3. 東南アジア地域

87年から88年半ばにかけて,東南アジア地域は多彩な動きを見せた。

ASEAN諸国のうち,フィリピンでは,選挙におけるアキノ政権側の勝利,国軍不満分子の活動の鎮圧等を経て,その安定化への動きが見られた。インドネシアは,経済的苦境にありながらも,スハルト大統領が5選される等,安定的に推移した。マレイシアにおいては,与党UMNOの総裁選挙を巡り不穏な動きが生じた。タイは,海外からの直接投資の顕著な増加もあって,目覚ましい経済発展を経験する中で,88年7月の総選挙を経て,8年間続いたプレム首相からチャチャイ首相に交替した。尚,87年9月に,我が国はタイとの間の近代国家としての修好百周年記念を祝った。シンガポールは,経済回復と安定した内政状況のうちに推移し,ブルネイもまた安定した時期を過ごした。

ASEANは,87年には設立20周年を迎え,10年振りの首脳会議が開催されるなど,域内協力の強化に向けての進展が見られた。

他方,インドシナ情勢はカンボディア問題を中心として推移したが,同問題の政治的解決に向けて様々の動きはあったものの,和平に至るまでにはなお乗り越えなけれぼならない種々の困難がある(第2章第1節2.「カンボディア問題」参照)。

また,表面的には平穏な情勢の続いていたビルマにおいては,徐々に深刻化しつつあった経済情勢が88年に入り一段と厳しいものとなり,これを背景として社会不安が広がり,情勢が流動化した。

(1) フィリピン

(イ) フィリピンでは,アキノ政権発足時からの重要課題の1つである政治体制の整備が一応完了した(新憲法制定(87年2月),新議会発足(7月),地方選挙の実施(88年1月)等)。これは,5月の議会選挙がアキノ政権側の圧勝に終わり,さらに,地方選挙も概して平穏裡に行われ与党側が勝利をおさめたことと併せ,アキノ政権の安定化に資するものであると言えよう。

他方,87年8月28日には,一部国軍不満分子が国軍司令部を占拠したのに対し,政府は断固たる態度で臨み,アキノ政権成立以来の危機を乗りきった。その後,アキノ政権は共産ゲリラに対して和解路線から全面対決へと方針を転換し,また,従来よりも軍寄りの路線を歩むことになった。

外交面においては,対米関係では,87年4月にボルドリッジ商務長官,6月にシュルツ国務長官が各々フィリピンを訪問し,貿易振興や経済援助の充実を約束した。88年4月には,米比軍事基地協定の見直し交渉が開始された。

他方,ソ連との関係では,88年3月,ロガチョフ外務次官が訪比し,比ソ間の「協議に関する議定書」に署名が行われた。

さらに,12月にはASEAN首脳会議(我が国より竹下総理大臣を招待)が無事成功裡に開催されたことは,フィリピンの安定性を内外に示し,87年のフィリピンの外交上,最大の収穫であった。88年に入り,フィリピンの外交は活発化し,アキノ大統領が中国(4月)・スイス,イタリア,ヴァチカン(6月)を訪問した外,多くの外国要人がフィリピンを訪問した。

経済に関しては,87年の実質経済成長率は,約5.7%を記録し,86年に引き続きプラスの成長となった。産業別にみると,早越の影響で農業生産が不振であったものの,建設業,食品工業,鉱工業,サーヴィス業等いずれも高い伸び率を達成し,経済回復は軌道に乗った。

他方,フィリピン政府は,87年の経済運営において農地改革の推進,対外累積債務問題への対処等の課題に直面した。農地改革については,7月22日,アキノ大統領が大統領布告及び行政命令に署名したが,詳細については議会の審議に委ねられ,88年6月7日,「1988年農地改革法案」が上下両院で可決され,同10日,同大統領の署名を得て発効した。

対外累積債務問題については,87年1月のパリ・クラブにおいて,同年1月1日より88年6月末迄に返済期限の到来する公的債務の繰り延べにつき合意され,また,同年3月には民間銀行団との債務繰り延べ交渉が行われ,87年より92年までに返済期限の到来する債務につき合意された。

また一方で,フィリピンは,世銀等の国際機関,日本,米国等よりの援助の拡大に努めた。

(ロ) わが国をはじめとする関係国は,アキノ政権支援の観点から経済困難打開のための効果的な援助を提供すべく努力を展開してきた。特に我が国との関係では,87年6月には,大来元外相を団長とする政府レベルの対比経済協力総合調査団及び倉成外務大臣,7月には,経団連の投資促進ミッション,11月には,日比友好議員懇話会による使節団などがフィリピンを訪問し,官民両レベルの交流が一層促進された。

特に,我が国との関係で特筆すべきことは,87年12月に,竹下総理大臣が日・ASEAN首脳会議出席のため訪比したことである。右訪問は,フィリピン国民に広く我が国のフィリピンの国造り努力に対する支援の姿勢を印象付けるとともに,両国の友好協力関係の増進に大きく貢献した。

なお,88年4月にはマングラプス外務長官が来日し,官民各界と活発な意見交換を行った。

(2) インドネシア

(イ) 87年に行われた総選挙では,与党ゴルカルが圧倒的勝利を収めた。同選挙は,85年にパンチャシラ(国是5原則)が唯一の原則として受入れられて以来初めて実施されたものであり,宗教,イデオロギー上の議論はほとんどなく,国家開発の施策・改善策を選挙の争点として,平穏裡に実施された。これは,与党ゴルカルの勝利とともに,スハルト政権の今後の国政運営に大きな自信を与えたと言えよう。

また,国民協議会の総会において88年3月11日,スハルト大統領が全会一致で5選され,また新たにスダルモノ副大統領(前国家官房長官兼ゴルカル総裁)が選出された外,89年4月からの第5次開発5か年計画の概要を含む今後5年間の国政方針を定めた「国策の大綱」等が決定された。これを受け同年3月23日,第5次開発内閣が発足した。

他方,国軍組織の再編成は86年をもって終了したが,人事面における世代交替もほぼ終了した。

外交面では,昨今の石油価格の下落,ドル安による対外債務負担増等の厳しい財政状況下で,西側諸国を中心に経済援助,投資及び輸出促進をいかに確保するかが最重要課題となった。非石油・ガス産品輸出促進等の観点から,ソ連・東欧諸国との経済貿易関係拡大など外交多角化の動きもなされた。

87年の主な動きとしては,モフタル外相が訪越(7月)し,カンボディア問題につき話し合いが行われた外,88年7月には,ジャカルタで関係者による非公式会合が開かれた(「カンボディア問題」の項参照)。

87年のインドネシア経済は,原油価格の持ち直し,非石油・ガス産品の輸出増加,内外投資の増加等により,穏やかな回復基調を示した。

但し,最近の石油輸出価格の低迷に加え,86年あたりからの対外債務返済がピークにさしかかっており,為替変動によりこれが増大したため,インドネシアの財政及び国際収支は圧迫されている。

(ロ) 我が国との関係では,87年も引き続きモフタル外務大臣,ラデイウス大蔵大臣の訪日等,活発な要人往来が行われ,両国関係の一層の増進が図られた。88年には宇野外務大臣がインドネシアを訪問した外・6~7月には,瓦防衛庁長官が,現職の防衛庁長官として初めてインドネシアを訪問した。

また,インドネシアの債務返済負担の増大に伴い,87年12月マニラで開催された日・ASEAN首脳会議の際の竹下総理大臣とスハルト大統領との会談,88年1月のウイジョヨ大統領特使の来日等を通じ,我が国に対する一層の援助増大につき要請がなされた。

(3) マレイシア

(イ) 87年4月に行われた与党第一党UMNO(統一マレイ国民組織)の総裁選挙において,マハディール首相が反主流派の有力対立候補ラザレイ貿易産業相(当時)の挑戦を僅票差で退け総裁3選を果たしたが,右総裁選以降,党内の権力闘争が表面化し,内政上の不安定要因となった。88年2月初めには,右選挙の有効性をめぐる裁判において,同党は未登録の一部の支部を含む団体であるが故に結社法上非合法政党であるとの判断が示され,同党の存在自体が否定された結果,同月15日以降,同党は新党UMNOBARU(新統一マレイ国民組織)として,「マ」首相・主流派主導の下で再建されることとなった。建国以来の最重要課題である人種問題(マレイ系一非マレイ系間の対立)に関しては,87年10月,人種対立感情が極度に高まった状況を踏まえ,暴動等の事態を未然に回避すべく,政府・治安当局が,同月末~11月中旬の間に国内治安法(ISA)により与野党国会議員,社会活動家等を大量拘留する等の措置を講じ,情勢の鎮静化を図った。

経済面では,主要一次産品の価格上昇,需要拡大及び製造業部門の好調等による経済回復がみられ,87年実質GDP成長率は4.7%(「マ」中銀報告)と見込まれているが,失業率は87年9・1%と引き続き増加傾向にある。

(ロ) 我が国との関係では,「マ」の「東方政策」(日本及び韓国の発展,勤労倫理等を学ぶ人造り政策)に対する我が国の協力に関して,学部・高専留学生及び産業技術研修生等の我が国への受け入れが推進され,88年3月には第1期学部留学生が卒業した。

(4) シンガポール

85年に独立後初のマイナス成長という経済危機を経験したシンガポールでは,政府による諸政策が効を奏し,87年(通年)には8・8%の経済成長率を達成するなど,同国経済は2年にして危機を脱した。このような経済の回復と安定した内政状況を踏まえ,リー首相の公言してきた世代交替の気運が一層高まった。

我が国との関係では,88年5月に宇野外務大臣がシンガポールを訪問し,さらに,同年7月には瓦防衛庁長官による現職の防衛庁長官として初のシンガポール訪問,及びリー・クァン・ユー首相の訪日があった。

(5) タイ

(イ) 87年のタイ内政は,12月の国王還暦記念という大きな祝賀行事を控えていたこともあり,全般的には極めて平穏かつ安定的に推移し,88年3月にプレム政権は発足以来9年目を迎えた。88年4月,国会運営を巡り下院が解散され,7月に下院総選挙が実施されたが,プレム首相が再任を固辞したために,同選挙で第一党となったタイ国民党のチャチャイ党首が新首相に任命された。

タイ経済は86年に引き続き製品輸出の堅調等により,7.1%(暫定)の経済成長を達成した。内外からの投資も好調であり,特に海外からの直接投資は,前年に引き続き著しく増加した。他方,貿易収支はタイ国内経済の回復などにより悪化し,86年に20年振りに黒字に転じた経常収支ほ,87年に再び赤字に転じた。

(ロ) 87年は日・タイ両国が近代国家として国交を樹立した百周年目に当たり,日・タイ双方の官民各層において,アジアの国として初めての修好百周年祝賀が行われた。特に百周年記念日に当たる9月26日には,日・タイ双方で記念式典が同時に開催され,日本では皇太子同妃両殿下及び公賓として来日したワチラロンコーン皇太子殿下が出席され,タイでは同国を公式訪問した中曽根総理大臣及びプレム首相がそれぞれ出席した。

また,経済面でも,87年は両国間の貿易,投資,観光等全ての分野において極めて活発な動きがあった。特に顕著であったのは,円高等を背景とした日本からの直接投資の急増で,タイの投資奨励承認ベースで87年は対前年比2倍の増加を示した。

貿易では,貿易不均衡がタイ国内の景気回復等に伴い再び拡大する傾向にある。

外交面では,ASEAN諸国との協調を軸として,カンボディア問題を中心とする対インドシナ政策を進めた外,良好な対米,対中関係に加え,87年5月にシティ外相が訪ソするなど外交の幅を広げる努力が見られた。

タイは前線国家であり,カンボディア問題は同国の安全保障上最大たいじの問題となっているため,カンボディアに駐留を続け,同国境で対時するヴィエトナムに対して強硬な立場をとってきている。シハヌーク殿下とフン・セン(「ヘン・サムリン政権」首相)との会談等,政治解決に向けた新たな動きの中で,ASEAN諸国と協調しつつ,いかにタイの安全保障を確保していくかがタイの課題である。

ラオスとの間では,両国国境地帯の領有をめぐり87年12月より両国間で本格的な戦闘が開始されたが,88年2月停戦が成立し,以後外交交渉が続けられている。

(6) 東南アジア諸国連合(ASEAN)

(イ) 地域協力の現状

ASHAN諸国では,80年代中頃から直面している経済成長率の低下等の諸問題を克服するため,ASEANの域内協力を一層推進することが必要との認識が高まり,87年12月14~15日,マニラで第3回首脳会議が開催された。この首脳会議では,国際政治・経済情勢,域内協力,ASEANの機構等について討議を行い,「マニラ宣言」及び「プレス・ステートメント」が採択された。

政治面では,カンボディア問題の包括政治解決のための努力を継続し強化することを強調した。また,東南アジア平和自由中立地帯化構想を確認し,その実現に向けての努力を強化することに合意した。

経済面では,域内経済協力の推進について具体的な成果が見られた。まず,ASEAN域内貿易拡大のための努力を強化するため,域内特恵関税制度の対象除外品目数の削減,対象除外品目の貿易額を5年以内に域内貿易量の50%以下とするなどの改善事項に合意した。また,ASEANの産業協力であるASEAN工業合弁事業(AIJV)製品に対して認められる特恵関税引下げ率の拡大,域外参加企業の資本のシェアの増大が認められることとなった。

(ロ) 我が国との関係

87年においては,竹下総理大臣が就任後初の外国訪問として,12月マニラで開催された日・ASEAN首脳会議に出席するなど,双方間の関係は一層強化された。

88年7月には,宇野外務大臣がバンコックで開催されたASEAN拡大外相会議に出席し,ASEAN及び域外対話国の外相等と,カンボディア問題をはじめ,ASEANを巡る内外情勢及び国際政治・経済情勢など幅広い分野にわたる意見交換を行った。

87年12月の首脳会議において竹下総理大臣は,我が国のASEANに対する積極的な支持の具体的施策として,(i)ASEANの民間経済部門の発展及び域内経済協力の更なる促進を支援することを目的とし・今後3年間で20億ドルを下回らない額のrASEAN・日本開発ファンド」を供与,(ii)カンボディア問題の包括的政治解決を目指し,ヴィエトナムとの政治対話をはじめ関係国への働きかけ等に努力するとともに,ASEAN諸国の和平努力を引き続き支援,(iii)87年11月の東南アジア大型文化ミッションの提言に基づいて,双方間の交流を促進することを目的とした「日本・ASEAN総合交流計画」の提唱等を行った。

これに対しASEAN側は,我が国のこうした方針を高く評価するとともに,我が国が経済,文化等の面でさらに積極的な措置を実施に移してほしいとの強い期待を表明した。

(7) ヴィエトナム

(イ) 我が国のインドシナに対する基本政策は,77年,マニラにおける福田総理大臣の演説で示された通り,ASEAN諸国に対する協力とともに,インドシナ諸国との間で相互理解に基づく関係の醸成を図り,もって東南アジア全域にわたる平和と安定に寄与することにある。しかし・残念ながら78年末以来のヴイェトナム軍のカンボディア侵攻により,右政策の達成が妨げられている。

(ロ) 最近,ヴィエトナムでは,経済状況の深刻化等を背景として経済建設重視の姿勢が強まっており,86年末成立したグエン・ヴァン・リン書記長の新体制は,経済改革に着手した。

しかし,対外関係においては,ソ連・コメコン諸国との協力,インドシナ3国との連帯等を柱とする基本政策に変化はなく,特にカンポディア問題についても,その政治解決に積極的姿勢を示しているものの,「ヘン・サムリン政権」のカンボディア支配を既成事実化せんとの基本姿勢に変化はない。

(ハ) 我が国としては,経済開発援助についてはカンボディア問題を巡る情勢に鑑み再開する状況にないが,ヴィエトナムの東南アジアにおける重要性,潜在力に鑑み,長期的視野に立って将来のヴィエトナムとの関係発展への条件整備に努力していく方向であり,87年9月ニエン外務次官が訪日し,我が国よりも外務省幹部が訪越するなど毎年行っている日越政治対話をさらに強化していく方針である。

(8) インドシナ難民問題

(イ) 概況

(i)  インドシナ難民問題は,ヴィエトナムのカンボディア介入直後の79年当時の危機的状況からは脱しているものの,87年1年間のタイヘのボート・ピープル到着数が前年比約3倍増となるなど,依然として深刻な状況にあり,国際的な関心を集めている。

(ii)  これまでに,約170万人のインドシナ難民が国外に流出しており,うち約120万人が,米国,フランス,カナダ,豪州等に定住したが,約14万人がなお,タイ等の東南アジア諸国に滞留している。

また,タイ・「カ」国境には,84年末~85年初頭のヴイェトナム軍による乾季攻撃等により,タイ領に流入した約29万人の避難民が国際的な保護を受けているなど,依然として東南アジア地域の不安定要因となっている。

(iii)  問題の根本的解決のためには,カンボディア問題を解決し,インドシナ三国の安定を実現することが必要であるが,これに至るまでの解決策として,主として第三国定住が行われている。もっとも,問題の長期化と受け入れ国の国内事情などにより,西側諸国による定住難民引取りにも種々問題が生じてきている。

(ロ) 我が国の対応

我が国は,難民が大量に発生した79年以来,国際機関等を通じた資金協力,一次庇護及び定住難民引取り等の援助を積極的に進めてきている。資金協力については,87年度にインドシナ難民向けに全体で約5,000万ドルの拠出を行った結果,79年以降の援助総額は約6億ドルとなった。

一次庇護については,87年中に144人のボート・ピープルが新たに上陸した結果,75年以降の上陸総数は約9,000人を超した。

さらに,定住受け入れの面でも努力を続けており,我が国に上陸したボート・ピープルの中から定住した者,東南アジア諸国のキャンプより定住した者等を含め,88年2月末現在5,475人に達している。

(9) ビルマ

(イ) ビルマにおいては,従来ネ・ウィン・ビルマ社会主義計画党議長を中心とする体制が安定的に推移してきたが,経済面では,輸出不振による外貨収入の大幅減,外貨準備の枯渇,石油生産の減少によるエネルギー不足,さらには円高による対外債務負担増等,困難な状況に直面し,88年3月頃からは学生による騒動が発生するなど社会不安が広がった。このような状況を背景に,88年7月末に社会主義計画党臨時党大会及び人民議会臨時会期が開催され,ネ・ウイン議長,サン・ユ副議長(大統領兼任)他の党,政府首脳の引退が決定されるとともに,民間部門の産業への参加の大幅な拡大を含む経済改善策が発表された。しかしながら,新たに発足したセイン・ルイン政権は,複数政党制など民主化要求を掲げた学生,市民による示威行動の激化のため,わずか12日で退陣を余儀なくされ,情勢は流動化の様相を呈している。

(ロ) 我が国は,ビルマが東南アジアの安定勢力であり,緩衝地帯として重要な役割を果たしていること,また,両国が極めて友好的な関係にあることにも鑑み,ASEANと並ぶ重点国として,同国に対し積極的に経済協力を実施してきている。ビルマ国内の混乱は,経済状況の悪化に負うところが大きく,こうした状況を克服するため対外累積債務の救済措置及び経済的安定のための援助が必要となっているところ,我が国は同国の最大の援助国として,ビルマの安定に重要な役割を果たすことが期待されており,今後とも同国の情勢の推移を注視しつつ,できる限りの支援を行っていく必要がある。

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