4. 国連の活動

87年9月,中曽根総理大臣(当時)は第42回国連総会において一般討論演説を行い,今日の世界が直面している軍縮問題,経済問題,地域紛争等を冷厳な事実として受けとめつつも,20世紀人が果たすべき責任として平和維持,国際交流の促進,地球上の格差の是正と環境保護の必要性を訴え,その目的実現のため,国連の果たすべき役割がいかに大きいかにつき強調した。

国連は1945年の創設以来,平和維持,軍縮,南北問題,社会,人権問題と活動分野を拡げ,普遍的国際機関として,世界の平和維持,人類の福祉に貢献してきたが,その後,平和維持分野での無力さ,経済社会分野での活動の沈滞等が指摘されて久しい。このような現在の国連の姿を憂い,国連の機能強化を図らなければならないと各国が真剣に考え,改革推進に努力してきているというのが,最近の国連の姿であり,本年は特に大きな動きがあったといえよう。

(1) 平和維持活動の活発化

過去1年余りの間の国連の諸活動の中で,特筆すべきは,平和維持活動の活発化であった。即ち,まず長きにわたり続いてきたイラン・イラク紛争の早期平和的解決のため、国連の安全保障理事会は、決議598を全会一致で採択(87年7月20日)し,その後も、事務総長の決議実施のための精力的な努力を安保理が一体となり支援してきた。かかる努力の結果88年7月に至り,イランが同決議の受諾を遂に受け入れ事態は急転し,翌8月,8年にわたり湾岸地域のみならず世界の平和と安定を脅かしてきた同紛争は停戦をみた。その間我が国も,安保理非常任理事国として決議案作成の段階から積極的に関与したばかりでなく,イラン・イラク紛争解決を含む国連の平和維持活動に対し,2,000万ドルの特別拠出を行うなど大きな貢献をした。

88年4月14日のアフガニスタンに関するジュネーヴ国連間接交渉の合意は,事務総長の個人代表であるコルドヴェス事務次長を始めとする国連の平和維持活動努力が大きく実を結んだものと言えよう。アフガニスタンヘのソ連の軍事介入は米ソを中心とする東西関係を悪化させた大きな要素であっただけに,ソ連軍の撤兵実現への国連の貢献は,前出イラン・イラク紛争解決に向けての貢献と併わせ,高く評価される。

また,国連の平和維持機能の強化についても,我が国を始め西側が提案し,4年にわたって審議されてきた「紛争予防宣言案」が実質的にまとまり,88年の第43回総会において採択される見通しとなった。これにより,安保理,総会,事務総長の平和維持分野での役割が有機的に位置付けられ,国連全体の平和維持機能が強化されることが期待される。

(2) 経済社会分野の再活性化

国連の経済社会分野の再活性化問題への積極的取組みが見られた。同分野の改革問題は,我が国がイニシアティヴをとってきた「国連効率化のための賢人会議」の勧告のフォロー・アップに端を発するものである。これは,経済社会理事会及びその下部機構を中心として行われている開発援助活動等の有機的連携の強化,効率化を目ざすものである。我が国も,経済社会理事会特別委員会での審議において積極的貢献を行ってきた。

以上のように,この1年の間の国連の活動は新たな動きを見せてきている。一方,我が国としても国際社会への貢献を高めていくため,国連を通じた国際協力,さらには国連が各国の信頼を回復するための機能強化のための協力に努めてきており,今後益々我が国は国連重視の姿勢を強めていくことが必要である。

(3) 多国間軍縮問題

87年は,INF条約署名等,米ソ二国間の軍備管理・軍縮において進展が見られた。しかし,軍縮が真に全世界の平和と安定に寄与し得るためには,世界中の国々が多国間の交渉を通じ,兵器削減のため努力しなければならない。我が国は,この様な観点から,国連,ジュネーヴ軍縮会議等の軍縮審議を重視し,真に実効的な軍備管理・軍縮の促進を訴えてきている。

(イ) 国連における軍縮審議

第42回国連総会第一委員会における軍縮審議は,INF条約署名に向けての米ソ間の精力的な交渉を背景に,良好な雰囲気の下に推移した。全体として,東,西,非同盟の立場が鋭く分極化した80年代初めとは雰囲気が変わっており,また88年5月末からの開催が決定された第3回軍縮特別総会への期待感も,心理的にプラスの要因として働いた。この点は決議案の作成・採択にも反映され,採択された軍縮決議61本(87年67本)中コンセンサス採択された決議は,87年を3本上回る25本となる等,提案国間の調整が順調に推移した。

個別具体的案件としては核実験禁止,化学兵器禁止等,ほぼ例年通りのテーマに沿って審議及び決議案の作成・採択が行われ,我が国は真に実効的な軍縮・軍備管理に向けて審議が進むよう我が国の考え方を反映させるべく努力した。

87年5月の国連軍縮委員会では,核及び通常兵器軍縮,軍事費削減,検証等の議題が討議された。

第3回国連軍縮特別総会は,88年5月31日,東独のフローリン外務次官を総会議長として国連本部において開会された。6月1日,竹下総理大臣は一般討論演説を行い,軍備管理・軍縮問題についての考え方,及び「平和のための協力」等の具体的貢献策を明らかにした。同演説においては,軍備管理・軍縮の面では核実験検証国際会議の開催提案が,また,「平和のための協力」との関連では,特に国際的な平和維持活動に対する要員の派遣が大きな関心を集め,各国の高い評価を得た。

特別総会の実質審議は,6月6日に設置された全体委員会を中心に行われた。我が国(全体委員会副議長国)はじめ西側各国は,米ソ軍備管理交渉の進展等の新しい状況を踏まえ,今後の多国間軍縮努力の指針となる出来る限り前向きの文書を採択すべく最大限努力した。

しかし,参加百数十か国の間で,各国の基本的外交・安全保障政策はいちに背馳しない共通の基盤を見い出すことは容易ではなく,結局最終文書の採択には至らず,6月25日,特別総会は閉会した。

(ロ) 軍縮会議における審議

ジュネーヴ軍縮会議の87年の審議は,2月より4月まで(春会期)及び6月より8月まで(夏会期)開催され,核実験禁止,化学兵器及び宇宙軍備競争防止,核軍備競争停止・核軍縮等の8議題が取り上げられた。

このうち核実験禁止に関しては,核実験の「検証と遵守」の検討を継続すべしとの西側の主張に対し,検証問題の検討を打ち切り直ちに核実験全面禁止条約案の審議を開始すべしとの東側及び非同盟の主張の対立を解消し得ず,84年以降実質問題を審議するアド・ホック委員会が設立されず,本会議等で意見交換が行われたにとどまった。

69年以来,軍縮会議において条約作成作業が続けられている化学兵器に関しては,87年の軍縮会議会期中以外にも非公式協議が開催される等,年間を通じてほぼ間断なく作業が継続された。我が国は,本件条約の実現を非核軍縮の最優先課題として,その交渉促進に努力してきており,87年7月には「非生産」の検討に関する作業文書を提出した。

(4) 人権問題

我が国は,基本的人権の尊重が,それ自体重要な目標であるだけでなく,ひいては世界の平和と安定に資するとの基本的立場から,国連関連諸機関での活動を通じ,積極的に人権と基本的自由の促進・擁護を図っている。87年においても,我が国は,国連総会第三委員会や人権委員会等の関連フォーラムに積極的に参加したところである。なお,87年経済社会理事会での選挙では,82年以来3期目の人権委メンバー再選を果たした。また,88年の人権委員会での差別防止・少数者保護小委員会メンバー選挙では,我が国から波多野里望学習院大学教授及び横田洋三国際基督教大学教授が当選した。

87年を通しても,人権関連審議の政治化傾向は相変らず顕著であった。従来の審議経緯から第44回人権委員会での成り行きが注目されていた米提案の「キューバの人権状況」決議案をめぐる審議は,決議案の採択を推進しようとする米国と,これを何とか阻止しようとするキューバとの間で激しい工作が展開されたが,最終的には,キューバヘの調査団派遣を骨子とする中米諸国の提案による決議案が無投票採択される形で決着した。我が国は,キューバの人権状況の実質的改善を実現するとの見地から,米,キューバ等と協議を重ね,同決議案採択に向けての意見調整に貢献した。

その他の点では,イランの人権状況決議に対する賛成票増加,アフガニスタン問題審議に際してのソ連の柔軟な対応振りが見られたことなどの点が注目される。

(5) 難民問題

現在,世界には,アフガニスタン,アフリカ,インドシナ,パレスチナ,中米等の地域に1,200万人以上の難民が発生し,人道問題のみならず,関係地域の平和と安全に影響を及ぼし得る政治問題となっている。

国連においては,国連難民高等弁務官(UNHCR)を中心に救済活動を行うとともに,問題の恒久的解決策である,(イ)本国自主帰還,(ロ)一次庇護国での定住,及び,(ハ)第三国への定住の促進,に努めている。87年10月開催されたUNHCR執行委員会では,救済活動,恒久的解決策促進の外,難民キャンプヘの武力攻撃問題,女性・児童難民への保護強化等が討議された。

我が国は,国連等において,これら難民問題に関する討議に積極的に参加してきている。また,資金面においてもUNHCRを始め,国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA),世界食糧計画(WFP),赤十字国際委員会(ICRC)などを通じ,これまでに約9億5千万ドルの難民援助を行っており,世界の難民問題解決のため積極的に貢献している。

(6) 国連専門機関の活動

(イ) 国連専門機関は,労働,教育・科学・文化,農業,保健等の極めて幅広い分野にわたり,専門的・技術的観点から多国間の協力関係を促進することを目的とした事業を実施している。我が国は各機関の事業活動に積極的に貢献するとともに,財政面においても,分担金の外,多くの任意拠出金を拠出した。主要機関における特筆すべき出来事としては,UNESCOで,87年11月ムボウ前事務局長に代わりマヨール新事務局長が選出され,ユネスコの普遍性回復への一歩が踏み出されたこと,及び88年1月WHO執行理事会で,中嶋宏が日本人初の国連専門機関の事務局長として指名を受けたことが挙げられる。

(ロ) ユネスコ事務局長選挙

ユネスコは,過度の政治化傾向,財政・人事の不透明な運営等を理由に,米国及び英国が各々84年末及び85年末脱退する等,かってない状況のまま87年秋の事務局長選挙を迎えた。我が国は,国連機関が不可欠であるとの立場から,ムボウ事務局長三選阻止の基本的姿勢で同選挙に臨んだ。

執行委員会(10月)での選挙には9名が立候補したが,5回目の投票でムボウとマヨール候補(元スペイン教育相)の決戦投票が行われた。この間我が国は,西欧諸国及びラ米諸国とともにマヨール候補を支持し,関係各国に対し,強力にムボウ三選阻止の説得を行った。結局,ソ連等東欧諸国の明確なムボウ不支持の姿勢もあり,ムボウは立候補辞退に追い込まれ,マヨール候補が,総会(11月)において,圧倒的多数で第7代事務局長に任命された。

我が国は,これまでのユネスコ改革は依然不十分であり,行財政改革,事業内容の改善等課題は多いと考えており,今後,マヨール新事務局長を支援しつつ,ユネスコの一層の改革と普遍性の回復に引き続き努力していく。

(ハ) WHO(世界保健機関)事務局長選挙

WHOの次期事務局長の選挙が,88年1月,WHO執行理事会(我が国を含む31か国にて構成,於ジュネーヴ)で行われ,当時のWHO西太平洋地域事務局長,中嶋宏が,次期事務局長として指名された。この指名により,中嶋は,5月のWHO総会での承認を得て,7月第4代のWHO事務局長(任期5年)に就任した。

国連の主要専門機関への事務局長就任は,日本人として初めてであるが,これは,中嶋の資質に加え,我が国の国連外交並びに対WHO政策が各国の評価を得たものであり,国際社会の日本に対する期待の表れと考えられる。

WHOは,1948年に設立されジュネーヴに本部を有する国連専門機関であり,166か国が加盟している。我が国は,1951年に同機関に加盟して以来,WHOの各種事業に積極的に貢献しているのみならず,87年には米国に次ぎ世界第2位の約2,615万ドルの分担金を拠出している。現代社会は,エイズ,ガン,マラリア等人類の生存を左右しかねない疾病の解決等多くの問題に直面しており,世界でもトップレベルの医療水準を誇る日本が貢献する余地は大きい。この点からも,これら問題解決の先頭に立つWHO事務局長に日本人が就任した意義は大きく,各国の期待にこたえるためにも,我が国は,WHOに引き続き積極的に協力していく必要がある。

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