第3節 北米地域

1. 米国

(1) 内外情勢

(イ) 内政

(a) 6年目を迎えたレーガン政権は,86年前半は2期目の大統領としては異例の60%台の高い支持率を維持しつつ,2期目最大の内政課題と位置付けた税制改革法案の成立等政策実現に向けて進んでいった。しかし,86年11月の中間選挙で上院の共和党支配を失い,その直後に起きた対イラン武器輸出工作及び右売却資金の対ニカラグァ反政府勢力(コントラ)援助流用問題(いわゆるイラン・コントラ問題)という難局に直面した。

(b) 中間選挙と議会の構成

本選挙では,人気の高い大統領を頂く共和党が,80年に約30年振りに獲得した上院支配を,引き続き守るかどうかが最大の焦点であった。結果は,上院では民主党が10議席の大差をつけて優位となる一方,下院選挙では共和党が1けた台の5議席減に止め,州知事選挙でも同党が8州の純増となり善戦した。


 
政党
改選前勢力
改選議席数
新勢力
上院(100議席)
民主党
共和党
 
47
53
12
22
55(+8)
45
下院(435議席)
民主党
共和党
欠員
 
253
180
2
253
180
2
 
258(+5)
177
知事(50州)
 
民主党
共和党
 
34
16
27
9
26(-8)
24
  

この上院選挙の結果については,(あ)6年目のジンクス(過去6年間引き続いて政権党である政党が,その年の中間選挙では上下両院の議席を減らしている現象),(い)大量の共和党の改選議席数(34議席中22議席)及び80年にレーガン大統領の人気に便乗(コートテイル効果)して当選した議員が多かったこと,(う)民主党が地元の問題の争点化に成功したこと等が挙げられた。

下院選挙は,一般に90%以上と現職の再選率が高いこと,州知事選挙は,民主党がまさに上院選挙と対照的に大量の改選知事を抱えていたこと等が共和党善戦の理由として指摘されている。

(c) 2期目後半のレーガン政権

(i)  イラン・コントラ問題

本件では,レーガン政権の対テロ政策(テロ国家との接触制限等)との整合性や,当時禁止ないし制限されていた対コントラ軍事援助への政府高官の関与振りの違法性等が問題とされた。ポインデクスター国家安全保障問題担当大統領補佐官が辞任したほか,大統領の支持率が10%以上も低下するなど,レーガン政権は大きな試練に直面した。

特別法務官(連邦刑法違法行為に関する捜査),議会の特別委員会,大統領任命によるNSC(国家安全保障会議)役割再検討委員会(タワー委)による3種の調査活動が実施され,87年2月にタワー委員会は報告書を発表した。

同報告書は,大統領や主要補佐官が政策決定過程で充分な吟味を怠っていた旨指摘したが,大統領は右報告書を全面的に受け入れ,首席補佐官以下一連の人事異動を行い,その結果支持率も幾分回復するなど立ち直りを示した。

議会の調査は10月が期限となっている。

(ii)  行政府と議会の関係及び87年一般教書

86年は,対南ア制裁法案に対する拒否権が覆されるなど中間選挙に向けて対議会運営が困難になったが,2期目の眼目であった税制改革のほか、移民法改正等重要法案が成立し,繊維輸入規制法案を保護主義として排する大統領拒否権の成立,対コントラ援助の承認等が実現し,各種政策の進展がみられた。

87年1月,レーガン大統領は恒例の一般教書演説を行い,(あ)対ソ関係,特に軍備管理の進展,(い)貿易問題に対する保護主義を排する一方,「卓越性を求めて」のスローガンの下,競争力強化の提唱,(う)財政赤字削減,さらに肥大化した福祉制度の改革,高齢者高負担医療に関する保険等の課題を掲げ,民主党主導の議会で同党と協力しつつ,残り任期2年間に意欲的に取り組んでいく姿勢を示した。

しかし,民主党主導下の第100議会(87~88年)に入ってから,対コントラ援助の未執行分の実施承認は取りつけたものの,大統領がその巨額な連邦政府の支出故に反対した水質汚濁防止法案及びハイウェイ建設法案への大統領拒否権が覆されるなど,議会運営の多難さを伺わせている。(貿易法案については後述。)

(iii)  レーガン政権の陣容

レーガン政権が2期目後半に入ったこと,またイラン・コントラ問題の影響もあり,ホワイト・ハウスで大幅な人事異動がみられた。

辞任したポインデクスター国家安全保障問題担当補佐官の後にはカールッチ元国防副長官が任命され,NSCの改組及び人事入れ替えを行った。さらにタワー委員会報告書発表後レーガン首席補佐官が辞任し,前上院共和党院内総務で,88年大統領選挙の共和党候補と目されていた大物,ハワード・ベーカー元上院議員が任命され,朝野から歓迎された。この結果,新首席補佐官の下,対議会関係等を配慮した人材が登用された。

(d) 88年大統領選挙

68年以来の現職不出馬の選挙であるが,民主・共和両党で正式または事実上の出馬表明を行ったのは,民主党は,ゲップハート下院議員,ジャクソン師,バビット前アリゾナ州知事,デチカキス・マサチューセッツ州知事他,共和党は,ブッシュ副大統領,ドール上院共和党院内総務,ケンプ下院議員,デュポント前デラウエア州知事他。9月頃までには出そろうものと予想されるが,議会においても,民主・共和両党に本件選挙を念頭にした動きがみられる。

(ロ) 外交

(a) 86年の米国外交で最も注目されたのは,10月11,12日の両日,アイスランドのレイキャヴィクで行われた米ソの首脳会談である。

米ソ両国は,85年の首脳会談(ジュネーヴ)で,86年にゴルバチョフ書記長が訪米し,87年にレーガン大統領が訪ソすることで合意をみていた。しかし,86年に入ってからも,ゴルバチョフ書記長の訪米の時期については,何ら具体的時期が合意されないまま推移し,その意味からも,国連総会の機会を利用して行われた米ソ外相会談(9月)の帰趨が注目された。

同外相会談は,8月末の,ソ連当局による在ソ米特派員ダニロフ記者の逮捕事件のため,一時その成り行きが危ぶまれたが,会談の席でソ連側がゴルバチョフ書記長の訪米とは別に,その準備の一環として,米ソ両首脳による会談を提案したことから,急きょレイキャヴィクで首脳会談が行われることとなった。

同首脳会談では,当初の予想以上に軍備管理問題について突っこんだ話し合いが行われ,一時は,「潜在的合意」と呼ばれる程の進展もあった。

しかし,会談の最終段階でソ連側がSD1分野の合意と,他の分野の進展をパッケージとすることを主張したため結局は,何の具体的成果も見られるに至らなかった。

ただ米ソ両国は,その後もウィーンでの外相会談(11月)をはじめとする各分野で対話を継続しており,特に2月末に,ソ連側がINFを他の分野と切り離して進める用意があることを表明してからは,この分野での進捗状況が注目されている。

(b) 中国との関係では,ワインバーガー国防長官の訪中(86年10月)や米海軍太平洋艦隊の青島寄港(同11月)等の進展に加え,上海コミュニケ発表(72年2月)15周年を迎えた87年には,3月のシュルツ国務長官の訪中の際両国関係の重要性が再確認された。

フィリピンについては,アキノ政権成立後直ちに同政権を承認,87年2月の新憲法制定国民投票における勝利に際しても同政権支持を再確認し,同国の政治的経済的安定に向け協力するとの姿勢を示した。

(c) 対中東外交は,86年11月にイランに対する秘密接触・武器輸出が発覚したことにより,停滞を余儀なくされた。レーガン政権は,対イラン接触を通じ,対イラク関係改善,イラン・イラク紛争の終結,国家支援テロの撲滅・人質解放を目指したが・これら諸目的を達成するには至らなかった。翌87年1月マーフィー国務次官補が中東諸国を訪問,またイランの1月攻勢によるイラン・イラク紛争の激化に際し,同3月大統領声明を発出し,戦闘の即時停止・国境線までの撤退と紛争解決のための交渉の開始を呼びかけたが,中東和平問題,イ・イ紛争終結問題のいずれにおいてもみるべき進展はなかった。

一方,国際テロに関与したとされる国に対しては断固とした制裁措置をとり,まず,リビアに対し,ウィーンとローマの空港テロ事件に関与していたとして86年1月直接貿易の全面禁止等の制裁措置に踏み切り,同4月には西ベルリンでのディスコ爆破事件への関与を理由にリビア軍基地を爆撃したほか,シリアに対し,ロンドンでのイスラエル航空機爆破未遂事件等への関与を理由に経済措置を発動した。

(d) 対中米政策では,ニカラグアの民主化促進を求め,コンタドーラ和平プロセスを支持しつつ,ニカラグアの反政府勢力(コントラ)に対する援助の確保に努め・86年10月には総額1億ドルの援助が議会で承認された。他方,同11月イラン・コントラ問題が浮上し,コントラ援助の是非が議会の論議を呼んだ。

(e) レーガン政権は,85年9月南アフリカに対する制裁措置を発表しアパルトヘイト撤廃や黒人指導者との対話を求めていたが,その後南ア情勢の悪化を背景に,86年9月米議会は,先の行政命令より厳しい内容の経済制裁法案を可決,同10月には大統領の拒否権行使を覆して成立させた。

(ハ) 経済

86年の米国経済の成長率は,2.5%と期待された水準を下回るものであった。これは個人消費と住宅投資が,金融緩和と財政赤字幅拡大を背景に高い伸びを示したにもかかわらず,民間設備投資が金利の低下にもかかわらず4四半期連続して減少したほか,86年春から秋の中頃までにかなりの規模で在庫調整が行われ,また輸入の増加を主因に純輸出が悪化したためである。

当初,行政府が予算教書で3.4%の成長率を予測し,民間にも同様の明るい見方が拡がっていたのは,(1)85年暮れから86年初めにおける経済の拡大ないし改善を持続的な成長の第一歩と見誤ったためであり,(2)ドル・レート低下,金利低下,原油価格低下の効果を過大に評価していたためであった。

対外収支をみると,経常収支の赤字幅が84年の1,074億ドル,85年の1,177億ドルから,86年には1,406億ドルに達した。こうした赤字幅拡大の要因は,(1)米経済の引き続きの拡大による輸入圧力の増大・(2)ドル高是正下のJカーブ効果,(3儲外国の景気拡大の緩慢さ,(4)債務累積国の金融手詰りなどがある。

(2) 我が国との関係

(イ) 日米関係全般

(a) 日米両国は,自由と民主主義という価値観を共有し,日米安全保障条約に基づく安全保障面での協力関係,往復で1,120億ドルを超える貿易量に象徴される緊密な経済関係はじめ広範な分野において友好的協力関係を拡大させてきた。今後とも良好な防衛協力を基軸として健全かつ強固な日米関係の基盤が経済問題故に損なわれることのないよう両国が共同で問題解決に向け取り組んでいくことが肝要である。また,日米両国は,二国間のみならず,グローバルな面でも協力関係を推進しており,このような世界的視野に立った日米協力関係は,両国の経済規模や国際社会における役割の大きさにかんがみれば,今後一層促進していく必要がある。

(b) 日米両国間に横たわる幾多の問題はあるものの,日米関係の固いきずなは近年さらに強くなりつつある。

83年の日米両国首脳の相互訪問以来築かれた両首脳間の個人的信頼関係は,85年1月,86年4月の総理訪米,さらに,86年5月の東京サミットの際の日米首脳会談等を通じ高められ,87年4~5月には両国首脳間の友情と相互信頼関係の深さを象徴するものとして中曽根総理大臣はレーガン大統領の招待で米国を公式訪問し,その間,レーガン大統領と二回にわたる首脳会談を行った。

また倉成外務大臣もシュルツ国務長官との間で86年9月の国連総会の際の会談を皮切りに同12月,87年3月,4月と外相会談を重ねてきた。

(c) 87年の総理公式訪米には,経済問題を中心とした米国内の厳しい対日空気を背景に高い関心が寄せられた。その際の首脳会談等を通じ,現在の日米各々の経常収支不均衡は放置しえず,問題改善のため両国が確固たる政治的決意をもって,各々の責任を果たすべきこと,多岐にわたる日米協力関係の重要性と,経済問題故に両国関係を損なってはならぬことの認識で一致をみ,さらに,グローバルな日米協力充実の観点から,日米首脳会談の定期化が合意され,世界の平和と繁栄のため日米関係を一層強化すべしとの米国の意欲が看取されたことは,大きな成果であった。

(ロ) 日米経済関係

(a) 米国における巨額の貿易赤字(86年は1,663億ドル:米商務省統計)に対する問題意識の高まりを背景に,87年1月に発足した新議会において,包括貿易法案が提出された。これらの法案は,公正貿易実現のための措置の強化,知的所有権保護の強化等を内容とするものであり,保護主義的色彩が強いとして米行政府も懸念を表明している。しかし,米行政府としては,ガット新ラウンドにおける交渉権限を授権される必要があることもあり,何らかの貿易法案が通過するのは,ほぼ確実とみられている。

このような状況の下で,対日貿易赤字(86年は586億ドル:米商務省統計)が米国の貿易赤字全体の約3分の1を占めていることもあって,議会を中心として米国内の我が国に対する不満には根強いものがある。

また,最近のドル安が期待されたほど速やかな影響を貿易収支に及ぼしていないことへのいら立ちもみられた。4月30日,下院は対米貿易黒字国に対し毎年10%の黒字削減を義務づけるいわゆる「ゲップハート条項」を付した形で包括貿易法案を通過させた。貿易法案の帰すうが今後の日米経済関係にもたらす影響は大きいと思われ,我が国としては,なるべく保護主義的な法案が通らないよう引き続き働きかけている。

(b) 両国間の経済上の個別案件をみると,日米間の共同作業により,その多くが解決されている。例えば86年中には,皮革・革靴,タバコ,工作機械,繊維等の問題が,87年にはいってからは,弁護士,水産物の問題が決着している。

アクセス改善を目的とする市場指向・分野選択型(いわゆるモス)協議は86年1月の日米外相会談で一応の決着が得られたが,新たに「輸送機器モス」が開始され,自動車部品が議題とされてきている。これについては87年2月に,これまでの進展につき「中間報告」がまとめられた。

(c) 米側との間では引き続き個別案件の処理のための協議が行われている。半導体については,86年9月に(i)対日市場アクセスの拡大(ii)ダンビングの防止を目的とする取極が成立したが,米国政府は我が国が取極を十分実施していないとして,87年3月27日に一方的措置を発表した。これに対し,我が国は取極違反はないと考えており,また米側措置はガット違反であるとの立場からガット23条1項協議を申し入れるとともに,米国と実務的な協議を通じ,米側措置の早期解除を求めてきた。6月には米国は措置の一部を解除している。

その他にも,関西国際空港建設への米企業の参入,スーパーコンピューターの政府調達等,引き続き日米間で解決のための努力を行っていくべき問題がある。

(d) 日米経済関係の改善へ向けての我が国の努力は,個別案件にとどまるものではない。日米の貿易不均衡の根底には両国の経済構造問題が存在するとの立場から,我が国としては,財政赤字削減,競争力強化等の努力を随時米側に求めるとともに,経構研報告(いわゆる前川レポート)の誠実な実施も含めた構造調整・内需拡大等の努力を鋭意行っている。

(e) 中曽根総理大臣は,87年4~5月の訪米では,レーガン大統領と経済問題を中心に会談した。首脳会談の中で,日米双方は,マクロ経済政策及び為替レートに関して緊密に協力すること,また個別問題解決のため努力を継続すべきことが確認された。

(ハ) 日米安保関係

(a) 緊密な協議・協力

今日の国際社会においては,我が国が単独で国の安全を確保することは困難である。そのため,我が国は必要最小限の自衛力を整備し,米国との安全保障体制によって国の安全を確保することとしている。我が国が今日武力侵略の脅威から解放され,平和の中に繁栄を遂げているのは,この日米安保体制の枠組の下で可能となっていることである。また,日米安保条約は,我が国のみならず・極東の平和と安全の維持に大きく寄与してきている。

86年の両国の安保・防衛面での協力関係は極めて良好であった。この良好な関係は,日米首脳会談,ワインバーガー国防長官の来日,栗原防衛庁長官の訪米,日米外相会談等の場を通じて確認されてきた。

(b) 日米安保体制の円滑な運用

(i)  日米安保条約・地位協定に基づき,我が国の安全並びに極東における国際の平和及び安全のために,米軍の我が国駐留が認められている。政府は,その駐留を実効あるものにするために各種の措置を講じてきている。86年においても,施設・区域の整備や安保条約に基づく在日米軍の活動を円滑にするための努力が行われた。これらの措置は,在日米軍の円滑な機能の確保を目指しつつも,周辺地域の経済的,社会的発展との調和を考慮しながら行われている。

(ii)  在日米軍には,約2万人にのぼる日本人従業員が勤務している。在日米軍の効果的な活動を確保するためには,その雇用の安定が必要であるが,最近の経済情勢の変化により,在日米軍経費が急激に圧迫される事態となった。そのため,政府は,我が国が在日米軍従業員に支給される手当に要する経費の一部を新たに負担することにより,従業員の安定的な雇用を維持し,在日米軍の効果的な活動を確保しようと,87年1月,米国との間で労務費特別協定を締結した。

(iii)  日米安保体制の抑止力の信頼性の向上のために各種の努力は引き続き行われ,戦艦ニュージャージーをはじめとする米軍主要艦船の我が国寄港が円滑に行われたほか,初めての統合実動演習をはじめ各種の日米共同訓練が実施された。

(c) 安保・防衛面での米国との技術交流

(i)  1983年3月のレーガン大統領の演説に端を発した戦略防衛構想(SDI)は,非核の防御的手段によって弾道弾を無力化し,究極的に核兵器の廃絶を目指すシステムについての判断材料を得るための研究計画である。我が国は86年9月の官房長官談話をもって,(イ)米国が核廃絶という基本理念の下で研究を行っていくことは,我が国の平和国家としての立場に合致するものであること,(ロ)SD1研究への参加は,日米安保体制の効果的運用に資するものであること,(ハ)SD1研究への参加は,我が国の関連技術水準の向上にも資する可能性があること,との基本認識の下で,研究参加に関する決定を行った。

(ii)  我が国は83年以降,米国に対して艪ェ国の武器技術を供与する途を開いていたが,86年には,「携行SAM(地対空誘導弾)関連技術」,「米海軍の武器たる艦船の建造のための技術」及び「米海軍の武器たる艦船の改造のための技術」の3件の具体的案件につき,初めてその対米供与の承認を行うことが適当である旨の決定が行われた。

(ニ) 日米航空関係

(a) 1986年3月に再開された包括的協定改定協議においては,緊急に解決を要する問題として,日本側より日本貨物航空(NCA)の増便問題,米側よりフレイト・フオーワーダー(貨物取り扱い業者)によるチャーター便の運航,営業環境の整備(通関手続きの簡素化,空港使用条件の緩和等)等の問題が提起され,協議の結果,7月に日本貨物航空の週3便増便,フレイト・フォーワーダーによるチャーター便の運航等(年100便)につき合意に達した。

(b) 上記の当面の諸懸案が解決されたことに伴い,包括的協定改定協議が再開され,9月(東京),12月(ワシントン)及び87年3月(東京)に各々協議が行われ,長期的観点に基づく今後の日米航空関係のありかたにつき意見交換を行った。

(ホ) 日米医学・科学協力

(a) 日米医学協力委員会(65年1月設立)第22回会合は,86年7月24及び25日富山で開催され,9部会の活動報告を中心に意見交換が行われた。

(b) 科学協力に関する日米委員会(61年設立)の第11回共同議長会合は,86年10月30及び31日東京において開催され,設立25周年に際してこれまでの活動状況のレビュー等が行われた。

(ヘ) 日米エネルギー関係

(a) 政府レヴェルでエネルギー関係を協議する日米エネルギー作業部会は,86年10月ワシントン(第8回),87年3月東京(第9回)で開催された。

(b) 石油については,86年6月米政府はアラスカ・ノーススロープ原油の輸出を解禁した場合の影響につき報告書を発表した。また,85年末以来の石油価格の下落によって米国の石油輸入が増加したことを背景に,米政府は87年3月「エネルギー安全保障」レポートを発表し,90年代中頃までに米国の石油輸入依存度が5割に達する可能性があるとの警告を行った。

(c) 石炭については,日・米民間サイドでアラスカ・ベルが炭についての検討が継続された。

(d) 天然ガスについては,アラスカ・ノーススロープ・プロジェクトのプレF/Sが続ッられた。

 

 

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