ・ナミビア問題に関する合意、カンボディア問題に関するジャカルタ非公式協議、カンボディアからの越軍撤退表明等の動きが見られた。しかし、ニカラグァ問題については米ソの立場は依然隔たっている。
地域紛争は、今後とも東西関係の重要な議題として協議が継続されていくであろう。それと同時に、地域紛争に内在する固有の問題の根本的解決が、困難を伴うものではあるが、ますます重要になっていくといえよう。
(3) 人 権
第2次世界大戦後、東欧諸国が社会主義化され、東西欧州及び東西両独の分裂が生じ、離散家族の発生など人道問題が発生した。東西関係の枠内において人権問題が重視されるのは、より根本的には、それが、自由、民主主義、基本的人権の尊重といった西側諸国の基本的価値観に結びついているからである。既に、75年のCSCE最終文書(いわゆるヘルシンキ宣言)では、人権及び基本的自由の尊重が謳われるとともに、人・情報等の交流について詳細に規定されている。アルシュ・サミットにおける「人権に関する宣言」にも謳われているように、「人権は正当な国際的関心事」であり、東側諸国における人権の取り扱いは、単に内政事項を理由に看過し得ないものとなっている。
人権問題をめぐり、最近、ソ連における刑法改正論議、政治犯の釈放、ユダヤ系ソ連人の出国数の増加、一部の人権関連条約に関する国際司法裁判所の管轄権受諾、電波妨害の停止、オーストリア・ハンガリー国境沿いの鉄条網の撤去等の動きが出ている。
89年1月に終了したCSCEウィーン・フォローアップ会議では、人権保障のための監視メカニズムが作られ、国境を越えて相互に他国の人権状況を監視する制度ができた。この保障メカニズムの評価と人権状況の検討等を目的に、第1回欧州人権会議がパリで開催され(5月30日~6月23日)、ルーマニア、チェッコ、ブルガリア等における人権侵害につき活発な論議が行われた。第2回会議は90年6月にコペンハーゲンで、第3回会議は91年9月にモスクワで開かれる予定である。
しかしながら、より自由な人と情報の交流、ベルリンの壁の撤去、司法当局の人権侵害の防止、司法権の独立を伴う法治主義の実質的確立等、人権問題の解決へ向けて東側諸国が努力すべきことは依然多く残されている。
(4) わが国の対ソ認識と日ソ関係
ゴルバチョフ政権は、89年3月で5年目に入った。この間、経済機構の整理、国営企業法などの法令の整備に加え、グラスノスチ(情報公開)、民主化を進め、経済の活性化に努めてきた。しかしながら、過去70年間中央計画経済体制の下で温存されてきた党・政府官僚の保守性など、ゴルバチョフ政権の引き継いだ負の遺産の克服は容易でなく、ペレストロイカは今や大きな問題に直面している。ゴルバチョフ書記長自身、「現在、経済、社会、政治分野において、消費財市場、財政状況、社会主義、民族間関係など問題は先鋭化している」と述べている。
特に、経済においては、食糧や消費物資の不足が深刻化し、国民生活は悪化さえしている。財政赤字も約1,000億ルーブル(予算のほぼ20%)に達している。このため、消費財生産の最優先、軍事費の14%削減、一部軍需産業の民需転換などの政策構想が打ち出されているが、物価・金融政策、国家補助金制度の見直しといった困難な問題が山積し、その前途は決して明るくない(ソ連経済の動きについては、第3章第6節1.(1)(ハ)参照)。
ゴルバチョフ書記長は、経済改革推進のために、88年6月の第19回の党協議会以降、政治・社会面における改革を強力に進めてきた。12月には、党と国家機関の権限分離、ソヴィエト(議会)の権限強化、選挙制度の改正を主な内容とする憲法改正が行われ、89年3月には、ソ連史上初めて、複数候補制と自由・秘密投票による人民代議員選挙が実施された。5月に開催された第1回人民代議員大会の模様が広く、詳細に公開されたり、また、6月の最高会議では多くの閣僚が承認されなかったこと等は過去に例のないことである。こうした政治・社会面での肯定的動きは、西側から見ても歓迎できることである。ゴルバチョフ書記長は自ら最高会議議長に就任するなど人事面でも体制を固めたが、今後、ソヴィエトを通して国民の声を背景にペレストロイカを進めていく意向と思われる(ソ連内政の動きについては、第3章第6節1.(1)(イ)参照)。
他方、公開性・民主化の進行が意見の多元化を生み、民族の自主性を求める運動、労働者のストライキに見られるとおり、国民の不満・要求が一層高まってきたことも最近の特徴である。特に、民族問題は、ソ連の根幹にも係わる深刻な問題といえよう。
ソ連国内の肯定的変化や「新しい思考」と言われる外交の展開が、米ソ・東西関係の進展に貢献していることは事実である。東西関係が世界の平和と安定にとり最重要な要素であり、その意味で東西間の対話や交流が進むことは歓迎すべきことである。ソ連及び一部東欧諸国に生じつつある好ましい変化については、正当に評価するにやぶさかであってはならない。しかし、東西関係が相互信頼に基づき真に安定化していくためには、こうした肯定的変化が、ソ連の内外政策全般にしっかりと根づいていくことが重要であり、ソ連の単なる意図の表明のみによって判断することには慎重たるべきである。同時に、東西間においては、依然として基本的相違や対立的要因があるという事実も忘れてはならない。アルシュ・サミットの「東西関係に関する宣言」が「ソ連政府に対し、その新たな政策や宣言を、国内及び国外において、更に具体的な行動に移す」よう求め、抑止力の維持の重要性を改めて指摘しているのも、このような西側の一致した認識を示すものである。
東西関係の進展に伴い、わが国の対ソ関係が持つ意味合いが増してきている。真に安定した東西関係を構築し、アジア・太平洋地域の平和と安定を図るという観点から日ソ関係の改善がますます重要になりつつある。わが国は、これまで北方領土問題を解決して、日ソ平和条約を締結することにより、日ソ関係を真に安定した基礎の上に置くとの基本的な考えに立って、日ソ関係の改善のために大きな努力をしてきた。わが国としては、ソ連の「新しい思考」が日ソ関係に十分に反映されることとなるように、その積極的対応を促しつつ、今後とも最大限の努力を続けることが重要である(日ソ関係の各論については、第3章第6節ソ連・東欧の項参照)。
(1) アジア・太平洋地域(注)の経済発展と国際政治環境
アジア・太平洋地域は、貿易・投資等の増大により、域内の相互依存関係が着実に深化しつつあり、世界経済に占める比重をますます増大させている。また、アジアNIEsを始めとする域内諸国・地域は市場経済に基づき、目覚ましい経済発展を遂げており、活力あふれる地域として世界の注目を集めている。さらに、アジアNIEs及びASEAN諸国の顕著な経済発展は、民主化を促す要因となり、域内の政治的安定に貢献している。
米国は、アジア・太平洋地域を重視する姿勢を打ち出し、わが国を含むアジア・太平洋諸国との関係強化に努めており、米国のこのような姿勢は、強固な日米関係と相まって、アジア・太平洋地域の安定に大きく貢献している。
朝鮮半島においては、南北が軍事的・政治的に対峙
東南アジア地域においては、カンボディア問題については、特に89年にはいりカンボディア各派や関係諸国の動きが活発化し、政治解決の早期達成の可能性も出てきている。アキノ政権のフィリピンも、国内の共産勢力などの不安定要因を抱えてはいるが、全体としてみれば安定化の方向に向かいつつある。
中国及びソ連は、経済改革を推進していくために安定した国際環境を必要としている。89年5月のソ連のゴルバチョフ書記長の中国公式訪問により、中ソ首脳会談を通じて両国関係は党の関係も含めて正常化された。また、中国は、ソ連のみならず、インド及びインドネシアなど近隣諸国との関係改善にも努めてきている。他方、学生・市民の民主化要求運動に対する中国指導部による武力鎮圧措置は、多くの国々の強い批判を招くところとなった。ソ連は従来、アジア・太平洋協力に批判的な態度をとっていたが、ゴルバチョフ書記長のウラジオストック演説(86年7月)及びクラスノヤルスク演説(88年9月)に見られるように、経済的ダイナミズムを有するアジア・太平洋地域への関心を増大させている。
(2) アジアNIEs及びASEAN諸国の経済発展の特徴
アジアNIEsは、60年代から輸出主導型の経済運営により、高い経済成長を達成してきた。80年代にはいり一時期成長に陰りがみられたが、85年のプラザ合意以降の先進国間の通貨調整や金利低下、原油価格低下を契機として輸出の拡大により再び高い成長を遂げた。しかし、大幅な対米貿易黒字を計上するアジアNIEsに対しては、通貨切上げ要求とともに、より大きな国際的責務を果たすべしとの主張が米国を中心に高まった。このような状況において、89年1月、アジアNIEsとOECD諸国との非公式セミナーが開催され、先進国との新しい協調関係を模索する試みとして注目された。アジアNIEsは、種々の脆
従来、アジアNIEs及びASEAN諸国は、わが国から資本財及び中間財を輸入し、米国に製品を輸出するという貿易構造上の特色が見られた。しかしながら、急激な円高による産業構造の調整あるいは内需の拡大により、わが国は、アジアNIEs及びASEAN諸国からの製品輸入を大きく増大させている。わが国からの直接投資も急速に増大し、今後、現地生産が定着するに従い、わが国への逆輸出が一層増大するものと思われる。わが国とアジアNIEs及びASEAN諸国との間では、水平分業への動きを伴う相互依存関係の緊密化が進んでいる。また、アジアNIEsは、国内賃金の上昇あるいは通貨切上げ等により、労働集約型産業のASEAN諸国への移転を促進させており、両グループ間の経済関係も一層緊密化している。中国とアジアNIEs及びASEAN諸国とは、これまで、相互に輸出市場を提供し合うことにより貿易拡大を図ってきており、豪州及びニュー・ジーランドは、対EC貿易の比重が低下する一方、アジアNIEs及びASEAN諸国との貿易が拡大傾向にある。
(3) アジア・太平洋協力
このように経済的活力にあふれるアジア・太平洋地域は、21世紀に向けて世界の牽
アジア・太平洋協力については、67年に設立された財界人の国際フォーラムである太平洋経済委員会(PBEC)、あるいは80年に発足した官・財・学の三者構成というユニークな組織である太平洋経済協力会議(PECC)などが、先駆者として活動を続けてきた。アジア・太平洋協力に対する関心の高まりを反映して、政府ベースでアジア・太平洋協力を推進するため、関係各国政府間のフォーラムを設置すべきであるとの意見が種々表明されている。この背景として、85年以降、太平洋貿易が大西洋貿易を上回っていること(下図参照)、及び米加自由貿易協定の締結あるいは92年に迫ったECの市場統合の動きに対して、経済的ダイナミズムに溢れるアジア・太平洋地域は、域外に開かれた自由な地域として発展を促進させることが重要であるとの認識の高まりがある。具体的には、89年1月に豪州のホーク首相は、韓国においてアジア・太平洋協力に関する政府間機構の設置に関する提案を行い、また、ベーカー米国務長官も、89年6月のニュー・ヨークでの演説において、新たな多国間協力のためのメカニズムの必要性を指摘した。さらに、7月にブルネイで開催されたASEAN拡大外相会議においても、参加各国よりアジア・太平洋協力につき関心が表明された。
わが国としては、アジア・太平洋地域の一国として、同地域の安定と発展のためにアジア・太平洋協力に対し今後とも積極的な貢献を行っていく必要がある。しかしながら、アジア・太平洋地域は、域内諸国の経済発展段階に依然として大きな格差があり、文化的・社会的にも多様性に富んでおり、このような状況を念頭において、89年5月にASEAN諸国を訪問した竹下総理大臣は、ジャカルタにおける政策演説で、アジア・太平洋協力に対するわが国の基本方針として、(あ)ASEAN諸国の考え方の尊重、(い)世界に開かれた活力ある自由貿易体制の維持・強化、(う)多面的かつ着実な協力の推進という3原則を表明した。このようなわが国の方針は、ASEAN諸国を始め域内諸国の高い評価を得たところであり、域内諸国が幅広い分野においてまず対話と協力を着実に進めていくことがアジア・太平洋協力推進のために必要である。
過去1年間は、中ソ関係が正常化へ向けて大きく動いた1年といえる。ゴルバチョフ書記長は、89年5月15日より18日まで中国を公式に訪問し、トウ小平中央軍事委員会主席を始め中国の指導者と30年振りに首脳会談を行った。その結果、今後の両国関係の基本文書となる中ソ共同コミュニケが発表され、両国の関係は党の関係を含めて正常化された。
(1) 関係正常化の経緯
中ソ関係が正常化される上で重要な意味を持つのは、ゴルバチョフ書記長の登場である。しかし、正常化への過程は、10年前にさかのぼることができる。
79年4月、中国はソ連に対して友好同盟相互援助条約の不延長を通告したが、同時に両国関係改善のための交渉の開始を提案し、これを受けて10月に中ソ協議が開かれた。この協議は、ソ連のアフガニスタン侵攻で中断されたが、その後82年になり、ブレジネフ書記長(当時)が中ソ関係改善の用意があることを表明し(3月、タシケント演説)、中国も、胡耀邦総書記(当時)が9月の第12回党大会において「独立自主外交」を打ち出すとともに、ソ連が「3つの障害」(注)を除去すれば中ソ関係の正常化は可能であると述べるに至った。翌10月に関係正常化に関する外務次官級協議が開催され、この協議はその後も定期的に開催された。この頃より、両国関係は、経済・貿易等の分野で急速な拡大を見せた。こうして、両国は正常化への道を歩み始めたが、政治的関係の改善は進展せず、「3つの障害」の解消のためには、85年のゴルバチョフ書記長の登場を待たねばならなかった。
ゴルバチョフ書記長は、86年7月のウラジオストック演説において、対中関係の改善により積極的な意欲を示した。これを受けて、87年に中ソ国境交渉が約9年振りに再開され、また、モンゴル駐留ソ連軍1個師団が撤退した。87年12月に署名された米ソ間のINF全廃条約(88年6月発効)は、ソ連アジア部のINFが中国に与えていた脅威を除去する点で、中国にとって意味があったと思われる。アフガニスタン問題もソ連軍の撤退により解消し、カンボディア問題についても88年8月に中ソ外務次官級協議が開催される等、「3つの障害」をめぐる中ソ間の動きが見られた。こうして、88年8月、李鵬総理は訪中した竹下総理大臣に対して、「中ソ関係の全般的正常化が議事日程にあがっている」と明言するに至った。その後、88年9月に国連で行われた中ソ外相会談を経て、同年12月及び89年2月に両国外相の相互訪問が行われ、中ソ首脳会談の開催が最終的に合意された。
(2) 首脳会談の概要
首脳会談における最大の課題は、今後の両国関係の基本原則を含む二国間関係及びカンボディア問題であったといえる。
中ソ関係の基本原則については、中ソ共同コミュニケにおいて、中国側がこれまで主張してきた「平和共存5原則」(注)の内容がすべて列挙されている。また、正常化は第三国の利益を害するものではないこと、中国は如何なる国とも同盟関係を結ばないこと、両国とも覇
両国間の国境確定問題や国境兵力削減問題については、大きな進展は見られなかった。前者について、従来外務次官レベルで行われてきた交渉を、今後は必要に応じ両国外相間の協議に委
カンボディア問題については、89年2月のシェヴァルナッゼ外相訪中時に中ソ間で「9項目声明」が出されたが、主としてカンボディアの国内体制をめぐり双方の立場に相違があった。首脳会談においても、この点をめぐる中ソの相違は解消されず、共同コミュニケには「9項目声明」と同じく双方の立場が両論併記された。
ゴルバチョフ書記長は、北京滞在中に人民大会堂で演説を行い、中ソ関係及びアジア・太平洋政策について述べるとともに、ソ連が88年末から表明してきた今後2年間における一方的軍備削減のうち、極東地域について若干具体的な計画を発表した。このような計画が発表されたこと自体は、それなりに評価すべきであろうが、ソ連の言葉が今後2年間にどのように実施されていくのかを、十分注視することが必要である。
(3) 関係正常化の背景
中国がソ連との関係を正常化する上で重視してきた「3つの障害」、特にカンボディア問題をめぐる相違は、首脳会談においても完全に解消したわけではなかった。それにもかかわらず、関係正常化が宣言された背景にある重要な要因としては、米ソ間の対話が大きく進展し、国際環境が好転しつつあることが挙げられよう。さらに、中ソ両国とも国内経済の改革を最優先課題として取り組んでおり、そのために両国とも平和な国際環境を必要としている。このような情勢の下で、中ソ関係が対立状況にあることは得策ではないとの判断が双方に生じたものと思われる。
中国が改革・開放を進める中で、かつての対立の主な原因の一つであったイデオロギー上の争点が意味を失ったことも、重要といえよう。これに関連して、ソ連は、中国を社会主義国家であると認識した上で、中国との関係を平和共存原則に基づいて築いていく用意があると表明した。このことは、ソ連が従来、平和共存原則は体制の異なる国との関係を律する原則であるとしてきたことを考えれば、ソ連の全般的対中姿勢の重要な変化を示すものとして、中国が評価する要因であったと思われる。
(4) 今後の中ソ関係の展望
89年7月、田紀雲中国副総理はソ連を訪問し、第4回中ソ経済・貿易・科学技術協力委員会が開かれた。これは関係正常化後、最初の両国ハイレベルの接触となった。中ソ関係は、今後、経済・貿易等の分野のみならず、政治的分野でもある程度関係を拡大していこう。しかし、改革に取り組む中ソ両国の国内事情や中ソを取り巻く国際環境は、現在と1950年代とでは基本的に異なっており、また、両国間には依然相違点が残っている。これらのことを考慮すれば、両国関係が、かつてのような同盟関係に戻ることはないと考えられる。中ソ関係の正常化によりアジアにおける国際政治の基本的枠組みに変更がもたらされることはないといえよう。わが国としては、かつては武力衝突も辞さなかった中ソニ大社会主義国の関係が正常化されたこと自体は、基本的に評価するものである。
同時に、中ソ関係正常化を背景として、アジアにおいては、ガンジー・インド首相の訪中(88年12月、インド首相として34年振りの訪中)、国交正常化の協議の開始に関するインドネシア・中国間の合意(89年2月)、モンゴル外相の初の訪中(89年3月)、アキノ大統領の訪ソに関するフィリピン・ソ連間の正式合意(89年7月)等の動きが見られた。また、中ソ対立を自国の外交の大きな与件としてきたヴィエトナム、北朝鮮も、自らの外交の再調整を迫られていくものと考えられる。
中国の民主化運動は、ゴルバチョフ書記長の訪中の間も大きな盛り上がりを見せていたが、その後、武力で鎮圧されるに至り、中国国内の事態は中国の対外関係、特に西側諸国との関係に一定の影響を及ぼすこととなった。このような状況が、直ちに現下の中ソ関係を質的に変えるとは考えられないが、今後の中ソ関係の行方は注目される。
わが国としては、中ソ両国の関係が、今後、アジアの平和と安定に資する方向で進展することを期待している。
(1) 米ソ戦略核兵器削減交渉(START)及び防御・宇宙交渉(D&S)
米ソ両国は85年のジュネーヴ首脳会談以来、戦略核兵器の50%削減につき基本的に合意しているが、それに基づく戦略核兵器削減交渉においては依然として種々の相違点が残されており(別表参照)、INF全廃条約成立後の集中的な交渉努力にもかかわらず、88年11月、いったん休会となった。
[別表] STARTの合意点・未合意点
1.主な合意点 (1)戦略核運搬手段:1,600基まで 弾頭総数 :6,000発まで(SLCM〔海上(中)発射巡航ミサイル〕は除外) (2)ICBM(大陸間弾道ミサイル)とSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)の弾頭数合計は4,900発まで (3)重ICBMは運搬手段154基、弾頭数1,540発まで 2.主な未合意点 (1)SDI(戦略防衛構想)との関係 (2)SLCMの取り扱い (3)移動式ICBMの取り扱い (4)ALCM(空中発射巡航ミサイル)の射程及び算定方法 (5)検証体制 |
ブッシュ米新政権は発足以来、対ソ政策全般にわたる戦略的見直しを慎重に取り進めてきたが、89年5月の米ソ外相会談(モスクワ)におけるSTART交渉の再開合意に従い、6月よりジュネーヴにおいて新ラウンド(レーガン時代から数えて第11回目)が開始された。開始早々、米側から検証問題に関し新たな提案が行われたが、米ソ両国の残された主要対立点に変化は見られず、再開後の交渉にはなお困難が予想される。
STARTと並行して行われている防御・宇宙交渉も89年6月に再開されたが、対弾道ミサイル制限(ABM)条約の下で許容される活動等につき、依然として両者間の隔たりは大きい。
(2) 中距離核戦力(INF)全廃条約
87年12月のワシントンにおける米ソ首脳会談において署名され、88年6月のモスクワ首脳会談における批准書交換により発効したINF全廃条約は、現在、米ソ両国により順調に履行されている。
(3) 欧州通常戦力交渉(CFE)
欧州における通常戦力は従来からワルシャワ条約機構(WP)側が圧倒的に優位にあり、73年以降行われてきた中部欧州相互均衡兵力削減交渉(MBFR)も具体的成果をもたらさなかった。NATOは、対象地域を大西洋からウラルまでの欧州全域に拡大し、通常戦力の不均衡是正、東側の奇襲攻撃能力・大規模侵攻能力の除去を目的とする新たな交渉をWP側との間で行うこととし、CSCEウィーン・フォローアップ会議(第3章第5節西欧の項参照)の枠内で、87年2月よりそのための準備会合を続けてきた。その結果、89年1月、交渉マンデートにつき合意が成立し、3月からウィーンにおいて欧州通常戦力交渉が開始されるに至った(これに伴いMBFRは終了)。
NATOは交渉当初から、WP側の戦車、火砲等の大幅削減を求める積極的な提案を行ってきたが、89年5月のNATOサミットにおいて、ブッシュ大統領は半年~1年以内のCFE妥結、92~93年までの削減完了を目標とする大胆な提案を行い、同時にWP側の主張する航空機及び兵員削減の一部受入れも表明した。
WP側は自らの陣営の通常戦力面における圧倒的優位を否定し続けているが、「保有数の多い側が、より大きな削減をなすべし」との原則は受け入れ、双方が共通の上限を設定する原則に合意し、また、NATOの提示した構想の枠組みに基本的に応じる方向で交渉に臨んでいる。しかしソ連は、CFEの対象からは明示的に除外されている短距離核(SNF)及び海軍戦力の問題を繰り返し取り上げてきており、特にSNF削減交渉に関しては西独国内で早期開始論が強いため、NATO内の意見調整を必要とする問題となっていた。89年5月のNATOサミットでは、あくまでCFEの妥結と実施を優先させる方向でNATO内の意思統一がなされた。
なお、CFE参加23か国に非同盟・中立12か国も加えた35か国で、欧州信頼・安全醸成措置交渉(CSBM)が同じく89年3月からウィーンで開催されている。
(4) 化学兵器
イラン・イラク紛争における化学兵器の使用を契機として、その包括的禁止を求める国際的機運が高まり、ジュネーヴ軍縮会議において69年以来、精力的に行われてきた包括禁止条約作成交渉に一層の期待が寄せられるようになった。こうした中で、88年9月、レーガン米大統領は国連演説において、化学兵器の使用禁止を定めたジュネーヴ議定書(1925年)の再確認を目的とする国際会議の開催を提唱し、同議定書の寄託国であるフランス政府の主催で、89年1月、「化学兵器禁止パリ国際会議」が開催された。会議には149か国が参加し、わが国からも宇野外務大臣が出席して演説し、会議の基調作りに貢献した。5日間にわたる討論の結果、化学兵器の使用禁止を再確認し、軍縮会議における包括禁止条約交渉努力の強化を求める最終宣言が採択され、パリ会議は成功裡に終了した。これを受けて、ジュネーヴにおける条約交渉は一層本格化しつつある。
(5) 核不拡散
90年に行われる核不拡散条約(NPT)第4回再検討会議は、95年にNPT体制の存続そのものを検討する会議を控えた最後の再検討会議であり、これを成功させることは極めて重要な意義を持つ。
(1) 概 説
地球上の生物の存在は、微妙なバランスを保った生態系の上に成り立っており、清浄な空気、水及び肥沃
オゾン層の破壊、二酸化炭素等の温室効果ガスによる地球の温暖化、酸性雨、熱帯林の破壊及び砂漠化の進行、海洋汚染という、その被害が地球的規模で拡散する環境問題は、地球生態系に極めて重大な影響を及ぼすことから、今や人類が力を合わせて解決しなければならない最重要課題の一つとして国際的に認識されるようになってきた。近年の国連総会、サミット等の国際会議及び二国間会議においても、この問題が重要な議題として取り上げられており、各国が地球的規模の環境問題を重要視していることがうかがえる。
例えば、89年5月に日米環境保護協力協定(75年8月調印)に基づき開催された日米合同企画調整委員会では、特に地球環境問題に焦点をあてて意見交換が行われた。また、89年5月の国際エネルギー機関(IEA)閣僚理事会においては、地球温暖化を含むエネルギーと環境の問題に焦点があてられ、環境問題の解決に向け、加盟各国はエネルギー政策上の措置、開発途上国に対する協力等を進めることが合意された。6月のOECD閣僚理事会コミュニケで環境政策と経済政策のより系統的、効果的な統合の必要性が確認された。
こうした国際的な動きを受け、89年7月のアルシュ・サミットでも地球環境問題に大きな関心が寄せられ、経済宣言の3分の1は同問題への言及であった。同宣言の中では、特にグローバルな対応の必要性や科学的知見の重要性、途上国の自助努力に対する支援の重要性など、環境問題に対する取組みにあたっての基本的方針が示されたほか、地球温暖化、オゾン層破壊、熱帯林保全等の個別の問題についての対応の具体的な方向が打ち出された。
(2) 問題の特徴
環境問題は、先進国においても開発途上国においても、従来より自然破壊、大気汚染、水質汚染といった形で存在していたが、近年、大きくクローズアップされているのは地球的規模の環境問題であり、従来型の環境問題に加え、さらに次のような特徴が見られる。
(イ) 汚染物質等の発生国と被害を受ける国とが必ずしも同一ではなく、汚染物質が国境を越えて被害を及ぼし、かつその被害が広く拡散すること。
(ロ) その被害は、長時間をかけて徐々に進行する複雑なプロセスを経て発生し、科学的な因果関係を立証することは困難なこともあるが、被害が生じてから対策をとったのでは手遅れになる可能性があることから、検討の対象には未然の予防措置を含める必要があること。
(ハ) 問題の解決にあたっては、世界が一致協力して対処することが必要であり、国際協力の枠組みをつくることが不可欠であること。
(3) 国際的動向
このような特徴を有する地球的規模の環境問題に対し、国際場裡において具体的な対策が種々検討されて実施に移されてきているが、その主要なものは次のとおりである。
(イ) オゾン層保護
「オゾン層の保護のためのウィーン条約」(88年9月発効)、及び「オゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書」(89年1月発効)に従い、特定フロンの規制が89年7月1日から開始された。また、89年4~5月にヘルシンキで開催されたウィーン条約及びモントリオール議定書第1回締約国会議において、同会議の参加国により特定フロンを今世紀中に全廃すること、今後一層の規制強化を進めていくこと等を内容とするヘルシンキ宣言が採択された。さらに、89年5月31日から6月2日にかけて、わが国において「オゾン層保護アジア・太平洋地域セミナー」が開催された。
(ロ) 地球温暖化(気候変動)問題
地球温暖化問題に対処するため、88年11月に国連環境計画(UNEP)と世界気象機関(WMO)により「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」が設置され、気候変動に関する知見の収集、影響評価及び対応策についてあらゆる面から検討を行い、90年の第2回世界気候会議に報告書を提出することとなった。また、89年5月のUNEP第15回管理理事会において、この報告書作成後、早急に気候変動に関する枠組み条約についての意見交換を開始するよう勧告する旨の決議が採択された。
89年3月にハーグで開催されたフランス首相等主催の環境首脳会議では、地球温暖化対策のために新しく、かつ、一層効果的なアプローチが必要であること等を内容とする「ハーグ宣言」が採択された。
(ハ) 熱帯林の保全
熱帯林の保全については、世界食糧機関(FAO)がすでに85年の第7回FAO熱帯林開発委員会において、包括的な熱帯林行動計画(TFAP)を採択している。今後、より具体的な計画が作成されるに至れば、各国・国際機関等の協力の一つの指針となろう。
また、国際熱帯木材機関(ITTO)(本部・横浜)は、熱帯木材貿易のみならず生態系の維持の観点を含む熱帯林の保全・開発という幅広い目的の下に設立された機関であり、設立3年を経て、その事業活動が軌道に乗りつつあることから、今後、その活動が期待されている。
(ニ) 有害廃棄物の越境移動
89年3月に、UNEPの主導の下、有害廃棄物を越境移動する場合の通報制度等を定めた「有害廃棄物の越境移動及びその処分の管理に関するバーゼル条約」が採択された。
(ホ) 今後の動向
92年には、「国連人間環境会議」(72年に開催)後の20年間における環境の状況を再検討し、今後世界が取り組むべき課題と対策を明らかにすることなどを目的とした「国連環境と開発に関する会議(仮称)」が開催される予定であり、同会議に関して様々な検討が積極的に進められていくものと思われる。
[別表] 地球環境問題の概要 (1) オゾン層の破壊 フロンの大気中への放出に伴い、成層圏のオゾン層が破壊され、その結果、有害紫外線が増大し、皮膚癌が増えるなどの健康影響や生態系への悪影響が懸念されている。 (2) 地球の温暖化 大気中の二酸化炭素、フロン、メタン等の温室効果を持つガスの濃度上昇により地球が温暖化するおそれがあり、このまま推移すれば、2030年代には、平均気温は摂氏1.5~4.5度上昇し、海面は20~140cm上昇すると推計(フィラハ会議)されており、異常気象の発生、農業生産、生態系への影響などが懸念されている。 (3) 酸性雨 化石燃料の燃焼等に伴い排出される硫黄酸化物、窒素酸化物等により、ヨーロッパ、北米等で、酸性の強い降雨が観測され、森林、湖沼への被害が生じている。 (4) 熱帯林の減少 焼畑移動耕作、薪の採取、農地への転用、過放牧、商業材の伐採等により、毎年熱帯林が1,130万ha(本州の約半分の面積)減少している。熱帯林の減少に伴い、開発途上国の生活基盤や野生生物の生息地が損なわれるほか、気候変化や土壌流出等の影響も生じている。 (5) 砂漠化 過放牧や過剰採取等により、世界各地で砂漠化が進行している。毎年600万ha(四国、九州の合計面積に相当)が砂漠化。食糧生産への影響や薪炭材の不足により周辺住民の生活が脅かされるほか、気候への影響も懸念されている。 (6) 野生生物種の減少 生息地の破壊等により、野生生物種が2000年までに50万~100万種(全体の15~20%)絶滅すると予測されている。 (7) 海洋汚染 世界の海洋全般に及ぶ油、浮遊性廃棄物、有害化学物質等による汚染の進行が懸念されている。 (8) 有害廃棄物の越境移動 先進国から開発途上国への有害廃棄物の不適正な輸出及びそれに伴う環境問題が発生している。 (9) 開発途上国の公害問題 開発途上国においても、工業化や人口の都市集中の進展等に伴い、公害問題が発生して、国際協力による解決が要請されている。
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(1) 国際テロ問題とわが国の立場
(イ) 世界における国際テロは、依然として減少しておらず、世界の平和と民主主義にとって深刻な問題となっている。わが国を始めとする諸国は、国際テロを国際政治上の重要問題の一つと位置づけており、国連、サミット等においても、しばしば取り上げられている。
また、わが国民にとっても、国際テロ問題はもはや対岸の火事ではない。近年、邦人の海外渡航、邦人企業の海外進出が急激に増大しており、これに伴い邦人が外国で国際テロ事件に巻き込まれる可能性も高まってきている。さらに、海外邦人や邦人企業が海外において目立つ存在になり、直接テロの標的にされる恐れも次第に強まっている。
(ロ) わが国民を人質に取ってわが国政府に対して不法な要求をつきつけるようなテロ事件は、77年9月の日航機ハイジャック事件(ダッカ事件)以降発生していない。今後、万一かかるテロ事件が発生した場合、政府として、人質の安全救出に最大限の努力をすることは当然であるが、法秩序を維持し、その後のテロ事件を未然に防遏
わが国がこの基本方針を堅持するためには、国民全体の理解と協力が不可欠である。
(2) 最近の国際テロの動向
(イ) 国際テロ事件は依然として世界各地で発生しており、特に最近は、多数の犠牲者を伴う航空機爆破事件が深刻な問題となっている。88年12月にはパン・ナム航空機爆破事件が発生し、邦人1人を含む270人の無辜
(ロ) 86年頃までに頻発した国家が明白な形で支援したテロ事件は、テロ防止に向けた国際協力の推進等によって、最近は減少傾向にあると見られるが、引き続き警戒を要する。
(ハ) 89年2月、イランの最高指導者ホメイニ師が、小説『悪魔の詩』はイスラムを冒とくするものであるとして、その作者と出版関係者に対する殺人の教唆を行い、また、5月にはラフサンジャニ国会議長が英、米、仏の人々に対するテロを呼びかけるなど、イランはテロを容認しているとして国際的に懸念が表明された。
(3) 日本赤軍の動向
88年8月以降は日本赤軍が関与したテロ事件は発生していないが、メンバー逮捕への報復を示唆していること等もあり、その動向には今後とも警戒を要する。
外務省は、在外公館を通じ、日本赤軍の動向把握に努めるなど所要の措置を講じている。
(4) 対テロ国際協力の進展
(イ) テロ対策に関しては、現在、三国間及び多国間の国際協力が積極的に推進されている。また、わが国を始め、いくつかの国で国際協力に基づくテロリストの逮捕・訴追が行われており、今後の国際テロ防止に資するものとみられる。
(ロ) 最近の具体的な国際協力は次のとおりである。
(a) 88年9月~10月のソウル・オリンピックの際に、テロ事件等の発生を阻止すべく、わが国と韓国等との間で緊密な情報交換を行った。
(b) 88年12月に発生したパン・ナム航空機爆破事件に関し、89年1月、フランス(サミット議長国)のミッテラン大統領の提案でサミット参加国専門家による特別会合が開催され、同事件に関する情報交換が行われた。また、国際民間航空機関(ICAO)も事件の再発防止に向けた検討を進めており、2月には、同事件を討議するため、閣僚レベルのICAO理事会特別会合を開催し、再発防止策に関する決議を採択した。さらに6月、国連安全保障理事会において、「プラスチック爆発物等の探知」に関する決議(決議635)がコンセンサスで採択され、ICAO等国際機関に対し、テロ防止のための協力の呼びかけが行われた。
(c) 89年2月の「大喪の礼」の際、わが国は、世界各国からの弔問使節の接受とその身辺警護に万全を期すとともに、日本赤軍等によるテロ事件を阻止するため関係各国に協力を要請し、テロ動向等について情報交換を行った。
(d) 89年7月に開催されたアルシュ・サミットでは、テロリズムに関する宣言が発出され、テロと断固闘うべきことが再確認されるとともに、航空テロの再発防止に向けた措置の必要性が強調された。
国連は、45年の創立以来、平和維持、軍縮、南北問題、社会、人権問題と活動分野を広げ、普遍的国際機関として、世界の平和維持、人類の福祉に貢献してきたが、その後平和維持分野での無力さ、経済社会分野での活動の沈滞等が指摘されてきた。
しかし、最近においては、アフガニスタン問題におけるジュネーヴ協定の成立、イラン・イラク紛争における停戦実現、アンゴラ・ナミビア問題の解決等、国連を中心とする地域紛争の解決努力が功を奏し、平和維持面での国連の活動が活発化している。
また、平和維持分野以外においても、環境問題等地球的規模の諸問題に取り組む国連の役割がますます重要となってきている。
主要国においても、近年、米国が滞納分を含めた分担金の支払いに積極的な姿勢を示したり、ソ連が国連の役割を重視し国連への積極的参加姿勢を示す等、国連を中心とした国際協力の機運は高まってきており、国連における雰囲気も、対立の場から対話の場へ変わりつつある。このように、国連に対する各国の期待や評価が高まるなか、国連が再活性化してきているのが最近の特徴である。しかしながら、アフガニスタン問題、イラン・イラク紛争等国連を中心とする地域紛争の解決努力が依然として最終的解決に至っていないこと、財政困難、経済分野の機構改革の必要性等の課題が存在する中で「国連の復権」ともいうべき最近の傾向がさらに定着していくかどうかは、今後の活動成果にかかっているといえよう。
(1) 平和維持活動の活発化
最近の国連の諸活動の中で特筆すべきは、平和維持活動の活発化であり、88年12月、国連の平和維持活動がノーベル平和賞を受賞したことは、国際社会の同活動に対する高い評価を示すものであった。
国連の平和維持活動(Peace Keeping Operation:略称PKO)は、国連憲章が第43条に基づき設置される国連軍を中心とした集団安全保障体制を想定しているにもかかわらず、戦後の東西対立の中、安保理常任理事国の間で協調が得られず、同体制が機能しなかったため、国連が紛争の平和的解決につき実際の経験を通じ確立してきたものである。その形態としては、主として、選挙監視、停戦違反行為の報告等を任務とする監視団(通常、武器を携帯せず)と紛争地域における停戦の実施保障等を任務とする平和維持軍(一般的に、防衛的武器の所持が許される)がある。国連の平和維持活動は、現在、10の監視団と平和維持軍が活動中であるが、そのうち、国連アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション(UNGOMAP)、国連イラン・イラク軍事監視団(UNIIMOG)、国連アンゴラ監視団(UNAVEM)、国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)、国連ニカラグァ選挙監視団(ONUVEN)の5つが88年から89年にかけ活動を開始している。
国連を中心とする地域紛争の解決努力の現状についてみれば、アフガニスタン問題においては、88年4月のジュネーヴ協定に基づき89年2月15日、ソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了したものの、アフガニスタン国内におけるナジブラ政権とゲリラ側の対峙
他方、アンゴラ・ナミビア問題においては、88年12月のアンゴラ・キューバ・南ア3か国協定の成立を端緒とするアンゴラ問題の解決への動きを契機に、89年1月に国連アンゴラ監視団が発足したほか、78年の安保理決議435(南アのナミビア不法統治の終了等を内容)を実施するための国連ナミビア独立支援グループ(UNTAG)が89年4月1日発足し、90年4月1日のナミビア独立に向け、制憲議会選挙(89年11月上旬予定)等のプロセスがUNTAGの監視下で進められている。
さらに、中米問題においても、89年2月にエル・サルヴァドルで開催された中米5か国大統領会議における要請を踏まえ、中米問題の和平プロセスに国連が関与していくこととなり、これを踏まえ、90年2月25日予定のニカラグァにおける総選挙を監視すべく、89年8月に国連ニカラグァ選挙監視団が発足する運びとなった。
また、西サハラ問題、サイプラス問題等においても、国連事務総長が関係当事者との間で引き続き仲介努力を行ってきているほか、カンボディア問題においても88年7月末パリにおいて開催された国際会議においても国連事務総長が出席し、国際監視機構の事前調査団派遣を提案する等、平和的解決に向け大きな役割を果たしており、地域紛争解決への和平プロセスにおける国連の関与への期待は高まっている。
このように、平和維持分野での国連の活動は活発化するなか、わが国としても、「平和のための協力」を推進する一環として、かかる平和維持活動に対する資金面並びに要員派遣面での協力を強化・拡充してきている。また、88年までの2年間、安保理非常任理事国として、イラン・イラク紛争において決議案作成段階から和平に向けて積極的に関与する等の活動を行ってきたが、今後も、国連の場において地域紛争解決のための国連事務総長や安保理の努力を引き続き支援していく方針である。
国連の平和維持機能に関しては、紛争の未然防止の側面も重要であり、わが国を始め西側が提案した「紛争予防宣言」が88年の第43回国連総会において採決された。これにより、安保理、総会、事務総長の平和維持分野での役割が有機的に位置づけられ、国連全体の平和維持機能の強化が期待されている。
(2) 経済面での活動
(イ) 90年代開発問題への取組み
61年の第16回国連総会において、ケネディ米大統領(当時)は60年代を「国連開発の10年」に指定し、国連諸機関及び国連加盟国が開発のための資金的・技術的協力を強化することを提唱した。以後、国連においては70年代及び80年代を対象とする第2次及び第3次「国連開発の10年」のための国際開発戦略が定められてきたが、88年の第43回総会で、90年代を対象とする「第4次国連開発の10年のための国際開発戦略」の準備委員会の設立が決定された。従来の開発戦略も、第2次、第3次開発戦略において政府開発援助(ODA)の対国民総生産(GNP)比を0.7%に目標を定める等、各国の政策に具体的な影響を与えてきたが、90年代の開発戦略においては、途上国の多様化という新しい国際社会の現実に則し、国際社会全体として達成していくべき指針を示す開発戦略とすることが望ましく、世界経済の運営に多大の影響を与え、世界最大の援助国となりつつあるわが国としては、開発戦略の策定にあたり積極的な貢献をすべく、その準備に参画している。
また、第43回総会では、90年4月に「国連経済特別総会」を開催し、途上国の成長と開発問題を含む国際経済問題につき討議することが決定された。さらに、90年9月には後発開発途上国(LLDC)対策のための会議がパリで予定される等、21世紀に向けて途上国の開発・成長のための国際協力の枠組みの再構築の試みが始められている。
(ロ) シュミット委員会
87年7~8月、ジュネーヴで開催された第7回UNCTAD総会における倉成外務大臣(当時)の提案を受けて、国連大学主催の下、シュミット元西独首相を議長とする16人の有識者からなる「開発途上国への資金フローに関する独立グループ(通称:シュミット委員会)」が結成された。シュミット委員会は89年4月及び5月、東京とワシントンで会合し、21世紀に向けての世界経済運営につき、大所高所から政府とは独立した自由な立場で検討を行い、7月、世界の政策決定者に対する提言を含む報告書を発表した。同報告書はシュミット委員会のメンバーから各国指導者に直接手交されたが、開発途上国への資金フロー促進のためには、わが国のリーダーシップが不可欠である旨強調している。
(ハ) 国際防災の10年
88年は例外的に自然災害の多い年であったこともあり、第43回国連総会においてもバングラデシュおよびスーダンの洪水、ジャマイカのハリケーン等について救済援助決議が採択される等、自然災害の問題に対する関心の高まりが見られ、わが国が中心になって進められている「国際防災の10年」についても、141か国の共同提案国を得て、その推進を求める決議が採択された。なお、87年の決議に基づいて設立された専門家会合は4回開かれ、89年4月東京で開かれた最終会合で「国際防災の10年」に関する東京宣言が採択された。
(ニ) 第45回アジア・太平洋経済社会委員会(ESCAP)総会
89年4月の第45回ESCAP総会では、世界的な緊張緩和を背景にソ連等の積極姿勢が目立ち、ソ連は93年または94年に中央アジアで総会を主催する用意がある旨表明した。また、インドシナ情勢の緩和を背景に、ヴィエトナムは西側諸国との経済交流活発化を訴えた。
他方、NIEs、ASEAN等に比べ不利な経済環境の中で取り残されている太平洋島嶼
(ホ) 一次産品共通基金協定の発効
UNCTADにおける南北対話の主な成果の一つである一次産品の共通基金を設立する協定が、80年6月の採択から9年後の89年6月19日にようやく発効した。同共通基金は、国際緩衝在庫(注:国際商品機関等が一次産品価格が下がったときに当該産品の在庫を買い増し、上がったときに市場に放出して価格を一定水準に保とうとするもの)に対する融資業務を行う第一勘定、及び緩衝在庫以外の一次産品市場の構造条件を改善し特定の一次産品の長期的競争力を高める一次産品開発プロジェクトの資金協力を行う第二勘定からなる総額7億5,000万ドルの予定であり、一次産品価格の安定を通じる途上国の輸出所得安定に中心的役割を果たすことが期待されている。
(3) 社会面での活動
(イ) 人権問題
(a) わが国は、人類普遍の原理たる人権の尊重を重視し、人権の尊重がひいては世界の平和と安定に資するとの基本的立場に立ち、82年以降、3期連続して国連人権委員会のメンバー国として積極的に貢献してきている。
(b) 88年後半から89年前半にかけての国連における人権問題の審議の全般的特徴は、(あ)依然として特定の国の人権問題が選択的に取り上げられる例が見られたこと、(い)ペレストロイカを進めるソ連の人権に対する取組みに変化が見られ、西側への協調的傾向が強まったこと、及び(う)開発途上国を中心に、人権と経済開発等をからめた決議案が提出される傾向が続いたことであった。
(c) 審議の過程で、特にソ連・東欧諸国の態度の変化が見られた例として、(あ)アフガニスタンの人権状況の改善を求める決議案が第43回国連総会及び第45回人権委員会のいずれにおいても無投票で採択され、(い)第45回人権委員会において、西側提案によるルーマニアの人権状況を非難する決議案にハンガリーが共同提案国として参加し、その他のソ連・東欧諸国の人権委員会メンバー国は西側との対立を避け、投票不参加の態度をとったことが挙げられる。
(ロ) 難民援助
現在、世界にはアフガニスタン、アフリカ、インドシナ、パレスチナ、中米等の地域に1,200万人以上の難民が存在している。これら難民をめぐる問題は人道上の問題であるのみならず、関係地域の平和と安定に影響を及ぼし得る政治問題となっている。わが国としては、「平和のための協力」の一環として、従来より難民問題に関する国際的な討議に積極的に参加するとともに、資金面では、国連難民高等弁務官(UNHCR)、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)、世界食糧計画(WFP)等を通じ、これまでに総額約12億ドルにのぼる難民援助を行ってきている。
インドシナ難民については、難民問題発生後14年が経過したにもかかわらず、依然、難民流出が続いており、周辺地域の多大な負担となっているだけでなく、これら地域の不安定要因となっている。また、最近のいわゆるボート・ピープルが、本国で迫害を受ける恐怖を有するために出国を余儀なくされるという本来の意味での難民ではなく、単に「より良い生活」を求めて不法出国してくる、いわば「経済難民」としての性格を色濃くしている。
こうした背景の下、ASEAN諸国のイニシアティヴにより、国連の主催で89年6月にジュネーヴで開催された「インドシナ難民国際会議」において、
(あ) ヴィエトナムにおける不法出国の抑制及びヴィエトナムからの合法出国計画の促進
(い) 難民資格認定作業の導入
(う) 難民と認定されなかった者の本国帰還奨励
(え) 滞留中の難民及び新たに難民と認定された者の第三国定住の促進
の4点を柱とする「包括的行動計画」がコンセンサスで採択された。
上記国際会議には、田中外務政務次官がわが国首席代表として出席し、ASEAN諸国の負担を軽減し、同地域の平和と安定に資するとの観点から、今後3年間に同地域に滞留するボート・ピープルのうち1,000人のわが国への定住を受け入れる旨表明した。
アフガニスタン難民については、89年2月のソ連軍撤退後も内戦が継続しているため、難民の大量帰還の見通しは立っていないが、国連各機関は88年5月に任命されたアガ・カーン調整官を中心に帰還・復興準備を重ねてきている。わが国は89年3月、アフガニスタン難民の帰還支援のため1億500万ドルをアガ・カーン事務所を通じて拠出したのを始め、UNHCR、WFPを通じる資金協力(これまでの累計1億9,000万ドル)を実施してきている。
(4) 行財政問題
87年から始まった行財政改革は、2年目(中間年)である88年にはいり、さらに進展を見せた。国連職員の削減については、国連賢人会議の勧告である15%削減には達しないものの、89年末までに12.1%減とすることが決定され、また、予算決定手続きについては、次期(90~91年)計画予算シーリング及び予備費が初めて審議され、それぞれ19億8,252万3,700ドル(2年分、90~91年レート)及び同シーリングの0.75%(すなわち1,500万ドル)に決定された。このほか、為替変動、インフレ対策としての留保金の導入につき89年の国連総会で検討されることとなった。しかしながら、経済・社会分野における下部機構の整理統合のように改革が遅れている分野もあり、行財政改革の最終報告年と定められている89年以降においても国連の効率化のため引き続き努力していくことが望まれている。
米国の分担金不払いは、国連の財政赤字の主因となっていたが、米国政府は88年9月国連の行財政改革の進捗状況等にも鑑
なお、ソ連については87年10月平和維持活動を含めた分担金の不払いの段階的解消を表明している。
また、88年の第43回国連総会においては、89年から原則3年間適用される新分担率が採択された。新分担率において、わが国が10.84%から11.38%になったほか、イタリアも3.79%から3.99%へと増加したが、西独(8.26%→8.08%)、フランス(6.37%→6.25%)、ソ連(10.20%→9.99%)等が減少した。分担率が増加した加盟国の中にはラ米等の開発途上国が多く、新分担率の採択には困難を伴ったが、最終的には分担率算定方法の見直しを分担金委員会で行うことで決着した。
(5) 国連における軍縮審議
第43回国連総会第1委員会における軍縮審議は、INF全廃条約の発効、地域紛争解決への動き、国連への信頼感の改善等を背景に、良好な雰囲気の下で推移した。一般演説等においても対立色の強い発言は比較的少なく、総じて以前より現実的・実際的な議論が多くなってきた点は歓迎される。しかし、第3回軍縮特別総会において最終文書が採択されなかったことの余波もあり、各国の発言振りに今一つ熱がはいっていなかった点も否めない。採択された軍縮決議67本(87年は61本)中、コンセンサス採択された決議は27本(同25本)であり、提案国間の調整努力はそれなりの成果を挙げているが、未だ十分とはいい難い。
個別分野としては、従来よりの核実験禁止、化学兵器禁止等に加え、通常兵器、検証、科学技術等にも焦点があたってきたことが指摘される。わが国は核実験禁止決議案等で西側諸国内での意見の取りまとめに尽力するとともに、非同盟及び東側諸国との調整にも努力し、率先してコンセンサス成立に寄与した。
(6) 軍縮会議における審議
ジュネーヴ軍縮会議の88年の審議は、2月より4月まで(春会期)及び7月より9月まで(夏会期)開催され、核実験禁止、化学兵器、宇宙軍備競争防止等の8議題が取り上げられた。
このうち核実験に関しては、88年も、実質問題を審議するアド・ホック委員会の設立には至らなかったが、89年から始まるNPT再検討プロセスとの関連で非同盟諸国が新たな動きを見せていることへの警戒もあり、アド・ホック委員会設立の必要性に対する認識は次第に高まりつつある。
69年以来、軍縮会議において条約作成作業が続けられている化学兵器に関しては、88年も会期外の非公式協議が継続され、年間を通じ、ほぼ間断なく作業を継続した。わが国は、本件条約の実現を非核軍縮の最優先課題として、その交渉促進に積極的に努力してきている。
(注) | アフロメーエフ・ソ連参謀総長(当時)の訪米(88年7月)やヤゾフ・ソ連国防相の訪英(89年7月)、クロウ米統合参謀本部議長(89年6月)、ショルツ西独国防相(当時)(88年10月、コール首相に同行)、ヴェラスホフ西独連邦軍総監(89年5月)及びシェヴェヌマン仏国防相の訪ソ(89年4月) |
(注) | アジア・太平洋地域の範囲についての定義は必ずしも確立していないが、アジア・太平洋協力との関連では、後述する太平洋経済協力会議(PECC)に参加している豪州、ブルネイ、カナダ、中国、インドネシア、日本、韓国、マレイシア、ニュー・ジーランド、太平洋島嶼諸国、フィリピン、シンガポール、台湾、タイ、米国を念頭において論じられることが多い。 |
(注) | 中ソ関係正常化の「3つの障害」 |
中国共産党第12回大会において、胡耀邦総書記は、ソ連の覇 |
(あ) | この20年来、ソ連が中ソ国境と中国・モンゴル国境にずっと大軍を集結してきたこと。 | |
(い) | ヴィエトナムがカンボディアを侵略し、インドシナと東南アジアで拡張を進め、中国国境に絶えず挑発を行うことをソ連が支持してきたこと。 | |
(う) | 中国の隣国アフガニスタンをソ連が武力で侵略し、占領したこと。 |
(注) | 全国際機関に対する不払い累積額(除PKO)5億2,000万ドル(うち国連本体分2億7,880万ドル)。 |
初年度支払い額(除PKO)4,600万ドル(うち国連本体分2,200万ドル)。 |