第8節 アフリカ地域

1.アフリカ地域の内外情勢

(1)概観

-依然深刻な経済状況と混迷続く南部アフリカ情勢-

(イ)85年,アフリカでは,近年大きな問題となっていた食糧事情の改善が予想されるまでとなったが,大半の国が構造的に食糧不足にあるほか,累積債務問題もあり,アフリカ諸国の経済危機は依然深刻なものとなっている。かかる状況から内政不安を背景として幾つかの国でクーデターが発生した。また,国際的に問題となっているチャード問題,南部アフリカ問題においても,種々の動きが見られたものの問題の根本的解決には至らなかった。

(ロ)経済面においては,国際社会からの緊急食糧援助等を受けたこともあり,また85年における順調な降雨が全般に良好な収穫をもたらしたこともあり,一部地域(アンゴラ,ボツワナ,エティオピア,モザンビーク,スーダン及びカーポ・ヴェルデ)を除きアフリカ諸国の食糧事情の改善が予想されるまでになった。しかし大半の国が構造的食糧不足の状況にあり,依然穀物輸入への依存を余儀なくされている。また,食糧の輸送,貯蔵等ロジスティックス上の問題を抱える国も多い。加えて低成長,貿易赤字,累積債務の問題等もあり,アフリカの経済危機は依然深刻である。

(ハ)このような経済困難を背景として,内政不安が強まった国もあり,クーデターによる政変がウガンダ(7月及び86年1月),ナイジェリア(8月),レソト(86年1月)で発生したほか,コモロ(3月),ギニア(7月),ギニア・ビサオ(11月),リベリア(11月)及びナイジェリア(12月)においてクーデター未遂事件が発生した。他方内政の安定を背景に中央アフリカ(9月)及びリベリア(86年1月)で軍政から民政への移管が行われた。

(ニ)内戦の続くチャードにおいてはその和平を巡り,アフリカ統一機構の枠組みの中でンゲソ=コンゴ大統領等のイニシアティブがとられたが,大きな成果を上げるに至っておらず,86年2月には反政府軍の攻撃に対し政府軍が仏空軍の支援を受け反撃を加える事件も発生した。

(ホ)南部アフリカ地域においては,南アフリカ(「南ア」)情勢の急激な悪化と国内に反政府ゲリラを抱えるアンゴラ及びモザンビークにおける内戦絡みの経済の疲弊が著しく,域内情勢は一層混迷の度合を深めた。

また,南ア軍が周辺諸国に対し越境攻撃を加えたため,域内の緊張が高まった。南ア軍は84年2月のルサカ合意に基づき,85年4月アンゴラ領から撤退を完了したが,6月にはボツワナ所在のアフリカ民族会議(ANC)事務所を攻撃したほか,南西アフリカ人民組織(SWAPO)ゲリラ追跡を理由にアンゴラ領侵犯(5月カビンダ事件,9月アンゴラ領侵攻)を繰り返した。

(2)域内協力関係

(イ)第21回アフリカ統一機構(OAU)首脳会議は7月アディス・アベバで開催された。首脳会議は,経済困難の克服を最大の課題と主唱する穏健派のディウフ=セネガル大統領を議長に選出したほか,討議の焦点をアフリカ諸国の抱える経済問題に置き,アフリカ諸国の自助努力の強化を再確認しつつ各国が個別的又は集団的に経済危機及び食糧農業問題の解決に向けてとるべき具体的措置を提示した「アディス・アベバ宣言」などを採択した。また,(i)アフリカの危機的経済情勢に関する国連特別総会,(ii)南ア制裁についての国際会議及び,(iii)アフリカの累積債務問題についての国際会議の開催が提唱された。

(ロ)このほか,西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)首脳会議が7月ロメで,南部アフリカ開発調整会議(SADCC)年次協議が86年1月にハラレで開催された。また,サヘル諸国早ぼつ対策委員会(第7回首脳会議は86年1月ダカールにて開催)をモデルに,86年1月,旱ばつ開発政府間機構(IGADD)が旱ばつ対策,地域開発を目的として東部アフリカ6か国(ジブティ,エティオピア,ケニア,ウガンダ,ソマリア及びスーダ

(3)東部アフリカ

(イ)エティオピア

内政面では,86年2月,憲法起草委員会設置に関する宣言を布告し,エティオピア人民民主共和国設立に向けて大きな一歩を踏み出した。

北部エリトリア及びティグレの反政府ゲリラ問題に関しては,85年半ば,政府軍が対ゲリラ大攻勢を行ったが,ゲリラを一掃するには至らず,戦況は依然膠着状態が続いた。

経済面では,早ばつ被災の状況は,各国の援助,天候の改善等により,最悪の状態は脱したものの,依然深刻な食糧不足状況が続いた。

外交面では,メンギスツ書記長は,85年11月及び86年2月の2度ソ連を,また85年11月には北朝鮮を訪問した。

アフリカの角においては,86年1月,スーダン,ソマリアそれぞれとの間で首脳会談を行い,二国間問題解決に向けての委員会設立に合意した。

(ロ)ソマリア

外交面では,西側,アラブ穏健派諸国との友好関係維持に努める一方で,85年4月,リビアとの国交を回復した。また,オガデン紛争以来関係の悪化していたエティオピアとの間で,86年1月,9年振りに首脳会談を実施した。

経済面では,84年深刻化した旱ばつ被災の状況が,各国の援助,天候の良化等により,相当程度改善された。

(ハ)ウガンダ

85年7月,軍事クーデターによりオボテ政権に替り,オケロ政権が成立したが,オケロ政権も部族間抗争を鎮めることができず86年1月,再び軍事クーデターがおこりムセベニ(国民抵抗軍議長)政権が成立した。

ムセベニは,当分の間(4年以内)国民抵抗評議会が行政権を支配すること,また,経済面では混合経済を,外交面では非同盟善隣友好外交を展開する旨宣言した。

(ニ)タンザニア

内政面では,独立以来24年間にわたり指導してきたニエレレ大統領が引退し,11月の選挙により,ムウィニ大統領,ワリオバ首相の新体制が発足した。

首脳レベルの相互訪問を行った。また,ニエレレ大統領は,英国(3月),西独(5月)等を訪問した。

経済面では,政府による輸入の一部自由化策により市場に物資が出回るようになったが,価格の高騰により,一般国民への恩恵は少なく,恒常的な外貨不足に悩まされた。

(ホ)ケニア

内政面では,6月のKANU党役員選挙の結果,最大部族キクユ族の幹部ポストがキバキ副総裁(副大統領)のみとなり,少数部族出身のモイ大統領による体制確立が促進された。

外交面では,7月に世界婦人会議,8月に国際キリスト教者会議をナイロビにおいて開催するとともに,ウガンダ内紛に関する和平交渉の仲介等を行った。

経済面では,農業生産が順調な回復を見せ,食糧生産に関しては,84年の大辛ばつによる危機的状況は脱した。また,紅茶及びコーヒーの国際価格の低迷と大量の食糧輸入により貿易赤字は拡大したが,85年末にはコーヒー価格急騰により,86年の明るい見通しが出てきた。

(ヘ)マラウイ

85年もパンダ大統領は安定した政権を維持した。

外交面では,タンザニアと,ルーマニアとの外交関係を樹立した。

(ト)マダガスカル

大統領就任10年目を迎えたラチラカ政権下において内政面では,若干の小事件はあったものの,一応安定的に推移しており,外交面では全方位外交,非同盟を軸としつつも,近年は,現実的・実際的政策を推進し,援助獲得のためもあって西側との結びつきを強めている。

(チ)コモロ

3月にクーデター未遂事件が発生し,これに端を発する政治危機を乗り切るため,アブダラ大統領は9月に内閣の改造を行った。

(リ)モーリシアス

12月にラングーラム総督が死去し,リンガドウ新総督が任命された。

86年1月に内閣改造が行われ,ジュグノート首相の指導力により内政は(ヌ)ジブティ

アプティドン大統領の政治基盤は安定しているが,次第に財政運営に困難をきたしている。

(4)中部アフリカ

(イ)ザイール

85年は,モブツ大統領の政権獲得20周年に当たったが,この1年を通じモブツ大統領の党,軍及び政府に対する掌握の強さが改めて印象づけられた。経済面では73年のオイルショック後は,世界経済の低迷等により主要外貨源の鉱産物,とりわけ銅の価格の下落が続き,また累積債務問題も深刻化したため,83年から「財政引締め政策」を推進,徐々にその効果も現われ始めつつあったが,85年には一時鎮静化していたインフレが再燃し始めるなどザイール経済の健全化はなお予断を許さない状況にある。

(ロ)ルワンダ

83年12月の大統領選で再選されたハビヤリマナ大統領は,85年を通じ一応の政権の安定を基礎として種々の分野でルワンダ国民の一層の統合強化のための努力を継続した。

(ハ)ブルンディ

84年8月の大統領選で再選されたバガザ大統領の地位は,85年においても基本的には安定しているものと見られる。

(ニ)コンゴー

外交面では,社会主義を標ぼうし,東側諸国との関係を維持しつつも,経済的にはフランスを始めとする西側との関係を重視するというバランスのとれた外交が継続された。

経済面では,石油価格の低落及び石油生産の伸び悩みのため,経済困難に陥っており,閣僚ポストの削減,公共部門の合理化,プライオリティの低い投資の削減等を行った。

(ホ)ガボン

85年を通じ,内政は平穏に推移した。

2月及び3月に国会議員選挙が行われた。85年末には,第5次5か年開発計画を発表,生産部門の開発,経済の多様化,財政再建に努めている。

85年1年間で,ディウフ=セネガル大統領ほか10数名のアフリカ諸国の元首がガボンを訪問した。

(ヘ)赤道ギニア

内政はおおむね平穏裡に推移した。

ヌゲマ政権は経済復興を目指し,5月に援助国会議準備会議を開催し,各国に協力を要請したほか,7月に初めてIMFとスタンドバイ協定を締結した。

(ト)カメルーン

内政面では,3月の党中央委員の改選,8月の内閣改造により多くの若手テクノクラートを登用するなどビア体制は強化され,内政は安定的に推移した。

外交面では,非同盟を基軸に据えているものの,ビア大統領就任以来初めて,西側先進国としてフランス(2月),英国(5月)を訪問,また,86年2月には米国を公式訪問するなど従来よりの西側寄りの外交を活発化させてきている。

経済面では,特に他のアフリカ諸国が早ばつ,一次産品価格の低迷等により累積債務,低成長に苦しんでいるのに対し,カメルーンは良好な経済パフォーマンスを維持するとともに,食糧自給をほぼ達成した。

(チ)中央アフリカ

政情の安定を背景に,85年9月暫定的に民政に移行したが,コリンバ体制に実質的な変化はなく,親西欧,全方位外交路線が維持された。

85年経済は,GDPの増大,国際収支好転,財政赤字の減少等の好結果が見られた。

(リ)チャード

内戦により北緯16度線を境に南北に分断されている状況は変わらなかった。

しかし,ハブレ大統領は,国内基盤の強化に努めるとともに,国際的にも自らの正統性を印象づけた。また,反政府派の一部とハブレ政権との和解が実現した。

(ヌ)サントメ・プリンシペ

9月の全国人民議会でダ・コスタ大統領が3選(任期5年)され,内政は安定的に推移した。

(5)西部アフリカ

(イ)ナイジェリア

83年12月末にシャガリ文民政権をクーデターにより倒したブハリ軍事政権は,国内では綱紀粛正キャンペーンと緊縮政策を推進し,また対外的には中長期対外債務返済の履行と国際収支の黒字という成果を上げたが,オイルグラットの中でインフレ,失業率,国内産業不況を改善することができなかったこともあり,国民の不満が高まった。このような状況下で8月27日ブハリ政権に対する軍部反対派によるクーデターが発生し,ババンギダ少将を首班とする軍事政権が成立した。ババンギダ政権は,経済非常事態宣言を出し,経済再建に向けて公務員,軍人給与の削減,厳しい輸入制限等一連の措置を実施している。同政権発足後の12月末に軍部の一部によるクーデター未遂事件が発生したが,現政権は一応その危機を乗り越えている。

(ロ)ガーナ

ローリングス政権は実務能力のある穏健な人物を加え外交内政全般に対する指揮監督体制の確立を図ったこと,また85年に5.3%の経済成長を達成したことを背景に同政権に対する国民の支持が高まった。政権発足当初は,東側寄りの外交を展開していたが,経済再建を推進する上で西側諸国の経済援助が不可欠であるとして,西側重視の外交姿勢を強めている。

83年11月,84年12月及び85年11月,世銀主催の対「ガーナ」援助国会議が開催され,西側主要国及び国際機関の援助を取り付けた。

(ハ)象牙海岸

内政面では,10月の大統領選挙で6選を果たしたウフェ・ボワニ大統領の指導の下,極めて安定的に推移した。

経済面では,緊縮財政,農業生産の好調,コーヒー、ココアの市況回復による貿易収支の改善等により,経済成長率はプラスに転じた。また,外交においては,フランスを中心とした西側寄りの穏健かつ現実的な外交を継続しているが,更に外交の多角化を目指し,85年には東側諸国(チッェコスロヴァキア,ルーマニア,東独等)との外交関係を順次樹立した。

(ニ)リベリア

10月の総選挙(大統領,副大統領,上・下両院議員選挙)においてドウ元首が大統領に選出され,その後11月に同選挙結果を不満としたクーデター未遂事件があったものの,86年1月にドウ元首は,第二次共和制初代大統領に就任し,5年半続いた軍政から民政への移管を実現した。

外交面では,7月のスパイ事件を理由とする対ソ国交断絶,サハラ・アラブ民主共和国(SADR)承認,クーデター未遂事件に関連する対シエラ・レオーネとの関係悪化が特記される。

(ホ)シエラ・レオーネ

スティーヴンス大統領の引退に伴い,モモ将軍が10月の国民投票で大統領に選出され,86年1月に就任した。

モモ新政権は前政権の非同盟中立,多角的外交路線を踏襲した。

(ヘ)ギニア

ランサナ・コンテ大統領は経済の自由化による国家再建を目指していたが,大統領暗殺未遂事件(85年1月),ディアラ・トラオレ前首相のクーデター未遂事件(7月)の発生により,国家再建のテンポは遅れた。経済再建策として,第1次通貨切り下げ(10月),公務員及び国営企業の削減(12月下旬)等が行われたほか,86年1月には第2次切り下げによりシリーに変わりギニア・フランが導入された。また85年12月下旬には内閣改造が行われ大統領に権根が集中することとなった。

(ト)ギニア・ビサオ

85年11月コレイア国家評議会副議長等によるクーデター未遂事件があったが,現在は鎮静化し,ヴィエイラ国家評議会議長は政権の安定に努めている。

経済的には,依然困難な状況にあるが,UNDPの指導下に再建の糸口を模索中である。

(チ)セネガル

アフリカ内で穏健グループを代表するディウフ大統領は,85年7月OAU議長に選出されて以来,精力的に各国首脳等と協議を重ね,86年5月にアフリカの危機的経済情勢に関する国連特別総会の開催に漕ぎつけるなど,その外交手腕がOAU諸国を始め各方面より高く評価されている。

経済面では,食糧自給を目指す新農業政策を中心に第7次開発4か年計画(86-89年)の遂行に努力する一方,援助国の協力を得て中長期財政・経済調整計画の下に,経済体質の改革に取り組んでいる。

(リ)ガンビア

内政は,ジャワラ政権の下,一応安定しているが,物価の高騰,財政赤字及び対外債務累積により困難な経済的状況下にある。隣国セネガルとのセネガンビア国家連合は82年に発足したものの両国通貨の統一等の重要な課題が解決されておらず,未だ大きな進展は見ていない。

(ヌ)モーリタニア

84年12月政変により成立したタヤ政権は,厳正な綱紀粛正に努め,安定した内政を維持しており・経済面でも世銀,IMF勧告による経済再建計画を推進して成果をあげた。

(ル)マリ

トラオレ大統領は,83年フランCFA圏に復帰し,高進を続けるインフレによる経済危機の克服に専念している。内政は一応安定的に推移している。

(ヲ)ニジェール

クンチェ大統領の軍事政権は,12年目を迎え,内政は安定的に推移した。

経済的には,食糧生産,畜産ともに順調な進展をみせたが,引き続くウランの国際価格の低迷等により依然として困難な状況にある。

外交面では,3月にはブッシュ米副大統領がニジェールを訪問した。

(ワ)ブルキナ・ファソ

2年目を迎えたサンカラ政権は,8月第2次内閣改造を行い,その政権基盤を固めた。

対外関係においては,12月にマリとの間に国境紛争が発生したが,西アフリカ経済共同体諸国不可侵防衛協定(ANAD)特別首脳会議の調停により終結をみた。

(カ)トーゴー

内政はエヤデマ大統領の強力な指導の下におおむね平穏に推移した。

経済面では6月にはトーゴー援助国会議が開催され,新国家開発5か年計画(86-90年)につき協議が行われた。

(ヨ)ベナン

マルクス・レーニン主義を標ぼうするケレクー政権は13年目を迎え,内政は反政府の学生運動を除き平穏に推移した。

(タ)カーボ・ヴェルデ

85年12月総選挙でペレイラ大統領が3選された。また86年1月ピレス内閣が引き続き承認された。

(6)南部アフリカ

(イ)ザンビア

内政面では,カウンダ大統領は党書記長と首相の更迭を行い,新書記長にズル前国防治安長官,新首相にムソコトワネ前初等教育文化相を任命した。

外交面では,カウンダ大統領は英連邦首脳会議,第40回国連総会において対南ア経済制裁の必要性を強調した。

経済面では,IMFの勧告を受け入れ,外貨オークション制度導入による平価切下げ,緊縮財政の継続,補助金の撤廃等を行い,IMFからの資金導入に努めるなどの改善努力を行った。

(ロ)ジンバブエ

6月から7月にかけて独立後初めての第2回総選挙が実施され,ムガベ首相の率いるジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU-PF)が予想通り過半数を占めた。

外交面では,ジンバブエがキューバやアフリカ諸国を中心とする多数国の支持により次期非同盟議長国に選出されたこと及びムガベ首相の初のソ連訪問が注目された。

(ハ)南アフリカ

(a)内政面では,85年に入って黒人居住区における暴動は一層拡大したが,これに対し南ア政府は7月21日非常事態宣言を布告したため,暴動と弾圧が連鎖し,さらに同年後半には反アパルトヘイト組織であるANC(アフリカ民族会議)の破壊・テロ活動が頻発するなど,同年を通じて緊迫した事態が続いた。

一方,同年9月以降,南ア白人内部においても,経済界・野党議員等が国外のANC幹部と接触するなど,黒人との対話を求める動きも見られた。

また,労働分野においては,11月30日,南ア労働組合会議(COSATU。黒人を中心に組合員約50万人を擁する連合体)が結成された。

(b)経済面においても,南ア情勢の悪化は,諸外国の対南ア制裁の強化と資本引揚げを招来し,南ア通貨ランドの下落による激しい輸入インフレと失業(特に黒人層)の増大が重なり,経済は極めて悪化した。また,このため南ア政府は9月1日,対外債務の支払いを停止した。

(c)国際社会の対南ア制裁強化の動きも一段と強まり,国連安保理決議569が採択されたほか,米国(9月9日),我が国(10月9日安倍外務大臣談話発表)が対南ア規制措置を発表したのを始め,EC(9月10日),英連邦(10月20日),北欧(10月18日)等の場においても対南ア措置合意が見られた。

(d)かかる情勢の中で,ボータ大統領は,85年8月15日ナタール州の国民党大会で演説(ルビコン演説)を行い,また,86年1月31日,議会演説の中で内政改革案を発表するとともに,黒人に対し政府との対話に応ずるよう呼びかけた。同大統領はさらに2月2日,パス法を7月1日までに廃止する旨発表するとともに,3月7日非常事態宣言を全面解除したが,事態は改善せず,不安定な状態が続いた。

(ニ)アンゴラ

内政面では,85年12月,アンゴラ人民解放運動・労働党(MPLA・PT)第2回党大会が開催され,ドス・サントス大統領は党内の権力基盤を固めた。

同党大会は,内戦で疲弊した経済立て直しに力点を置き,経済の効率的運営と農業重視政策を打ち出した。

内戦は,85年後半,キューバ兵及びソ連の支援を得てMPLA軍が反政府団体UNITA(アンゴラ全面独立民族同盟)に対する攻勢を活発化させたため,アンゴラ南部において戦闘が激化した。

一方,サビンビUNITA議長は,米国の支援を求めて,86年1月訪米した。

外交面では,アンゴラからのキューバ兵撤退問題等に関し,米・アンゴラ会談が3月(カーボ・ヴェルデ),11月(ルサカ)及び86年1月(ルアンダ)で行われた。

他方,86年1月サビンビUNITA議長が訪米したのに対し,同27日モスクワにおいてソ連・アンゴラ・キューバ会談が行われた。

(ホ)モザンビーク

モザンビークは,独立以降経済的自立のための努力を行ってきたが,旱ばつの影響もあり,85年は,経済状況が改善しないまま推移した。また,モザンビーク民族抵抗運動(MNR)による反政府活動も継続した。

外交面では,マシェル大統領は9月に初めて米国を公式訪問し,また英国,イタリア及びヴァチカンを訪問した。

(ヘ)ナミビア

ナミビア独立問題は,85年を通じて進展が見られず,85年6月17日,南アの承認の下にナミビアMPC(多党会議)暫定政権が発足したが,かかる動きは,国際社会の承認を得られず,国連安保理においても非難された。

86年3月4日,ポータ大統領は南ア議会において「86年8月1日までにアンゴラからのキューバ兵撤退について合意が得られることを条件に,8月1日より,ナミビア独立の手順を定めた国連安保理決議435を実施する」旨の提案を発表した。

(ト)レソト

86年1月20日,レカーニャ国軍司令官による無血クーデターが発生し,独立以来19年間続いたジョナサン政権が打倒された。

レカーニャ新政権は,他のブラックアフリカ諸国との友好関係を維持しつつも,南アとの関係改善にも努めた。

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